(2)
一つの事実がある。それすなわち、クレメンティーネは恋を知らないということだ。
それは、彼女がこの国の姫君であり、女神の巫女でもあるという立場がそれを強いたからという理由もあるが、同時に、彼女自身が敢えて目を逸らしていたからという理由もある。
恋をしたからと言って何になると言うのか。それがクレメンティーネの持論であった。
両親である王と王妃は、政略結婚でありながらも、互いに互いを想い合うそれは仲の良い夫婦であったが、クレメンティーネは、そんな二人の関係が如何に稀有なことであるかを理解していた。
王である父と、元を正せば隣国の王女であった母が、政略結婚でありながらも恋仲となったとはいえ、自分にもそれが適用されるとは到底思えなかった。
結婚に対して夢を持っていない訳ではない。むしろ夢を持ちたいと思ってはいる。両親の仲睦まじい姿を見て、愛し愛される結婚にどうして憧れを抱かずにいられただろうか。自分だって、と、どうして思わずにいられただろうか。
けれど、自分が誰かに恋をするという情景が、クレメンティーネにはどうにも想像できなかったのだ。そんな暇があるならば政務に精を出していそうね、と、自分のことであるというのに、他人事のようにそう思っていた。
と、まあ、そういう訳で、クレメンティーネは、花の盛りの年頃になってもなお、初恋の『は』の字すらも知らずにいた。
そんな彼女の元には、当然の如く、大量の縁談が舞い込んでくる。縁談の申し入れそのものは以前からあったものの、その量は、クレメンティーネが結婚適齢期を迎えると、殊更倍増した。
その内訳は、国内のみならず他国からはもとより、年齢もまた下は五歳から上は六十歳、職種は職種で一介の貴族から、騎士、魔法使い、文官などなど、多種多様であった。現在の国内外の情勢を見て、どうやら国外からの申し入れは除外されているようであるが、それにしても多い。
今日も今日とてクレメンティーネは、大量の未来の王配殿下候補の資料の山を前にして溜息を吐く。
「……一応訊いておくのだけれど。これは、お父様達が厳選した後の資料なのよね?」
「はい。我々が調査し、陛下達にお伝えした後に、陛下自ら選ばれた方々の資料です」
厳選したくせにこの量なのか。クレメンティーネは、いかにもうんざりだという感情を隠しもしない。
そんな彼女に対し、感情を一切窺わせない声音で淡々と答えるのは、深い色の、身体の線を隠す外套に身を包んで跪いている存在だ。頭はフードを深く被り、左頬に満開の紅薔薇の紋章が入った仮面を着けて、その顔立ちは一切窺い知れない。
クレメンティーネが気に入っている紅薔薇宮の一角にあるテラスにおいて、燦々と陽光が降り注ぐ中、その存在は際立って異様だった。
だが、そんな存在と二人きりであっても、クレメンティーネは臆した様子も見せず、普段通りの態度で、至極つまらなそうに、テーブルの上に積み上げられた資料を次から次へと見比べていくばかりだ。
クレメンティーネは知っている。この存在が、自らを傷つけることなど在り得ないということを。この存在は、クレメンティーネの“影”だ。名前も年齢も性別すらも知らない、その存在。
六歳の時に引き合わされた時から、その黒の存在はクレメンティーネだけに付き従い、時に護衛として、時に密偵として、またある時には――暗殺者として、その名が示す通り、影ながらクレメンティーネを支えてきた。その存在は、クレメンティーネにとって、掛け値無しの本音を吐き出せる、数少ない存在でもあった。
そんな存在と二人きり、クレメンティーネはいずれ己の生涯の伴侶となるかもしれない輩達の調査資料を読んでいるという訳である。
「誰も彼も似たり寄ったりね。つまらないったらないわ」
いっそくじで決めてやろうかしら、と冗談ともつかぬことを嘯きながら、クレメンティーネは次の資料へと手を伸ばす。それまで見ていた十把一絡げとばかりに纏められていた資料の山とは別に、わざわざ付箋で選り分けられている資料の山に、首を傾げると、心得ているとばかりに影が口を開く。
「そちらは立候補ではなく、陛下方からのご推薦になります」
「お父様達の?」
性別も年齢も窺わせないその声音に、クレメンティーネは首を傾げる。なるほど、父であるあの王の推薦だとしたら、少しは面白みがあるかもしれない。
将来の王配殿下を選ぶにあたって、面白いかどうかで選ぶなどと不謹慎極まりないことくらい解っている。だが、いっそそうしてしまいたくらいには、クレメンティーネにとっては大した違いの見受けられない資料を見比べることに飽いていた。
この国の王が自ら推薦したのだという、立候補者達の資料と比べれば随分と少ない資料の山から、クレメンティーネは適当に一部を抜き取った。
「……あら、いけない」
そんな風に、粗雑に扱ったのが悪かったのだろう。推薦組の資料の山はバランスを崩し、テーブルから雪崩落ちていった。はあああああ、と、クレメンティーネは、その淡く色付いた花弁のような唇から、大きく深い溜息を吐く。これも王族としての義務であるとはいえ、つくづく気が向かない作業である。
そう、作業なのだ。「あの方はどんな方なのかしら」、「この方はどんな方なのかしら」なんて、夢見るような可愛げなど持ち合わせていない。そんなものはとうの昔に摩耗しきって塵芥となってしまった。
いい加減目も疲れてきたところであるし、休憩でもしようかしら、と、紅茶をクレメンティーネが口に運ぶのを余所に、迅速に影は、地面に落ちた資料を拾い上げて纏め、クレメンティーネの前に差し出した。全く以て優秀な影である。この場合はあまりありがたくはないが。
差し出された資料を受け取り、その一番上に乗っている資料の一行目を目にして、クレメンティーネはふとその琥珀色の瞳を見開いた。
「――――エギエディルズ・フォン・ランセント?」
クレメンティーネの視線の先、そこに記されていた名前を口にして、首を傾げる。その拍子に肩からさらりと零れ落ちた己の白銀の髪を耳に掛け直しながら、クレメンティーネはその資料に目を滑らせ始めた。
その名を知らないが故に首を傾げた訳では決して無い。当たり前だ。誰もがその名を一度は耳にしたことがあるだろう。歴代最強とも謳われる、若き王宮筆頭魔法使いの名を知らぬ者など、この国にいないに違いない。
かの魔法使いがその名を世間に知らしめている、その理由。それは、ただ単に彼が『筆頭魔法使いであるから』という理由ばかりではない。
夜の妖精とも見紛う、中性的な絶世の美貌。男性的でもあり、女性的でもある、その浮世離れした美しさは誰もの目を奪い、一種の畏怖すら覚えさせる。
クレメンティーネも、遠目ではあるが、新年の式典の際にその顔を初めて目にして、「なるほど、あれでは噂にもなるわね」と、内心でごちたことを思い出す。
透き通るような、雪花石膏の如き肌に、通った鼻梁、薄く形の良い、紅を刷いた訳でもないというのに淡く色付いた花弁のような唇。自然と目が引き寄せられずにはいられない、橙色と紫色が入り混じる、まるで朝焼けを掬い上げたかのようなその瞳。
そして何よりも、その存在を周囲に知らしめている要因は。
「あの純黒の魔法使いが、あたくしの結婚相手、ねぇ」
ぽつりと呟いた台詞に、影が答えることはない。
そう、純黒。エギエディルズの存在が、世間に知らしめられている理由は、正にそれだ。あの、濡れたように艶めく漆黒の髪が、まざまざと脳裏に思い出される。誰もが認める、誰もが厭う、純粋な黒。
髪の毛の黒は、生まれ持つ魔力の高さをそのまま表す。エギエディルズは、恐らく、今代唯一の、純黒の髪を持っていた。
果たして父やその側近達は、一体何を考えているのか――クレメンティーネは再度首を傾げる。
王宮筆頭魔法使いともあれば、確かに、自分の伴侶としては釣り合いが取れているだろう。だが、あの漆黒を民はそうやすやすとは受け入れられないに違いない。
クレメンティーネは、己の立場というものをよくよく理解している。この国の守護神であらせられる女神の加護を受けて生まれ落ちた、女神の愛し子。奇跡の巫女姫。唯一無二の生ける宝石。
自分で論うと馬鹿馬鹿しくなるような、ご大層な看板を、クレメンティーネは背負っていた。そんな自分の伴侶に、影では魔物、化物と恐れ称されるような魔法使いを候補者として挙げてくるとは、冗談にしては少々遊びが過ぎている。となれば、王である父は、本気でこの王宮筆頭魔法使いを、推薦しているのだろう。
その理由は恐らくは、この国――否、この世界において、唯一無二であろう純黒の魔法使いを、この国に縛り付けておくためといったところか。
かの魔法使いを他国に奪われる訳にはいかないことくらい、クレメンティーネはよく解っていた。どれだけ忌み嫌い、恐れ戦こうとも、あの強大な魔力を持つ魔法使いを、この国は手放せない。エギエディルズ・フォン・ランセントという存在は、最早それだけ、この国の中枢に食い込んでいた。
「全く難儀なことね……あら?」
その台詞に込められた感情は、同情だったのだろうか。自分でもよく解らないままに資料を読み進めていると、クレメンティーネの琥珀色の瞳が、とある一行で止まった。
「……婚約者?」
予想外のその単語に、一瞬思考が停止する。婚約者。それすなわち、結婚の約束をした相手、である。
エギエディルズには、そんな女性がいるらしい。それも、随分と昔から。かの魔法使いに浮いた噂一つ上がらないのは、彼が黒持ちであるが故かと思っていたのだが、どうやら理由はそればかりではなかったようだ。
すぐ傍に控えている影に、どういうことかと視線を遣れば、心得たとばかりに影はひとつ頷いてみせた。
「御仁が九歳のみぎりに、高位火精の暴走を起こしたそうです。それに巻き込まれたのが、現在の婚約者である、フィリミナ・ヴィア・アディナ嬢だと報告を受けております」
「そう。あのアディナ家の、ね」
アディナ家という名には確かに聞き覚えがあった。代々、魔導書司官という特殊な役目を担ってきた家系である。そんな家の娘が婚約者、とは。
影の説明をそのまま受け取るのであれば、その経緯はあまり穏便なものではなさそうだ。あの魔法使いの婚約者という立場など、もっと昔から大っぴらにされていてもおかしくはない。そうされていないのは、何かしらの事情があるということなのだろう。火精の暴走に巻き込まれたのだと端的に影は言うが、それが婚約のきっかけとなったのであれば、そのフィリミナという娘の負った怪我は相当なものであったのだろうことが窺い知れる。
テーブルの上にエギエディルズの資料をばさりと少々乱暴に置いて、クレメンティーネはその柳眉を僅かに潜めた。
「婚約者がいる相手をわざわざ推薦してくるなんて、お父様達も趣味の悪いこと」
それだけ、純黒の魔法使いに重きを置いているのか。解らないがしかし、略奪愛などという七面倒臭いことなど御免である。この自分の成すことに、そのアディナ家の娘が文句をつけてくることなど不可能であると言ってもだ。
よって、エギエディルズは、自分の選択肢の中から外れるのである――が、しかし。
「いいわ。この男と、話す場を設けましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。少し、興味があるのよ」
紅茶を口に運び、それ以上言葉を続けようとはしないクレメンティーネに、影は静かに腰を折って答えた。
* * *
やがて、その日はやってきた。
王宮の中庭に位置するとある東屋で、侍女と騎士が数多く控え並ぶ中、そんなものは意にも介さぬといった様子で、王宮筆頭魔法使いエギエディルズ・ファン・ランセントは、クレメンティーネの前で頭を垂れた。
巷では、その容姿は夜の妖精のようだと謳われていると聞いていた。だが、実際この目で間近に見ると、ますますその美貌が冴え渡るかのようだった。いっそ女性的にすら見える、どこか儚げな、繊細さを持つそのかんばせ。
自慢ではないが、クレメンティーネは己の美貌というものをよくよく理解している。そんじょそこらの輩では、隣に立つことなど到底叶わぬに違いないこの美貌。だが、エギエディルズの美貌は、そんな自分の横に立っても何ら不都合のない、むしろ似合いだとすら言われるのではないか、と思わせられるものだった。これで黒持ちでさえなかったら、社交界はさぞかし喧しいことになっていたことだろう。
そう、黒持ち。この世界の誰もが本能的に恐れ厭うその色彩は、この目の前の男には、この上なく似合っているようにクレメンティーネには思えた。それは彼にとっては、皮肉なことなのかもしれないけれど。
「ふぅん? 噂の通り、人形のような顔をしていること」
表情の一切を削ぎ落とした美貌は、正しく人形のそれだ。ぴくりとエギエディルズが肩を震わせる。周囲の侍女と騎士達が慌てたように自分達を見比べているが、クレメンティーネにとって、そのようなことは些末だった。
エギエディルズのその無表情の下では、クレメンティーネのことをとんだじゃじゃ馬だとでも思っているのかもしれない。言葉にせずとも、エギエディルズの纏う雰囲気がそう語っていた。思っていたよりも解りやすいその態度に、ついつい笑みを零しつつ、クレメンティーネは正面の席をエギエディルズに勧めた。
姫君の言葉に大人しく従い、正面の椅子に腰を下ろすエギエディルズに、クレメンティーネは大輪の百合の花が綻ぶかのようだと評される笑みを浮かべて口火を切った。
「回りくどいのは好きではないの。だから単刀直入に言いましょう。あたくし、結婚相手を探しているの」
「……は?」
その瞬間のエギエディルズの表情は、正に見物であったと言える。氷でできた彫刻のように冷然とした美貌が、その瞬間、確かに溶けた。それは本当に、ほんの一瞬であったけれど、その瞬間のエギエディルズの表情は、人形などではなく、確かに生きた人間のそれになった。
その美しい朝焼け色の瞳を瞬かせ、唖然とこちらを見つめてくる魔法使いに、ふふ、と笑ってクレメンティーネは続ける。
「第一王位継承者として生まれたこの身よ。それも女神の加護なんて厄介な付加価値付きでね。今の情勢を鑑みても他国から下手に婿を取る訳にもいかないから、こうして国内から候補者を適当に見繕って招いているってわけ。お解りかしら?」
「……お言葉ですが姫、私には既に婚約者が」
「あら、そんなことくらい解っていてよ。将来の夫となるかもしれない相手の調査をすることくらい、貴族の間ではよくある話でしょう? 王族であるあたくしなら猶更だわ」
小首を傾げながら続けると、今度こそあからさまにエギエディルズはその整った眉を顰めさせ、朝焼け色の瞳で睨み付けてきた。どうやら相当お気に召さない内容であるらしい。まあそれも当然だろう。いざとなればそんな婚約など、王命を以て解消させるのも吝かではないと、自分は言っているようなものなのだから。
クレメンティーネのその発言に対し、エギエディルズは目の前の紅茶に手を出すこともなく、感情を押し殺した声音で答えた。
「私は、彼女以外と結婚するつもりはありません」
「でしょうね」
将来を誓い合った、フィリミナ・ヴィア・アディナという、この男の婚約者の存在。エギエディルズは王宮筆頭魔法使いともなった身だ。いくら相手に生涯消えぬ傷を負わせたという過去があったとしても、その気になれば、幼い頃の婚約など、解消するのは容易いことだろう。
だが、この男はそれをしなかった。己の影に、より詳しく調べさせたところ、この男は、今か今かと、婚約から結婚に踏み切る機会を狙っているらしい。全く、なんて解りやすいのだろう。この男は、最初から、フィリミナ・ヴィア・アディナという存在しか見てはいないのだ。
こちらのあっさりとした返答に対して、拍子抜けしたように固まっている男の美貌を、クレメンティーネは見遣る。男のその美貌にそぐわない、どこか間の抜けた表情に、思わず笑ってしまった。
「ふふ、お気に触ったかしら? 見てみたかったのよ。稀代の魔力を持つ漆黒の魔法使いを。それだけの力を持ちながら、たったひとりをもう決めてしまっている貴方を」
貼り付けた笑顔の裏で、クレメンティーネは、ああ、と溜息を吐く。
この男にとっての、唯一の存在。ああ、それはなんて、羨ましいことなのか。そう思わずにはいられない。これまでに誰に言ったこともなく、これからも誰にも言うつもりもなかったその言葉を、内心でのみ呟く。
自然と笑みに苦いものが混じりそうになったところを堪えて、クレメンティーネは続けた。
「あたくしとて、結婚というものに夢を持ちたいのよ。お父様とお母様を見ていると、余計にね。貴方とでは駄目だわ。傷の舐め合いなんて冗談ではなくてよ」
例え『恋をしている自分』というものが想像できなくても、それで諦めるか否かは別の問題だ。仲睦まじい両親の姿は、否が応にも、将来の自分を想像させる。そんな自分に対して、父である王はこの男を推薦してきた。その意図が、実際にエギエディルズという男を目の前にして、初めて解った気がした。
確かに、『王』としての彼は、このエギエディルズという男を、この国に縛り付けるための楔として自分の伴侶として推薦してきたのだろう。けれど、『父』としての彼は違う。クレメンティーネの父は、クレメンティーネの孤独を理解し、それを埋めるために、この男を選んだに違いない。
この男と、自分。黒と、白銀。魔に属するとされるものと、聖に属するとされるもの。それは一見相反しているようで、実は違う。背中合わせに立っているようなものだ。何よりも遠いようでいて、それでいて本当は何よりも近い位置にある。生まれた時より『選ばれた』立場にある自分達は、本当はきっと、とてもよく似ているのだろう。
――けれど。
クレメンティーネは、脳裏に浮かんだ王の姿に首を振る。父は、自分のためを思い、この男を推薦してきたのだろう。けれど駄目だ。駄目なのだ。
もしも自分達が結ばれたとしても、虚しいだけにすぎないと解る。解ってしまう。同じ孤独を抱える者同士が結ばれても、この胸にある空虚は埋められない。いくら傷を舐め合おうとも、魂に刻み込まれた傷は癒えないに違いない。
そんな、こんなにも似ている自分達には、絶対的な違いがある。この男には既に唯一の存在がおり、自分にはそれがいないことだ。クレメンティーネにとってそれは、絶望的な違いでもあると言えた。
だからだろうか。椅子から立ち上がり、踵を返して去って行こうとするエギエディルズに対し、少し、意地悪を言ってやりたくなった。
「ああでもそうね。一つ、いいかしら」
「…なんでしょう?」
訝しげに、そして嫌そうに振り返ってこちらを見つめてくる朝焼け色の瞳に、クレメンティーネは悪戯気に笑いかける。
「女はね、確かに千の言葉より一の態度を望む生き物だけれど、同時に、たった一つの言葉を欲しがる生き物でもあるのよ。貴方は言葉が不自由そうだから、助言して差し上げてよ」
エギエディルズの整った眉が顰められる。ひらりと手を振ってやれば、今度こそエギエディルズはその場を立ち去っていった。
残されたのはクレメンティーネと、その世話役の侍女、護衛の騎士達だ。
純黒の魔法使いの姿が完全に見えなくなった時、誰からともなく溜息が漏れた。張り詰められていた空気が緩む音が聞こえた気がした。
あらあら、と涼しい顔で紅茶を口に運ぶクレメンティーネに、馴染みの侍女が半泣きで声をかけてくる。
「姫様……! どうかもっとご自分を大切になさってくださいまし! 御身は姫様のものだけではないのですから!」
「大袈裟ね。別に取って食われる訳でも無いのだから構わないでしょう」
相手は話の通じない獣ではなく、同じく言葉を介する人間だ。侍女の大仰な言い振りに思わず呆れたような視線を向ければ、侍女は頭を振って我が身を抱き締めた。
「いいえ、そんなことは解りません! 相手はあのエギエディルズ様ですよ!? あの黒髪をご覧になられたでしょう、ああ、なんて恐ろしい……! 私どもは生きた心地がしませんでしたわ」
その言葉に、他の侍女や、騎士までもが頷いてくる。全く情けないことだ。自分達を護るこの城の結界を作っているのが誰なのか、知らない訳でもあるまいに。一つ溜息を吐いて、クレメンティーネは頷いた。
「はいはい。肝に銘じておくわ」
「姫様!」
「解っているから、そう目くじらを立てないで頂戴」
――本来、黒持ちを……しかも、あれほどまでに純粋な黒を前にしたならば、この侍女達のような反応をするのが、一般的な、正しい反応なのだろう。
だが、あの黒髪という色眼鏡を取ってしまえば、なんてことはない。あの男は、ただの恋する男に過ぎないということに、どうして皆気付けないのか。エギエディルズの態度は、あんなにも解りやすかったというのに。
これが『黒持ち』に対する現実なのかと思うと、エギエディルズに同情したくなるといったものだ。まあそうは言えども、あの男は、クレメンティーネのそんな同情を、決して望まないだろうけれど。
クレメンティーネは紅茶の最後の一口を飲み干して、椅子から立ち上がる。
「さて、目的も達成したことだし、そろそろ茶会もお開きにしましょうか。皆、持ち場に戻りなさい」
ぱんぱん、と両手を打ち鳴らし、クレメンティーネは周囲の侍女や騎士達に命じた。その言葉を受けて、侍女達はティーセットの置かれたテーブルの上を片付け始め、騎士達はそれぞれ一礼し、その場を去っていった。
この茶会は、忙しい公務の合間を縫って場を設けたものだ。まだまだしなくてはならない仕事は残っている。己の執務室へと、侍女を引き連れて向かいながら、クレメンティーネは思う。思ったよりも有意義な時間だった、と。やはり噂ばかりではあてにならない。いくらあの影に調べさせても、この目と耳で確かめること以上に確実なことはない。
「……ふふ」
「姫様?」
思わず笑みを零すと、一歩引いた場所を歩いていた侍女が不思議そうに問いかけてくる。そんな彼女に向かって肩越しに振り返り、足を止めて人差し指を唇に寄せる。
「内緒よ」
「はい?」
不思議そうに首を捻る侍女を後目に、再びクレメンティーネは前を向いて歩き出す。脳裏に蘇るのは、朝焼け色の瞳に不機嫌そうな光を宿した、あの絶世の美貌。わざわざ時間を割いてまで顔を合わせた甲斐があったものだと、クレメンティーネはご機嫌に笑う。それは新しい玩具を見つけた子供の笑みにも似ているのだと気付いた者は、その場にはいなかった。




