62.エギア追跡戦
環状線の電車が間もなくダイヤを終えるころ。
空にはやや丸みを帯びた月があり、電車から吐き出された人々をねぎらうように照らす。
終電間際に帰路につく者たちは大半がくたびれて見えた。よれたシャツ、染みついたタバコや化粧の匂い。一日の勤務を終えた者たちは、それぞれスマホの明かりに照らされながら歩く。
きっと、たまたまだろう。
足をもつれさせて歩くその男は、この瞬間だけ彼らに溶け込んでいた。
見た目はただのサラリーマンであり、皺だらけのスーツ姿でどうにか飲み会から帰ってきたという体を保っている。足取りは頼りなく、周囲の者たちもチラリと視線を向けるものの見慣れた光景であり素通りをしてゆく。
「……ん?」
しかしスマホを眺めていた若者は、ふと顔をあげた。
目の前でその男がネクタイを押し広げ、むちむちと首を太くさせてゆくのを見た。こんなのゲームよりずっと気になる。
年は40代だろうか。男の目はせわしなくあちこちを眺め、表情筋は絶えず震えている。目元を垂れてゆく血さえ拭いもしない様子はおかしかった。
「お、おい、あんた……」
ぐるんっと振り返ってこられて、パーカー姿の若者は「ひゃっ!」と甲高い悲鳴をあげた。
今の動きはおかしかったし、それだけでなく、にい、い、と不器用な笑みを浮かべてくる様子に背筋がゾッとする。
伸ばされた腕から胸倉を掴まれて、すごく近くから「ホホッ!」と男は奇声をあげた。
「おい、ちょっ、離せって、おいっ!」
ものすごい力で引き寄せられ、身体が斜めになって膝をつく。カンと音を立ててスマホが落ちてしまったが、ひび割れた液晶画面に手は届かない。手を空振りさせた姿勢で、息が詰まるほどの力で若者は引きずられてゆく。
「いてっ、痛えって! なっ、なにしてっ、おっ! だれっ、だれっかっ! 誰かああアアーーッ! ワ゛アーーーーッ!」
なにがなんだか分からない。
たまたま居合わせた四名はそのような顔を浮かべていた。一人は女性、あとは男性。一斉に動きを止めて、裏道に引きずられてゆく様子をじっと見る。
なに? 今のなんなの? 警察を呼ぶ? などという声がさわさわと行き交い、だけど誰も行動に移せない。逃げるべきかそうでないか、まず他者の動向を伺っているように見える。
やがて裏道の暗がりから何かが聞こえてきた。
「ヒェッ……」
それが最後に聞こえた声だった。
鳥を絞めた程度の小さな小さな声。だけど勝手に汗が噴き出て来るし、心臓がドキンドキンと鳴り始める。
すごく嫌な音だったし、今すぐに逃げ出したい。そう思ったらしく皆はじりじりと後ずさってゆく。
路地裏からはもう何の音もしない。
薄暗い電灯がついているだけで何も見えない。
見ず知らずの格好もバラバラな者たちは、顔を合わせてどうすべきなのかを考え続ける。
「通報、しましょうか」
「あ、おっ、お願いします!」
「びっくりした、今の何だったんです? 最近、いつも何かが変ですよね」
一人が提案したのをきっかけに、それまで胸に溜まっていたものが堰を切って溢れてくる。無意識のうちに安堵感を得ようと数歩分ほど近づきあい、心臓を手で押さえたり深呼吸をしたりと様々だった。
このような動きをどこかで見たことがある。
じっと様子を観察する姿、そして仲間に近づいて安心を得ようとする姿を。
ああ、そうだ。今までずっと他人事として見ていた、サバンナや大自然のなかで生きる草食動物たちの姿だ。すぐ逃げれば良いのに怯えて身がすくんでしまい、じっと動かずにいる様子などはまさにそれだ。
「あ、もしもし、先ほどおかしな人がおりまして……」
ようやく電話が通じたらしく、会社員は努めて冷静な口調で説明をし始める。冷静な態度は周囲にも伝わる。声を聞いた者たちは安堵感をより強めた。
何が起こったのかを調べようとするのは、たぶん人も動物もそう変わらない。何が襲ってきたのかも分からなければ、次の対策もできずに殺られてしまう可能性もある。
それはきっと、ずうっと昔からある本能だと思う。彼らはこれからの用事も忘れて身を寄せ合い、さわさわと静かな声を交わし合う。
最後と思われる緑色の電車が、頭上の高架橋を渡って行った。
と、そのとき一人が路地裏に視線を向ける。
じいっと見つめて動かない様子に、つられるよう他の者たちも視線を向ける。
いまなにか、聞こえた気がした。
その路地裏で何かの音がした。
わずかな兆候に気づけなかったのはただ一人、通報をし終えて携帯の電源を切った者だ。この中で最も頼れる人物が、いまこの場において弱肉強食の最底辺へと変わり果てた。
やがて薄暗い電灯は、バタバタとおかしな姿勢で走ってくる者を映し出す。それは一瞬だけしか見えなかったし、だけどもの凄い早さで近づいていると分かる姿。
「おわッ、ワアアーーーッ!」
「ギャーーーーッ!!」
先ほどよりもずっと反応が早い。
これまで警戒心を抱き続けていただけに、全力疾走で駆けてくる何者かに対して異様なまでの反応を見せる。ただ一人、唖然とした顔の会社員を除いて。
――バタバタバタッ!
アスファルトに響く足音も異様だ。
振り返り、硬直をした社会人は一体何を見たのだろう。
異様な形をした目? 耳からうねうねと伸びている触手みたいな何か? それとも尋常ではない速度で伸ばされる腕?
「~~~ッ! ヒィッ、ぐえ゛っ!」
後ろ襟を掴まれるや、どしんと簡単にアスファルトへ引き倒された。逃がさないよう両肩を固定してくるのは、先ほどのパーカーを着た若者だ。ただし表情はもう別人のそれになっている。
おまえもすぐにこうなるんだよ。そう言うように異形の者が顔を寄せてきた。
エギアだった。
ほとんどの者は知らないが、その顔じゅうの穴からウゾゾと波打たせるモンスターなどそれしかいない。
目の当たりにした男性の腰を抜かすには十分な光景で、彼は声にならない悲鳴を駅前に響かせた。
いまこの東京で何が起きているのだろう。
それに答えられる者はわずかしかいない。
例えば能力に目覚めた者たち。この騒ぎを起こしている張本人【超越者】。そして関係者のなかでも特に情報源に近しい者くらいだ。
その中で答えに最も近づいている者が、オオンッ!と、ロータリーにエンジン音を響かせる。
後部座席から素早く降りたのは長い黒髪の女性であり、手にした同色の刀をざわざわと波打たせながら路地裏に駆け抜けてゆく。
バイクに騎乗した者はというと、みちみちと身体中の筋肉を膨らませ、また表情は逆光であまり見えない。もしかしたら笑っていたかもしれない。
ぱしんと彼女が掴んだのは斧だった。
薪割り用として主に使われており、鋼の一体形成をしているため強度は高い。ところどころ刃こぼれしたそれが見えるのと、アクセルを吹かして速度を上げるのはほぼ同時だった。
オオオ、と凄まじい速度でロータリーを旋回して迫りくるのをエギアは感じていた。
強いライトを背後から浴びせられ、しかしモンスターは振り返りもせずに全身をミチミチと膨れ上がらせてゆく。全身から血管が浮き上がり、もはや今どきのパーカーを着ているのが冗談か何かと思える雰囲気だった。
エギアは振り返りもせず、光の差す方向に右腕を向ける。そして街灯で鈍い輝きをする薪割り斧を、凄まじい反射速度で受け止めた。
――オオンッ!
交差する間際の接触は、ごく一瞬だ。
後頭部に迫る一撃をエギアは掴み、そして力任せに引き寄せると単車はふわりと宙に浮く。
互いの腕はメキメキと膨れ上がり、どちらも引く気が全くない。
ギィィと鋼と一体形成の斧は捻れるように嫌な音を立て、そして…………耐えかねたのはモンスターの腕だった。ボキンと折れ、真横にずれて、前のめりにアスファルトを転げる。
ゴオオオーーーーッ!
ぶちんと頬の肉を千切りながらエギアは吠えた。
さて、自由の身になったスーツ姿の会社員はというと、ぼたぼた流れる鼻血を拭うよりも先に、転がっていた己の眼鏡を拾い上げる。それをかけると、彼は不思議そうな顔をする。周囲が静まり返っていると気づいたのだ。
単車のエンジンが停まると、ざざあと街路樹の梢が鳴る。あと聞こえてくるのはモンスターの荒々しい呼吸音、そしてジャングルブーツを鳴らして歩いてくる足音だ。
手には歯こぼれをした薪割り用の斧を持ち、無造作にヘルメットを路上に投げ捨てる。そのガコンという音に、会社員は身をすくませた。
あれは一体何者なのだろうか。上着のジッパーを下ろし、逆の手には不気味な手斧をぶら下げる女は。
化け物の手が届きそうな距離で、そして女はにたりと笑う。
「うへへー、エギアみーつけたぁーー」
額に血管を浮かべながらのその笑みは、少なくとも会社員の恐怖をさらに誘うには充分だった。
皆さまのおかげで、本日発売日を迎えました。
後藤さんと一緒にウオオと気合を入れましたのでよろしくどうぞです。




