(5)
そして、次にクレメンティーネの目が覚めた時、すべてはもう終わっていた。
魔王は消滅し、魔王城もまた砂のように崩れ落ちたのだと。エギエディルズの転移魔法で、なんとか魔王城の倒壊に巻き込まれずに済んだクレメンティーネ達は、ようやく王都へと帰還する運びになった。
王都に戻ったクレメンティーネ達を待っていたのは、民衆の歓喜の大歓声。凱旋パレードで、それらに向かって手を振り、笑顔を見せながら、何故だかクレメンティーネの心は晴れなかった。
魔王討伐の旅は、クレメンティーネにとっては生まれ落ちた時から宿命付けられた義務であり、生きる意味だった。では、それが失われてしまったら。そうすれば、どうなるというのだろう。
王族として、王位第一継承者として、為すべきことは山とある。そう解っていても、胸にぽっかりと空いてしまった穴は、埋められそうにはなかった。
「――つまらないわ」
ぽつりと落とした呟きを聞き咎める者は誰もいない。己の寝室のベッドに寝そべり、クレメンティーネは天蓋を見上げていた。
旅から戻ってきてからというもの、旅に出るまで飽きるほど送られてきていた見合いの資料は、なりを潜めている。女神の加護という付加価値に加えて、救世界の英雄という称号まで貼り付けられたこの身に、流石に恐れをなしているらしい。けれどこの静けさが、嵐の前の静けさだということは解っていた。情勢がもう少し落ち着けば、すぐにまたクレメンティーネは、未来の王配殿下の資料の山と格闘することになるだろう。考えるだけで憂鬱になるその事実に、寝そべったまま溜息を吐く。
これなら、旅路にあった時の方がずっとマシだったなんて、そんなことまで思ってしまう。世間はようやく取り戻された平和に湧いているというのに。
「ぬばたまの、魔王」
やがて絵物語や演劇の中でしか聞かれることはなくなるであろう、その称号を呟く。脳裏に蘇るのは、その魔王が何故か最期に自分に向けた、あの笑み。その笑みを振り払うかのように、クレメンティーネはきつくきつく目を閉じた。
エギエディルズが結婚する、と聞かされたのは、そんな毎日を過ごしていた時だった。エギエディルズ自らそれを伝えにきた時、あらまぁ、と意外に思ったものだ。どうやら自分は一応、この男にとっての身内としての範疇に入っているらしい。だからこそ、それが何やら面映く感じられる自分に内心で苦笑しながら、言ったのだ。
「あたくしが神官の代わりを務めたいのだけれど、よろしくて?」
その時のエギエディルズの顔は見ものだった。秀麗な顔をぽかんとした間抜け面に変えてこちらを見つめてくる男に、クレメンティーネはにっこりと笑いかける。
「そんな顔をするものではないわ。取り柄の顔が台無しよ」
「……姫の手を煩わせるほどの式にするつもりは無いんだが」
「あら、それなら尚更好都合だわ。あたくしとてそうそう見世物になる気などないもの。ねえエギエディルズ。あなたの結婚式の立会人として、あたくし以上に相応しい存在が他にいて?」
何せ、救世界の英雄の結婚式だ。普通に結婚式を挙げようとすれば、自然とその話は大きくなり、国を挙げての大催事となることだろう。この男はそれを望まない。そこでこの自分の出番だ。内輪で済ませるだけの式において、一般的な立会人となる、どこでうっかり口を滑らせるか知れたものではない神官を選出するよりも、元々参列者として数えられている上に、女神の加護を受けている自分のほうが、余程相応しいというものだろう。
クレメンティーネの言葉に、ぐ、とエギエディルズは一瞬言葉に詰まり、やがて一拍遅れて頷いた。よし、これで言質は取った。エギエディルズが誰よりも何よりも大切にしている例の婚約者にも、これでようやく会うことができるのだと思えば、一層結婚式の日が楽しみになる。果たして彼女はどういう存在なのかーー考えるだけで不思議と心が踊った。
* * *
空は雲一つない晴天。光の花弁が降り注ぎ、本日の主役である新郎新婦が、腕を組んで花道を歩いていく。
今日は、エギエディルズ・フォン・ランセントと、その婚約者たるフィリミナ・ヴィア・アディナの結婚式だ。エギエディルズは、クレメンティーネが旅の最中でも決して見ることのなかった甘い笑みを浮かべて、己の腕を掴んでいる、たった今妻となったばかりのフィリミナを見つめている。その朝焼け色の瞳を臆するどころか幸せそうに見つめ返して、フィリミナもまた笑みを浮かべていた。クレメンティーネやエギエディルズのように突出した美貌を持っている訳ではないというのに、彼女のその微笑みは、誰のものよりも美しいもののようにクレメンティーネの琥珀の瞳には映った。
やがて二人は、クレメンティーネの元へやってくる。形式的な儀礼を終えた今、何をしようが話そうが、それぞれの勝手だ。どことなく嫌そうにしているエギエディルズの手を引いてクレメンティーネの前にやってきたフィリミナは、純白のドレスの裾を軽く持ち上げて、深く礼を取った。
「姫様におきましては、此度の結婚式において、立会人を引き受けてくださいましたこと、心より御礼申し上げます」
「……別に、俺から頼んだ訳ではなく、姫の方から言ってきたんだがな」
「まあエディ。またそんなことを仰って」
困ったように夫となった男を見上げるフィリミナに、エギエディルズはふんと鼻を鳴らして目を逸らす。ますます眉尻を下げるフィリミナに、思わずクレメンティーネはくすりと笑った。
「別に構わなくてよ。この男の無礼は今に始まったことではないもの。フィリミナ、あなたも苦労するわね」
「い、いえ。慣れておりますから」
「あら、それは重畳だこと。エギエディルズには勿体無い細君ね」
緊張したようにおずおずと答えるフィリミナに、クレメンティーネは渾身の笑みを浮かべてみせた。淡く頬紅の乗せられたフィリミナの頬が真っ赤に染まる。あらあら、可愛らしいこと。そう、歳上の女性に向けるには些か不釣り合いな感想を抱くクレメンティーネの視線から隠すように、その黒のドレスローブの中に花嫁を引き入れて、ぎろりと朝焼け色の瞳がクレメンティーネを見下ろした。
「エ、エディ?」
ドレスローブの中から顔を覗かせるフィリミナを抱き締めて、エギエディルズは不機嫌を隠しもせずにクレメンティーネに向けて言い放った。
「姫が何と言おうと、フィリミナが俺の妻になったことは覆しようがない。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ?」
「ふふ、本当に失礼な男ね。あたくし、これでも心から貴方方を祝福しているのよ? それなのにその言い振りはあんまりなのではないかしら」
「は、どうだかな。新しい玩具ができたと思っているの間違いではないか?」
「肯定はしないわ。否定もしないけれどね」
「そこは嘘でも否定すると言っておくべきところだろう。第一王位継承者たる者が、巧言令色の一つも使えないとは、笑えない話だな」
「あたくしとて時と場合は弁えていてよ。貴方相手にわざわざそんなものを使う必要なんて今更でしょう?」
ぽんぽんと打てば響く太鼓のような遣り取りに、エギエディルズの腕の中、フィリミナは呆気に取られている。それも当然だろう。世間一般における『生ける宝石と謳われるクレメンティーネ姫』の評判は、所謂物語の中の姫君そのものだ。天真爛漫で純真無垢、誰もが好かずにはいられない『おひめさま』。
随分と勝手なイメージを貼り付けてくれたものだとクレメンティーネは思う。そんなお人形のような姫君が、王宮でのうのうと遊んで暮らしていられる訳がないというのに。けれど、そんなお人形こそを、民は夢見ているのだ。そんな砂糖菓子のような存在が、魔王を倒せるはずがないというのに。
エギエディルズの腕の中で唖然とクレメンティーネを見つめているフィリミナもまた、クレメンティーネのことをそんな『おひめさま』だと思っていたのだろう。だからこそそんな風に、瞳をまん丸にして見つめてくるのに違いない。
クレメンティーネはその琥珀の瞳をフィリミナに向ける。光を受けて金色に輝く琥珀の瞳に、僅かに身体を固くする花嫁に、クレメンティーネは、普段であれば決して他者に見せることのない、艶然とした笑みを向ける。
「『理想の姫君』でなくてごめんなさいね?」
呆れたと言わんばかりにエギエディルズが溜息を吐いた。この男はきっと、クレメンティーネの意図に気付いているのだろう。何せ所詮同じ穴の狢だ。クレメンティーネもエギエディルズも経験上知っている。こんな風に笑みを向けた相手は、大抵が恐れをなして自分達を忌避するようになるということを。
さて、この純黒の魔法使いの妻となった女性は、果たしてどんな反応を見せてくれるのか。我ながら性格の悪い真似と知りつつ、クレメンティーネはフィリミナを見つめる。彼女は夫の腕から抜け出して、クレメンティーネの予想に反してにっこりと穏やかに微笑んだ。
「いえ、そんな姫様も大変魅力的でいらっしゃいます」
「!?」
「――あら」
エギエディルズは、本気で言っているのかと言わんばかりの表情で、己の妻を見下ろしている。
そんな夫の様子に気付くことなく、フィリミナは凪いだ瞳でクレメンティーネを見つめていた。その視線には、嫉妬も羨望も、臆することも怯えることもなく、ただただ純粋な憧憬ばかりがあり、クレメンティーネを何とも言い難い気持ちに陥らせる。
この気持ちを何と呼ぶのか。妙にこそばゆくて落ち着かず、ぱちぱちと何度もその大きな瞳を瞬かせる。そうして、ふつふつと胸の奥から湧き上がってきた衝動に、クレメンティーネはそのまま身を任せた。
「ふふ、ふ、ふふふふふふふふ!」
ぱちくりとフィリミナの瞳が瞬いた。エギエディルズが驚いたように見遣ってくる。周囲でそれぞれ歓談していたユリファレットを始めとする参列者達も、突然笑い出したクレメンティーネを、何事かという目で見てくるが、構ってなどいられなかった。
なるほど、なるほど。まさか魅力的と言ってくるとは思わなかった。おべっかでもごますりでもなく、純粋にこの本来の自分を魅力的と言ってくるとは。流石、純黒の魔法使いの細君と言うべきか。
「ひ、姫様?」
恐る恐るといった様子で己を見つめてくるフィリミナを、目尻に浮かんだ涙を拭いながら見つめ返し、クレメンティーネは再び笑った。歳相応の、美しくも可愛らしい笑みだ。そうして、右手を差し出した。
「これから、あたくしと仲良くしてくれるかしら?」
「おい、何を勝手に……」
驚いたようにフィリミナは瞳を瞬かせ、差し出された手を見つめる。その背後で夫であるエギエディルズが何やら言っているが知ったことではない。やがて、フィリミナの、手袋に包まれたほっそりとした手が、クレメンティーネの白い手に重なった。
「喜んで、承りたく存じます。どうかこれから、よろしくお願い申し上げますわ」
「ええ。よろしくね、フィリミナ」
エギエディルズの苦々しげな表情を後目に、互いににっこりと微笑み、握手を交わす。フィリミナのその手は、とても温かかった。
* * *
小鳥の囀りが心地よく耳朶を打つ東屋で、クレメンティーネは紅茶を口に運んでいた。口の中に広がる芳醇な風味と、鼻に抜けていく馥郁たる芳香に、思わず目を細めた。
「いかがでしょうか……?」
「とても美味しいわ。あたくしの侍女にもご教授願いたいくらいよ」
クレメンティーネの言葉に、どこか緊張した面持ちでクレメンティーネの様子を窺っていたフィリミナの表情が柔らかく緩んだ。そんな彼女を小さく笑い、クレメンティーネは紅茶をじっくりと味わう。
茶を煎れるのが得意だとは聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。フィリミナ曰く、「夫に鍛えられましたから」とのことらしいが、なるほど。それは嘘でも誇張でもなく、あの男は情け容赦なくフィリミナを扱いたらしい。
「今日は突然呼び出してごめんなさいね。一度ゆっくり話してみたくて、我儘を言ってしまったわ」
クレメンティーネがフィリミナとこうして顔を合わせるのは、先達ての結婚式以来だ。しかもこれは非公式の茶会であり、側仕えの侍女も、護衛の騎士も、この東屋から下がらせている。クレメンティーネの影は、いつものように気配を消して潜んではいるものの、その存在は数には入らないため、事実上この場はクレメンティーネとフィリミナの二人きりということになる。
フィリミナの夫であるエギエディルズにも知らせず、こっそりと送り込んだ迎えに連れられて、フィリミナはやってきた。「先日ぶりね」と笑うクレメンティーネに、礼を取るのも忘れて唖然としているフィリミナに席を勧めて、こうしてちょっとしたお茶会を催す運びになったのである。
クレメンティーネの謝罪に、フィリミナは緩やかに頭を振って穏やかに微笑んだ。
「いいえ、姫様。とても光栄ですわ。わたくしこそ、このような場を設けて頂いて、大変嬉しく思います」
「そう。ありがとう」
クレメンティーネはテーブルの上に肘をついて指を組み、その上に顎を乗せて「ふふ」と小さく笑う。流石にこの自分と二人きりであるという状況は、フィリミナにとっては緊張を強いるものらしい。結婚式の時よりも、どことなく強張った笑顔と、ぎこちない言動は、クレメンティーネの目には微笑ましいものとして映った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。このお茶会はあくまでも内輪のものだもの」
「は、はい」
「公の場ならともかく、この場においてあたくしのような歳下の小娘相手に遠慮は無用だわ。楽になさいな。それとも、あの結婚式での約束を、貴女は反古にするつもりかしら?」
「そのようなことは……」
「でしょう? さ、貴女もお菓子でも摘んだらどう?」
クレメンティーネに言われるがままに焼き菓子を口に運ぶフィリミナに続いて、クレメンティーネもまた同じように焼き菓子を口に運ぶ。城下で評判の製菓店から取り寄せたものだが、悪くない味だ。これは今後も贔屓にしていいかもしれないと思いつつ、クレメンティーネはフィリミナを見遣る。
「……旅の中でもね」
「え?」
「旅の中でも、貴女の夫は、貴女のことしか考えていなかったわ」
唐突な切り出しに瞳を瞬かせるフィリミナに、微笑みかける。大輪の白百合がゆっくりとその頭を擡げて綻ぶかのような、美しい笑みだ。その笑顔に見惚れたのか、フィリミナはじっとこちらを見つめてくる。そんな彼女の反応を楽しむかのように笑みを深めて、クレメンティーネは更に続けた。
「口にこそ出さなかったけれど、結局あの男の思考の先には、いつだって貴女の存在が在ったわ。見ているこっちが呆れてしまうくらいにね」
そうだ。どんな局面にあっても、エギエディルズの中には、目の前の女性の姿が在ったように思えてならなかった。微睡むような平穏な時にも、命にすら関わる危険に晒された時にも。
勇者であり、自称エギエディルズの友人であるユリファレットも言っていたではないか。「婚約者さんが刺繍を入れてくれたハンカチを、すごく大切そうに持っていたよ」と。高給取りと言っても過言ではない王宮筆頭魔法使いが、なんのまじないもかかっていないたかがハンカチ一枚を、後生大切に持ち歩いていたその心が、クレメンティーネには理解できなかった。手紙を出すこともせずに、ただ己の帰還を待っていてくれているはずだと愚直なまでに信じていたその有り様が、クレメンティーネには信じられなかった。
「それ、は、申し訳ありませ……」
「ああ、別に責めている訳ではないのだから謝らないで頂戴。それに、貴女のせいではないでしょう?」
顔を赤く染めて俯き加減に謝罪してくるフィリミナに、クレメンティーネはひらりと手を振る。
それもこれもあの男自身の問題であり、フィリミナを責めるのはお門違いだ。ただ、それでもクレメンティーネは、フィリミナに、教えてほしいことがあった。
「ねえ、フィリミナ。恋とはどんなものなのかしら」
ぱちくりと、フィリミナの瞳が瞬く。驚いたように自分を見つめてくる彼女の瞳を見つめ返し、クレメンティーネは無言のまま返答を待った。先達て、幼い頃からの恋をようやく成就させた相手に問いかけるにしては、これ以上なく相応しい質問だろう。
クレメンティーネは恋を知らない。エギエディルズのように、愚直なまでに相手を信じ想うことが恋なのだろうか。言葉にすることも文字にすることもなく、ただ信じて想うこと。それで相手がどれだけ不安に思うかなんてきっとあの男は想像もしていないのだろう。こちらが腹が立つくらいに頭の回転が速く賢いくせに、そういう方面にはちっとも気が回っていそうにないというのがエギエディルズという男だ。傲慢な男だとつくづく思う。
そんなエギエディルズのような有り様が恋というものなのだとしたら自分は冗談でもごめんだ。どれだけ羨ましいと思っても、自分には得ることどころか望むことすらできないものを求める気など、クレメンティーネには毛頭なかった。
フィリミナの言葉はない。クレメンティーネがふざけて言っている訳ではないことに気付いたのだろう。惑うように瞳が揺れて、やがてフィリミナはたっぷりの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「――これは、あくまでもわたくし個人の見解ですが、構わないでしょうか?」
「ええ。忌憚なき意見が望ましくてよ」
「感謝致します。そう、ですね」
一拍置いて、フィリミナは微笑んだ。結婚式でクレメンティーネが目にしたような、さして美しい訳でもないというのに、何故だか美しいと感じる、目を惹かれずにはいられない笑み。
「わたくしにとって、恋とはエディそのものです」
穏やかに、柔らかく、優しげに、愛しげに。
戯曲で語られるような華美に装飾された熱烈な睦言など、比べ物にならないような単純な台詞だというのに、フィリミナのその言葉は、どんな告白よりも愛深き告白のように、クレメンティーネには思えた。
「あの男が、恋そのもの?」
けれど、だからこそクレメンティーネには解らなかった。クレメンティーネの柳眉が、訝しげに顰められる。それを受けて、フィリミナは「ええと、」と言葉を紡ぐ。
「あの人が嬉しければわたくしも嬉しい。あの人が悲しければわたくしも悲しい。もちろんいつだって同じである訳ではありません。時には反目し合うことだって、理解できないことだってありますわ。けれどこの心は、常にあの人の――エディの側にあるのだと、わたくしは信じております。この心のいっとう近くにあってくれる存在が、エギエディルズ・フォン・ランセントという存在なのです」
そう言って彼女は、照れくさそうに小さく笑った。その笑顔に、クレメンティーネは言葉を奪われる。クレメンティーネは、自分でも驚くほど衝撃を受けていた。
自身の心の、最も近くに在る存在。この心に、常に在る存在が、恋というものになるのだとフィリミナは言う。だとしたら、とクレメンティーネは思わず両手で口を押さえた。そうしなければ、声を上げてしまいそうだったからだ。驚いたようにフィリミナがこちらを見つめてくるが、構ってなどいられなかった。
なんてことだろう。フィリミナの言葉をそのまま受け入れるのならば、それでは、それではまるで――……
ぽたり、と。透明な雫が、真白いテーブルクロスの上に落ちて、染みを作る。それは一度切りで終わるかと思えば、後から後から止め処なくクレメンティーネの白い頬を伝い落ちる。
「姫様っ!?」
ぎょっとしたような声をフィリミナが上げる。そこで初めてクレメンティーネは、自分が泣いているのだということに気付いた。自覚すると同時に、涙はより一層クレメンティーネの琥珀の瞳から溢れ出してくる。こんな顔を見られたくなくて、クレメンティーネは隠すように両手で顔を覆う。それでも涙は止まらず、クレメンティーネの手を濡らし続ける。
「姫様……」
何を急に泣き出しているのかと、フィリミナにとっては不思議でならないだろう。だが、気遣わしげに声をかけながらも、それ以上何も問いかけてはこない彼女の反応が、今のクレメンティーネには酷くありがたかった。
「ね、え。あたくし」
「――――はい」
「あたくし、こいを、していたの」
フィリミナが静かに息を呑む音が聞こえた。その反応を見遣ることなく、クレメンティーネははらはらと真珠のような涙を流し続ける。
ああ、そうだ。そういうことなのだ。
クレメンティーネは、自分は恋を知らないと思っていた。けれど違う。自分は、本当は知っていたのだ。ただそれがそうであると気付かなかっただけで、本当はずっと恋をしていたのだ。会ったこともない、姿も声も何も知らない、ただ称号しか知らない、魔王という存在に。
魔王という存在は、クレメンティーネにとって、唯一無二の敵であり、目標であり、生きる意味だった。辛く厳しい光魔法の修行に耐えたのも、姫として完璧な自分であろうとしたのも、すべて、あの魔王のためだった。いずれ邂逅するであろうその日まで、一時たりとも魔王の存在を忘れたことなどなかった。魔王に対するそんな認識は、いつしか頭から心へと根を張って、いざ対面した時になって、大輪の花を咲き誇らせた。
自覚するまでに随分と時間のかかってしまった、あっという間に散ってしまった恋だったけれど、確かにあれは恋だったのだ。魔王が最期にクレメンティーネに向けた優しげな、愛しげな笑みに、瞳ごと心を奪われた。
魔王討伐以来、ぽっかりと胸に穴が空いたような気がしていたのはそのせいだったのだと、今ならば解る。幼い頃からこの心に在った、最早心の一部と化していた、魔王という存在を、クレメンティーネは目の前で失ったのだ。
恋と呼ぶには、あまりにも稚拙な想いだったかもしれない。それでも、確かに恋だったのだ。
「姫様は、恋をされていたのですね」
静かに凪いだ、確認のような台詞に、涙で濡れる顔を上げてクレメンティーネは頷く。
「ええ。恋よ。恋だったの。決して叶わない、叶うはずもない想いだったけれど」
誰に何と言われようとも、あの想いは確かに恋だった。
両手を下ろし、涙に濡れた顔を毅然と上げてそう言い切るクレメンティーネの視線から逃れようともせず、真っ直ぐに受け止めて、フィリミナはカウチの上に畳んで置いておいたドレスコートからハンカチを取り出して、クレメンティーネに差し出した。それを躊躇うことなく受け取って、クレメンティーネは涙を拭った。
こんなにも泣いたのは久し振りだった。最後に泣いたのがいつであったかなんてもう覚えてはいない。『美しき生ける宝石』らしくもなく、鼻水を啜り、鼻を赤くさせながら、クレメンティーネは拭った涙で引き攣る顔の筋肉をなんとか動かして笑ってみせた。
「ありがとう。代わりのものを後で用意させるわね」
「いいえ、どうかお気になさらないでくださいまし」
フィリミナは穏やかに微笑んで、クレメンティーネのティーカップに紅茶を注ぐ。それを口に運ぶと、幾分か気分がすっきりする。ほう、と吐息を漏らすクレメンティーネに、フィリミナは続ける。
「姫様、僭越とは存じますが、申し上げてもよろしいでしょうか」
「ええ、許しましょう。何かしら?」
クレメンティーネの問いかけに、フィリミナは極めて大真面目な表情を浮かべて口を開いた。
「失恋は、女を美しくすると申します。姫様のその恋は、必ずや姫様の糧となり、より美しく姫様を咲き誇らせてくれるでしょう。そうして今以上に引く手数多となられれば、失恋の一つや二つ、笑い飛ばせるようになるに違いありません」
クレメンティーネは、大きく瞳を見開いた。ぽろりとまた、大きな雫が琥珀の瞳から零れ落ちる。けれどそれ以上涙が流れることはなかった。その代わりのように、クレメンティーネのかんばせにごく自然に笑みが広がっていくのを、まるで他人事のように感じた。くすくすと声を上げて小鳥の囀りのようにクレメンティーネは笑う。
「――そうね。あたくしをおいていってしまうような者なんて、こちらから願い下げよ」
「姫様、その意気です」
「ありがとう、フィリミナ。すっきりしたわ」
「少しでもお力になれたのでしたら光栄に存じます」
どこまでも真顔で言い切るフィリミナに、クレメンティーネはまた笑ってみせる。その笑みには強がりや意地といった感情は含まれておらず、普段通りの泰然とした笑みであり、フィリミナが安堵したように微笑みを浮かべる。
その表情を見て、クレメンティーネは不思議と心が落ち着いていくのを感じた。短い時間ではあるが、クレメンティーネは何故エギエディルズにとっての唯一無二が、このフィリミナという女性であるのか、少しだけ解ったような気がした。
そして、思う。このフィリミナという存在は、きっと己にとって、今後得難い存在になるのだろうと。その予想は間違ってはおらず、クレメンティーネとフィリミナは、その後も身分の差や年齢差といった壁を超えて、友情を育んでいくことになるのであった。




