【SS】葡萄色の内緒事
文字書きワードパレットより、No.10『ベルスーズ』(包む・葡萄・暮れる)。
エディとフィリミナの婚約時代の一コマ。
嫌な予感はしていたのだ。
そうエギエディルズは、人目もはばからず盛大な舌打ちをした。今更誰に見咎められようとも気にするまでもなかったし、そもそもこうして深くローブのフードを被り、加えて更に人除けの魔法を自身にかけている状態では、今のエギエディルズを気に留める者は誰もいない。
それをいいことに、もう一度忌々しげな舌打ちを一つ繰り返し、奥歯をギリリと噛み締めて、エギエディルズは長い足を急がせる。普段は気にならない、カツカツと廊下の床にぶつかるブーツの音が、今ばかりはやけに耳障りでならなかった。
今のエギエディルズがここまで不機嫌でいる――正確には、焦燥にかられている理由など、たった一つしかない。
今までも、これからも、エギエディルズの心をここまで乱してくれる相手なんて、たった一人しかいない。フィリミナ・ヴィア・アディナ。エギエディルズ・フォン・ランセントの幼馴染であり、婚約者でもある彼女だけだ。
エギエディルズは込み上げてくる溜息を噛み殺し、ひたすら彼女の元へと足を急がせながら、今に至るまでの経緯を思い返していた。
***
魔法学院を卒業してしばらく。長らく婚約関係を結んでいた彼女とようやく結婚できると思ったら、周囲の様々な思惑により、その結婚は先延ばしにされ、現状として未だいつ結婚できるかは誰にも予想できない状態になっている。それこそ、当の本人である、エギエディルズ自身すらにも解らないままだ。
それが歯痒くてならなくて、いざという時に誰にも文句を言わせないように、王宮筆頭魔法使いの座にまで登り詰めたものの、依然として不本意な状況は変わらない。まったくもって腹立たしい現状だ。
エギエディルズとしては一日でも早く婚姻に臨みたいと思っているのに、フィリミナは何も言わずに、ただエギエディルズの仕事ぶりを応援し、時に心配するばかりであるのもまた、エギエディルズの焦燥を誘った。
よもや、このまま彼女は婚約が反故にされるのを待っているのではないか。そう疑ったことは、正直なところ、一度や二度ではない。焦燥ばかりではなく不安に苛まれ、大人げなくもフィリミナ本人に理不尽に八つ当たりしたことだってある。それなのに彼女は穏やかに微笑むばかりで、その笑顔に安堵を感じると共に余計に焦燥を煽られてきた。
王宮筆頭魔法使いとして忙しい執務の合間を縫って、フィリミナが暮らすアディナ家の屋敷に訪れることを繰り返して、かろうじて平静を取り繕っている自分の情けなさを、エギエディルズは誰よりもよく理解している。理解している、つもりである。
足繁くアディナ家に通うのは、フィリミナのためではなく、結局自分のためでしかない。
今日だってそうだった。珍しく定時に終わった執務の帰り道、いつものようにアディナ家に足を運んだ。だがしかし、本日は常と少々勝手が違っていた。いつもであれば一番に出迎えてくれるフィリミナは不在で、代わりに、それはそれは不満そうな顔をしたフィリミナの弟、フェルナンが仁王立ちで立ちはだかって……もとい、出迎えてくれたのである。
「何の用だ、エギエディルズ。僕はこれから出かけるから、お前の相手をしている暇はないぞ!」
飽きもせずに毎回噛み付いてくる青年に、エギエディルズは思わず溜息を吐いた。そんなエギエディルズの反応に、「なんだその溜息は! つくづく失礼な奴だな!」とフェルナンは更に噛み付いてきたが、エギエディルズとしてはもう何も言いたくなかった。ただでさえ疲れているのにこれ以上疲れるような真似をする馬鹿になるつもりはなかった。
余裕がある時は、それなりに相手をするのもやぶさかではないし、まあそれはそれで楽しいと思えなくもない時間であるのだが、今は生憎そんな気分にはならなかった。
フェルナンの子犬のような喚き声を聞くより、フィリミナの微笑みが見たい。「エディ」と、ひとこと、名前を呼んでほしい。そこまで考えてから、エギエディルズは自分でも驚くほど、今日、フィリミナに会いたかったのだということに気付かされた。
いいや、今日ばかりではなくて、本当はいつだって会いたいのだ。それなのに、今日出迎えてくれたのは彼女ではなくその弟。フェルナンが聞けば怒髪天を衝くに違いないが、まあぶっちゃけ残念すぎる。がっかりだ。期待外れにも程がある。
そんなエギエディルズの本音は、口に出さずとも、幼い頃からの付き合いのフェルナンにはしっかり伝わっていたらしい。「言いたいことがあるなら言えばいいだろう」とむっすりと吐き捨てられた。
言ってもいいのだが、本当に本音を伝えたらお前はさぞかし怒るだろうに。一応エギエディルズだってフィリミナの弟であるフェルナンには気を遣っているのだ。その気遣いが意味を成したことは今のところほとんどないとしても。
そうして、何も言おうとしないエギエディルズに対し、フェルナンはフンッと鼻を鳴らした。
「まあいい。とりあえずそこをどけ、エギエディルズ。僕は姉上を迎えに行くという崇高にして重大な任務が……」
「なんだと?」
「うん?」
「フィリミナは、外出しているのか?」
そう問いかけた瞬間、フェルナンの顔に、解りやすく“しまった”という文字が刻まれた。そのまま言葉に詰まるフェルナンの顔を、エギエディルズはじろりと睨み付ける。
夜の妖精と謳われ、月すら恥じ入るような、飛び抜けた美貌を誇るエギエディルズのド迫力の視線にも、フェルナンは怯むことなく果敢に睨み返してきた。だがしかし、エギエディルズとてそれで黙って引き下がることができる訳がない。
既に太陽は傾き、夜の帳が落ちようとしているこの時間帯に、貴族の子女たるフィリミナが外出しているとはどういうことだ。しかもフェルナンが自ら「迎えに行く」と言っているということは、彼女は一人である可能性が高い。この王都の治安の良さは折り紙付きであるとはいえ、それでも若い女性が一人でこの時間を過ごしているのは褒められるべきことではないだろう。
さっさと説明しろ、と視線で促せば、フェルナンはしばし「ぐぬぬぬぬぬ」と唸っていた。しかしそれでもエギエディルズが退くつもりがないことを、今までの経験上ゆえか、すぐに悟ったらしく、実に重々しく、いかにも不本意であると言いたげに口を開いた。
「姉上は、ご友人が開かれた夜会に出席中だ。昼間の茶会だけのはずだったんだが、どうもご友人に『どうしても』と頼まれてそのまま夜会にも出席することになったと先程使いの者が知らせてくれた。だが、姉上はあまり酒の席は好まれないだろう? だから僕が今から迎えに……」
「俺が行く」
「は?」
「俺が行く、と言っている。場所はどこだ?」
「はああ?」
何言ってやがるんだこいつ、とフェルナンが、異性からの好感度が高く、『それなりに整った』と評される顔をしかめた。そのまま、お前は引っ込んでいろ、と言外に含ませてフェルナンは睨み付けてくる。
だがエギエディルズに言わせれば、それは自分の台詞である。婚約者を迎えに行くのに、理由なんて必要ないだろう。弟であるフェルナンよりも、婚約者である自分の方が適役であるに違いない。
夜会。酒の席。それにフィリミナが一人で参加しているのだと思うと、なんとも歯痒くてならない。本来であれば婚約者である自分が、パートナーとしてともに出席するべきだろうに。
それが叶わないことが、こんなにも悔しいのだ。だからこそ余計に、エギエディルズは自分がフィリミナのことを迎えに行きたかった。
「俺が転移魔法で直接跳んだ方が早い。今から馬車を用意していては余計に時間がかかるだろう。ほら、解ったらさっさとどの屋敷か教えろ」
「だ、誰が貴様なんかに教えるか! 僕が姉上を迎えに行って、帰り道でついでに星明りの散歩を満喫するという計画は邪魔させないぞ!」
それはまた随分とかわいらしい計画である。
エギエディルズは基本的に何かに執着することがとても少なく、この未来の義弟相手であれば、これまた基本的に何でも譲ってやっていいと思っている。だがしかし、その対象が、『フィリミナ・ヴィア・アディナ』であるというならば話は別だ。譲れるはずがない。そしてフェルナンにとっても、彼女は唯一無二の『譲れないもの』なのである。
互いに睨み合うしばらく。その沈黙を破ったのは、聞き慣れた穏やかな声だった。
「まあ、フェルナン。それにエギエディルズ。二人とも、そんなところで何をしているの?」
フィリミナのそれによく似た穏やかで柔らかな口調の声音に、エギエディルズとフェルナンは揃ってそちらへと視線を向ける。
二人分の成年男子の視線を一手に引き受けて、アディナ家の女主人にして、フィリミナとフェルナンの実母である、フィオーラ・ヴィア・アディナは、ふんわりと少女のように笑った。
「は、母上……」
「フェルナン、フィリミナを迎えに行くのではなかったのかしら。ごめんなさいね、エギエディルズ。無駄足を踏ませてしまったわね」
「いえ」
にこにことその実年齢以上に若々しく、そしてかわいらしく微笑みながらフィオーラが続ければ、居心地が悪そうにフェルナンは身動ぎする。いかにもばつが悪そうにしているフェルナンを横目に、エギエディルズは短く答えながら、小さく礼を取った。
そんな二人を見比べて、フィオーラは、ぽん、と胸の前でその華奢な手を打ち鳴らす。
「そうだわ、エギエディルズ。悪いのだけれど、フィリミナを迎えに行ってあげてくれないかしら」
「母上!?」
名案でしょう?と笑顔で続ける母のことを、息子が信じられないものを見るかのような目で見つめる。エギエディルズもまた、未来の義母のことを驚きと共に見つめた。
フィオーラは茶目っ気たっぷりに片目をぱちりと閉じてみせてから、淡い色の紅が刷かれた唇を開く。
「夜会に迎えに行くのなら、弟が行くよりも婚約者が行く方が格好がつくでしょう。フィリミナだってもう年頃なのだもの。いつまでも家族に過保護に守られているだなんて思われたくはないでしょうから」
アディナ家におけるヒエラルキーの頂点に君臨する母に対して文句も言えず、もごもごと口籠るばかりの息子を無視して、フィオーラはエギエディルズに、本日フィリミナが招かれている屋敷の住所を耳打ちする。ついでに、既に開封済みの、おそらくはフィリミナが参加しているであろう夜会の招待状を手に握らせてきた。
「エギエディルズ、フィリミナをお願いね」
「……はい」
にっこりと微笑んで手を振るフィオーラと、恨めしげに睨み付けてくるフェルナンの姿を最後に、エギエディルズは自身の魔力を操り、転移魔法を行使して、アディナ家を後にしたのだった。
***
――そして話は冒頭に戻る。
フィオーラに教えられた屋敷は、王都の大通りから少しばかり脇に逸れた場所に位置する、某子爵の屋敷だった。
聞き覚えのある家名に、そういえば、とエギエディルズは思い出す。フィリミナが、以前からこの屋敷に住まう子爵令嬢に、色々と良くしてもらっている、と語っていた。ついでに、その子爵令嬢の兄である子爵令息とは、本の趣味が合い、何度か語り合ったことがある、ということも。
本の趣味が合うというならば、少々活字中毒の気があるエギエディルズだってフィリミナといくらでも語り合うことができるというのに、なかなかそういう機会に恵まれないのは何故なのか。考えるだけで実に遺憾であることこの上ない。
……と、話がずれた。それよりも今はフィリミナ自身のことだ。
フィオーラに握らされた招待状を見せたところ、黒蓮宮のローブを羽織り、そのフードを深く被ったエギエディルズのことを当初訝しんでいた門番は、意外なほどにすんなりと屋敷の中へと通してくれた。
それをいいことに、エギエディルズは現在夜会が開かれている大広間へと向かっているという訳である。
足を急がせるたびに、優美な管弦楽の音が近くなる。その音に導かれるようにして、案内役を置き去りにして大広間へと辿り着いたエギエディルズは、そっとその扉を開けた。
そうして目の前に広がったのは、きらびやかな夜会の様相だった。色とりどりのドレスに身を包んだ年頃の令嬢達が、これまた年頃の令息達と手を取り合ってワルツを踊っている。大広間のあちこちに置かれた小さなテーブルの上には、酒やつまみの類が並び、それらを片手に談笑する者達もいた。
黒のローブを羽織って異彩を放つエギエディルズに、意識を払う者はいない。目くらましの魔法がよく機能してくれているらしい。この魔法体系を確立させたのは正解だった、と内心でごちつつ、エギエディルズはためらうことなく大広間へと足を踏み入れた。
一見して、目的の人物をすぐに見つけられることなどできないに違いない混雑の中で、エギエディルズの朝焼け色の瞳は、まるで吸い寄せられるかのように一点へと向けられた。
――見つけた。
普段はあまり着飾ることをせず、地味なドレスばかりを好んでいるくせに、何故か今夜に限って華やかな若草色のドレスを身にまとい、大広間の片隅に佇んでいる、フィリミナの元にエギエディルズの視線は引き寄せられる。
そして同時に、そんなフィリミナの隣に佇み、両手にワイングラスを持ち、彼女に何かと話しかけている青年の姿もまた、エギエディルズの目はしかと確認した。
すぅっとエギエディルズは、その瞳を眇める。同時に、その周囲の空気の温度が、急激に下がった。
エギエディルズの存在そのものに気付けなくとも、空気の温度の変化には気付けたらしい周囲の夜会の参加者達が、首を傾げながら身を震わせるのを無視して、エギエディルズはずんずんとフィリミナと青年の元へと大股で近付いていく。
近付くにつれ、二人の会話もまた、エギエディルズの耳にまで届くようになっていた。
「――フィリミナ嬢、ほとんど飲まれていないでしょう。こちらは当家が取り寄せた秘蔵のワインなんですよ。どうぞ、もう一杯」
「ありがとうございます。ですがわたくし、本当にもう十分ですの。あまりお酒は得意ではないものでして、醜態を晒してしまいそうで恐ろしくって」
「醜態だなんてとんでもない。きっと新たな魅力に繋がると思いますよ。それにもし寄ってしまっても、私がいるのですからどうかご安心を。さぁ、どうぞ」
「……ええと、でも」
「まずは一口。ご感想を頂けませんか?」
「そう、ですね。でしたら、一口だけ……」
フィリミナの手が、青年が差し出すワイングラスへと伸びる。
そして彼女の手が、そのワイングラスに触れる寸前で、エギエディルズは自身の手でワイングラスをほとんど奪い取るようにして、青年の手からそれを受け取った。
「なっ!?」
「あら?」
間に合った。内心でほっと安堵の息を漏らすエギエディルズを前にして、きょとりとフィリミナの瞳が瞬き、青年が大きく瞠目する。
二人とも、ワイングラスをきっかけにして、初めてエギエディルズの存在に気付いたようだった。そうなるように魔法をかけていたのだから当然であるのだが、それでもフィリミナにはもう少し早く気付いてほしかった、というのは間違いなくエギエディルズの身勝手なわがままである。そのため、エギエディルズはそんな思いに蓋をして、こちらを凝視してくる二人を、フードの下から見つめ返す。
「なんだお前は!?」
「まあ、エディ?」
青年の苛立ち混じりの誰何の声と、フィリミナの心底不思議そうな声が重なる。
宴のざわめきに紛れてそれらの声を聞き咎める者はいなかった。それをいいことに、エギエディルズはワイングラスを片手に、もう一方の手でフィリミナを引き寄せて、こちらを恐れと焦りがごちゃ混ぜになった顔で睨み付けてくる青年を見つめる。
胸元で光るブローチに刻まれた紋章は、この屋敷に住まう子爵家のもの。ならばこの青年こそが、この子爵家の後継者殿であるらしい。
そこまで認識してから、エギエディルズはフィリミナに気付かれない程度の小さな舌打ちを一つして、ワイングラスの中身を一気に呷った。「あっ!」と青年が慌てたような声をあげるが知ったことではない。
鮮やかな葡萄色の液体を舌の上で転がして、その中に閉じ込められた果実そのものの甘味ばかりではなく、エギエディルズが普段慣れ親しむ薬物特有の甘ったるさに眉をひそめる。
「……一服盛ったな?」
誰もが聞き惚れるに違いない声が、地を這うように低められる。ぞっとする響きのその声に、ひっと青年が息を呑み、顔を蒼褪めさせた。だがそんな反応などどうでもいい。重要なのはフィリミナだ。
彼女はエギエディルズに引き寄せられた状態のまま、片腕の中に大人しく収まっている。普段であれば、顔を真っ赤にしてすぐに身を離すに違いないと言うのに、この反応。意識はそれなりにはっきりしているようであるが、顔の赤らみ具合や、瞳の潤み具合から察するに、ある程度は既に、エギエディルズ曰くの『一服盛られた』ワインを摂取してしまっているらしい。
「エディがこんなところにいらっしゃるなんて……わたくし、夢を見ているのかしら」
「夢じゃない。帰るぞ」
「なっ! 待……っ!?」
ぼんやりと呟くフィリミナをローブの中にくるむようにして抱え込み、ワイングラスを側のテーブルに置いて、フィリミナごと歩き出す。
そんなエギエディルズを呼び止める声が聞こえてきたが、エギエディルズは振り返らなかった。代わりに、トン、と爪先で床を軽く蹴る。
「うわぁっ!?」
突然持っていたワイングラスの中身が浮き上がり、そのワインを頭から被る羽目になった青年の悲鳴が聞こえてきたが、エギエディルズは構うことなくフィリミナと共に屋敷を後にした。
転移魔法で一気にアディナ家に跳ぼうかと思ったが、普段フィリミナをこんなにも近くに感じられることなどないエギエディルズにとって、この状態を手放すのはあまりにも惜しまれた。
少しだけ、と自分に言い聞かせながら、葡萄色の夕焼けに染まる王都の道を、フィリミナを抱きながら歩く。
太陽が今にも沈もうとしている空は、まるで先程のワインのような色をしていた。明日は雨か、と反射的に思う自分は、おそらく情緒だとか風情だとかいうものが、いささか欠けているのかもしれないと思う。
どこかおぼつかない足取りで歩くフィリミナを支えながら、エギエディルズはそっと口を開いた。
「おい」
「ええと、はい」
「一人で夜会に出席するなど、何を考えている。そういう時はフェルナンを必ず連れていけと言っているだろう」
ここで、『俺を』ではなく『フェルナンを』としか言えない自分が、エギエディルズは悔しかった。良かれと思って王宮筆頭魔法使いの座に登り詰めたというのに、いざなってみたらその忙しさゆえにフィリミナの側にいられる時間はごくごく限られたものになってしまった。
だからその代わりに、今までは少しばかり苦々しく思っていたあの未来の義弟のフィリミナへの度を越した執心ぶりを利用することにしていた。世界はかくも不条理で満ちている。つくづく忌々しい。
不機嫌さがにじみ出るエギエディルズの声に、フィリミナはゆっくりとエギエディルズの腕の中でその首を持ち上げる。
――わたくし、子供ではありませんよ? もう一人前のレディですのに。
エギエディルズは、フィリミナに、たとえばそう反論されるものだとばかり思っていた。だがしかし、予想に反してフィリミナは、するりとエギエディルズの腕の中から抜け出して、数歩先に足を踏み出したかと思うと、くるりと振り返ってエギエディルズのことをにらみ上げる。
その瞳に透明な雫がなみなみと湛えられ、今にもそれが零れ落ちそうになるのを見届けたエギエディルズは、ぎくりと身体を強張らせて硬直した。
なんだ、どうした。何故フィリミナは、こんな風に泣きそうな顔になるのか。
こんな顔を彼女にさせているのは誰だ、なんて、問いかけるまでもないことは、流石のエギエディルズでも理解できた。それは間違いなく、この自分、エギエディルズ・フォン・ランセントだ。
「フィリミ……」
「わ、わたくしだって、好きで出席した訳ではありませんのに。でも、でも、断れなくて、だからフェルナンに迎えに来てもらおうと思って」
両手を握り締め、震える声で言葉を紡ぐフィリミナに、エギエディルズは大量の冷や汗が背筋を伝っていくの感じていた。
いつものフィリミナであれば、こんなことを言うはずがない。困ったようにしながらも、きっちりエギエディルズに反論して、そうしてエギエディルズをそのままやり込めてしまうのに。
それなのに今のフィリミナはどうだ。まるで親に叱られた幼い子供のように、涙をこらえてエギエディルズのことを睨み付けている。
「ひどい、ひどいわ。わたくし、わたくしだって……」
それ以上は言葉にせずに俯いてしまうフィリミナを前にして、エギエディルズははたと気付いた。そういえば彼女は酔っていたのだと。しかも飲んだのはおそらく……否、確実に、一服盛られたワインだ。
エギエディルズが先程フィリミナの代わりに飲み干したあのワインの味を鑑みるに、あの青年はフィリミナを手っ取り早く酔い潰してよからぬことを成そうとしたのだろう。そう思い返すとはらわたが煮えくり返りそうになるが、今の問題はそれではない。
強いアルコールのせいで、今のフィリミナは、普段の自制心が取り払われてしまっているらしい。子供返りとでもいうのだろうか。普段からもっと自分をさらけ出してほしいと思ってはいたが、こうしていざとなるとどうしたらいいのか解らなくなってしまう自分が情けなかった。
繰り返すが、どうしたらいいのか解らない。これはあれか、謝ればいいのか。
「す、まない」
かろうじて絞り出した台詞に対し、無言でフィリミナは俯かせていた顔を再び持ち上げた。
幸いなことに、彼女はまだ泣いてはいなかった。そのことにほっと心から安堵するエギエディルズに向かって、フィリミナ自身の手を差し出す。
そのまま動かなくなるフィリミナに、エギエディルズが目を瞬かせると、フィリミナはふてくされた声で続けた。
「手を繋いでくださったら、許してさしあげます」
その瞬間の、エギエディルズの表情は、おそらくは誰にも――正確には、フィリミナ以外の誰にも、見せられないものだった。大きく息を呑み、目を見開き、彫像のように硬直して、そして差し出された手を凝視するエギエディルズを、じっとフィリミナは睨み付けている。
早くしろ、とその視線をわざわざ言葉にするよりもよほど雄弁に物語っていた。
それから、どれほどの時間が経ったか。実際には大した時間ではなかったのだが当人達とっては永遠のようにも思える時間の果てに。エギエディルズがごくりと息を呑んでから、自身の手を持ち上げる。
「これで、いいのか」
恐る恐る、差し出された手を握った。
エギエディルズの手よりも小さくて、細くて、頼りなくて、それでいて何よりもあたたかな手が、そっとエギエディルズの手を握り返してくる。
「――――ふふ」
幼い子供のようににっこりとフィリミナは笑った。それまで今にも泣きだしそうに歪んでいた表情が、甘やかな微笑みに彩られる。葡萄色の夕日に照らし出されたその笑顔に、エギエディルズははからずも見惚れた。
けれどそんなエギエディルズの反応になど、完全に酔っ払っているフィリミナはさっぱり気付かない。誰の目にもそうと解るほどのご機嫌ぶりで、フィリミナはエギエディルズの手を引いて歩き出す。
エギエディルズは、フィリミナに握られた自身の手が、火傷しそうなほどに熱く感じられてならなかった。二歩ほど前を歩くフィリミナは、きっと嬉しそうに、楽しそうに笑っているのだろう。
この繋いだ手を引っ張って、引き寄せて、腕の中に閉じ込めて、そうしてその唇を貪ることができたなら。
そう思えてならないこの衝動は、黄昏時とも呼ばれるこの時間帯に見られる葡萄色の空がもたらす魔力なのだろうか。そういえば、葡萄の花言葉は『酔いと狂気』だ。はたしてこの衝動はどちらだろう。そこまで考えて、エギエディルズは途方に暮れた。きっと両方であるに違いないと。
ならばもういっそのこと、すべて酒のせいなのだと、この時間の魔力のせいなのだと言い訳して、この手を引っ張ってしまおうか。そう思ってしまう自分の下劣さは、先程の青年といい勝負だ。
酒や魔力に任せて既成事実を作ろうだなんて、王宮筆頭魔法使いの名が聞いて呆れる。けれどそうしてしまいたくなるほど、フィリミナの存在はエギエディルズにとってはもう手放せなくて。一分一秒でも早く、確固とした証が欲しくて。
そうして、そんなエギエディルズの内心の葛藤など知る由もないフィリミナは、ご機嫌な様子で、ふいに小さく歌を口ずさみ始めた。
それはエギエディルズも知っている旋律だった。まだ魔法学院に入学する前のこと、アディナ家に遊びに行くたびに設けられていた昼寝の時間に、フィリミナがフェルナンに歌って聞かせていた歌だった。
「Twinkle, twinkle, little star,How I wonder what you are……」
公用語とも魔法言語とも異なるその不思議な響きの意味を、エギエディルズは知らない。フィリミナに問いかける前に、エギエディルズはいつだって眠りに落ちてしまっていたし、やっと改めて問いかけようとした時には、フィリミナは歌うのをやめてしまっていた。
久々に耳にする不思議な響きは、荒れていたエギエディルズの心をそっと凪へと導いていく。
きっとフィリミナは、明日になればこの時間のことを忘れてしまっているに違いない。実はそれなりに酒に強い彼女であるが、自身の限界容量を超えると途端に弱くなり、記憶すら朧気になってしまうことを、エギエディルズは知っている。
だからこの時間は、エギエディルズだけのものなのだ。多くに望まれ、望まれれば望まれただけ自分を分け与えてしまうのがフィリミナだ。そんな彼女の時間を、独り占めしているこの時間を、不謹慎にも嬉しいと思ってしまう自分がいることを、エギエディルズは理解している。理解しているからこそ、余計に希わずにはいられない。
ああ、早くこの時間が、当たり前のものになればいいのに。
そう内心で呟いたエギエディルズは、フィリミナに包まれた手の優しいぬくもりに引っ張られながら、葡萄色の世界の中でひとり途方に暮れた。
途方に暮れずにいられる訳がない。
何故ならば、この時間はまだエギエディルズにとって当たり前のものではなく、フィリミナは明日になればこの時間を忘れてしまうに違いないのだから。
日が暮れる。一番星が輝き始める。フィリミナの囁くような歌声ばかりが、エギエディルズの複雑な心を包み込むのだった。
2019年11月2日に、書籍版『魔法使いの婚約者9 かわいいあなたと紡ぐ祝歌』が発売予定です。
よろしくお願いいたします。




