【SS】不正解なんてない悩み
時系列は『妻編』の後です。
最近、視線を感じる。それは決して気のせいではないはずだ、と考えている。
自分で言うのも何だが、お恥ずかしながら私はあまり鋭い方ではないと思う。そんな私が、確信を持って『視線を感じる』と断言しているのだから、その視線とやらがいかに確かなものであるのかは言うまでもないことであろう。
――ほら、まただ。
ちくちくと刺繍を縫っていれば感じる、その視線。なんとなく意識を向けられている、というよりも、強い意志を持って向けられるその視線は、ぐさぐさと情け容赦なく私に突き刺さる。
ここ数日もの間、私は大人しくその視線を受け入れていた。いくら視線を向けられようとも、その視線の主である当の本人は何も言おうとしないのだ。ならば私がわざわざ問い詰めることもない。いずれ本人がその気になったら話してくれるだろう。私は、そう思っていた。少なくとも、昨日までの私はそうだった。
だがしかし、そろそろいいのではないか、という気持ちが、今日になって湧いてきた。
いや、だってそうだろう。本日は久々の休日だ。となれば、我が夫であるエギエディルズ・フォン・ランセント――すなわち、私に何やら鋭い視線を向けてくる当の本人は、緊急の呼び出しがない限り、我が家たるランセント家別邸にてなかなか得られない休日を満喫しているはずである。つまり、常であれば、休日にも関わらず持ち返ってきた仕事に勤しんだり、現在取り組んでいる研究にまつわる魔導書を読んだりと、のんびり……とは言い難くも、まあそれなりに余裕を持って一日を過ごしているはずだった。
今日も今日とてそうなる予定だったはずだ。少なくとも最初はそうだった。
リビングのソファーに隣り合って座り、男が淹れてくれた薬草茶をお供に、私は刺繍を、男は読書を、それぞれ開始したのが数十分前のこと。それが、男が魔導書のページをちっとも捲ろうとしなくなったことに気付いたのは、いつだったか。そしてそれとほぼ時を同じくして感じ始めた、男の朝焼け色の瞳から放たれる、鋭い視線。
鋭いとは言っても、その視線に、怒気が含まれているようには感じない。ここ数日感じ続けていたものと同じく、何と言うか……そう、何やら考え込みつつ観察されているかのような視線である。どうやら深く思い悩んでいるらしいその様子を見ていると、そろそろ心配になってくる。本人が言い出さないのだから、と自分に言い聞かせてきたけれど、知らぬ存ぜぬを貫き通すのも、いい加減限界だ。
と、なれば、もうすべきことは決まっている。刺繍針を動かす手を止めて、男の方を見遣る。じっとこちらを見つめるばかりであった朝焼け色の瞳と、ばっちりと目が合った。にっこりと笑いかけると、男はそれとなく視線を逸らそうとするけれど、そうは問屋が卸さない。
「エディ」
「……なんだ」
笑顔のまま呼びかければ、男は珍しくも歯切れの悪い口調で答えてくれた。この様子から察するに、どうやら私が男の異変に気付いていたことには気付いていたらしい。ふむ、ここ最近の自身の奇行、とまでは言わなくても、どうにもおかしな様子は自覚済みであったようだ。その上で「なんだ」とは、いい度胸をしているものである。
男を悩ませている案件が、私に関わることであるのはまず間違いない。だったらさっさと私に話してくれればいいものを。まあそれがあっさりできるような男だったら、私も苦労しないという訳で、仕方のないことだと言えるのだろう。まったく、本当に仕方のない男である。
私から視線を逸らし、今更ながら魔導書のページを捲り始める男の手から、その魔導書を問答無用で取り上げる。私がそこまでするとは思っていなかったらしく、僅かに目を瞠る男の顔を覗き込み、私は更に笑顔を深めてみせた。
「エディ。あなた、何かわたくしに言いたいことがあるのでは?」
「別にそんなことは……」
「ないとは言わせません。最近、暇さえあればわたくしのことを観察していらしたことに、わたくしが気付いていたことにはお気付きでしょう? わたくしは何かあなたを悩ませるようなことをしてしまったでしょうか?」
思い当たる節があるかないかと問われれば、答えは後者である。ここ最近はいつも通りに過ごしていたはずなのだが、何かこの男が気にするような行為などしてしまっただろうか。
何分、私以上に私のことに関して敏いところがあるのがこの男だ。この男に言わせれば、「お前が無頓着すぎるんだ」ということらしいが、それにしても、些か過保護なのではないかと思う。この男がそうなってしまった原因は、間違いなく私にあるのだから、文句なんて言えるはずもないのだけれど。
ふむ、そう考えるとやはり、ここ最近のこの男の視線の原因は、私にあるのだろうか。
「忙しい夫を悩ませるのが、夫を支えるべき妻本人であるなんて、妻失格ですわね。ああ、わたくしったらまたあなたに何をしてしまったのかしら?」
片手を頬に寄せて、ほう、と溜息を吐き出すと、男は即座に首を振った。脊椎反射もびっくりな、瞬息の反応だった。
「違う。お前のせいじゃない」
「でしたらなんですの?」
「それは……」
この期に及んでまだ言い淀む男を、意識的に眉尻を下げて見つめる。この男が、私のこういう顔に弱いことを、私はよーく知っている。そして、駄目押しのようにその名を呼んだ。
「エディ?」
「……それだ」
「はい?」
『それ』とはどれだ。目をぱちぱちと大きく瞬かせて首を傾げると、男は小さく溜息を吐いて、「だから、『それ』だ」と先程と同じ台詞を繰り返す。だから『それ』とはどれなのだ。ますます首の傾きを大きくすると、男は自身の淡く色づく薄い唇を、これ以上もなく重々しく開いた。
「お前は俺のことを、『エディ』と呼ぶだろう」
「え? ええ、そうですね」
幼かったあの日、この男が私だけに許してくれた、特別な呼び名だ。気付けば男の本名である『エギエディルズ』以上に私の舌に馴染んでいたその呼び名が、今更何だと言うのだろうか。
まったく話が見えてこない。これはとりあえず、最後まで話を聞くしかなさそうだ。そう結論付けて、視線で先を促せば、男はようやくその口を開いてくれた。
「お前は先日話していた話だ。友人に招かれた茶会で、呼び名について話題になったと」
「ああ、そのことですか」
かねてから親しくしている友人である某御令嬢――いや、彼女もご結婚なさったから某御夫人と言うべきか――のお招きに預かり、私はとあるお茶会に出席した。
そもそも、この男と結婚してからというもの、夜会も含めて、私はそういう場から足が遠のいていた。貴族の夫人としては社交界での交流を疎かにすることなど褒められた行為ではないが、私の場合、何せ夫がこの男。純黒の王宮筆頭魔法使い、救世界の英雄様というとんでもない冠を被ったこの男が夫なのである。
そのせいで、お茶会や夜会のお誘いは、結婚を公表する前とは比べ物にならないくらいに増えてしまった。だが、それを単純に喜ばしいことであるとは言えない。よくも悪くも注目を集めるこの男の妻である私は、きちんと出席する社交の場を選ばなければ、あることないことを騒ぎ立てられてしまう。
そんな中で先日出席したお茶会は、以前から親しくしていた友人が主催するお茶会であるからこそ出席できたようなものだった。
気を張る必要もなく和やかに進んだお茶会で、ふいに話題に上ったのが、先程の男の台詞の通り、『夫の呼び名』についてであった。公の場においては、私はこの男のことを、『夫』もしくは『エギエディルズ様』と呼ぶように心がけている。幼かった頃ならいざ知らず、この歳にもなれば、『エギエディルズ』という発音だって舌を噛まずに紡ぐことができる。だが、親しい友人ばかりが揃う、砕けた雰囲気で満ちた先日のお茶会において、ついうっかり、私は男のことを『エディ』と呼んでしまったのだ。
それが発端だった。『自分にだけ許された特別な呼び名』なるものは、未婚のお嬢さんばかりではなく、嫁いだとはいえまだまだお若いお嬢さん方のときめきの琴線に見事に触れてしまったらしい。
まるで小鳥がさえずり合うかのように、「自分は婚約者をこう呼びたい」「夫をこんな風に呼んでみたい」と頬を染めて語り合うお嬢さん方はそれはそれはかわいらしかった。
いやー私の場合、単に幼かった私には“エギエディルズ”という発音が難しくて、それを見かねたこの男が“エディ”という妥協案を出してくれただけだったのだけれど。……まあ、それが今や『私だけの特別な呼び名』になってしまったのだから不思議なものだ。
それはさておき、なるほどなるほど。この男が気にしていたのはそのことだったのか。
「申し訳ありません、浅慮な発言でしたわ」
この男にとって、敬愛する養父である、私が『ランセントのお義父様』と呼ぶエルネスト・フォン・ランセント氏から授けられた“エギエディルズ”という名前は大層大切なものだ。いくら自分から言い出した愛称であるとはいえ、自分の知らないところで勝手に略称が広まるのは面白くないに違いない。
先達ての事件――すなわち、ルーナメリィ・エル・バレンティーヌ嬢が主犯とされた、この私、フィリミナ・フォン・ランセント殺害未遂事件において、この男は彼女が自分のことを「エディ様」と呼んだ時、それはそれは冷たく拒絶していたことだし。
この男を、『エディ』と呼んでいいのは私だけ。私だけが、その甘く大切な響きを口にすることを許されているのだ。それくらいは、うぬぼれてもいいと思いたい。だからこそ余計に、先日のうっかりは、改めて考えてみると、「やらかしてしまった」と言うべき発言であったと言えるだろう。
今度こそ意識的にではなく、自然に眉尻を下げて謝罪を口にすれば、男は再び首を振った。おや、と瞳を瞬かせる私に、男は「そういう訳では、ない」と、この男らしからぬ活舌の悪さでぼそぼそと続ける。
「お前が俺を『お前だけの俺の呼び名』で呼ぶように、俺もお前を、『俺だけのお前の呼び名』で呼べないかと思ってな」
なんとも言いにくそうに、これまたらしくもなく視線を彷徨わせながら放たれた、男のその、私にとっては予想外すぎる発言。自分の瞳がゆっくりと見開かれていくのを、私は他人事のように感じた。
「まさか、あの日からずっとそんなことを気にしていらしたのですか?」
えええ、それはちょっとまさかすぎやしないか。そんなこと、私はちっとも気にしていなかったのに。
確かに、先日のお茶会におけるお嬢さん方には、「フィリミナ様はどんな風にエギエディルズ様にお名前を呼ばれていらっしゃるの?」と興味津々な様子で問いかけられ、「普通に『フィリミナ』ですが」と答えたところ、非常に解りやすくがっかりされてしまったが。
だがそんな経緯まで、この男には話していなかったというのに、それなのにこの男は、私が言わなかったそのことについて、ここ数日、思い悩んでいたと言うのか。
もう一度繰り返そう。まさかすぎる。そんな私の内心の呟きは、解りやすく顔に出ていたらしく、男はむっとしたようにその整った眉をひそめた。
「俺にとっては『そんなこと』程度じゃない」
不機嫌な、というよりも、単純に子供が拗ねてしまったような声音だ。
平素であれば清水が流れるように朗々と言葉を紡ぐこの男のものとは到底思えない、訥々とした口調で、一つ一つ慎重に言葉を選ぶようにして、男は続けた。
「俺は、お前に、『エディ』と……つまり、『お前だけの呼び名』で呼ばれるのは、悪くないと……いや、嬉しいと、その、思っている。だから」
だから、と再び小さく繰り返し、男はそのまま口を噤んだ。中世的な白皙の美貌が、その雪花石膏のごとき白の肌が、淡い薄紅色に染まっている。その触れたら壊れてしまうのではないかとすら危ぶまれる繊細な美しさにうっかり見惚れながら、私はしばしの沈黙の後に、「あらまあ」と呟いてしまった。その声は、自分でも驚くほどに呆然としたものだった。
「珍しく素直なことを仰るのね」
意外です、という言外に込められた台詞は、言葉にされずとも男の耳にばっちりと届いたらしい。その美貌に相応しからぬ、むすっとした表情を浮かべて、男はふいっと顔を逸らした。
「悪かったな、珍しくて」
「悪くなんてありませんわ。とても……本当に、とても嬉しいです」
ああ、くすぐったい。この男とこんな会話ができるようになるなんて、かつての私は想像できただろうか。くすくすと口から笑いが零れ落ちて止まらない。
そんな私を見つめる男の視線は、恨めしげながらも柔らかいものだ。今までは突き刺さるように感じられてならなかったそれが、今となってはくすぐったいばかりのものに感じるのだから、私も現金なものである。
そうしてようやく笑いが収まった頃合いを見計らって、私はソファーに預けた身体を男の方へと向き直らせて、にっこりと深く微笑んでみせた。
「ではエディ、どうぞ」
「何?」
「そこまで仰ってくださるのでしたら、候補はあるのでしょう? さ、どうぞわたくしを呼んでみてくださいな」
私のその台詞を聞いた途端、男の表情に緊張が走る。そこまで深刻にならなくてもよかろうに、何をそんなにもとんでもなく難問を前にしたような顔になってしまうのか。
そんな顔をされたら、「また次の機会に」と言いたくなる気持ちも湧いてくるけれど、この変なところで律儀で頑固な男は、その“次の機会”がやってくるまで、私を観察しながら頭を悩ませ続けるに違いない。それはお互いの精神衛生上よろしくない。と、いう訳で、私がここで提案を撤回する理由はないのだ。
にこにこと男のお美しい御尊顔を見つめ続けていると、やがて男は、覚悟を決めたようにごくりと喉を鳴らし、そうしてやっと口を開いた。
「……フィー」
「はい、エディ」
「フィーナ」
「何でしょうか、エル」
「リナ」
「それはなかなか意外な呼び名ですね、ディーズ」
「ミィナ」
「まあかわいらしい。ではわたくしはあなたをギィとお呼びしましょうか」
「……俺の愛らしき雛菊」
「あら、詩的な響きですこと。さすがわたくしの美しき酢漿草様」
「俺の蜂蜜」
「薬草茶に蜂蜜は欠かせませんものね。わたくしもあなたを同じように想っておりますよ、わたくしのお砂糖さん」
「…………………………」
「わたくしのかわいいあなた。どうなさいまして?」
何をそんなに不満そうな表情を浮かべているというのか。
小首を傾げて問いかければ、男はその表情を、不満そうなそれから、大層途方に暮れたようなそれへと変えて、がくりと肩を落とす。そしてそのまま私の肩に自らの顔を埋めた。
その腕が私の腰に回り、ぎゅっと私を抱き締めてくる。男が吐き出した溜息が鎖骨のあたりをくすぐり、そのこそばゆさに思わず笑った。
そんな私を、のろのろと顔を持ち上げた男が、先程私に向けたものと同じような、どこか恨めしげな光を自身の朝焼け色の瞳に宿して見つめてきた。
「どうしてお前はそうやってすぐに切り返せるんだ。俺がこの数日、どれだけ考えたと思っている」
「あらあら、それは申し訳ありません」
いっそ無駄なのではないかと思うほどに頭の回転が速く、その賢さには定評があり、数多くの新たなる魔法理論を打ち出しているこの男を、そこまで悩ませるとは、ふふふ、私もなかなかやるではないか。
思わず得意げな表情を浮かべれば、またしても恨めしげに見つめられる。うーん、そんな顔を浮かべても、美形はやはり美形だ。眼福である。冷然としたその美貌を、かわいらしいと思ってしまう私は、大概末期なのだろう。
ふふと笑みを零しながらその頭を撫でる。艶やかで滑らかな漆黒の流れは、指に絡まることはない。心地よいその感触を存分に楽しみながら、今度は私から口を開いた。
「あなたが呼んでくださるのでしたら、どんな呼び名であったとしても、わたくしにはいっとう大切で、何よりも特別な響きですわ」
そうだとも。この男は難しく考えすぎなのだ。私は、この男が呼んでくれるのなら、どんな呼び名だっていい。重要なのは『どんな呼び名か』ではなくて、『誰がどんな意味を込めて呼んでくれるか』なのだから。この男だって、そういう意味で私に自分のことを、『エディ』と想いを込めて呼ぶことを許してくれたはずだろう。
そうでしょう?と微笑みかけると、それまで仏頂面だった白皙の美貌が、ようやくふわりと綻んだ。たった一夜しか咲かないという、香り立つ月下美人の蕾が、ほどけるかのような笑みだ。
「だったらやはり、俺にとってお前は『フィリミナ』だ」
「ええ、わたくしにとっても、あなたはやっぱり『エディ』です」
ほら、やっぱり。『フィリミナ』も『エディ』も、他人にとっては当たり前な響きであっても、私達にとっては特別な響きを持っている。名前は個人を縛る最も短く強力な呪であるという。ならば私達にとって、互いが呼ぶこれらの呼び名は、何よりも大切で甘やかな響きを孕む、私達にとっての最強の呪文なのだ。
今までも、これからも、私は何度でも『エディ』と呼ぶし、この男に『フィリミナ』と呼ばれるだろう。それがどれだけ倖せなことなのか、考えるだけで眩暈がしてしまう。
抑えきれない笑いが込み上げてきて、ころころと私が笑い出すと、そんな私の様子を目を細めて見つめていた男が、ふいに呟いた。
「……ああ、そうだ」
「はい?」
「今、思い付いた。俺にとっての『フィリミナ』の意味を」
「あら、どんなものでしょう?」
はてさて、どんな呼び名を思いついてくれたのだか。期待を込めて男を見つめれば、男はその唇に得意げな笑みを刷いた。どうやら本人はたった今思い付いたのだというその呼び名に随分と満足しているらしい。思わず身を乗り出すと、男は私の腰に回した腕に力を込めて、その唇をそっと私の耳元へと寄せた。
「俺のさいわい」
甘く優しく囁かれたその響きに、自然と顔が綻んだ。ついでに赤くなってしまったのはご愛敬だ。そのまま掠めるように奪われた唇の感触は柔らかく温かい。ふふと笑みを零して、私もまた男に身を寄せて囁いた。
「はい、エディ。何にも代えがたい、わたくしのしあわせ」
どちらからともなく漏れた笑い声は、お互いの『呼び名』の響きをそのまま表しているかのようなものだった。そうして間近で見つめ合えば、男の朝焼け色の瞳に、緊張感なんて欠片も無くでれでれと崩れた私の笑顔が映り込む。
――ああ、そういえば。
ふと胸を過ぎった考えに、きゅっと顔を引き締まる。それまでの甘え切った表情あから一変して難しい表情を浮かべた私に、男が「どうした?」と問いかけてくる。うーん、大したことではない……とは言い切れないので、私は大人しく口を開いた。
「少々困ったことになりそうだな、と思いまして」
「何がだ?」
「だって、いつかあなたは、お名前についてまた考えなくてはならなくなるでしょうから。今からこれでは、その時はもっとずぅっとあなたは悩まれることになるのではないかしら」
その時が楽しみではないと言えばまったくの嘘になる。本当は楽しみで仕方がない。今回以上に、この男が頭を悩ませている姿が容易に脳裏に浮かぶ。
ああでもない、こうでもないと、この男が悩む姿を、その時、私は倖せな気持ちで見守ることになるのだろう。けれどうかうかしていては、きっとその悩みの解決策を他の人に奪われてしまうことになるのではなかろうか。それをこの男が望むならばいいけれど、そうではないのならば、うむ。やはり少々困ったことになりそうだ。
私は、はっきりと『何が』とは明言しなかったが、男はその『何が』を敏く私の台詞から拾い上げてくれたらしい。男の長く濃く生え揃う睫毛が、ぱちぱちと大きく瞬いて、そうして男は、「何を今更」と言いたげに笑った。
「その時はお前も、一緒に考えてくれるのだろう?」
「――――ええ、もちろんですとも」
そうだ。この男の言う通りではないか。『その時』には、一緒に考えればいい。ああでもない、こうでもないと、二人で……もしかしたらもっとたくさんの大切な人達と一緒に、考えればいいのだ。
まだ結婚を公表したばかりで、気が早いとは解っている。けれど、いつか私達の元に訪れてくれるであろうその日について、私は男の腕の中で、想いを馳せる。
ああまったく、なんて倖せな悩みだろう!




