【SS】その花が美しい理由
フィリミナ編終了後、結婚式に至るまでの『恋人期間』の一幕です。
薄紅色、赤色、茜色、薄卵色、枯色、杏子色、珊瑚色、茶色、葡萄色、橙色、黄色、梔子色、亜麻色、若草色、萌黄色、緑色、翡翠色、空色、青色、群青色、藍色、紺色、紫苑色、藤色、菫色、紫色、牡丹色、灰色、焦茶色。
エギエディルズがざっと見ただけでも、これだけの色が目の前には溢れている。もちろん、これらばかりではない。もっと曖昧で繊細な違いを持つ、エギエディルズの語彙をもってしても果たしてどういう名前が付くのか解りかねる、ありとあらゆる美しい色に染められた布が、まるで滝のようになって壁のあちこちにかけられている。
数多溢れる色の洪水を、深く被ったフードの下から眺めながら、エギエディルズはくすくすと笑みを含んで交わされる楽しげな会話に耳を傾けていた。
「なんて素敵な生地ですこと。こちらはカレルドーラ地方のものかしら」
「あら、さすがフィリミナ様。その通りでございますわ。あすこは養蚕業が盛んでして、こちらは特に出来がよかった年のものですの」
「カレルドーラからは、王室にたくさんの絹が献上されていますものね。わたくしには少々もったいなさすぎる生地のように思えてしまいますが……」
「まあ、何を仰るのですか。どんな生地であろうとも、それが似合われる方がお召になるのが一番というものです。特に、今回フィリミナ様が当店にいらした理由を踏まえれば、いかなる生地であろうとも、候補に選ばれるだけの理由を持ち合わせておりますわ」
そう言って、ころころとこの店――王都における老舗の一つである仕立て屋の主人である老婦人は笑った。
「それにしても、久しく当店にいらっしゃらなかったフィリミナ様が、婚約者様をお連れになって、結婚式のドレスを仕立てにいらしてくださるなんて。本当に喜ばしいことですわ。改めてお祝い申し上げます」
「ありがとうございます、マダム・ベッラ」
どこかからかいの交じった老婦人の声音に対し、照れたようにフィリミナも小さく微笑む。その面映ゆげに緩んだ頬が、美しい薄紅色に淡く染まっているのを横目に見て、エギエディルズは深く被ったフードの下でそっと目を伏せた。
魔王討伐の旅路から帰還した日は、そう昔である訳ではない。それなのに、あの日のことが今となっては何故では遥か遠い昔の話であるかのように思えるのだから不思議なものだ。
王都に帰還するなり、本来であれば勇者達と共に参加しなくてはならなかったはずの凱旋パレードも放り出して、エギエディルズはアディナ家邸宅、そのフィリミナの私室へと転移した。あの日から、ようやくエギエディルズとフィリミナは、本当の意味での『婚約者』となった。ただの名ばかりの婚約者などではない、確かに心を通じ合わせた、互いにいずれ結婚することを望んだ、本当の婚約者に。
それまでちっとも話が進まなかったことが嘘のように、とんとん拍子にこの婚約話は進んだ。というか、いくら魔王が討伐されたとはいえ、未だ各地に残る混乱を片付けるために上層部がてんやわんやしているのをいいことに、エギエディルズを筆頭にしたランセント家と、ようやく訪れた娘の幸福を後押しするアディナ家が一丸となってどさくさに紛れて結婚式の日取りまで決めるに至った、というのが本当のところである。
今日は、その来たる結婚式のためのフィリミナのドレスの注文するために、フィリミナの生家であるアディナ家と古くから関わりのある仕立て屋にまで、エギエディルズとフィリミナはやってきたのである。
幼い頃からフィリミナのことをよく知るこの仕立て屋の主人たる老婦人――マダム・ベッラと呼ばれる彼女の店は、こぢんまりとしたものだが、マダムの腕は確かなものだと貴族界隈でも評判だ。
貴族の結婚式における花嫁のドレスともあれば、わざわざ本人達が出向かなくとも、仕立て屋の方から様々な生地を集めて屋敷に赴くのが通例というものである。エギエディルズの立場を考えればよりそうなるのが当然であるはずだったのだが、アディナ家当主の妻、すなわちフィリミナの母であるフィオーラ・ヴィア・アディナが、それに異を唱えたのが、現状に至るにあたっての発端であった。
――せっかくだから直接お店に行っていらっしゃい。
――その方がたくさんの生地を直接見られるし、ついでにデートにもなるでしょう?
と。手塩にかけて育てた娘が着る、一生に一度のドレスを共に選びたいという気持ちが、フィオーラになかったはずはない。けれど彼女は、そんな自分のささやかな望みよりも、エギエディルズとフィリミナが過ごす二人きりの時間を優先してくれた。
アディナ家におけるヒエラルキーのトップに実は君臨する彼女のその言葉により、いざエギエディルズとフィリミナが結婚のための準備を進めようとすると何かと邪魔したがるフィリミナの弟や父は、沈黙を選ぶしかなかったようだった。おそらくはこれもフィオーラの狙いだったのだろう。
いずれ義母になる彼女には、改めて感謝してもしきれないとエギエディルズは思っている。
土産でも買ってフィリミナに持って帰ってもらわねば、と考えながらフィリミナと老婦人のやり取りを口を挟むでもなく見つめているエギエディルズの本日の衣装は、普段着ている黒蓮宮付きの魔法使いの証である黒いローブではない。普段使い用のシンプルな外套を身に纏ったまま、フィリミナの隣に腰かけて、老婦人が用意してくれた紅茶を口に運ぶ。エギエディルズの肥えた舌を十分に満足させることのできる、どこか懐かしい味がする茶葉だった。
大きなフードを目深に被り、店の中に入っても、外套を脱ぐどころかフードを取ろうともしないエギエディルズに対し、老婦人は取り立てて何かを言おうとはしなかった。エギエディルズがフードの下に隠した漆黒の髪を暴こうともせず、静かに微笑んで、ただ一言、「おめでとうございます」と微笑んでくれた。
その言葉がもたらしてくれたひたひたと胸を浸していく幸福感は、あたたかく、甘く、何よりも心地よいものだった。その柔らかな感覚に浸ったまま沈黙を貫き続けるエギエディルズをどう思ったのか、老婦人はそんなエギエディルズを微笑ましげに見つめ、やがてその笑みをにっこりと深めてしみじみと続ける。
「それにしても、あんなにも小さくいらしたお嬢様が、ご結婚だなんて。ふふ、私も年を取るはずですね」
「マダムはいつだってお美しく魅力的ですよ。わたくしもマダムのように歳を重ねていきたいものですわ」
「あら、フィリミナ様ったら、相変わらずお上手でいらっしゃいますこと」
上品に微笑みながら、老婦人は新たな生地を目の前の大きなテーブルの上に広げた。
そのテーブルの上には、既に様々な『白』の生地が並べられている。雪のような白、胡粉のような白、象牙のような白、磁器のような白、ミルクのような白。『白』と一口に言ってしまえばそうとしか表現できないというのに、目の前に並べられた白の生地は、確かにそれぞれがそれぞれの趣と色合いを持った、ひとつひとつが特別な『白』の生地だった。
「花嫁の婚礼衣装に用いられる生地は、このあたりが主流ですね。色ばかりではなく、手触りや質感も重要視されます。フィリミナ様、どうぞお気軽にお手に取ってみてくださいませ」
老婦人に促されるままに、フィリミナはそっと手を伸ばして、白の生地一枚一枚を確かめるように撫でていく。だが、どうやらどれも決定打には至らないようだ。はっきりと本人が口に出した訳でも表情に出した訳でもないが、エギエディルズには不思議と彼女が大層困り果てているに違いないであろうことが手に取るように解った。
「あの、エディ。あなたはどれがいいと思いますか?」
やがて助けを求めるようにフィリミナが上げた声に、あらあらと老婦人が笑みを深める。どうやらフィリミナのこの反応は、老婦人の元に訪れる若き恋人達の間ではよくあるものであるらしい。仲睦まじいことで、と、老婦人の瞳が優しく語り掛けてくる。
まるで自分のことのように嬉しげに微笑む彼女の視線に若干の居心地の悪さを感じながら、エギエディルズは手に持っていたティーカップをサイドテーブルに置き、目の前の広いテーブルに向けて身を乗り出した。
前述の通り、そこには数多くの『白』の流れが並べられている。どの白も美しく、見事なものばかりだ。エギエディルズに言わせれば、この中のどんな白であろうとも、フィリミナが着るのであればどれも同じなのだが。いかなる白であろうとも、それを身に纏うのがフィリミナであるというだけで、その白が最高に美しい白であるとエギエディルズには断言できるのだから。
しかし、今そこでそう言っても、フィリミナを余計に困らせることになるだけだ。それが解っていたからこそ、エギエディルズは一枚一枚確かめるように、白の生地に触れ、目を通し――そして、ふいにその手を、とある生地に触れさせたところで止めた。
「――――これはどうだ」
「まあ……!」
エギエディルズの短い言葉に、フィリミナがぱちりと大きく瞳を瞬かせた。
エギエディルズが示したのは、花のような白だった。かつてエギエディルズがフィリミナに贈った雛菊の花弁のような白だ。
他の生地の下になってしまい、ちょうどフィリミナの目から隠されるようになっていたその生地が、不思議とエギエディルズの目を惹いた。そしてそれはどうやら、フィリミナにとっても同様であったらしい。
それまで生地の間を彷徨っていた彼女の視線が、エギエディルズが選んだ生地に固定され、そのまま動かなくなる。明らかに見惚れていると解るフィリミナの様子に、「あらあら」と呟きながら、老婦人はその生地をエギエディルズ達の前に大きく広げた。
「これはこれは、お目が高いですね。実はこちらの生地は、一点ものなのですよ。以前から当店と懇意にしてきた職人が、寄る年波には勝てないということで引退を宣言しまして。その最後の作品になります」
老婦人は、その生地をそっと持ち上げて、まるで我が子を愛おしむかのように眦を細くして生地の表面を撫でた。そのまま彼女は、持ち上げた生地を窓の方へと向けて広げてみせる。一見して地味にも見えたその白い生地が、その時、優しい光沢を放った。
「ほら、こうして日にかざしますと、この光沢の中に花の紋様がうっすらと見えるでしょう? これはかの職人にしかできない技法なんですの。またひとつ、得難い技術が失われるのは寂しいことですけれど、だからこそこちらは、此度のドレスにふさわしいかもしれませんね。何よりも輝かしい晴れの日に花を添えることができるのであれば、あの偏屈な職人もきっとさぞかし喜ぶことでしょうから。さすがはフィリミナ様の未来の旦那様ですこと。さぁフィリミナ様、早速お身体にあててみましょう」
今はここにはいない誰かに思いを馳せているのか、楽しげに笑った老婦人はそのまま椅子から立ち上がり、テーブルを挟んだ椅子に座っているフィリミナの前にその生地を運ぶ。そして視線だけで、フィリミナに立つように促した。
だがしかし、フィリミナはその視線を再び宙に彷徨わせ、落ち着かなさげにその両手の指を何度も絡ませては解くのを繰り返し始める。
「え、ええと、その、確かにとても素敵な生地だとは思います。ですが、その、お、お高いのでは……」
「金のことなら気にするな」
フィリミナがいかにも恐る恐る切り出したその台詞を、エギエディルズは皆まで言わせず問答無用で一刀両断にした。「そんな、エディ」と困り果てた声音で窘められても、エギエディルズは自身の台詞を撤回する気はない。
王宮筆頭魔法使いであるエギエディルズに王宮から支払われる給金は相当なものだ。加えて、此度の魔王討伐戦における報奨金もいずれ支払われることになっている。いくらフィリミナがその金額の詳細を知らないとはいえ、エギエディルズの財力がいかほどのものであるかを想像することくらいはできるだろう。どんな値段を提示されても、エギエディルズは即金で支払う気満々である。
元々貴重な書物や研究資料に対してしか散財しないのだから、こういう時に金を使わずしていつ使うと言うのであろう。自分のために他でもないフィリミナが着飾ってくれるのだと思えば、エギエディルズは金に糸目を付けるつもりなど毛頭なかった。
そんなエギエディルズの内心に、どうやらフィリミナ以上に敏く気付いているらしい老婦人は、「ほら、婚約者様もこう仰っているのですから」と、フィリミナを更に促す。
強制されている訳でもないというのに、フィリミナは穏やかな老婦人の台詞から逆らい難い何かを感じたらしい。そろそろと立ち上がるフィリミナに、老婦人はその唇に刻んだ上品な笑みを、より一層深いものにした。そしてそのまま、手に持っている生地をそっとフィリミナの肩にかけ、くるりと首に回す。
「まあ、素敵ですわ。この白は特殊な光沢のせいでなかなか似合う方がいらっしゃらなかったのですが、フィリミナ様にはお顔立ちによく映えていらっしゃいますね。とてもお似合いですよ」
「そ、そうでしょうか……」
「そうですとも。婚約者様もそう思われるでしょう?」
老婦人の優しい光を宿した瞳と、フィリミナの不安に揺れる瞳が、一度にエギエディルズへと向けられる。花を思わせる真白い生地に包まれたフィリミナは、老婦人の言う通り、
他ならぬフィリミナが、自分のために白を身に纏ってくれている。その事実が、こんなにも嬉しくてならない。
フードを被っていてよかったと、エギエディルズは心の底から思った。もしこのフードがなかったら、らしくもなく赤く染まったこの顔を、思い切りフィリミナと老婦人に晒すことになっていたに違いなかったからだ。
「……悪くは、ないんじゃないか」
そうして結局絞り出せたのは、かろうじて褒めている、となんとか認められなくもないが、お世辞でも素直であるとは言い難い台詞だった。
それでもフィリミナは、ほっと安心したように、そしてそれ以上に嬉しげに、頬を染めて微笑んだ。そんなフィリミナの反応に安堵するエギエディルズを後目に、老婦人はじっとフィリミナを見つめ、深く頷いた。
「婚約者様のお墨付きもいただいたことですし、やはりこの生地に致しましょう。でしたらデザインは……そうですね。あまり華美なものよりも、この生地を生かした作りにした方がよろしいかと。フィリミナ様はお肌がお白くていらっしゃるからいっそ肩を出して、スカートのラインはふんわりとゆとりを……ああそうね、胸元と腰に花を飾るだけで十分華やかになるわ」
後半は、エギエディルズ達に聞かせるためというよりは、自分の考えをより確固たるものにするために自身に言い聞かせるかのように呟きながら、老婦人はてきぱきとフィリミナを包む白い生地を、手首に付けた針山の待ち針で彼女の身体に合わせて簡易的なドレスを形作っていく。
迷いのないその動きは正に職人と呼ぶに相応しいもので、エギエディルズにもフィリミナにも、口を挟む隙を与えてはくれない。
だが、そんな淀みなき老婦人の動きが、ふいに止まった。腰のあたりを留めようとしていた待ち針を針山に戻し、その瞳に気遣わしげな光を宿してフィリミナを見上げる。その視線の意図が掴めず、エギエディルズは訝しげに眉を顰め、フィリミナもまた戸惑ったように小首を傾げた。
「マダム・ベッラ?」
どうしたのかと言外に告げるフィリミナから、老婦人は一歩離れ、フィリミナの立ち姿を上から下までじっくりと見つめた。そのまるで観察するかのような視線にフィリミナが居心地悪そうに身動ぎすると、はっとしたように老婦人は小さく息を呑み、「失礼致しました」と頭を下げた。
「いえ、構いませんが……どうかなさったのですか?」
「大したことではない、と言いたいところですが。フィリミナ様」
「は、はい」
老婦人の真剣な声音に、自然とフィリミナの背筋が伸びた。老婦人の意図が掴めず、エギエディルズもまたフードの下からフィリミナの姿を見つめる。
白の生地と待ち針で作られた簡易的なドレスを纏っているその姿は、いつか自分が贈った雛菊のように可憐だった。
そんな彼女に、一体老婦人は何を言おうとしているのか。まさかとは思うが、今更「この生地は似合いませんね」などと言われようものなら、エギエディルズは持てる権力のすべてを使ってこの店に、フィリミナにとって最高の生地を用意させる所存だった。
だが、そんなエギエディルズの内心になどちっとも気付いていない様子で、老婦人は困ったようにその眉尻を下げてみせた。
「その、殿方の前で言うのは少々はばかられますが、随分と……お痩せに、なられましたね」
老婦人のその台詞には、褒めている、というよりは、心配している、と表現した方が相応しい響きが孕まれていた。
一般的に言って、女性に「痩せている」とは誉め言葉になるはずだ。少なくともエギエディルズはそう認識していた。フィリミナが美容に気を遣っていることを、エギエディルズは実は知っている。ならばフィリミナは、老婦人のその台詞に喜ぶのではないかと思った。
だがしかし、予想に反して彼女は、「しまった」と言わんばかりの表情を浮かべていた。「痛いところを突かれました」という台詞をでかでかと顔に書いて沈黙するフィリミナに対し、老婦人は更に気遣わしげに続ける。
「元々細身でいらしたというのに。もしや、近頃いらっしゃらなかったのは、お身体の調子を崩されていたからですか?」
「え、ええと、その……」
「せっかく魔王が討伐され平和になったのですもの。だからこそフィリミナ様もご結婚に踏み切られたのでしょう? どうかお身体を大切になさってくださいませ」
「……はい。お心遣い、誠に痛み入りますわ」
「婚約者様も、どうかフィリミナ様のことを気にかけてさしあげてくださいね。もちろん結婚するまでではなく、結婚してからも」
「…………」
エギエディルズは、老婦人のその台詞に、とっさに答えることができなかった。自分の瞳が、フードの下で呆然と見開かれていくのを、まるで他人事のように感じた。その視線の先にいるのは、もちろんフィリミナだ。エギエディルズの脳裏で、老婦人の台詞が反響し、何度も繰り返される。
フィリミナが、痩せた、なんて。そんなこと、ちっとも――――……
「エディ? どうなさったのです?」
フィリミナが気遣わしげに声をかけてくるが、やはりエギエディルズの唇は動かない。
フィリミナが痩せた、なんて。そんなこと、エギエディルズは、ちっとも気付いていなかった。その事実は、驚くほど大きな衝撃をエギエディルズにもたらした。
呆然としたままフィリミナを見つめ続けるエギエディルズの表情は、フィリミナからはフードに隠され、はっきりとは見えなかっただろう。だが、エギエディルズの纏う空気が変化したことには敏く気付いたらしい。彼女は自ら自身を包んでいた白い生地を、一本一本待ち針を抜いてから脱ぎ、そっとテーブルの上に戻してから、老婦人に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません、マダム・ベッラ。本日はそろそろ失礼させていただきます。ドレスに関しましては、また次の機会にということで」
「然様ですか。ではこちらの生地は、フィリミナ様のために取り置きさせていただきますね」
「ありがとうございます。さ、エディ。行きましょう?」
「――――ああ」
そう答えるのが、エギエディルズにはやっとだった。それ以外になど、言葉が見つからなかった。反応の悪いエギエディルズの手を、フィリミナはためらうことなくそっと掴み、そのまま指を絡ませてくる。
いわゆる『恋人繋ぎ』と呼ばれる手のつなぎ方をフィリミナの方からしてくれたことに喜ぶ余裕は、今のエギエディルズにはなかった。ただ、自身の指に絡んでくるフィリミナの指の細さの方が、よほど気にかかった。
「あら、もうこんな時間でしたのね」
そのまま二人で店を出た後、空を見上げたフィリミナがぽつりと呟いた。つい先程まで青かったはずの空は、気付けば橙色に染まり、西日が町を照らしている。
「少し、遠回りをしてから帰りましょうか」
そう続けたフィリミナは、エギエディルズの手を離さないまま、町の雑踏へと足を踏み出した。行き交う人の群れは、魔王の軍勢に怯えていた頃とはまるで異なる賑わいを見せている。そんなそれなりに人通りの多い大通りを抜けて、やがてフィリミナは、エギエディルズを、大通りから外れた場所に位置する、小さな公園へと導いた。
そろそろ夕飯時であるせいか、遊ぶ子供も、井戸端会議にいそしむ大人も、微睡む猫も、公園にはいなかった。つい先程までのエギエディルズであれば、二人きりになれたことを素直に喜べたのだろうが、今の気分では到底そんな気になれるはずもなかった。
沈黙し続けるエギエディルズをどう思ったのか、ようやくエギエディルズの手を解放したフィリミナは、ことりとその小首を傾げてみせた。
「エディ、どうなさったのですか? もしやご気分でも悪くなられて……?」
「違う。そうじゃない。そもそも、身体の調子を心配されるべきは、俺ではなくてお前だろう」
「……やっぱり、先程のマダム・ベッラのお言葉を気にしていらしたのね」
エギエディルズの台詞に、フィリミナは困ったように微笑んだ。西日に照らされたその顔が、記憶にあるものよりも丸みが削げ落とされているように見えるのは、エギエディルズの気のせいだろうか。いいや、気のせいなどではない。どうして気付かなかったのだろう。彼女が、こんなにもやせ細ってしまっていたということに。
「フィリミナ」
「は、いっ?」
気付けばエギエディルズは、両腕を伸ばしてフィリミナの身体をかき抱いていた。慌てたようにフィリミナが身をよじり、なんとかエギエディルズの腕の中から抜け出そうと奮闘するが、その抵抗をすべて押し込めて、エギエディルズはフィリミナを抱き締める。
腕の中に閉じ込めたフィリミナの身体は、このまま力を込めたら折れてしまうのではないかと思わずにはいられないほどにほっそりとしたものだった。
フィリミナは、こんなにも細かったのか。もともと豊満とは言い難い体つきをしているとは思っていたが、自分がいない間にその身体は更にやせ細ってしまったようだった。
いいや、正確には、やせた、のではない。やつれた、のだ。
顔を赤くしてエギエディルズを見上げてくるフィリミナのその顔をじっと見下ろす。白粉によって綺麗に隠されたその肌には、以前ほどのきめ細かさがない。指摘したらきっとフィリミナは恥ずかしがりながら怒るだろうから言えなかったが、エギエディルズは確かにそのことに気付いた。気付いてしまった。
魔王討伐の旅路から帰還してから、エギエディルズは本来の業務である王宮筆頭魔法使いとしての仕事の合間を縫って、結婚式の準備を進めてきた。上層部から下手に口出しされないように、内密に、綿密に進めてきた計画だった。だが、それがなんだ。
忙しかったから、なんて言い訳だ。気付かなかった。気付こうともしなかった。ようやく結婚できると浮かれるばかりで、何も見ようとはしていなかったのだ。
フィリミナの弟であるフェルナンが、エギエディルズが結婚式の準備を進めようとするたびに、憎々しげにエギエディルズのことを睨み付けてきたことをふいに思い出す。
愛する姉がいよいよ奪われようとしているのだから、あの青年の態度も当然のものなのだろうとエギエディルズは思っていた。いくらあの弟が反対しようが邪魔しようが、エギエディルズはもうこれ以上結婚を待つつもりなどなかったから、放置していた。それが間違いだったのだということを、今更になって思い知る。
ずっと愛する姉のことを心配していたあの弟は、知っていたのだ。愛する姉が、エギエディルズのせいでどれだけ傷付き、涙を流したのかを。日々やつれていく姉の姿を、あの弟はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
それでもエギエディルズに何も言わなかったのは、ひとえに、その愛する姉であるフィリミナが、それを望まなかったからに違いない。「今更気付いたのか、この大馬鹿者」とフェルナンが吐き捨てるのが聞こえてくるようだった。その言葉に反論する術を、エギエディルズは持たない。
言ってくれればよかったのに、なんて甘えは許されない。すべて、エギエディルズの咎だ。それなのにフィリミナは、そんなエギエディルズを困ったような表情を浮かべて見上げるばかりで……そうして、やっと、そっとその唇を開いた。
「ね、エディ。聞いてくださいまし」
「……なんだ」
何を言われても仕方がない。そんな覚悟を持ってフィリミナの言葉を待てば、彼女はエギエディルズの腕の中に閉じ込められたまま、更に続けた。
「わたくし、あなたを待っている間、とっても辛かったです」
「ああ」
「あなたの訃報を聞かされてからは、あまり眠れなくなってしまいました。せっかくの食事もちっともおいしくなくて、すぐにお腹いっぱいになってしまって。結婚してもいないというのに、まるで未亡人のような扱いを受けることになったのですよ」
「ああ」
「そのせいで、健康的とは言い難いやせ方をした身体になってしまいましたし、お肌だってぼろぼろです」
「ああ」
フィリミナの声音は、とても穏やかで優しかった。その台詞の内容は、エギエディルズを責めるようなものであるというのに、その響きには、まったくと言っていいほど、そんな響きはない。むしろエギエディルズを慰めようとするかのような響きにすら聞こえてきた。だからこそフィリミナの台詞は、より一層深くエギエディルズの胸に突き刺さる。
反論することなくただ頷くばかりのエギエディルズを、フィリミナはやはり責めはしない。そして彼女は笑った。
「でもね、わたくしはそれでよかったんです」
それは、かねてから美容に気を遣ってきたフィリミナが口にするとは思えない台詞だった。その意図が解りかねて首を傾げてみせれば、ふふ、とフィリミナは照れ臭そうに笑った。
やせてしまった、エギエディルズがやつれさせてしまったその顔に浮かぶのは、昔から変わらない、エギエディルズが焦がれてやまない穏やかな笑みだ。
その笑みに言葉を奪われ戸惑うばかりのエギエディルズに向かって、フィリミナは続ける。
「だってわたくしが綺麗になりたいと思っていた理由は、エディ。あなただったのですもの」
「……!」
エギエディルズの朝焼け色の瞳が大きく見開かれる。その瞳を悪戯げに覗き込みながら言葉を続けるフィリミナは、何故だかとても楽しそうだった。
「あなたがいないのなら、わたくしにとっては絶世の美貌すら意味のないものです。逆を言えば、あなたがいるからこそ、わたくしは綺麗になりたいと思えるのです」
だから、とフィリミナはエギエディルズの腕の中から、エギエディルズの朝焼け色の瞳を真っ直ぐに見上げたまま、歌うように楽しげに続ける。そのフィリミナの声音には、確固たる決意が込められていた。
そのことに気付かないほど、エギエディルズは鈍くない。そう、鈍くはなかったはずなのに、フィリミナの異変に気付かなかった自分が許せない。そんなエギエディルズを、フィリミナは穏やかな笑顔と共に蹴り飛ばしてしまうのだ。
「シュゼットとお母様と一緒に、これからたくさんお肌にも身体にもいいものを食事に作ります。“やせぎす”ではなくて“華奢”と言っていただけるような体つきにまで戻してみせますわ。お肌だって、きちんとお手入れをして、今までよりももっとずっときめ細かくしてみせます……とは言っても、あなたには敵いそうもありませんけれど。でも、頑張りますよ」
フィリミナの手が伸びて、エギエディルズの鼻先を弾く。ぱちりと大きく目を瞬かせるエギエディルズに、フィリミナは微笑んだ。
「見ていてくださいね、エディ。結婚式には、最高に綺麗なわたくしをご覧に入れてみせますから」
可憐な雛菊がほころぶかのようなその笑みに、エギエディルズは眩暈を感じる。その衝動のままに、エギエディルズは強くフィリミナを抱き締めた。「エ、エディ!」とフィリミナの悲鳴が上がるが、彼女に何と言われても、彼女をこの腕から解放しようという気にはなれなかった。
ああ、なんてことだ。
今だって十分すぎるほど、こんなにもフィリミナは、眩いばかりに美しいのに。ならば来たる結婚式の日は、彼女はどれだけ美しくなるというのか。
その日がエギエディルズは少しだけ怖く感じられる。けれど、現金だとは解っていながらも、それ以上に、結婚式がやはりエギエディルズには、何よりも楽しみで仕方がない。
そう言ったら、フィリミナはまた、気恥ずかしげに、そしてそれ以上に嬉しげに、笑ってくれるに違いない。




