【SS】君に贈りたいものがある
『魔法使いの妻』編後、とある冬の日。フィリミナにとってはバレンタインにあたる日のお話。
「はい、エディ。こちらはお父様に、こちらはフェルナンに、それからこちらはランセントのお義父様に。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
一つ一つ説明されてから、大切そうにそれらを紙袋にしまい、そのままフィリミナはその紙袋をエギエディルズに差し出してきた。反射的にそれを受け取ったエギエディルズは、思わず無言になりながら自身の腕の中の紙袋を見下ろす。
甘い香りが鼻孔をくすぐった。それぞれ異なるラッピングが施された『それ』――すなわち先程フィリミナが説明したチョコレート菓子は、まるできらきらと輝いているかのように、誇らしげに紙袋の中に収まっている。
「お父様には黒胡椒を利かせた生チョコにしましたの。夜のお酒のお供にもちょうどいいでしょう? フェルナンにはトリュフを。あの子は意外と甘いものを好みますから、ミルクチョコレートで作ったんですよ。それから、逆に甘いものがお得意でないランセントのお義父様には、甘さ控えめのココアクッキーを用意しました」
一晩台所を占拠し、ひたすら様々なチョコレート菓子を作り続けていたフィリミナの顔には、それなりの疲れがにじんでいたが、それ以上に楽しげで嬉しげな笑みの方が色濃くにじみ出ていた。一仕事終えて満足している妻に水を差すような真似はしたくないというのは、エギエディルズの確かな本音ではある。だが、だがしかしだ。気付けば紙袋の中身とフィリミナの顔を交互に見つめているエギエディルズのいつにない表情に気付いたらしいフィリミナは、「あら」と小さく呟き、ぽんと両手を打ち鳴らした。
「いけない、忘れていましたわ」
――その言葉を、待っていた。
人知れず内心でほっと安堵の息を漏らすエギエディルズを知ってか知らずか、「ちょっとお待ちくださいまし」と一言言い残してぱたぱたと足早に台所に消えたフィリミナが、再びエギエディルズの元に戻ってくる頃には、その手には三つの新たなるラッピングされたチョコレートがあった。
「はい、エディ。これもお願いします。こちらはウィドニコル様あてのブラウニー、こちらはアルヘルム様あてのラム酒入りチョコレートマフィン、そしてこちらがアーチェさんへのチョコレートチャンククッキーです」
「…………」
にっこりと誇らしげに笑うフィリミナは、そうしてエギエディルズが持っている紙袋の中に、自分の手にあったチョコレート菓子を更にそっと入れた。「別のところに置いておいたせいで忘れるところでした」と安堵したように呟くフィリミナを見下ろしながら、エギエディルズは思う。
――違う。そうじゃない。
と。だがそれを口に出すことはできなかった。エギエディルズにだってプライドがあった。たとえそんなプライドなど、フィリミナの前では乾き切ったインクよりも使い道のないものであったとしても、それでもエギエディルズには意地があったのだ。
「……これだけか?」
だからこそ、本題を問いかける代わりに短くそう問いかけた。エギエディルズの平穏からは程遠い焦燥に荒れ狂う内心になど、フィリミナはちっとも気付いていないらしい。ときにエギエディルズ以上にエギエディルズのことに鋭い彼女は、徹夜明けの重たい瞼を擦り、あくびを懸命に堪えながらこくりと頷く。……頷いた、のである。
「はい。お母様とシュゼットには、後でわたくしが直接フォンダンショコラを持っていくつもりですし、姫様には次回のお茶会でザッハトルテを焼いてお持ちするつもりですから」
ですから大丈夫です、とあくびのせいで眦に浮かんだ涙を指で拭ってフィリミナは微笑む。その笑顔に、エギエディルズはどんな台詞をかけられたと言うのだろう。
「…………行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいまし。今日のお帰りは……」
「遅くなる」
そんなつもりなどなかったというのに、無意識にエギエディルズが発する声音は低くなり、その台詞は短く険を帯びたものになってしまった。寝ぼけまなこをぱちくりと大きく瞬かせるフィリミナの顔が直視できなくて、エギエディルズはくるりと踵を返して玄関から出る。パタン!と思いの外大きく、そして勢いよく――というか、乱暴に閉められた玄関の扉を後にして、エギエディルズはいつものように登城用の馬車に乗り込んだ。腕の中にある紙袋が、なんだかやたらと、本来の重み以上に重いもののように感じられてならなかった。
* * *
そもそも、どうしてフィリミナが一晩もかけて様々なチョコレート菓子を一人で作り上げたのか。その本来の理由を、エギエディルズは知らない。
ただ昔から……それこそ、エギエディルズが魔法学院に入学する前から、この寒い冬の時季になると彼女は自らチョコレート菓子を作っては、自身と親しい面々に配っていた。エギエディルズの養父や、フィリミナの両親、そして乳母も、その理由を知らないらしい。ただ自分で台所に立つことができるようなった年頃には、フィリミナは母や乳母に頼んで一緒になってチョコレート菓子を作りたがるようになり、一人で作れるようになった時には、自ら率先してそれなりのチョコレート菓子をこの時季に作るようになっていたのだという。エギエディルズが直接、この時季のチョコレート菓子にはどういう意味があるのかと問いかけたところ、フィリミナは人差し指を唇に寄せて「秘密です」と笑った。それで納得できるはずもないエギエディルズが自身の整った眉をひそめると、フィリミナは「……敢えて言うなら、某お菓子屋さんの陰謀でしょうか」と更に謎が深まる発言をした。そしてその謎は、未だに解けてはいない。ただ、フィリミナはずっと、この時季になるたび、チョコレート菓子を作り続けている。
エギエディルズが初めてフィリミナからチョコレート菓子を貰ったのは、七歳の冬のとある日のことだった。弟であるフェルナンの恨めしげな視線をものともせずに、彼女は、いつものようにアディナ邸を訪れたエギエディルズに、手作りのカップケーキを振舞ってくれた。
ココア色の生地を、花の形に絞られたかわいらしいピンク色のクリームが飾る、七歳児が作るにしては手の込んだものだったことを、エギエディルズは今でも覚えている。エギエディルズにとっては少々それは甘すぎるものだったけれど、「どうですか?」とその笑顔に心配の色を乗せて問いかけてくるフィリミナに、エギエディルズは気付けば「おいしい」と答えていた。その時のフィリミナの、心底嬉しそうな笑顔もまた、エギエディルズはよく覚えている。
あの年以来、フィリミナは欠かさず、冬のとある時季になると、エギエディルズにチョコレート菓子を贈ってくれた。彼女が慕うエギエディルズの養父のついでだったのかもしれないが、それでも嬉しかった。それはエギエディルズが魔法学院に入学してからも続いた。ときに郵送で、ときに魔法学院を訪れる養父の手で、フィリミナからのチョコレート菓子は欠かさずこの時季にエギエディルズの元に届けられた。
エギエディルズが魔法学院を卒業し、ランセント邸に戻り、王宮筆頭魔法使いとして仕事に励み続けた長い婚約期間も、フィリミナは昔と変わらずこの時季にはチョコレート菓子を用意してくれた。
だから、だ。
長い婚約期間が終わり、ようやく結婚した今年。今年も当然、エギエディルズはフィリミナからチョコレート菓子を貰えるものだと思っていた。昨夜、「わたくし、今年は少々頑張ろうと思いますの」と何やら決意を込めた瞳でフィリミナに言われた時には何事かと思ったが、やがて台所から香ってきた甘い匂いに、「そういえばもうそんな時季か」とエギエディルズは思ったものだ。
結婚して、初めてのこの時季。何を貰えるのかと、期待していた。そう、エギエディルズは期待していたのだ。
だがしかし、その結果が、この腕の中の、自分宛てではないいくつものチョコレート菓子である。これはいったいどういうことだ。
別に、フィリミナが自分以外の面々にチョコレート菓子を贈るのが不満である訳ではない。若干……本当に若干、少しばかり面白くないと思わないこともないが、それでも毎年のことなのだからと理解も納得もできる。フィリミナが、「わがままを申し上げてすみません。わたくしが王城をうろつく訳にも参りませんから、申し訳ありませんがお時間のある時に、わたくしの代わりにお渡ししてきてくださいませんか?」と言ってきたことだって、新妻のかわいらしい『お願い』に過ぎない。『我儘』だなんて誰が思うものか。彼女が望むのならば、自分以外の面々、その中でも特に男にチョコレート菓子が贈られるのがなんだか面白くなくとも、それでもエギエディルズは妻の願いを叶えてみせる所存だった。
だがそれは、あくまでも、『エギエディルズの分のチョコレート菓子もちゃんと用意されている』という前提があるからこそだ。
現状として、エギエディルズの分はない。フィリミナのあの様子から察するに、わざと焦らしているとも思えない。繰り返そう。これはいったいどういうことだ。
何が悲しくて自分以外の者のために妻が用意したチョコレート菓子を、夫である自分が配り歩かねばならないのだろう。チョコレート菓子に込められた意味をエギエディルズは知らないが、それでもそれなり以上に親愛が込められて作られたものであるということくらいは解る。それなのに――――それなのに。
「……チッ!」
思わず盛大な舌打ちをエギエディルズがすると、運悪くちょうどエギエディルズとすれ違ったこの国立図書館の司書が、思い切りびっくぅ!と身体を揺らし、涙目になって足早にその場を立ち去っていった。それを後目に、エギエディルズは王宮付き魔法使いが集う黒蓮宮勤めの魔法使いの証である黒いローブのフードを深く被り直して、立ち並ぶ本棚の合間を大股で歩いていく。
現在の時間は、一般的にこの王宮においても昼休憩が取られる正午頃。
エギエディルズが今いるのは、王宮の一角に位置する国立図書館である。
今朝フィリミナから渡された、エギエディルズの腕の中の紙袋の中身は、もう既に二つしか残されてはいない。この国立図書館にやってくる前に、配り歩いてきたからだ。
もうこの際「忙しくて配る時間がなかった」とでも言ってすべて現在の我が家であるランセント家別邸に持ち返ってしまおうかと、少しも思わなかったと言ったら嘘になる。だが、それをしたら、他ならぬフィリミナが「でしたら仕方ありませんね」と残念がることが解っていた。もしかしたら、「ではエディ、これらはわたくし達で食べてしまいましょうか」と言われるかもしれない。冗談ではなかった。何が悲しくて自分以外の者のために作られたチョコレート菓子を食べねばならないのだ。自分のためには作られていないのに。フィリミナの作る食事や菓子はエギエディルズの好むものの一つではあるが、だからと言ってこの場合喜んで食べられるはずがない。
結局エギエディルズにできるのは、大人しくこの仕事の休憩時間とされる時間帯に、フィリミナの願い通りにチョコレート菓子を配り歩くことだけなのである。
虚しい、と、らしくもなくひっそりと心の片隅で思ってしまったことはともかく、エギエディルズは国立図書館の奥へと進む。
最初に渡したのは、エギエディルズの研究室にいるウィドニコルだった。突然の師からのプレゼントに空色の瞳を見開き硬直していたあの弟子は、ブラウニーがフィリミナからのものだと知ると、ぱっと顔を輝かせて「家族と食べます!」と嬉しそうにしていた。
次は薬草園にいる庭師、アーチェだ。彼女の反応もウィドニコルと似たようなものだったが、金とピンクのアラザンがきらめき、ホワイトチョコレートでレースのように花の模様が描かれたチョコレートチャンククッキーを前にして「かわいい!」と歓声を上げていた。
そんな二人を研究室に残して、エギエディルズは次に養父であるエルネストの研究室へと向かった。休憩時間であるとはいえ珍しく仕事中にやってきた息子の姿にエルネストは驚いていたようだったが、エギエディルズからココアクッキーを渡されると、「なるほど。もうこんな時季か」と納得したように頷いていた。ココアクッキーを共にして紅茶でも飲んでいかないかと言う養父の提案を、エギエディルズは首を振って丁重に断らせていただいた。まだ配らなくてはならない相手が残っているからと続けるエギエディルズの声音が、いつになく低く……解りやすく言えば不機嫌であることに敏く気付いたらしいエルネストは、それ以上エギエディルズをその場に留めようとはしなかった。「フィリミナにありがとうと伝えておいてくれ」と言う養父の言葉に頷いて、エギエディルズはその場を後にした。
そしてお次は、王宮騎士団の居城である青菖蒲宮だ。執務室で椅子に縛り付けられ、副騎士団長をお目付け役にして、山となった書類に埋もれている騎士団長アルヘルムに向かって、マフィンの包みをぶん投げた。以上。
エギエディルズが持つ紙袋に残されたチョコレート菓子は残り二つ。昼の休憩時間は限られている。だからこそ最も時間のかかりそうな相手に渡すものを、こうして最後にエギエディルズは残したのである。
国立図書館の最奥にある、禁書や希書の類が多数収められている書庫の前までようやく辿り着いたエギエディルズは、その扉を警備している衛兵の前で、自ら被っていたフードを取り去った。エギエディルズの顔とその髪を確認した馴染みの衛兵は、恐れる素振りは見せずに、何も言わないまま書庫の扉をエギエディルズに譲った。それをいいことに、エギエディルズは無言のまま書庫へと足を踏み入れる。背後で静かに扉が再び閉ざされた。
書物を傷めないように極力光源が限られている書庫の中は薄暗く、静寂が横たわり、どこか冷ややかな空気で満たされていた。王宮勤めになって以来、何度も足を踏み入れたことがある書庫であるが、何度来てもこの空間はエギエディルズの知的好奇心を刺激する。時間が許すのであればじっくり書物を吟味したいところではあるが、今はそんな場合ではない。
書庫の厳粛な空気のおかげで多少なりとも心が凪いできたエギエディルズは、書庫の奥のデスクにそれぞれ陣取り、何冊もの魔導書と白紙の書物を見比べ、その手で古くから伝わる秘術により転写を行っている、フィリミナの実父と実弟――すなわち、当代魔導書司官ラウール・ヴィア・アディナと、その息子にして次代の魔導書司官フェルナン・ヴィア・アディナの姿をその朝焼け色の瞳に収めた。
エギエディルズにとっては義父と義弟にあたるラウールもフェルナンも、それぞれ転写作業に集中し切っている様子で、エギエディルズの存在に気付く様子はない。だが、いくばくもしない内に、フィリミナとよく似たフェルナンの顔が手元の紙片から持ち上げられ、フィリミナと同じ色の瞳がエギエディルズの姿を捕らえる。そしてその瞳に、フィリミナとは似ても似つかない敵意に満ちた光が宿った。
「……今日は何の用だ、王宮筆頭魔法使い殿?」
『義兄上』どころか『エギエディルズ』とすら呼ばない義弟の低い声音にも、エギエディルズは動じなかった。何せいつものことすぎる。毎回毎回、顔を合わせるたびに敵意をむき出しにしてくるこの義弟に、今更目くじらを立てようとは思わない。エギエディルズのことを『純黒の魔法使い』としてではなく、『愛する姉を奪った憎たらしい男』と認識しているに違いない義弟のことを、エギエディルズはそれなりに気に入っている。たまに面倒臭いと思うこともあるし鬱陶しいと思うこともあるが、それでもそれなりに気に入ってはいるのだ。
だが、エギエディルズに、エギエディルズにしては破格の認識をされてもまったくこれっぽっちも嬉しいとは思わないであろう義弟は、未だ転写作業に没頭しエギエディルズの存在に気付いていないラウールの邪魔をしないように椅子から静かに立ち上がり、そっとエギエディルズの元に歩み寄った。
「それで? 今日はどの本が必要なんだ?」
さっさと言え、そしてさっさと帰れ、と言外に告げてくる義弟に、エギエディルズは無言で持っていた紙袋を押し付けた。反射的にそれを受け取った義弟は、訝しな表情で紙袋の中身を覗き込み、そしてこれまた訝しげにエギエディルズの美貌を見遣る。
「なんだこれは」
「フィリミナからだ」
「姉上から!?」
「なんだと!? フィリミナから!?」
エギエディルズが口にしたその名詞に、非常に解りやすく義弟は顔を輝かせ、それまで集中していたはずの義父が勢いよく椅子から立ち上がった。最早目の前のエギエディルズのことなど見えていないかのように、フェルナンは足取りも軽く踵を返し、父の元まで駆け寄って、紙袋の中身をデスクの上に取り出した。かわいらしくラッピングされた二つの包みに付けられたタグに記された宛名が自分であることを確認し、フェルナンはそれをまるで得難い宝であるかのように両手で宙に掲げる。
「ああ、姉上! ありがとうございます!」
「そうか、もうこの時季か……。すまないな、エギエディルズ。大方、フィリミナがお前に私達に渡すように頼んだんだろう?」
「いえ、大したことでは」
そのまま踊り出しそうな息子を無視して、ラウールはエギエディルズに向かって謝罪した。本当に大したことではないため、あっさりと首を振るエギエディルズに笑いかけ、ラウールは嬉しげに目を細めて愛娘が用意したチョコレート菓子の包みを撫でた。その横ではとうとうフェルナンがくるくるとチョコレート菓子を掲げたまま回り出している。二人の解りやすすぎる様子に、エギエディルズは無意識に目を伏せ、それに気付かれないようにローブのフードを深く被り直した。
これでフィリミナの『お願い』は終了だ。さっさと研究室に戻り、先日発見された魔導書の解読を進めねば。急ぎではないと判断しているが、こんな気分で帰宅してうっかりフィリミナに八つ当たりしてしまったら後で死ぬほど悔いることになるだろう。自分の機嫌が制御できるようになるまで今夜は帰らない方がいいかもしれない。今朝はフィリミナに反射的に帰りは遅くなると伝えたが、今となってはその発言は正しかったと言えるだろう。
――そう。八つ当たり、なのだ。
チョコレート菓子を自分だけ貰えなかったからと言って、フィリミナを責めるなど、お門違いであるに違いない。
昨夜のフィリミナは、とても楽しそうだった。一つ一つ、相手に合わせてチョコレート菓子を作り分けるなど面倒極まりなかっただろうに、それでも弱音一つ吐かずに、それはそれは丁寧に作っていた。その優しい笑顔の下で誰のことを想っているのかと思うだけで胸が高鳴った。けれどその想う相手が自分ではなかったのだ。たったそれだけのことに、こんなにも落胆している自分が情けない。勝手に期待していただけなのに、まるで子供のようだ。もういっそのこと本当に頑是ない子供になってしまって、フィリミナにチョコをくれと喚き散らしてしまおうか、なんて、できもしないことを考える。
込み上げてきた溜息を噛み殺し、エギエディルズは踵を返す。フィリミナからのチョコレート菓子に喜ぶ義父と義弟の姿が、今は辛かった。しかし、そんなエギエディルズの背中に、「待て」と低い声がかけられる。無視したくなる衝動を堪えて肩越しに振り返れば、フィリミナと同じ色の瞳とばっちりと目が合った。
「なんだ」
短く問いかければ、フェルナンの瞳が惑うように宙を彷徨う。しかしそれはほんのわずかな間のみだった。義弟の瞳が再びエギエディルズの朝焼け色の瞳を見据える。
「その、お前は、今年は姉上から、何を貰ったんだ?」
「何故そんなことを訊く?」
「き、気になるだろう! 今年は、お前と姉上が結婚して、初めてのこの時季だからな。何か特別なものがお前にはあったんじゃないかと思って……」
だから、とフェルナンはそのまま言葉尻を濁した。どうやら聞きたいけれど聞きたくない、聞きたくないけれど聞きたい、という葛藤が彼の中で渦巻いているようだった。エギエディルズにとっては現在進行形で最も訊かれたくなかった質問であったことに気付く様子もなく、そのまま義弟は、エギエディルズの地雷を踏み抜いた。
「まさか貰っていないなんてないだろう。あの姉上に限って……って、おい、まさか本当に?」
「…………」
重苦しい沈黙を保ったまま目を逸らすエギエディルズのことを、フェルナンは信じられないとでも言いたげに見つめる。自分で言っておきながらなんだその目は、とエギエディルズは内心で吐き捨てた。
気付けば義父もまた、驚いたようにエギエディルズのことを見つめていた。二人の突き刺さるような視線が今ばかりはなんだか耐え難くてそのままエギエディルズは顔を背ける。
あからさまに反応の悪いエギエディルズを、フェルナンはじっと凝視し続ける。そんなまさか。嘘だろう。冗談だろう。この期に及んで自分を騙そうとしているのでは。それともこの場では言うにはばかられるものを貰ったのか。フェルナンの瞳は、そう語っていた。
だが、エギエディルズはやはり答えることはできない。フェルナンの考え通りであったらどれだけよかっただろうか、とエギエディルズは思う。
そんなエギエディルズに対し、フェルナンは、にっこりと、それはそれは輝かしい笑みを向けた。
「ハッ。ざまあ」
「…………………」
この義弟は、由緒正しい貴族の家柄に生まれつき、両親や姉や乳母に礼儀作法を厳しく教え込まれて育ってきたはずだというのに、時折こうしてとんでもなく礼を欠いた言動をする。
いつもであればそんな義弟を嗜めるはずの義母も乳母もフィリミナもこの場にはいない。だからこそフェルナンの口は止まらなかった。
「まあそうだな、これを機会に、お前も普段の姉上への態度を少しは改めるんだな。大体、いつも姉上から貰ってばかりのくせに、今年も貰えると思っている方が間違っているというものだ。どうせなら今年は自分から姉上に贈ってみせたらどうだ?」
「――――!」
エギエディルズは、思わず目を見開いた。フェルナンの言葉が脳裏で反芻される。『自分から』。その言葉がぐるぐるとエギエディルズの中で渦を成す。
纏う雰囲気の色を変えたエギエディルズの様子になどちっとも気付いていない様子のフェルナンは、笑顔で「お前にそんな芸当ができるとは到底思えないが」と続け、フフンと得意げに鼻を鳴らした。
「……フェルナン」
「なん……っ!?」
静かな声でエギエディルズに名を呼ばれ、首を傾げたフェルナンの鼻を、エギエディルズの白く長い指が思い切り抓り上げた。ふがっと間抜けな声を上げて慌てて涙目になってエギエディルズを睨み付ける義弟に、今度はエギエディルズが笑いかける。艶然とした、それはそれは美しい笑みだった。
「感謝してやる」
「――――は?」
鼻を押さえたまま、フェルナンはぽかんと大口を開けて固まった。エギエディルズの言うところの『感謝』が何に対してなのか、解りかねている様子だ。
だが、それはほんの数瞬の間に過ぎず、エギエディルズに対しては『助言』になってしまった自身の『失言』に気付いてしまったらしいフェルナンが、この薄暗い書庫の中でもそうと解るほど顔を蒼褪めさせた。
「ま、待て、エギエディルズ!」
フェルナンの、エギエディルズを呼び止める必死な声音が書庫に響き渡ったが、生憎のこと、最早エギエディルズの耳には、そんな義弟の声は届いてはいなかった。
* * *
エギエディルズの、ランセント家別邸への帰宅は、当初の予定ほど遅くはならなかったが、かと言って早いとも言いかねる、実に微妙な時間帯だった。王都中の様々な店舗が看板をしまい、空いているのはせいぜい宿屋か飲み屋くらいのもの、といったその時間に、エギエディルズは妻であるフィリミナが待つ我が家へと帰宅したのである。
てっきりもっと遅くなると思っていたらしい彼女は少々驚きを露わにしてエギエディルズを玄関で出迎えたが、そんな彼女の驚きは、もっと大きな驚きによって塗り替えられることとなる。
「……よくもまあ、こんなにも買い込まれたことですこと」
いったい何事か、とでも言いたげな声音に、エギエディルズは無言で目を伏せた。自分でもそう思っているからだ。エギエディルズの足元には、色とりどりの、目にも鮮やかなラッピングが施されたプレゼントが、山と積まれている。それらはすべて、エギエディルズが仕事を早々に終わらせて、王都中を駆けずり回って買い集めた、フィリミナへのプレゼントだった。
エギエディルズ一人では到底抱えきれない量のそのプレゼントは、エギエディルズが魔法で玄関先まで転移させて運んだのだ。すべてが自分のためのものであるとエギエディルズから聞かされたフィリミナは、喜びや嬉しさよりもむしろ、戸惑いばかりが滲む様子で首を傾げる。どういうつもりか、とフィリミナの瞳が言葉よりもよほど雄弁にエギエディルズに問いかけてくる。その視線に早々に敗北したエギエディルズは、その重い口をようやく開くこととなった。
「フェルナンに、言われた。お前から貰うばかりではなく、今年くらい自分から贈ったらどうかと」
「あの子ったらそんなことを? それでこんなにもわたくしに?」
フィリミナのその声音が、今度は戸惑いから呆れの色の方がよほど多分に含まれたものへと変わる。その視線もまた呆れ混じりのものになるのが解ってしまって、エギエディルズが居心地が悪くなり顔を背けた。
そんな自分の姿をしばし見つめていたフィリミナは、やがてその場にしゃがみ込み、とりあえず一番手前にあった包みのリボンを解く。自室に持ち込む訳でもなく、さっさと目の前でプレゼントを開封し始める妻の姿に、エギエディルズはらしくもなく緊張している自分を感じた。
足元にしゃがみ込んだフィリミナのつむじを見下ろしながら、じわりと手のひらに汗を掻くエギエディルズを後目に、彼女は一つ目のプレゼントをとうとう包みから取り出した。
「まあ、素敵」
フィリミナの純粋な感嘆の吐息と共に最初に現れたのは、精緻な編みのレースのリボンだった。淡い色のそれを店先で見つけた時、エギエディルズはこれがフィリミナの髪を飾ったらどれだけ美しいだろうと思った。
次にフィリミナが手を伸ばした紙袋から出てきたのは、彼女が読みたがっていた流行りの図書だ。本屋で堂々と発売されていたそれを見つけた時、これを読んで楽しむ彼女の表情の変化を間近で感じられたらどれだけ楽しいだろうと思った。
更に次に薄紙の包みから現れたのは、新しい技法で染められたのだという、様々な色が交じり合う刺繍糸の束だ。刺繍を趣味の一つとしているフィリミナは、これを手に入れたらまたきっと新たな作品を作り出すに違いない、そうしてもしかしたらまた自分のために何かを作ってくれるかもしれない。そう思ったら、エギエディルズはそのシリーズの刺繍糸を、気付けば全種類購入していた。
そのまた次にフィリミナが手に取ったのは、壊れないように幾重にも重ねられた布にくるまれていたそれは、繊細な細工が施された硝子でできたペンだ。勇者である青年を筆頭に、それなりの人数の友人と手紙のやり取りをしているフィリミナに、エギエディルズではない誰かに対して手紙を書いている時にも、自分のことを忘れないでいてほしくて選んだものだった。
今度は、他のプレゼントに隠れるようになっていた『それ』をフィリミナは持ち上げた。凍える寒さの中でも見事に咲き誇る冬薔薇の花束だ。そっと抱き締めるようにそれを持ち上げて、フィリミナは鼻先を花弁に寄せる。芳しい芳香に、フィリミナの顔が綻んだ。エギエディルズは、その表情が見たかった。
これらばかりではない。まだまだたくさんのプレゼントが、エギエディルズの足元には積み上げられている。それらをそっと撫で、しゃがんだまま花束から顔を上げたフィリミナが、そこはかとなく途方に暮れたような声音で、苦笑交じりに口を開く。
「こんなにもくださらなくても、わたくしはこの中の一つだけでも、十分すぎるほど嬉しいですよ?」
そう言って困ったように笑うフィリミナに、エギエディルズは内心で頷いた。そんなことは本人から言われずとも、エギエディルズだって重々過ぎるほどよく解っていた。
最初はフィリミナと同じようにチョコレート菓子を贈ろうかと思ったのだが、それではまるで自分にチョコレート菓子を用意してくれなかったフィリミナを責めているようになってしまうかもしれないと思えて、結局エギエディルズは他のものを贈ることを選んだ。その結果が、これだ。
「お前のためへの贈り物と言いながら、結局これらはすべて俺のためのようなものだ。お前への贈り物を選ぶのが楽しくて、お前を困らせることになるかもしれないと解っていながら、それでも店を回ることをやめられなかった」
これを渡したら、こんな顔をしてくれるかもしれない。あれを渡したら、あんな言葉をかけてくれるかもしれない。そう考えれば考えるほどに財布のひもは緩み、足は浮き立って、気付けば次から次へと目に付くものすべてを購入していた。一つ一つ、わざわざ丁寧にラッピングまでしてもらったことといい、我ながら随分と浮かれていたものだとエギエディルズは思う。そんなエギエディルズを見上げたまま、フィリミナは柔らかく微笑んだ。
「まったく、子供のようなことを仰るんだから」
「俺を子供にするのはお前だし、逆に大人にするのもお前だ」
「あらあら、それは責任重大ですね」
ころころと声を上げて笑ったフィリミナは、そうして薔薇の花束を他のプレゼントの上に置き、ゆっくりと立ち上がった。そっとドレスの裾を払い、そしてわざとらしく眉尻を吊り上げて、フィリミナはこれまたわざとらしく溜息をほうと吐いてみせた。
「本当に仕方のない人ですこと。こんなにわたくしを困らせる方なんて、あなた以外に誰もいませんわ」
「気に入らなかったか? それとも、もっと欲しいのか?」
「気に入らないなんて、それこそまさかです。でも」
「でも?」
促すようにエギエディルズがフィリミナの言葉尻を反芻すると、フィリミナの笑顔が、どこか悪戯げなものへと変わる。
「もっと欲しいです。この中には、わたくしが一番欲しいものがないんですもの」
と、言われても、エギエディルズはそれが何であるのか、ちっとも解らなかった。やはりチョコレート菓子を用意すべきだったのか。それとも、まだ開封していないプレゼントの中にそれはあるのか。どちらであるにしろ、フィリミナが自分から何かを欲しがるなんて大層珍しいことなのだ。こんな風に甘えたようにねだってくれることなんて滅多にない。ならばエギエディルズがすべきことはたった一つ。何をねだられようとも、たとえそれがどれだけ貴重で得難いものであろうとも、必ず手に入れてフィリミナに贈ってみせる、ただそれだけだ。
そう内心で一人決意するエギエディルズの頬に、ふいにフィリミナの手が伸ばされた。優しいぬくもりに自分からより頬を擦り寄せると、嬉しそうにフィリミナは笑みを深める。そして、その唇が動いた。
「わたくしは、エディ。あなたが欲しいです」
それは、囁くような声だった。けれどその声は、確かにエギエディルズの耳に、心に染み渡っていく。
「あなたの声が。あなたの言葉が。あなたの眼差しが。あなたの匂いが。あなたのぬくもりが。あなたのすべてが、わたくしは欲しいのです」
歌うように、噛み締めるように、一つ一つ丁寧に紡がれたその言葉に、エギエディルズは朝焼け色の瞳を瞬かせ、そして小さく笑った。
「随分と欲深だな」
「ええ、わたくしはとっても欲張りなんです」
「だが、その願いはとうに叶っているだろう。とうの昔に俺はお前のものだ。お前が俺のものであるのと同じように」
「ふふ、そうですね」
エギエディルズは自身の頬に寄せられたフィリミナの手を取り、その指先に唇を運んだ。そっと触れるだけの口付けにくすぐったそうにフィリミナはまた笑う。その笑い声の心地よさに眩暈を感じながら、エギエディルズは、今ならば、と顔を意識的に引き締めた。とは言っても、傍から見ればその表情は、甘くとろけきったものであったのだが、エギエディルズ本人からしてみればそんなことは些末だった。ごくりと緊張で絡む唾液を飲み込んで、意を決してエギエディルズは再び口を開く。
「俺からも、ねだってもいいか?」
そう問いかけた声音は、自分でも驚くほど弱気なものになっていた。そんなエギエディルズの声音が意外だったのか、フィリミナはぱちぱちと瞳を瞬かせ、ことりと小首を傾げてみせる。どうぞ、と声なく促されるままに、エギエディルズは続けた。
「俺へのチョコレートは、ないのか?」
その台詞に、さっとフィリミナの表情が変わった。それまでのあまやかな表情から一変した、なんとも気まずげな、苦々しいものに。
その妻の表情に、やはり自分には過ぎた願いであったかとひっそりと傷付くエギエディルズの表情の小さな変化に気付いたらしいフィリミナは、うろうろと視線を彷徨わせ、そして今度は彼女の方が意を決したように、きりっと表情を引き締めてエギエディルズと視線を合わせる。
「――――そのこと、ですが。夕食の前に、リビングに一緒に行きませんか?」
そっと手を繋がれて引っ張られ、エギエディルズは否を言うことなく頷いた。足元のプレゼントの山は、ぱちんと指を弾くことで自室まで転移させる。常であれば「こんなことで魔法を使わなくても……」と苦言を呈してくるフィリミナは、何故か黙ったままエギエディルズの手を引いて歩き出した。
そして行き着いた先は、フィリミナの台詞の通りにリビングルームである。その扉の前で足を止め、エギエディルズと繋いでいない方の手をドアノブにかけて固まるフィリミナに、エギエディルズは首を捻る。
「フィリミナ?」
「……いえ、ごめんなさい、エディ。大丈夫です。大丈夫ですから」
「……」
基本的にこの妻の大丈夫はあまりあてにならないことをエギエディルズは今までの経験からよく知っていたが、それを今口にするのは無粋だろうと判断した。沈黙は金である。
そうしてそれからどれほど二人で沈黙を保ったままリビングルームへと繋がる扉の前で固まっていたか。ようやく……本当にようやく、フィリミナが、扉を大きく開け放つ。そしてエギエディルズは、目の前に広がる光景に、息を呑まされる羽目になった。
「これは……」
最初に感じたのは、鼻孔をくすぐる甘い香りだ。それもとんでもない濃度の匂いである。決して不快なものではなく、むしろ食欲をそそるいい匂いではあるが、それにしても限度がある。その匂いの元凶は、見ての通りだ。
リビングルームの中心に置かれた大きなローテーブルの上の、チョコレート菓子である。それも、一つや二つではない。生チョコレート、トリュフ、ココアクッキー、ブラウニー、チョコレートマフィン、チョコレートチャンククッキー、フォンダンショコラ、ザッハトルテ。今朝、フィリミナが口にしたチョコレート菓子のすべてが、テーブルの上に誇らしげに並べられていた。どれもこれも、余りものには決して見えない、立派な出来栄えである。
どういうことかとフィリミナを見遣れば、彼女は頬を赤く染めて、そのまま俯き、ぼそぼそと説明し始めた。
「ええと、その……今年は、結婚してから初めてですから、特別なものをあなたに贈りたくて。実は、今日あなたに、皆様に配っていただいたチョコレートは、みんな、最初は全部あなたに贈ろうかと思って作ったものですの。でも、一つを作っている間に、次にはこんなものもどうかしらって思えてきてしまいまして。そうしたら、夜を徹して作り続けることになってしまいました。あなたのことばかりを仕方ないとは言えませんね。わたくしも、あなたのことを想いながらこれらのお菓子を作っている間、本当にとても楽しかったのですもの」
そうしてやっと顔を上げたフィリミナは、頬を赤く染めたまま、恥ずかしげにはにかんだ。
その表情に、エギエディルズは、どうしようもないほどに大きな衝動に突き動かされた。フィリミナの手を引っ張り、倒れ込むように胸の中に飛び込んできた彼女を、力いっぱい抱き締める。むぐっと苦しそうに声を漏らすフィリミナに、今の自分の顔は見せられないなとエギエディルズは笑う。こんなにもだらしなくとろけきった顔を、見せられる訳がない。
自分の妻は、こんなにもかわいらしくいとおしい存在であることを、世界に向かって自慢したい。けれどできない。フィリミナがこんなにもかわいらしくいとおしい存在であることを知っているのは、自分だけで十分なのだから。誰にだって教えられない。
ぎゅむぎゅむとそのまま抱き締め続けるエギエディルズに、とうとうフィリミナが「エディ!」と悲鳴を上げた。非難混じりのその声音にエギエディルズが腕の力を弱めると、その隙にエギエディルズの腕から抜け出したフィリミナは「もう!」と顔を真っ赤にしている。その唇を奪いたい衝動を今度こそ堪えて、エギエディルズは努めて冷静にフィリミナに問いかけた。
「それで? 俺にはどれをくれるんだ?」
「……これらすべてを、というのはもちろんなのですけれど。エディ、少しだけ待っていてくださいますか?」
「? あ、ああ」
フィリミナの突然の提案に、エギエディルズは頷いた。「ありがとうございます」とフィリミナは一言言い残し、そのままエギエディルズを置いてリビングルームから出て行ってしまう。なんだか肩透かしを食らったような気分になりながらエギエディルズがソファーに腰かけ、フィリミナが用意してくれたチョコレート菓子の誘惑と戦いながら待つこと数分。エギエディルズにとっては非常に長く感じられたその数分の後、ようやくフィリミナは戻ってきた。その手に、二つのマグカップを持って。
「フィリミナ?」
「はい、どうぞ。これが今年のわたくしからあなたへのチョコレートです」
笑顔で差し出されたマグカップは温かく、湯気を立ち上らせていた。同時に鼻孔をくすぐる、ローテーブルの上のどのチョコレート菓子とも異なる甘い香りにエギエディルズが首を傾げると、その隣に自分用のマグカップを持ったまま腰を下ろしたフィリミナは、ふふ、と得意げに笑った。
「ホットチョコレートです。ミルクで紅茶を煮出して、それでチョコレートを溶かしました。簡単なものですけれど、このホットチョコレートを贈れるのは、一緒に暮らしているからこそのものでしょう? 他のお菓子は、その場でなくても食べられるものですが、こちらはその場でできたてを楽しむものですから。これをあなたに贈ることができて、あなたの隣で、あなたと一緒に飲むことができるようになったことが、わたくしはとても嬉しいです」
「……そうか」
「はい」
「俺もだ」
「はい」
エギエディルズの、素っ気ない短い答えにも、倖せそうにフィリミナは微笑む。そんなフィリミナの笑顔に促され、エギエディルズはマグカップを口に運んだ。甘すぎないチョコレートの味と紅茶の風味が相まって、それはとてもおいしかった。
互いに何かを言うでもなく、ただ同じものを口にして、同じ時間を共有する。それだけのことがこんなにも嬉しくて、こんなにも倖せなのだ。それでよかったのだ。これこそが正解だったのだ。これでは、あれだけ買い集めてきたプレゼントのどれもが霞んでしまう。だったらエギエディルズはここはやはり、フィリミナが一番欲しいと言ってくれたものを、彼女に捧げねばならないだろう。
「フィリミナ」
「はい?」
空になったマグカップをローテーブルに置き、フィリミナもまたホットチョコレートを飲み終える頃合いを見計らって、エギエディルズはフィリミナに声をかけた。マグカップから顔を上げたフィリミナの顔を覗き込み、エギエディルズにはにやりと笑う。凄絶なまでに美しく、妖艶な色気を伴ったその笑顔に、本能的に何かを察知してか、フィリミナの笑顔が引き攣った。だが、もう遅い。
「チョコレートは精力剤としての効能があることを、お前は知っているか?」
「え」
「お前が欲しがってくれたもの、存分にくれてやる」
「え、ええと、その、も、もうおなかいっぱ……っ!?」
同じくらい自分を贈るから、自分だってフィリミナが欲しい。朝から散々気を揉まされたのだから、自分だってもっと貰ってもいいはずだ。そう判断したエギエディルズは、ソファーから腰を浮かせようとしたフィリミナの両手を捕らえて押し倒し、そのまま唇を奪う。そのおかげで、或いはそのせいで、当然のこととして、フィリミナの反論はすべてエギエディルズの口へと消えた。
今年は本当に特別な年だ。そうエギエディルズは、自分の下で顔を真っ赤にしてなんとか逃げ出そうとしている妻を見て思う。
来年も、その次も、それからずっと先も、エギエディルズはフィリミナに、最高の特別を贈り続ける所存である。




