【SS】魔法使いの義父
文字書きワードパレットより、No.22『サブリエ』(散る・日記・庭)。
フィリミナの父、ラウール・ヴィア・アディナの述懐。
ひらりと窓から迷い込んできた花弁が、ペン先をすべらせていた紙面の上に落ちる。代々魔導書司官を務めるアディナ家現当主たるラウール・ヴィア・アディナは、淡い薄紅色のそれをじいと見つめてから、一つ溜息を吐いて羽ペンをデスクの上に放った。
あたたかな、それでいてわずかばかりのつめたさを孕んだ、麗らかな春の風によってさらわれてきた花弁の出どころはすぐに解った。中庭に植えてある、今まさに盛りを迎えている大木に違いない。あまりに天気がいいものだから、このアディナ邸の書斎の窓を少しばかり開けておいたおかげだろう。
風の精霊が招いてくれた優しい春の便りに、自然とラウールの表情も緩む。
毎年春になるたびに見事に花開く大木は、まるでラウールの妻であるフィオーラのようであり、娘であるフィリミナのようだ。
以前そう本人達に伝えたところ、二人は顔を見合わせて、「酔っ払っていらっしゃいますの?」「お父様、お仕事がそんなにもお忙しいのですか?」と大層心配してくれた。ラウールの妻も娘も、とても優しくて素晴らしい女性である。
流石我が妻と我が娘、とうんうんと誰にともなく頷くラウールの、目の前にあった花弁が、また窓から吹き込んできた風によって攫われた。
それをなんとなく視線で追いかけたラウールは、偶然にも花弁が落ちた先、本棚の一角に収められている本が目に付いた。
「……懐かしいな」
椅子から立ち上がり、本棚の片隅に収められていたそれ――何年も自身が欠かさずつけ続けている日記を引き出す。既に数え切らない数になった日記の中でも、もう十年以上昔に記した日記だ。
何の気なしにぱらぱらとそれを捲れば、まだ幼かった娘や息子について楽しげに語る自分の姿が目に浮かぶようだった。
そういえばこんなことがあった。あんなこともあった。ついつい笑みを零しながらページを捲っていたラウールだったが、とあるページまで至ると、ふ、と目を眇めてその手を止める。
そこに記されていた、フィリミナでも、その弟にしてラウールにとっては息子に当たるフェルナンでもない一人の子供の名前。それがラウールの目に飛び込んできたからだ。
――エギエディルズ・フォン・ランセント。
ラウールの親友たるエルネスト・フォン・ランセントの養い子にして、現在は娘の婚約者であり、あと数日も経過すれば、その夫となる少年……今は青年となった、かつての子供の名前だ。
初めてあの子供と出会った日のことを、ラウールは忘れたことはない。
あの日、ラウールは、エルネストに「息子と会ってやってほしいんだ」と事前に告げられていた。最愛の妻を亡くして以来、浮いた噂などちっともなかった親友に、いきなり息子ができたと知らされた時、「いつの間に!?」とつい詰め寄ってしまったものだ。
エルネストは「少し前に、ちょっと事情があって引き取ったんだ」と微笑んでいたが、そんな重大な決断を、親友である自分に相談もなしに決めてしまったエルネストにラウールは少々腹が立った。けれどその親友殿が、笑顔でいると言うのにも関わらずあまりにも真剣なものだったから、ラウールはすべての文句を飲み込んで、「お前の息子に私が挨拶するのは当然だろう」と笑ってやった。
そうしてラウールは、愛しい家族と共に、エルネストに連れてこられた子供と対面することになった。
深くフードを被った小柄な子供が、そのフードを外した瞬間の衝撃を、ラウールは今でもまざまざと思い出せる。それくらいの衝撃だった。
「どういうことだ、エルネスト!」
娘と共に子供を中庭へと送り出したラウールは、子供を引き取ったと告げられた時以上の勢いで、エルネストに詰め寄った。
エルネストは困ったような、それでいて悲しげな表情で、ラウールのことを見つめ返してきた。その態度がより一層腹立たしくてならなかった。
きつく睨み付けるラウールの視線を静かに受け止めて、親友は淡々と続けた。
「どういうことも何も、こういうことだよ。あの子が私の息子のエギエディルズだ」
何を言われても、その事実は変わらない。そんな決意が、その台詞からにじみ出ていた。
ふざけるなと言ってやりたかった。何故よりにもよってあんな子供を、自分達に、かわいい娘に、引き合わせたのか。腹が立って仕方がなくて、身体ごと声が大きく震えた。
「あんな、あんな……っ!」
「……ラウール、あの子は」
「あんな美少年だなどと聞いていないぞ!? うっかりフィリミナの初恋を奪っていったらどうしてくれる!」
「…………は?」
思いの丈を込めて怒鳴りつけると、何故かエルネストは、彼の知的な面持ちにてんで似合わない間抜け面を晒してくれた。けれどそんなことに構っている余裕など、ラウールにはなかった。
その時のラウールの頭にあったのは、かわいい娘の発言だ。いつもともに遊ぶ子供達のことを褒め称えてはにこにこと笑っている娘の、掛け値のない、「綺麗ね」という、あのエルネストの子供に対する賛辞。
その一言が、どうにもこうにもラウールの心をかき乱した。
「ただでさえ既にフィリミナには婚約の申し込みが殺到しているというのに……! ウチの家柄を狙ってきているのが見え見えだからな、そういう相手からの申し込みは私の一存で握り潰せる! だが、だが、もしもフィリミナから『お父様、お願い』なんて言われてみろ! エルネスト、お前の知っての通り、フィリミナは本当によくできた娘なんだぞ? そんなあの子は滅多に言ってくれないわがままが、『エギエディルズ様と結婚したいのです』とかだったりしたら、私は、私は……!」
たぶん今後一生立ち直れない。自分だってフィリミナには「大きくなったらお父様と結婚します!」なんて言われたことないのに。
なんなら目の前のこの親友相手とこそ結婚したいとか思っていそうな娘なだけに、あの美しすぎる少年の存在は、あまりにもラウールにとって危険すぎた。
うっかり中庭へと二人きりで送り出してしまったが、今更ながらそれは失敗だったのではと顔色を赤くしたり青くしたり白くしたりと忙しくするラウールのことを、エルネストは何故だか呆然と見つめていた。
こいつのこんな表情など久々に見たものだと思いつつ、その顔を更に睨み付けると、やがてエルネストは弾かれたように笑い出した。
「は、はは、はははははは!」
「何がおかしい!」
「い、いや、すまないね、ラウール。やはり君は素晴らしい」
「馬鹿にしているのか!?」
こっちはこれ以上なく極めて大真面目だと言うのに、この親友ときたら、目尻に涙まで浮かべて、腹を抱えて笑ってくれやがるのだ。なんだこいつ。本当に腹立たしいったらない。
思わずその頭をぺしりと叩くと、エルネストはそこまでされてからようやく笑いを収め……切ることはやはりできず、ふるふると肩を震わせながら、満面の笑みを顔に浮かべて続けた。
「いいや、ちっとも。馬鹿にするなどとんでもない。本当にそう思っているんだよ。君は本当に素晴らしい。そして、君の娘であるフィリミナも」
「私はともかく、フィリミナが素晴らしくかわいらしいのは認めよう」
私の娘は世界一。だからこそ、ぽっと出の男にくれてやる気など毛頭ないのだ。たとえ大切な親友の養い子相手であったとしても。
フィリミナの「綺麗ね」という発言に対し、あのやせっぽちの美しい子供は、どうやら大層驚いていたようだった。それも当然だろう。何せ、あの子供の髪は。
「……あの髪では、さぞ、苦労したことだろう」
混じり気のない、いっそ見事なまでの漆黒の髪。魔導書司官という職種上、高位の魔法使いとも顔を合わせる機会が多いラウールですら初めてお目にかかった、純黒とでも呼ぶべき髪だ。
あの髪に、あのやせっぽちの小柄な身体に、一体どれほど強大な魔力が秘められているのか、考えるだけでも恐ろしい。
もっと恐ろしいのは、あの子供がかわいい娘の心を奪っていってしまうのではないかということなのだが、それは別の話だ。
いずれ稀代の魔法使いになるであろうあの少年のこれまでの人生を、ラウールはまだ知らなかった。だが、あのやせ細った身体が、子供にあるまじき無表情が、子供の今までを物語っているように思えた。
そんなラウールの予想は、やはり間違ったものではなかったらしい。エルネストは、温和な顔に険を含ませて、静かに吐き捨てた。
「ああ。生家では封印という手立てを取られていたよ」
「なんだと!? あんな幼い子に、なんてことを……」
封印。それは本来、罪を犯した者に課せられるべき大罰だ。あんな幼い子供が、そこまでされるような罪を犯すだろうか。犯せるだろうか。答えはもちろん否だ。
あの子供の生家は、あの子供に、生きていることこそが罪であるとでも教えたのか。なんて愚かな教えだろう。
聞けば、あの子供は、娘と同い年であるという。もしも娘が同じように封印されることになったならば、ラウールは怒りでどうにかなってしまうかもしれない。あんな、あんな、まだ世界を知らない子供が!
知らず知らずのうちに拳を握り締めるラウールの肩に、エルネストはそっと片手を置いた。なだめるためか、或いは、同意を示すためか。どちらであるのかは解らなかったが、それでも確かにその時、エルネストは安堵していたようだった。
「だからといって、特別扱いなんてしてくれなくていい。ラウール、そのままの君でいいんだ。それがあの子の救いとなるのだから」
「そ、そうか?」
「ああ、そうだとも」
力強く頷く親友に、なんだかよく解らないがそういうことらしいと納得したラウールは、そうしてはたと気付く。流されてしまったが、そうはいかない。
「だからと言って、フィリミナは嫁になどやらんぞ」
「おや、それは残念だ」
「エルネスト、貴様――――ッ!」
そんな父親達のやりとりを知ってか知らずか、ラウールの娘とエルネストの息子は、親交を深めていった。アディナ家の幼い長男坊であるフェルナンが嫉妬心というものを早くも覚えるほどに、二人の仲は大層よかったように思う。
ラウールは、複雑だった。幼い娘に早くも『特別な男の子』というものができるのも複雑だったし、正直、あの子供の黒髪についても、少々思うところがあったのだ。
エルネストには言えなかったが、ラウールとて、あの子供のあまりにも真っ黒な髪と、誂えたかのような美しい面持ちは、普段感じない恐怖心というものをくすぐられるものだった。
幸いというべきか、不幸というべきか、例の子供はそういう感情に敏く、必要以上にラウールを始めとしたアディナ家の面々に近寄ろうとはしなかった。
フェルナンは、愛しい姉を奪う男に対して毎回飽きずに立ち向かっていったが、これまた毎回あえなく撃沈しており、我が息子ながらなんて涙ぐましいのかとラウールは目頭を押さえたものである。
ただ娘ばかりが何も変わらなかった。かわいい娘はどこまでも天使だった。怯えられることに慣れ切っている子供に、ためらいなく手を差し伸べ、食卓をともにし、互いに本を読み合って。
他の子供達に対するものと何一つ変わらないはずのその行動が、何故だか不思議と『特別』のように思えてならなくて、ラウールは正直なところ気が気ではなかった。
初めて紹介された時にエルネストに訴えかけた言葉が、いずれ本当になるのではないかと思うと恐ろしかった。あの子供が恐ろしいのではなく、あの子供と関わることでいつか娘が傷付くことになるかもしれない、その可能性が恐ろしかったのだ。
そして、そんなある日のことだった。アディナ邸の中庭のテラスにて、一人座ってぼんやりとしているあの子供を見つけたのは。
いつも側にいるはずの娘の姿はなかった。そういえばそろそろおやつの時間だから、乳母の手伝いにでも行ったのだろう。そう見当を付けて、ラウールはそのまま子供の姿をじっと見つめていた。
返す返すも、見れば見るほど美しい子供だった。かつてやせっぽちだった子供の肉付きはようやくよくなって、本来持ち合わせていた美しさをより一層際立たせるようになっていた。
子供ではなく少年と呼ぶにふさわしくなった少年は、まるで現世の存在ではないような、それこそ夜の妖精とでも呼ぶべき美しさを持っていた。あの美貌を前にして、平然としていられるなんて、流石我が娘。
そううんうんと頷いていたラウールに、不意に、少年の目が向けられた。怖いほどに透き通る朝焼け色の視線に射抜かれてぎくりとするラウールに対し、少年はわざわざ立ち上がって頭を下げてきた。
こうなればもう無視することもできず、ラウールは緊張を押し殺して、顔に笑顔をかろうじて貼り付けて片手を挙げて応え、少年の元へと歩み寄る。
「あー、その、エギエディルズ」
「……はい」
「いや、その、なんだ。……フィリミナとは、どうだ?」
少年との共通の話題など、娘についてか、エルネストについてしか持ち合わせていなかった。
反射的に飛び出した前者についての話題に、ぱちりと少年は瞳を瞬かせた。長く濃く生え揃う睫毛が影を落とす、その様すらぞっとするほどに美しい少年は、やがてぽつりと呟いた。
「……よくしてもらっています」
「そうか」
「はい」
「フィリミナの一番の友は、おそらくお前だろうからな。お前と一緒にいる時のあの子は、いつも楽しそうだ」
「……そうでしょうか」
「ああ」
まったく悔し……もとい、困ったことに。これで娘がこの少年を忌避するようであれば、いくら親友の望みであるとはいえ、ラウールはその望みを振り切って、娘とこの少年を引き離すよう尽力したに違いない。けれど現実とは非情なもので、娘はこの少年といる時が一番自然体でいるようなのだからどうしようもない。ああまったく困ったものだ。
そう内心で呟くラウールの視線の先では、何やら黙りこくってしまった少年がいる。少年の普段は白い頬が、うっすらと赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
なんだか嫌な予感がして顔を強張らせるラウールの様子には気付いていないらしい少年は、長い沈黙の後に、「でも」と続ける。
「フィリミナは、人気者ですから。俺だけが独占しちゃいけないんだと思います」
……そういえば、と、ラウールはその時思い出した。つい先日、この少年が遊びに来ていた際に、他家の子供達がアディナ邸に遊びに来て、鉢合わせしてしまったのだということを。
この少年を見た子供達は泣き叫び、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図であったらしい。
フィリミナとフェルナンの乳母を勤めてくれているシュゼット曰く、「奥様がお客様の皆様に頭を下げていらしたのですが、そもそも事前のおしらせもなくいらしたのはあちらの方ですのに!」とのことだ。
フィオーラはその件について何も言わなかったし、フィリミナもまた何も言わなかった。フェルナンだけが「みんな、あんな奴のどこがこわいんでしょうか? せっかくあいつと姉上を引き離してくれるかと思ったのに!」と不穏な発言をして、シュゼットにお小言を貰っていた。息子よ、いつの間にそんなにたくましくなったんだ。……などとこっそりラウールが思ったことはさておいて、それよりもまずは目の前の少年だ。
降り注ぐ太陽の光を弾いて、艶やかな輪をその純黒の髪の上に頂く少年。強大な魔力を持ち、とびぬけた美しさを誇る少年だ。
けれど、その少年が、結局まだまだ子供のただの少年でしかないことに、ラウールは、ようやく気付けたような気がした。
気付いてしまったらもう、駄目だった。
「エギエディルズ」
「何でしょうか」
「お前はもう少し、わがままになりなさい」
「……?」
「フィリミナは私の自慢の娘だ。それはもう、これ以上なくかわいい、私の天使だ。本当にいい子に育ってくれたと思っている。だからこそ、私はいつも寂しい」
不思議そうに少年がことりと首を傾げる。どういう意味なのか理解できずに戸惑っている様子だ。感情を読み取らせない無表情ばかりを浮かべている少年だけれど、ラウールの娘が絡んだ時には、少しだけ感情を零れ落としてくれるのだ。
そんなこと、本当はずっと前から気付いていたのに、気付かないふりをしていた自分を、ラウールは恥じる。
「わがままを滅多に言ってくれない娘でね。フェルナンの見本になろうとしてくれているのかもしれないが……エギエディルズ。もしよければ、お前があの子のわがままを叶えてやってくれ」
大きな朝焼け色の瞳が、今度は驚きに瞠られる。きょどきょどと落ち着きなくその瞳がさまよって、「でも」だの「そんな」だの、小さな声でなんとか言葉を探す少年は、やはりどこからどう見てもその辺にいるただの少年でしかない。微笑ましいものだと、そう心から思えた。
「だから、だ。お前もあの子にわがままを言ってやりなさい」
「え?」
「エギエディルズ、お前がわがままを言ってくれないと、あの子もわがままを言えないじゃないか」
言葉を失う少年に、ラウールはぱちりとウインクをプレゼントして、大きく破顔する。
「娘と、これからも仲良くしてやってくれ」
そして、くしゃりと少年の頭を撫でた。驚きに硬直する少年の漆黒の髪は、驚くほど滑らかで柔らかく、手触りのよいものだった。恐る恐る頷きを返してくれた少年の未来が、光にあふれたものであるようにと、初めて心の底から女神に祈ることができたのも、その時だった。
だが、この時の『わがままを叶えてやってくれ』という自身の無責任な発言を、ラウールは後に心から後悔することになった。少年が召喚した焔の高位精霊に襲われた娘が、生死の境目をさまようことになった時のことだ。
エルネストにも少年にも、これ以上ないほど謝罪されたが、不思議と、二人のことを――特に少年のことを責める気にはなれなかった。むしろ、不用意に高等召喚魔法が記された魔導書を放置していた自分のことが許せなかった。
幸運にも、娘は一命を取り留めた。良家の娘としては致命的な後遺症を残すことになったとしても、どうでもよかった。ただ、生きていてくれた。それだけでよかった。娘の健やかな寝息を聞いた時、ラウールは妻と抱き合って涙を流したものだ。
その一件をきっかけにして、少年は魔法学院に入学することを決めてしまった。
「うちの娘を悲しませる気か!」と今度こそ怒りを露わにするラウールに、エルネストは言った。「もし、ゆるされるならば」と。
そうして切り出されたのは、少年と娘の婚約。ラウールは、「フィリミナが望むならば」と答えた。
やがてやってきた旅立ちの日に、ラウールの娘は、緊張を押し殺して無表情を顔に貼り付けている少年に対し、いつも通りの愛らしい笑顔を浮かべて頷いた。
――まっていてくれるか。
――はい、もちろん。
あの時、世界の終わりにはこんな気分になるのかもしれないとラウールは思ったものだ。
安堵と喜びに浸りながらうんうんと頷いている親友の足をこっそり踏みつけたことに対して、ラウールは反省はすれども後悔はしていない。
それからというもの、少年については、時折魔法学院に面会に向かうエルネストから話を伝え聞くか、王宮に上がる『純黒の魔法学院生』の噂を小耳にはさむ程度の情報しか得ることはできなくなった。
すさまじい勢いで進級する最中、一度たりとも帰還しなかった少年を思うと、ラウールは実に複雑になる。たまの手紙しか寄越さない婚約者について何も言わない娘に対し、あまりにも不義理がすぎるのではないか。だが、同じ男として、未熟な姿を見せたくないという気持ちも解る。
この時にはもう、いくら鈍いと言われるラウールでも、あの少年の気持ちに気付いていた。
あの少年は、自分の娘に惚れているのだ。それも、心底、という枕詞がつくくらいに。そして、きっと、娘もまた、あの少年に。
だからラウールは耐えた。娘が何も言わないのならばと、妻と一緒になって待った。
やがて、世間一般的には驚嘆に値する速さで――とは言ってもラウールにとっては遅すぎる速さで、少年は青年となり、魔法学院を卒業した。
いよいよ娘がこの手を離れていくのかと覚悟していたら、各所の思惑によりその日は遠のいた。こっそり祝杯を挙げたラウールは、その晩、妻に静かに説教されてしまったものである。
かつて子供だった青年は、それでも諦めず、たゆまぬ努力を重ねて、気が付けば王宮筆頭魔法使いという至高の座にまで登り詰めてしまった。すべては、婚約者である、ラウールの娘と結婚するために。
そんな不純な理由で王宮筆頭魔法使いになんてなられてしまってはもうお手上げだ。ラウールだって馬鹿ではない。いい加減負けを認めなくてはならなかった。
誰もが恐れる純黒の髪を、「綺麗ね」と言い放ったかわいい娘の目は確かなものだった。そして、そんな娘の味方であり続けた妻の目も。
女性の目とはかくも鋭いものなのかとエルネストに愚痴ったところ、「いや、相手が私の自慢の息子だからだよ」と真顔でマウントを取られて、思わずそのみぞおちに拳を入れてしまった。
それなのに。ようやく心から認められると思ったのに、あの報せだ。
魔王討伐のために勇者の連れとして旅立った青年の訃報が、王宮より届けられたのである。妻によく似て常に落ち着き払っている娘が、文字通り卒倒したのを目にした時、既に亡き者になってしまったのだという娘の婚約者に初めて殺意を抱いた。
手塩にかけて育て見守り続けた花のような娘が、日に日にやつれ、今にも散ろうとしている姿を見るのは辛かった。
ひっくり返された砂時計のように、刻一刻と娘はやせ衰えていった。
毎日、少しずつ。けれど、確実に。
いつかその砂時計の砂すべてが落ち切ってしまった瞬間、ラウールのかわいい娘、フィリミナ・ヴィア・アディナは、花のように自らの命を散らしてしまうのではないかと、気が気ではなかった。
――――そうして、すべてが終わった今がある。
魔王は討伐され、無事勇者達は帰還した。命を落としたと伝え聞いていた王宮筆頭魔法使いもまた、共に。今度こそ本当に年甲斐も大人げもなく娘の婚約者などというけしからん立場にある青年のその飛び抜けてお綺麗な顔をぶんなぐってやりたくなったが、その隣で本当に嬉しそうに、本当に倖せそうに笑う娘の姿を見たら、何もできなくなってしまった。
「仕方がないとは、解っていたんだがな」
そうして、かつての少年に長く思いを馳せていたラウールは、ようやくぱたんと日記を閉じて、ぽつりと呟いた。風が吹く。頬を撫でていく。その風に導かれるようにして、ラウールは窓辺へと向かった。
薄く開いた窓硝子越しに中庭を見下ろすと、かわいい娘と、その婚約者である青年が、連れ立って歩きながら舞い散る花を愛でている。せっかくの美貌だと言うのにも関わらず、相変わらずの不愛想な青年の隣で、娘は穏やかに微笑んでいる。もう二度と目にすることは叶わないかとすら危惧した、ラウールの愛する妻によく似た穏やかな笑顔だ。
あと数日もすれば、あの娘は、隣の青年の元へと嫁いでしまう。そう思うと、ついついむっすりと口を引き結んでしまうラウールである。
――――娘は、本当に美しくなった。
世間一般からしてみれば十人並み程度でしかないと言われるのかもしれないが、ラウールにとっては、世界で一番美しい妻であるフィオーラと同じくらいに、娘は美しい。妻と娘は、ラウールにとって何よりも美しい大輪の花なのだ。
しかしその後者たる、フィリミナ・ヴィア・アディナという花を咲かせるのも、枯らせるのも、エギエディルズ・フォン・ランセントという青年の采配一つなのだから、まったく父親とはつまらないものだと思う。
ラウールが見下ろす先、中庭の花咲く大木の下。ふいに青年の手が伸びて、娘の髪から薄紅の花弁を優しく払った。照れたように娘は微笑み、小さく「ありがとうございます」と礼を言っている。
そうして二人の視線が交差して、どちらからともなくその唇が、今にも重なろうとした瞬間、ラウールはためらいなく窓を押し開けた。
「待てーい!!」
バーン! という遠慮も何もあったものではない音とともに開いた窓から、ぐっと上半身を乗り出して中庭を見下ろす。
唖然とこちらを見上げてくる愛しい娘と、憎たらしいその婚約者たる青年に向けて、ラウールはこれでもかと大きく怒鳴った。
「私の目の前で未婚の不純異性交遊は認めんぞ!!」
たかがあと数日。されどあと数日。
まだだ。まだ認めてたまるものか。
ラウールの息子であり、フィリミナにとっては弟にあたるフェルナンのことを、ラウールはとやかく言えた義理はない。だがそれが何だと言うのか。いつだって父親というものは、娘がかわいいのだ。娘を奪う男は皆、総じて敵である。
顔を真っ赤にしてこちらを見上げてくる娘は「お父様のばか……!」なんて呻いてくれているが、知ったことではない。その隣で恥ずかしげもなく涼しい顔をしている青年がどこまでも小憎たらしい。
こっちの気も知らずしていい気なものだ。
あと数日で名実ともに婚約者から夫という立場にクラスアップできることが嬉しすぎてこの世の春を謳歌している青年に、何を言っても通じないことくらい解っているが、それでも文句の一つや二つや五つや六つ、怒鳴りつけてやりたくなる。
そうだとも。
たったあと数日であるとはいえ、まだその数日間は、フィリミナは、『エギエディルズ・フォン・ランセントの妻』ではない。『ラウール・ヴィア・アディナの娘』なのである。
“花泥棒は罪にはならない”なんてとんだ名言だ。
むしろ迷言と表するべきだと、ラウールはつくづく思わずにはいられない。
2020年5月2日に書籍版『魔法使いの婚約者』シリーズ第10巻、『魔法使いの婚約者10 マスカレードで見つけてくれますか?』が発売されます。詳しくは活動報告にて。よければ何卒よろしくお願いいたします。




