【SS】鏡よ鏡
文字書きワードパレットより、No.6『プリエール』(気づく・指輪・横顔)。
妻編その後。
エギエディルズ・フォン・ランセントの妻、フィリミナ・フォン・ランセントという女は、正直に言って、飛び抜けて美しい訳ではない。十人並み、よくて中の上。それが周囲の――正確には、ごく一部を除いた周囲の、彼女の容姿に対する見解であり、彼女自身も「ごもっともです」と深く同意するところにある。
その除かれたごく一部は、「私の娘は世界一!」「僕の姉上は世界一!」とそれぞれ異口同音に口をそろえるのだが、まあそれはさておき、夫であるこの自分、エギエディルズ・フォン・ランセントにとって、フィリミナの容姿はやはり世間と同じく『十人並み』、あるいは『中の上』程度という認識だった。
何せ七年ぶりの再会の時に放った台詞が「残念なほどに変わらないな」である。
いくら七年ぶり、そう七年ぶりに再会できた喜びに浮かれ、そして焦り、その上動揺していたにしても、あれは未だに失敗だったと思ってはいる。
だがしかし、それはそれとして、やはり客観的に見たら、フィリミナの容姿ははっきり言って『普通』と断じることができるものであるのだろう。
「あの、エディ」
「なんだ」
「あなた、今、とっても失礼なことを考えていらっしゃるのでは?」
本日の夕食の献立をテーブルの上に並べ終えた妻が、何やらもの言いたげな視線を送ってくる。
そこでようやくエギエディルズは、自分が彼女のことをじっと凝視していたことに気が付いた。
失礼。失礼とは。
「いいや、別に」
「……そうですか?」
「ああ」
「…………なら、いいのですけれど」
失礼も何も、事実なのだから、『失礼』ではないだろう。
そう内心で続けるこちらを、若干納得しきっていない瞳でしばし見つめてきたフィリミナは、やがて諦めたように溜息を吐いて、エギエディルズの正面の椅子に腰を下ろした。
フィリミナ手製の本日の献立は、エギエディルズのリクエストに応えたトマトシチューだ。たっぷりとチーズがかけられた末にオーブンでじっくり焼かれた焼きシチューは、トマトの赤が美しく、食欲をそそる。
煮込み料理を得意とするフィリミナだが、時折こんな風にエギエディルズの好物を気を利かせて加えてくれるのが実に心憎い。
あまり食にこだわりがないという自覚があるエギエディルズだが、それでもフィリミナが作ってくれる食事に関してだけは期待せずにはいられないのはこういうところだ。
そういえば幼い頃から、彼女が母であるフィオーラや、乳母であるシュゼットとともに作ってくれる菓子のたぐいや、フィリミナが手ずから淹れてくれる拙いお茶についても、エギエディルズは毎回楽しみにしていたものだった。ランセント家に賄賂として届けられるどんな王都屈指の名店の菓子よりも、フィリミナが失敗してしまった焦げたクッキーの方がよほどおいしく感じられた。
今となってはその理由も解っているのだが、当時は何故なのかと本気で不思議がったものだ。今となってはエギエディルズの義母となったフィオーラに、こっそりと、アディナ家に伝わる何か特別な魔法でも使っているのかと問いかけたこともある。あの時彼女は、いくつになっても少女めいた、フィリミナによく似たかんばせにいたずらげな笑みを浮かべて「ええ、使っているわ。フィリミナだけに使える、とっておきの、とくべつな魔法をね」と耳打ちしてくれた。
どういう魔法なのかさっぱり解らず首を傾げるばかりのエギエディルズに、フィオーラは、「いつかあなたにも使えるようになるわ」ところころ笑っていた。
そしてその魔法は、確かにエギエディルズも使えるようになった、はずである。
主に、フィリミナのために薬草茶を淹れる時に。
「いと高きところにあらせられる女神の恩恵に感謝を」
「感謝を」
そんな過去に思いを馳せつつ、テーブルの上で指を絡ませ手を合わせ、食事の際に口にする聖句を唱えれば、続けてフィリミナも同じように短く聖句を繰り返す。
目を伏せて祈るフィリミナの顔をじっと見つめていると、ふと視界の端できらりと光るものが目に入った。
フィリミナの左手の薬指。指輪だ。先達てフィリミナに「何か欲しいものはないか」と問いかけた末の答えである。
シンプルな銀の指輪は、大きさだけ違う同じものが、エギエディルズの左手の薬指も飾っている。
「エディ、どうかなさいまして? 冷めてしまいますよ?」
「ああ」
いつまで経っても食事に手を付けようとしない夫の姿が不思議だったのか、はたまた心配になったのか、フィリミナが小首を傾げて問いかけてくる。
そうだ。せっかくのシチューが冷めてしまう。愛しい妻がリクエスト通り、いいや、リクエスト以上のものを作ってくれたのだ。早く口に運びたくてたまらない。けれど何故だかフィリミナから目が離せない。
エギエディルズの反応があまりにもらしくもなく鈍いものだから、フィリミナは随分と戸惑っているようだ。こちらがじっと見つめているせいか、居心地が悪そうに左手で髪を弄ぶ。
その左手で、また銀色がきらりと光る。揃いの指輪。世間では気付けば愛の証などと呼ばれるようになったのだというそれ。
やはり何故だか目が離せない。じっとそのまま、まるで禁呪である時間停止の魔法でもかけられたかのように固まっているエギエディルズに業を煮やしたのか、「もう」とフィリミナは唇を尖らせた。
普段から年齢以上の落ち着きを湛えている彼女は、時折こんな風に幼子のような仕草を見せてくれる。母であるフィオーラ譲りなのだろう。
こんな姿を見られるのは、フィリミナにとってごくごく親しい人間ばかりであり、その中でも『特別』な場所にようやく立つことができた自分にとっては当たり前になりつつある姿が、素直に嬉しい。
幼い頃よりもよほどその姿が身近になったことに何やら感慨深くなっていると、「エディ、エディったら」と決して遠くはないというのに、何故だか近いとも感じられない距離から、拗ねたような声が聞こえてきた。
「エディ、わたくしの料理に文句がおありでしたら仕方がないのですけれど。ですが、女神様にお祈りを捧げておいて放置だなんて、少しばかり薄情なのではございませんこと?」
「……悪かった。食べる」
「でしたら、今度はわたくしの後に続いてくださいましね。さ、手を合わせて。女神様と、恵みと、その恵みに関わるすべての方々に感謝を」
「…………感謝を」
再びテーブルの上で両手を組んで、ゆっくりと丁寧にお決まりの聖句をフィリミナは口にした。いいや、お決まりの、というには少々御幣がある。短くその聖句を繰り返しつつ、エギエディルズはちらりと再びフィリミナに視線をやった。目を閉じている彼女は気付かない。
思えば昔から、フィリミナは少しばかり変わっていた。食事の際には基本的に、王国の守護神たる女神に感謝をささげるのが習わしだが、その中でも彼女は、時折、ふと思い出したかのように、女神ばかりではなくその食事に関わってきた人々にも感謝をささげる。
たとえば畑をたがやす農家。たとえばその畑からとれた野菜を取り扱う商店。たとえば野菜を料理へと変える料理人。そんな人々にまで感謝をささげる。そればかりか、どうやら野菜そのものにも感謝をささげている節があるようだ。
本人も意識している訳ではないらしいし、基本的に聖句を唱えるのはエギエディルズの役目であるため、真偽のほどを確かめるまでもない些細なことなのだろうが、それでも、ふ、と思う。
両手を組み、睫毛を伏せて、生きるための糧に感謝をささげるその姿は、とても、とても――――ああ。そうか。
「さ、エディ。いただきましょう。……エディ?」
まだぼんやりしているつもりかと言いたげに、困り眉になる妻の姿に、ようやくエギエディルズは気が付いた。そして内心で繰り返す。ああ、そうか。そうなのか、と。
「お前は美しいな」
「…………………………はい?」
そうしてぽろりとこぼれおちたエギエディルズの呟きに、ぱちくりとフィリミナの瞳が瞬いた。何を言われたのかさっぱり解っていない様子の妻の姿に、ふむ、とエギエディルズは頷いて、改めて思う。やはり自分の妻は、とても美しいのだと。
そも、『美しい』とは何か。
エギエディルズにとってその答えは鏡の中にある。鏡を見れば、そこに『美しい』があった。自分で言うのも何だが、十人が十人どころか、百人が百人、『美しい』と断言されるだけの美しさを誇るのが自分の容姿であるという認識がある。幼い頃から「いっそ気味が悪い」「恐ろしい」と陰に日向に囁かれてきたこの容姿は、確かに『美しい』と表するに何ら不足はないものだ。
けれど、本当の美しさとはそういうものばかりではないこともまた、エギエディルズは知っている。
姿かたちが美しいだけのものならば、人間でも動物でも植物でも無機物でも、なんだって、いくらだって存在する。容姿が優れている分、中身はとんだ残念な出来になっている存在は少なくない。
だからそういう見かけばかりの美しさではなくて、もっと別の美しさを、エギエディルズはより尊く思うのだ。
甘さ控えめの手作りの焼き菓子。いつだって変わりなく向けられる笑顔。ためらいなく差し出されるあたたかな手。ささやくような優しい歌声。労わりが込められたやわらかな筆跡。自分のことをたった一つの呼び名で呼んでくれる愛しい声。
そういうものをエギエディルズは美しいのだと思うし、だからこそ欲しいと思わずにはいられない。
そういう訳で、つまり。
世界中の誰よりも、エギエディルズ・フォン・ランセントの妻、フィリミナ・フォン・ランセントは美しいのである。
幼かった頃、フィリミナが寝物語に聞かせてくれた話の中に、残忍なる王妃が鏡に問いかける場面があったことを思い出す。
――鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?
自らが一番美しいと信じてやまない女の、傲慢な問いかけだ。だが、最も効率的な質問であるとは思う。
世界で一番美しい人間を知りたいならば、エギエディルズだって同じことをする。そして、エギエディルズの知らない誰かの名前を答える鏡の精とやらを鼻で笑って、彼にとくとくと誰が一番美しいのかを説いてやることだろう。
なるほど、そういうことなのだ。フィリミナの父や弟の言うことは正しいが、ある意味では正しくない。フィリミナが誰よりも美しく見えるようになったのは、この自分の妻になってくれたからなのだから。
もちろんフィリミナ・ヴィア・アディナも、エギエディルズにとってはとてもとてもとても、いっそ困ったり焦ったりせずにはいられないほどに魅力的な存在であったけれど、今のフィリミナ・フォン・ランセントにはきっと叶わない。
身内と近しい友人だけ集めた結婚式で、真白いドレスに身を包んだフィリミナは、息を呑み見惚れずにはいられないほどに美しかったが、あれは結婚式という特別なその場限りのものではなかったらしい。
そうだ、姫が主催した夜会で、自分が贈った朝焼け色のドレスに身を包んだフィリミナだってとても美しかった。
けれど、身を飾るものが飾り気のないシンプルな銀の指輪一つの、なんてことのない日常の中ですら、こんなにもフィリミナは美しい。
なるほどなるほど。そういうことだったのか。
一人納得してエギエディルズはようやくトマトシチューを口に運んだ。トマトの酸味とチーズのまろやかさが見事なハーモニーを奏でている。一言でおいしいと言うだけでは足りないくらいだ。何せこのシチューには、疑いようのないフィリミナの愛情がたっぷりと込められているのだから。
「あ、あの、エディ? お夕食の前に、何かおかしなものでも食べられたのですか?」
「いいや。夕食が楽しみだったからな。腹は空かせておいたぞ」
「そ、そうですか」
聞き間違いだったのかしら、と、頬を薄紅に染めながらフィリミナもまたシチューを口に運び始める。
ただし何故だか動揺しているようで、その頬にトマトの飛沫が少しばかり飛んだ。テーブルマナーを徹底的に仕込まれている彼女らしからぬ失態だ。
「フィリミナ、右を向け」
「え、あ、はい……っ!?」
手を伸ばして右の頬に飛んだシチューを拭い、そのまま口に運ぶ。フィリミナは横を向いたまま硬直した。見る見るうちにその横顔が薄紅を通り越した朱色に染まっていく。それでも動かない、こちらを見ようとしない妻の姿に、エギエディルズにはわざとらしくゆっくりと最愛の名前を呼ぶ。
「フィリミナ?」
「エディ、あなた、解っていてなさっているでしょう!」
バッとこちらを向いて猛然と抗議されても、そんなにも赤い顔では怖いはずもない。むしろ。
「お前は美しいばかりではなく、かわいらしいな」
「~~~~ッ!!」
声にならない悲鳴を噛み殺すように呻いた後、フィリミナは本当に小さな声で、「勘弁してください」と呟いた。
ついに堪え切れなくなったエギエディルズが、くつくつと喉を鳴らして笑うと、フィリミナはやはり顔を赤くしたまま睨みつけてくる。うん? と首を傾げ返すと、愛しの妻はもう怒っているのも馬鹿馬鹿しくなったらしく、「もう!」と口を尖らせ、そうして小さく笑ってくれた。
――鏡よ鏡。俺の妻は、世界で一番美しいばかりではなく、最もかわいらしいぞ。
そんなエギエディルズの内心の呟きを、誰も知ることはない。
それでいいのだ。
フィリミナの魅力など、自分だけが知っていればいいのだと、エギエディルズは思っているのだから。




