32.休息
手に山もりの塩を持った雨竜は、じっとそれを眺めてた。ろくすっぽ裸を隠そうともせず、無表情ぎみの瞳をこちらへ向けてくる。
「これ、何ですか?」
「見たまんま塩」
ざりざりと肌に塗りながらそう答える。
薄暗い室内と高い湿度……そう、ここは塩サウナであり、今は二人だけの貸し切りだ。平日夜の10時過ぎなんてあんまり客は来ない。最近の夜は物騒だしな。
そうですかと雨竜は返事をし、隣の椅子にすとんと腰かける。手に山盛りの塩を持ったまま。
「こらこら、それは身体に塗るんだ。ちょっと待て、なんで『浅漬けかよ』って失笑してんだ。こうやって肌に擦り込んで汗をかく代物なんだよ」
怪訝そうな顔をする雨竜だけど、もしかして塩サウナってマイナー? 違うよね、女子も美肌目的で通ったりするよね?
だけどサウナよりこっちの方が、気温は低めなので気楽に入れる。身体の細い雨竜なんてそういうのに弱そうだったしさ。
身体に塩を擦りつけながら、相変わらず無表情に雨竜は問いかけてきた。
「そういえば先輩。ようやく匂いが落ちましたね。先ほどは酸っぱさと獣臭さが混じって、後ろを歩けないほどでした」
「好きであんな状態になってねーから。ったく、健康ランドに来るしかないじゃんか」
そう、なんでこんな場所に女2人で来たかっていうと、ついさっき大自然のなかで熊と格闘をしたからだ。いや、この説明だと語弊があるな……まるで俺が熊殺しを成し遂げたみたいじゃないか。
「語弊ではありません。先ほど先輩は『死ねよてめえ』と叫びながら、絞め殺していました」
おいおい、雨竜ちゃんよ。分かってねーなー。そんな人間がいるわけないだろ。いくら鍛えているとはいえ、まだ二十歳そこそこの女だぞ。出来るのは、ちょっと酸を出したり爪を飛ばしたりするくらいだ。
などと肩をすくめながら、身体のあちこちを点検してゆく。
熊からバリバリ引き裂かれたけど、やっぱ継続治療の効果はでかい。傷口は完全にふさがっており、うっすらとピンク色の肌が残ってるくらいだ。
こうしてアザも消えてくれるのは助かるよ。
「熊に正面から殴りかかってその程度だなんて……」
「いーんだよ、俺を喰おうとした奴なんだからな。鍋にされなかっただけありがたく思えっての」
そう言いながら、ぎしっと椅子に背を預ける。臭かったし痛い思いもしたから、今夜はここで消毒だ。破傷風も怖いから塩を擦りこんでおこう。効くのかは知らんが。
ふと横を見ると、辺りをきょろきょろ眺める雨竜がいた。この様子だとこういう施設に来たのは初めてだろう。呼吸をすると鼻が熱いらしく、ぺたんと指で押さえてた。
「そういやスキルをどういう感じにするか決めたのか?」
「ええ、幾つか候補はあります。疾風、心眼あたりは有能そうですね。もし刀があるなら他にも考えています」
「ああ、確かこのあいだ覚えたよ。ほら、この生産リストにも載って……」
ヴンと画面を表示した瞬間に、がしっと肩を掴まれた。それから俺のステータス表をのぞき込んでくる。こらこら近い、顔が近いし塩の匂いで鼻がヒリヒリする。
だけど俺がいくら文句を言っても、雨竜は真剣そのものの表情で眺めていた。
「本当ですね、リストに載っています。これにします。あと銃はありませんか?」
「あのな、俺は武器商人じゃないんだぞ。でもあと2レベルくらい鍛冶士を上げれば覚えるって聞いたかな」
ぎゅんっと視線がこちらを向き、薄暗い室内とあってちょっとビビる。だって目がちょっと光ってたんだもん。
「そうですか。やはり先輩は有能ですね。すぐに生産を選ぶあたり、頭の回転が良いと思います」
「……武器欲しさに、おだててるようにしか聞こえないぞ?」
どうやら図星だったらしく、まつ毛の長い瞳がくるんと明後日の方を見た。
だけど、玉のような汗を流す雨竜から先ほどは山中で助けられている。魔物、それから実銃をぶっ放す奴を相手に、もし一人で戦っていたらどうなっていたのか俺には分からない。
感謝の気持ちじゃないけど、せっかくの仲間なんだしアイテムくらいは作ってやろう。それが俺のスキルアップにも繋がるんだしさ。
雨竜も実はそういう強化を考えるのが好きらしく、相談したくてたまらなそうな顔でこちらを向いた。
「先輩が生産系を覚えてくれたので、ぐっと楽になりました。私は補助系も伸ばせそうですからね」
「補助ぉ? どういうやつだ?」
「はい、気になるのはこれです。許容量はありますが物を保管できる保管庫、それと敵の位置を調べる感知。スキル以外に職業で考えるならば能力強化系や回復系ですね。おそらく前者のほうが先輩と相性が良いと思います」
んー、そう考えると色々あるんだな。
それと確かに保管庫は気になってた。装備品なんてバイクの積荷にぎゅうぎゅうだし、これからもっと作る予定がある。職質される可能性だってあるんだ。
しかし問題がひとつだけあり、取得するのを俺は躊躇していた。
「でもそれって確か条件が面倒だったろ。容量をかせぐのにポイントを使うし、一定のアイテムレベル以上でないと腐敗が早まるって書いて無かったか?」
「恐らく通常品……食料や水などはすぐに腐るでしょう。理屈は分かりませんが、おそらくこのサウナ室のように環境が異なるためと推測します」
おっと瞳が爛々と輝きだしたぞ。
たらたらと玉のような汗をかき、長い黒髪が張りついてるってのに口だけは別の生き物のように饒舌だ。たぶんこいつは新しい環境にハマってんだと思う。常識を覆すような出来事なんて、きっと大好物の部類だろうよ。
聞いてます?と大きな瞳で見上げられ、俺はコクコク頷いた。
「お前、仕事より生き生きしてないか?」
「む、熊を殺して笑っている人に言われたくありません」
笑ってないし、命を奪ってごめんねって涙を流しながら倒しましたぁー。そもそもとどめを刺したのは雨竜ですぅー。
そうブーブー文句を言うと、しばらく天井を見あげた雨竜はすっくと立ちあがる。
「露天に行きましょう。ここは汗をかきすぎて頭が働きません」
「それが目的なんだけど……まーいいや。どうせおっさんから貰った無料券だしな。おまえさ、体力アップ系を覚えたら? そっちのほうが役立つだろ」
「覚えません。過度な体力など不要です」
ぎっと戸を開けると、涼し気な風に包まれた。ほうと雨竜が息をしたように、こういう温度差を感じるのがサウナの好きなところなんだよなー。なんでか分からないけどさ。
外気に触れると空気の冷たさが気持ち良かった。肺の奥まで入り込み、火照った身体にはちょうどいい。さっきまで死にかけるほど戦った後だしさ、こういうリフレッシュは大事だよ。
あっち行こうぜと指を向け、人のいない露天風呂へ足早に向かう。残念ながら空は曇ってたけど、ぼんやり半月が光っている。
足からつけると湯は少しだけ熱めだった。どぷりと身を沈め、うふーと息をする。遅れて髪をゆわいた雨竜もやってきた。
「それで、いい加減教えてくれます? この後どうなるのか先輩は知っているのではないですか?」
「んー、この後って? 就職とか?」
「違います。いえ、まったく関係無いわけではありませんね」
背の低い雨竜は、顎まで湯につけながらジトッとした瞳を向けてくる。別に恨んでいるわけではなく、元々そういう顔つきなんだろ。
「あなたはいい加減そうに見えて実は現実的な人だと思います。なのに就職活動どころかバイトをする気配さえ無い。魔物退治をしているといっても、それは完全な無収入です」
うーん、やっぱこいつは鋭いな。
つまりは魔物を倒すことが、今の俺にとって最も重要なことだと気づかれたのだ。レベルアップ、スキルアップ、そして取得をする加工素材、一人でも生きていける備蓄などなど。
ここの湯はかけ流しとなっていたので、縁に両腕をかけてその上に顎を乗せる。ざぼざぼと流れてく湯が、ちょっとだけ贅沢に感じられた。
「そっか、じゃあ内緒にできるなら教えたげる」
「教えてください」
「えーとね、あと半年したら日本がどうなってるのか俺には分からない。というのも、現代兵器の効かないモンスターが出るらしいんだ。もしかしたらそれが出る前から日本は崩壊しているかも」
返事が無かったので振り返ると、雨竜は変わらず俺をじっと見つめてる。今の言葉が真実かどうか、あるいは品定めをしているような瞳で。
長いことそんな顔つきをしていた雨竜は、やがて「ふう」と大きく息をする。胸に溜まった何かを吐き出すような息だった。
「あなた以外の人がそれを言っても信じませんでした」
「なんだそりゃ。実はこの世界には神様がいてさ、俺と一緒に駅前で勧誘してるやつに入会しない?」
「馬鹿を言って。大体ならわかります。本当かどうか、あなたの声を聞けば」
そう言い、ぷいと顔を逸らす。気恥ずかしかったのか湯にやられたのか、頬はわずかに染まってた。ひひっと俺は笑い、縁に背中を当てて笑う。
「まあそういうわけでさ、終末に向けた準備ってやつを始めてんだ。誰かさんが言うには俺って現実的らしいからさ。たまに熊とガチンコで殴り合っちゃうけど、そういうトコだけはちゃんとやるよ」
「先輩は本当に変わっています。そうやって素材をせっせと集めて、他の人を置いてけぼりにするなんて……いえ、それは素晴らしいことです。ギズモ装備には期待していますから」
正直な言葉に声を出して笑ってしまった。つい乗ってしまったように、雨竜もくすりと笑う。こいつ普段は無表情してるからさ、笑顔を見れるとラッキーだなとか思っちゃうな。そういう意味で得してるよ、こいつは。
ほかほかと頭から湯気をあげ、2人して浴衣姿で廊下に出る。
もう灯りは少なくって、足元をぼんやりと照らすくらいだ。でも無人の廊下が遠くまで伸びてるとさ、ちょっとだけわくわくしない? 俺はするよ。だって独占した気になれるからさ。
ぼんやり照らされた自販機へ、誘われるように歩いてく。
「雨竜ー、なんか飲もうぜー。喉からっから」
「牛乳と珈琲牛乳、それとフルーツ牛乳ですか。では珈琲牛乳で」
ブーっと電子音が響き、がたこんと瓶の飲み物が落ちてくる。こういう古臭い演出がさ、分かってるなって感じがしていいよ。
たっぷりのサウナで汗を流し、1キロくらい体重を落としたところで飲むジュース。たまんないね。ほどよく冷えたフルーツ味が、ぎゅーっと身体に染み込んでく感じ。
「くあーーっ、んまーーいっ。こら雨竜、いつまで眺めてんだ。おまえも飲めって」
美味そうに飲む俺を不思議そうに見てたけどさ、すぐに俺の気持ちも分かるんじゃないかな。だってサウナと露天風呂でたっぷりと汗をかいた後だ。空腹は最大の調味料と言うが、それの飲み物バージョンだからな。
ぱちんと瞬きをした雨竜は、ゆっくり瓶を傾ける。んっんっと飲んでゆき、そして唇を離したときなんて「ぷあっ!」とたまらなそうな顔だ。
まじまじとコーヒー牛乳を眺め、それからようやく大きな瞳でこちらを向いた。
「美味しいですね!」
「あははっ! なんだよ、こういう場所は初めてか? 温泉くらい行くもんだろ、普通」
「恐らくうちは普通ではないと思います」
ふうん、と俺は声を漏らす。今の言葉には何の感情も無くて、良いのか悪いのかも分からない。ずけずけと土足で踏み込んで良いのか判断できない声だった。
火照った肌をタオルでぬぐう雨竜は普段通りで、いま言ったことをもう忘れていたかのようだった。
「一人暮らし?」
「……ハウスシェアです」
えー、意外だわ。なにそれ、どゆこと? 誰と住んでるの? なんて疑問がぽんぽんと沸いてくる。
考えてみると俺は雨竜のことを全然知らないんだ。性格とか見た目とか、話すと意外に面白いじゃんとか思うくらいだ。会社の先輩と後輩という関係から一歩ずつ近づいたくらいかな。
くいっとソファーを指さすと、そちらを眺めてから雨竜は頷く。
眠気を誘う暗さだし、のんびり話すにはちょうどいい。火照った身体も冷やしたいしさ。
「それで、雨竜はこれからどうするんだ?」
「はあ、終末のお誘いですか。残念ながらお金が足りませんので仕事はしばらく続けます」
「ここまでタクシーで来ちゃうのに?」
「今の家をはやく出たいんです。いつか一人暮らしをしようかと……あら、若林さん?」
ちょうどそんな気の抜けた時に、近づいてくる奴がいた。スーツの上着を脱いだ青年は、こちらへ歩みながら会釈をする。
夜勤続きにもすっかり慣れたのか、ゆとり君の表情は落ち着いていた。
「こんばんは、ゆっくりできました?」
「まあね、見ての通りかな。そっちは仕事サボり?」
「あの、僕を呼んだのは後藤さんだってことちゃんと覚えてます? やあ雨竜君もこんばんは」
「あ、はい……こんばんは」
片手を上げた青年に、ぱちっぱちっと雨竜は瞳を瞬かせた。
そういやなんも伝えて無かったけど、ゆとり君を呼んでおいたんだわ。ほら、新種のモンスターのことは早めに伝えておいた方が良いからさ。
おまけにタダ飯も食えるし、雨竜も家まで送ってもらえる。言うことないだろ。
そう笑いかけると、ゆとり君は複雑そうな顔を浮かべた。
次回更新は週末の予定です




