(7)
「――――め様、姫様」
「……あ、ら。何かしら?」
気遣わしげな呼び声に、は、と、クレメンティーネは小さく息を呑んだ。ぱちぱちと瞳を瞬かせれば、フィリミナがいかにも心配そうにこちらを見つめているのが目に入った。
「いえ、ぼうっとされているようでしたから、ご気分でも悪くなされたのかと思いまして。考えごとのお邪魔をしてしまったのでしたら、申し訳ございません」
「心配は無用よ。色々と思い出していただけなのだから気にしないで頂戴。それよりも、お茶をもう一杯貰えるかしら?」
にこりと笑みを浮かべてティーカップを差し出せば、フィリミナは何か物言いたげにしながらも、結局何も言わずにクレメンティーネのティーカップに薬草茶を注いだ。
その香りに目を細めながら、クレメンティーネは、ほう、と吐息を漏らす。我ながら随分と長く過去を振り返っていたらしい。
魔王討伐の旅に出るよりも前、フィリミナと出会うどころかその存在すらも知らずにいた頃の自分からしてみれば、全く以てこの現状は信じがたい光景だろう。まさかこの自分に、失いたくない、何者にも代え難い友人という存在ができるだなんて、あの頃は考えもしなかった。
――エギエディルズに、自分が懇意にしている仕立屋を紹介してから数日後。クレメンティーネは、己が夜会を開くつもりであることを隠すことなく社交界に吹聴した。その話はすぐさま噂となって社交界中を駆け巡り、是非招待に預かりたいと言ってくる貴族達の対応に、クレメンティーネは追われることになった。
そうなることが解っていたからこそ、これまでクレメンティーネは自らが主催の夜会など御免だと思ってきたのであるが、あの時ばかりは事情が違っていた。あの夜会の主役が己ではないことを、クレメンティーネは、夜会が開かれる前から知っていた。
今でもまざまざと思い出せる。高く澄んだ夜空を掬い上げたかのような紫紺の正装に身を包んだエギエディルズが、朝焼けを切り取ったかのようなドレスを身に纏い、普段の地味さ加減が嘘のように飾り付けられ美しくなったフィリミナの手を取って、ワルツを踊っていたあの光景を。あれはまるで、女子供が憧れる絵物語の一場面のようだった。心からの拍手を二人に贈ることができたことを、クレメンティーネは嬉しく思う。
クレメンティーネに言わせれば、あまりにも遅すぎる公表であったとはいえ、あそこでのエギエディルズによるフィリミナとの婚姻の発表は、まああの言葉も態度も足りない男にしてはよくやった方だと褒めてやってもいい。他ならぬフィリミナが幸せそうに笑っていたのだから、もうそれでいいではないか。
そう、思っているのは確かであるのだが、それでもしかし、クレメンティーネには一つだけ、どうしても納得しきれないことがある。
薬草茶を口に運んで口内を潤し、クレメンティーネはフィリミナに呼びかけた。
「ねえフィリミナ」
「何でしょう?」
「つくづく疑問なのだけれど、貴女、あの男のどこが良かったの?」
きょとりとフィリミナの瞳が大きく瞬く。その瞳を真っ直ぐに見つめて、クレメンティーネは己の問いに対するフィリミナの答えを待った。
この場における『あの男』が誰であるかなんて今更すぎる話だろう。フィリミナの夫である、エギエディルズ・フォン・ランセントに他ならない。
純黒の魔法使いと呼ばれるあの男は、確かに顔は一級品と認めるに吝かでは無いが、それを凌いで余りあるほど性格がひん曲がっている。そんな男の、一体どこが良かったというのだろう。幼馴染であるからというが、調査の結果、フィリミナがエギエディルズと共に過ごした期間よりも、彼が魔法学院に入学し、離れ離れでいた期間の方が長いということは聞いている。いくら手紙の遣り取りを欠かさなかったとしても、それこそいつぞやエギエディルズ本人が言っていたように、『たかが手紙一通で、何が伝えられる』といった話だ。
「どこが、ですか」
戸惑うようにフィリミナは瞳を揺らして、ぽつりとフィリミナはクレメンティーネの台詞を反芻する。そして、至極真面目な表情で、ことりと首を傾げた。
「どこなのでしょう?」
――どこまでも不思議そうなその声音に、思わず口に含んだ薬草茶を噴き出しそうになったクレメンティーネを、一体誰が責められると言うのか。王族としての意地と矜持が、クレメンティーネに、薬草茶を無理矢理飲み込ませた。
「……それを訊いているのはあたくしなのだけれど?」
ナプキンで唇を拭いながらそう言うと、いかにも困ったと言わんばかりにフィリミナは眉尻を下げた。
「申し訳ありません。そうですわね」
「そうよ。もちろんエギエディルズには黙っておくから、素直に言ってごらんなさいな」
「素直に……」
「ええ、素直に」
「素直に」
『素直に』と繰り返せば繰り返すほど、フィリミナは考え込んでいくようだった。これはもしかして藪蛇だったかしら、とクレメンティーネは内心で呟く。
エギエディルズはともかく、フィリミナにしてみれば、あの男との関係が、ただの幼馴染から婚約者、果ては夫婦となってしまったのは、川の流れに身を任せて流されてきたようなものだったのではないか。それが、ここに来て、クレメンティーネの発言で要らぬ波風を立たせることになってしまったのだとしたら。
――……別に、構わないわね。
クレメンティーネはあっさりとそう結論付けた。誰が何と言おうと、クレメンティーネはフィリミナの味方でいるつもりだ。例えフィリミナが離縁したいと言ったとしても、協力は惜しまない所存である。別に、エギエディルズのことを嫌っている訳ではない。ただの優先順位の問題だ。そもそもあの男はフィリミナに甘えすぎなのだ。離縁とまではいかないまでも、何かしらの罰が与えられればいいと、クレメンティーネは常々思っている。
今度あの男には内緒で、所謂『お泊まり会』なんてものを催してみようか、などと考えていると、フィリミナがようやく、その口を開いた。
「なんと、言ったらよいのでしょうか。わたくしはただ、あの夫の……エディの隣にいられる時の空気が、とても心地良く感じられるのです」
その言葉の意味を理解するのに、数瞬の時間を、クレメンティーネは要した。じっとフィリミナを見つめると、彼女は柔らかく微笑んで、臆することなくクレメンティーネの視線を真正面から受け止めた。
「――それだけ?」
クレメンティーネの問いかけに、フィリミナはこくりと頷く。
「はい。幼い時からずっと、エディと一緒にいる時のわたくしは、何の飾りもないただの『わたくし』でいられます。それがきっと、一番の理由なのでしょう」
そう言って微笑むフィリミナの表情は、あの結婚式や、夜会において彼女がエギエディルズの隣で見せたものとまったく同じものだった。さして美しくもないはずなのに、目を奪われずにはいられないその表情に、クレメンティーネは、ふ、と吐息を零すように笑んだ。
「……残念だわ」
「はい?」
「本当に、残念」
クレメンティーネの呟きに、ますます不思議そうにするフィリミナを余所に、噛み締めるようにクレメンティーネは「残念」と繰り返した。
正直、拍子抜けした。もっとあんなところがどうとか、こんなところがどうとか、具体的に例を論ってくるかと思ったのだが。フィリミナの答えは、もっと根本的なところにあった。よりにもよって『空気』だなんて。それはある意味、どんな言葉よりも熱烈な愛の言葉ではないか。
「姫様……?」
不思議そうに首を傾げるフィリミナに、クレメンティーネは薄く微笑みかける。
本当に残念でならない。もしも自分が男だったら、どんな手を使ってでも、あの男からフィリミナを奪ってみせたのに。
同じ性別であろうと構わないではないかと言われるかもしれないが、生憎この身は王族だ。次世代を残す義務がこの身には課せられている。
だから、仕方がないから、フィリミナにとっての一番の存在であるであろう夫の座は、エギエディルズに譲ってやろう。その代わり、一番の友人の座は、この自分のものだ。
独占欲の強いエギエディルズのことだ。クレメンティーネがこんなことを考えていることが知れたら、あの手この手でフィリミナとの交流を邪魔してくるに違いない。いや、もしかしたら、もうばれているのかもしれないと思う。フィリミナが自分を慕ってくれていることに対して、あの男はいい顔をしていないようであるから。けれど、そんなことはクレメンティーネの知ったことではない。
ティーカップをソーサーの上に戻して、クレメンティーネはにっこりと笑う。
「フィリミナ、これからもよろしくね?」
「え? あ、は、はい。よろしくお願いいたします」
首を傾げつつも、フィリミナは躊躇うことなく深々と礼を取る。クレメンティーネは、そんなフィリミナに微笑みかけながら、やはりフィリミナのことが大好きなのだと再確認する。そしてきっと今こうして自分の微笑みに頬を染めているフィリミナもまた、自分のことをそう思ってくれているのであろうことが嬉しくてならない。
そして、クレメンティーネは、この光景を見たら、間違いなく悔しげに歯噛みするであろうフィリミナの夫であるあの男に向かって、内心で、ざまあみなさい、と、思い切り舌を出したのであった。
これにて完結です。お付き合いありがとうございました。




