(4)
――魔王討伐の任を背負い、王都を立って早幾月。月の無い夜である。
常であれば天頂に座す夜の女王も、朔夜である今宵ばかりはその座を星々に明け渡し、静かな眠りに就いている。その代わりとでも言いたげに、普段は月影に飲み込まれて見えない星々の瞬きが、はっきりと地上まで届いていた。
一度夜目に慣れてしまえば、それらの光はいっそ眩しいくらいだとクレメンティーネは思う。王都にいた頃とは大違いだ。今は遠きかの都は、夜であろうとも、街路灯によって一定以上の明るさを保ち、傲慢にもいと高き空から降る星影をかき消していたから。
「静かね」
クレメンティーネのその呟きは、ほんの些細なものであったというのに、夜の闇に包まれた森の中に不思議と大きく響き渡る。目の前で燃える炎は、魔宝石を触媒にしたエギエディルズの魔法によるものであり、火種を必要とせず、ただ明るく周囲を照らすばかりだ。そこには一切の音も存在しない。
唯一クレメンティーネの耳朶を打つのは、外套に包まって眠る聖剣に選ばれし勇者たるユリファレット・リラ・シュトレンヴィハインと、王国直属騎士団団長たるアルヘルムの薄い寝息。
二人一組の交代制で火の番をすると決めたのはアルヘルムだった。野営慣れしている彼の提案に否を唱える者はおらず、今はこうしてクレメンティーネとエギエディルズが火の番をしている訳である。
燃える魔力を何とは無しに見つめながらクレメンティーネは思う。ああ退屈だ、と。
森に潜む獣も魔物も、エギエディルズの炎を察知してか、近寄ってくる気配を見せない。静かに燃え続ける炎をいくら見つめていても、眠気は不思議とやってこないが、その分退屈でならないのだ。この魔王討伐を目的とする旅路において、こんな平穏な時間がどれほど貴重なものなのか、解ってはいても退屈なものは退屈と感じてしまう。
身動ぎすると同時に肩から滑り落ちそうになった外套を手繰り寄せて、ちらりと炎を挟んで座るエギエディルズを見遣る。クレメンティーネの呟きに何の反応も示さなかった男は、その長く濃い睫毛を伏せて目を閉じていた。
まさか眠っているのかしら、とクレメンティーネはエギエディルズの顔をまじまじと見つめた。クレメンティーネ自身、己の美貌が如何なるものなのかを深く理解しているが、それにつけても、エギエディルズの顔は腹が立つくらいに美しい。
燃え盛る炎に浮かび上がる、漆黒の髪に縁取られた白いかんばせは、さながら夜の妖精のようだと思わずにはいられない。月の眷族であるとも呼ばれる彼らが、現し身として形を作ったかのようだ。まあその中身は、慈悲深く情に厚い夜の妖精とは掛け離れたものだと、クレメンティーネはよくよく知ってはいるが。
「エギエディルズ」
これで眠ってなどいたら、思い切りその顔を抓ってやろう、というクレメンティーネの内心の声に気付いたのか気付いていないのか、エギエディルズはクレメンティーネの呼びかけに、うっすらとその瞳を開いた。不可思議な美しさを持つ朝焼け色の瞳が炎の光を映して揺れる。
「――なんだ」
淡々とした、感情を読み取らせない声音だった。とりあえず、どうやら眠ってはいなかったらしい。それを少しばかり残念に思いつつ、クレメンティーネは炎越しに朝焼け色の瞳を見つめ返して、くすりと笑ってみせる。そのどこか悪戯げな、揶揄混じりの笑みに、エギエディルズの整った眉がぴくりと動く。ほんの僅かに訝しげな表情を覗かせるエギエディルズに、クレメンティーネは笑う。
「ねぇエギエディルズ。貴方、例の婚約者に手紙くらい出したらどうなの?」
朝焼け色の瞳がゆっくりと見開かれるのを、クレメンティーネは笑みを含んだ視線を向けて続ける。
「きっと、貴方のことをさぞかし心配しているのではないかしら。宿場町で早馬を走らせるくらいしても、罰は当たらないと思うのだけれど」
顔すら知らない、紙の上の文字でしか知らない、エギエディルズの婚約者は、エギエディルズ曰く、『どこにでもいる普通の女』だという。その言葉を素直に受け取るのであれば、彼女は、エギエディルズのことをさぞ心配しているに違いないだろう。幼い頃から心を通わせてきた婚約者の安否が気にならないはずがない。
王都を出てから既にそれなりの日数が経過している。その間エギエディルズは、一度たりとも、少なくともクレメンティーネの前では、婚約者のことを気にする素振りを見せなかった。この男自身とて、婚約者のことが気にならないはずがないというのに、全く以て素直でないことだ。
魔族側に傍受されかねない魔宝玉を使った通信はともかく、手紙の一通や二通で目くじらを立てるほど、クレメンティーネの心は狭くない。
そんなクレメンティーネの台詞に対し、エギエディルズは静かに瞳を眇めた。沈黙が二人の間に落ちる。その沈黙は、刹那のようにも、永遠のようにも思えた。そうして、先に口を開いたのは、エギエディルズの方だった。
「――たかが手紙一通で、何が伝えられる」
静かな、耳触りの良い声が、淡々と言葉を紡いだ。ぱちりと琥珀の瞳を瞬かせると、エギエディルズはそんなクレメンティーネを見つめて続ける。
「元気でいる? 無事でいる? は、馬鹿馬鹿しい。この旅の中で、そんな言葉にどれだけの意味が込められると言うんだ。下手な期待を持たせるほうが残酷だろう」
思わず、息を呑んだ。言葉が見つからなかった。
クレメンティーネの知る限り、このエギエディルズという男は、随分と己の婚約者に入れ込んでいるようだった。ほんの僅かな繋がりでも持っていたいと思っているに違いないと思っていたのだが、エギエディルズの考えはその更に先をいっていたらしい。
意外だわ、とクレメンティーネは思うと同時に、確かにその通りだとも思う。
日々魔王の手の者に狙われ続ける旅の最中で、いくら元気だと、無事でいると、大丈夫なのだという言葉を尽くしても。その言葉を裏付けるものを、クレメンティーネ達は持ち合わせていない。
人々は自分達のことを『希望』だと呼ぶ。では、自分達にとっての『希望』は何なのか。少なくともクレメンティーネは、未だそれを見つけられずにいる。
「そう」
結局クレメンティーネは、短く答えることしかできなかった。他に何が言えただろう。
魔王討伐の命を国王から直接受けたのは突然のことであったとはいえ、エギエディルズは解っていたはずだ。いずれ自身がその命を受けることになるということを。クレメンティーネは、エギエディルズにそう宣告していた。
真実婚約者のことを思うのであれば、その時点で、婚約を解消しておくべきだったのではないだろうか。それをしなかったエギエディルズの、婚約者に対する執着心を、今更になって思い知らされた気がした。
何が『下手な期待を持たせるほうが残酷』だというのか。期待を持つことすらさせてくれないくせに、ただ大人しく待っていろだなんて、そちらのほうがよっぽど残酷だろうとクレメンティーネは思わずにはいられない。
――でも、それでも。
それでもこの男は、エギエディルズは、婚約者と繋がっているという自信があるのだ。自身にとって唯一であるという存在が、必ず自分を待っていてくれているという自信があるからこそ、エギエディルズはこんなことを言うのだろう。それは、なんて。
「傲慢、ね」
口の中で小さく呟いた台詞は、幸か不幸かエギエディルズの耳には届かなかったらしい。涼しい顔で再び目を閉じるエギエディルズをしばらく見つめ、クレメンティーネもまた目を閉じる。眠りはしない。ただ瞼の裏の真黒に身を任せるだけだ。
そして思う。己のことを心から待っていてくれる存在は、果たして存在するのだろうか。ふと浮かんだそんな疑問は、真黒の闇に溶けていった。
* * *
だからだろうか。そんなエギエディルズが、北の原生林にて高位魔族の襲撃を受けた時、自分達を庇ってその場に残り、自分達を転移魔法で近隣の宿場町まで転移させるなどというふざけた真似をするなどとは、クレメンティーネには信じられなかった。
生きて帰るとエギエディルズは明言した訳ではない。だがあの夜、彼は確かに生きて帰るつもりでいるのだと思ったのだ。希望などどこにも見えない旅路であるにも関わらず、その飛び抜けて賢い頭で、愚鈍なまでに彼は生還をーー己の婚約者の元に帰るつもりでいるのだと、そう思った。
それなのに、なんということだろう。なんて酷い裏切りなのだろう。自分はエギエディルズの婚約者でもないというのに、それでもクレメンティーネは怒りを覚えずにはいられなかった。
「馬鹿な男」
ぽつりと小さく呟いた台詞は、ユリファレットの耳にもアルヘルムの耳にも届かなかった。
エギエディルズの弟子であり、エギエディルズの生存が絶望的であるという報せを受けて王都から送られてきたウィドニコルという少年は、ぐすぐすと半泣きでユリファレットの「エギエディルズがそう簡単に死ぬはずがない」という台詞に頷いており、こちらに意識は向いていなかったため、彼の耳にもクレメンティーネの呟きは届かない。
「嫌だわ」
小さく、本当に小さく呟く。クレメンティーネは気付いてしまった。結局自分も、エギエディルズの生存を信じたがっているのだということに。生きて帰って、婚約者と幸せになってほしいのだと、そう思っているのだということに。
それは自己投影だ。自分には叶わない夢を、エギエディルズに映して見ていたことに、今更ながらに気付かされる。
ユリファレットの言葉を素直に頭から信じられるほど、クレメンティーネは甘ったるい世界に生きてはいない。けれど、それでも、と思う。それでもなお、あの男が生きているのであれば、クレメンティーネは少しくらい、希望とやらを信じてみてもいいかと思っている。
――そして、クレメンティーネは見ることになる。
魔王城を前にして、絶体絶命の危機に陥った時に現れた、朝焼けの光を。
髪は漆黒。瞳は朝焼け。男性とも女性とも取れる中性的な白皙の美貌に不敵な笑みを浮かべ、その男は杖を構えていた。
「――――遅くってよ」
目の前で具現化した希望を前にして、クレメンティーネは久々に、心からの笑みを浮かべた。
* * *
一目で、理解した。自分は、あの存在と出会うために、この世に生まれたのだと。
クレメンティーネの視線の先に在るのは、この世の魔すべてを統べる者――魔王と呼ばれる存在だ。
地に引きずる程長い、月影も星影も死に絶えた夜の闇よりももっと深い闇色の髪が、荒ぶる魔力に遊ばれ宙を舞う。深く昏い、一筋の光も差さない淵を覗き込んだかのような、底知れぬ真黒の瞳が、何の感情も伺わせず、最早満身創痍となったの自分達を見据えている。赤みのない青褪めた肌は陶器の如く滑らかで、その姿を目にした者は一瞬で心を奪われるという。
ぬばたまの魔王。
伝承においてそう記されている存在は、その手に闇色の大剣を軽々と携えて、今正に勇者の命を屠ろうとしていた。
「ッユリファレット!」
「目を閉じろ!」
クレメンティーネとエギエディルズの叫びが重なる。クレメンティーネの白い手と、エギエディルズの杖から、それぞれ鮮烈な光が放たれ、魔王をユリファレットから跳ね除けさせる。
ユリファレットから一旦距離を取った魔王は、緩慢な仕草でその首を擡げ、真黒の瞳をクレメンティーネへと向ける。そうして、闇を凝らせた真黒のその存在は、その称号に相応しからぬ、酷く優しげな、蜜が蕩けるが如き甘い笑みを浮かべた。その笑みはともすれば、愛しげな、と評してもおかしくはないような、あまりにも美しい笑みだった。
どくり、と。クレメンティーネの心臓が跳ねる。否が応にも高鳴る鼓動は、これまでに経験したことのないような感覚をクレメンティーネにもたらした。細い針が突き刺さるような切なさと、黄金の蜜を頬張るような甘さを伴ったその痛みに、拳を握り締める。
こんな痛みなんてまやかしだ。まやかしでなくてはならない。そうでなければ、これまでのクレメンティーネの人生すべてが否定されることになってしまう。
「――冗談ではなくてよ」
魔王のその笑みが嬉しいだなんて、ましてや愛しいだなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるものか。
爪が手のひらに突き刺さるほどに拳に力を込めながら、クレメンティーネは周りを見回した。
誰もが、もう、限界だということは、解りきっていた。アルヘルムは足を深く傷付けられ立つことが叶わず、ウィドニコルはその魔力のほとんどを使い果たして杖で立つことがやっとの状態だ。エギエディルズはまだ魔力は残ってはいるものの、魔王を傷付けるまでには至らない。そしてクレメンティーネもまた似たような状態だった。そして、ユリファレットは、地に付したまま微動だにしない。
そんな彼の姿を見たエギエディルズとクレメンティーネの視線が交錯する。そして、どちらからともなく頷き合った。
クレメンティーネの手と、エギエディルズの杖の魔宝玉が光を放つ。その暖かな優しい光は、魔王ではなくユリファレットの元に収束する。
ぴくりと、意識を失っていたはずのユリファレットの手が動く。聖剣を握り直し、よろよろと立ち上がる彼とは対照的に、クレメンティーネとエギエディルズはその場に膝を着いた。最後の力を振り絞った末での回復魔法だ。これですべてが決まる。誰もがそう確信した。
「っあああああああっ!!」
ユリファレットが、普段の穏やかさからは信じられないような声で吠えた。地を蹴って魔王の懐に飛び込んでいく。真黒の瞳がクレメンティーネへと向けられた。無意識に息を飲むクレメンティーネに対し、魔王は笑った。穏やかに。優しげに。愛しい恋人に愛を囁くが如く。すべてを受け入れ、許すと言わんばかりに。
からん、と。魔王の手から、大剣が落ちた。その薔薇の花弁の如く色付く唇から、つぅ、と一筋の鮮やかな赤が流れる。
そうして、己の胸に突き立てられた聖剣を見遣り、その視線を今度はクレメンティーネへと向けて、柔らかに微笑んでみせた。その凄絶なまでに美しい笑みに、クレメンティーネはその時、確かに目を奪われた。
聖剣が光り輝く。その輝きを呼び声にして、天から光が墜ちるの目にしたのを最後に、クレメンティーネの意識は、光の中に飲み込まれていった。




