(12)
薄らと目を開けて最初に目に入ったのは、白い天井だった。自宅である屋敷の天井とも、あの男の研究室の天井とも違う、私の知らない天井がそこにあった。
どうやらベッドの上に寝かされているらしいと遅れて気付く。身動ぎしようとしても、身体は鉛のように重く、ぴくりとも動いてはくれない。
鼻につくのは薬品特有のツンとした香りで、耳からは何も入ってこない。いっそ空恐ろしいほどに静まりかえっている空間に耳が痛くなりそうだ。あまりにも静かすぎて、本当に私が目覚めることができたかどうかすら疑わしく感じさせる。
けれど、大丈夫だ。私はちゃんと目覚めている。この手を握りしめている温もりが、これが紛れもない現実であることを、確かに教えてくれている。
視線を天井から逸らして、横へと向ける。そこには、私の片手を両手で包み込み、私が寝ているベッドに両肘をついて椅子に座っている、我が夫たるあの男の姿があった。
伏せた睫毛は濃く長く、色の失せた白い頬に影を落とし、薄く色付く唇は何かを耐えるかのように噛み締められている。月影のヴェールを纏い、星の煌めきを髪の散らして舞う夜の妖精すら恥じ入るだろうその美貌は、今は陰りを帯びていた。いつもであればただそこにいるだけで気圧されてしまいそうな程に迫力がある美貌だというのに、今はどうしたことか、迫力はおろか生気、存在感すらもが感じ取れない。
私が目覚めたことに気付いた様子は無かった。微動だにせず、ただ私の手を握って目を閉じているその姿は、さながら祈りを捧げているかのようだ。まるで宗教画だ、なんて言うのは身内の欲目だろうか。ともすれば女性であると言い張っても通用してしまいそうな中性的な容貌は、元々白く透き通るようではあったけれど、今はそれを通り越して青白いと言っても過言ではない。
らしくない。全く以てらしくない姿だ。いつもの小憎たらしいくらいに泰然とした様子はどこに放り投げたのか。こんなにも殊勝な様子を見せつけられると、何を言おうとしていたのか解らなくなってしまう。たくさん、本当にたくさん、言いたいことはあったはずであるのに。
「エ、ディ」
口はカラカラに渇いていた。舌が上手く回らない。それでもなんとか絞り出した声に、男が弾かれたように顔を上げた。そしてそのまま、私の顔を覗き込んでくる。信じられないとでも言いたげなその表情に、私は硬直してしまっている顔の筋肉を総動員させて、ぎこちなく笑った。
「…フィリミナ?」
「はい」
確かめるように私の名前を呼ぶ男に返事をする。限界までピンと張り詰めていた糸が緩むように、男の顔が歪んだ。そんな表情を浮かべてもなお美しい男の手を、力がなかなか入らない手で握り返すと、朝焼け色の瞳に宿る光が、見る見るうちに変化していく。私の手を握りしめる男の手に、更に力が込められる。ゆらり、と男の朝焼け色の瞳の中の光が揺れた。
あ、これはまずい。そう私が内心で呟くと同時に、男の怒声が、私の鼓膜に大きく叩き付けられた。。
「―――――この、馬鹿が!」
びりり、と空気が震えた。情けも容赦もあったものじゃないその怒声は、寝起きの頭には少々どころでなくきついものがある。部屋の空気そのものを塗り替えるようなその声に、ぱちくりと思わず瞬きをした。靄の掛かっていた思考が一気に覚醒した。
…言うに事欠いて『馬鹿』とは。もう少し別の言い方があるのではないかと、文句の一つでも言いたくなった。けれどそれはできなかった。私が口を開くよりも先に、男がすさまじい勢いで畳みかけてくる。
「何を考えている!? あの程度の攻撃で俺がどうにかなどされるものか! それなのに、それなのに俺を庇うなど、なんて馬鹿な、余計な真似を…!」
男の声は怒りに打ち震え、それ以上は言葉にならないようだった。あらまあ、と内心で呟く。言い訳など許さないとでも言いたげに睨み付けてくる朝焼け色の瞳は、怒りの炎が爛々と燃え盛っている。これで、他人からは『何を考えているか解らない』『感情が読み取れない』などと散々言われているのだからお笑い種だ。私や、ランセントのお義父様にしてみれば、こんなにもこの男は解りやすいというのに。
ふと笑いが込み上げてきた。押さえることができず、そのまま笑みを零す。火に油を注ぐことになることは解っていても押さえきれない。笑うと身体が痛むけれど、一度笑い出してしまうともう駄目だ。男の瞳が、更に鋭さを増す。睨まれているのは他ならぬ私自身だというのに、ああこわいこわい、と他人事のように思う。それが暗に伝わったのか、ぎらりと朝焼け色の瞳がこれまた底冷えするような光を放って私を睨んだ。
「何がおかしい!」
「ふ、ふふ。だって、エディ、あなたったら」
ベッドの上に横になったまま、握りしめられていない方の手を伸ばす。自分の身体だというのに、腕もまたやはり鉛のように重い。それでもなんとか男のその白皙の美貌に触れる。
男は、私の突然の行動に息を呑んだ。続けようとしていたのであろう言葉を呑み込んで私を凝視してくるその表情に、思わずまた笑ってしまう。
仕方の無い人。改めてそう思わずには居られない。本当に気付いていないのだろうか。指先でその頬のラインをなぞり、私はいつものように笑いかけた。ねぇ、だって、あなたったら。
「怒っているのに、泣いているのですもの」
朝焼け色の瞳から零れ落ちる雫が、止め処なく男の頬を伝い落ち、私の顔までぽたぽたと落ちてくる。なんて温かな雨だろう。指先を濡らす熱い雫は、ただの水滴に過ぎないはずであるというのに、まるで真珠のように美しい。
男は、そこで初めて自分が泣いていることに気付いたらしい。けれどその涙を拭うこともせず、ますます強く私の手を握りしめて、静かに滂沱の涙を流しながら吐き捨てた。
「っ誰が、泣くか…!」
「あらあら」
随分と素直でないことだ。どの口がそんなことを言うのだろう。明らかに泣きながら、震える声音でそんなことを言われても、何の説得力もないというのに。なんとか堪えようとしているようだけれど、呑み込みきれない嗚咽が男の口から零れている。
いい歳をした男の泣き顔なんて見ても、感動も何もあったものではないはずである。それなのにこの男がこうして泣く姿は、それだけで目を奪われ見惚れてしまいそうなほど美しい。その涙を上手く拭ってあげられないことが、こんなにも悔しく思うことになるなんて。
…思えば、この男の泣き顔なんてものを見るのは、これが初めてなのではないだろうか。幼かったあの日ですら、涙を堪えて―――いいや、泣き方そのものを知らず、ただ唇を噛み締めることしかできずにいたこの男が、こんな風に泣くことになるとは、思いもしなかった。それは、今になってようやく、泣き方を理解したと言うことなのだろうか。その事実に、いっそ感動すらしてしまう。それは、とてもいいことだ。とても、とても、いいことなのだ。あぁ、なんだか私まで泣きたくなってきた。
この男が泣いてくれるのが嬉しい。もちろん、泣かせてしまったことに対して罪悪感が無い訳ではないけれど、それ以上に、不謹慎にも、この男が涙を流してくれる、その事実が嬉しくてならない。
白磁の頬を伝う涙は、相も変わらず止め処なく私の手を濡らす。凄烈な美貌が私を見下ろしている。その表情は、何と表現したらいいのだろう。憤懣遣る方無しとでかでかと顔に書きながら、それでもどうしようもない安堵を浮かべている、その表情を。見ているだけで胸が詰まる表情に、謝ってしまいたくなる。けれど、私は。
「……謝りませんよ」
「なんだと?」
「謝らない、と申しているのです」
男にとっては予想外の台詞だったのか、朝焼け色の瞳が瞬いた。その拍子に透明な雫が私の指をまた濡らす。
そうだとも。私がこの男を庇ったのは、この男のためではない。私自身のためだ。私が、この男が傷付くことが許せなかっただけだ。だから気付いたら身体が動いていた。
でも、まさかこんな風に泣かれるとは思わなかった。怒られるかもしれないとは思ったけれど、泣かせたくて庇った訳では決してなかったのだ。それなのにこんな風に泣かれてしまっては元も子もない。だからどうか泣かないでほしい。泣いてくれるのは嬉しい。しかし、泣かせたかった訳では決して無い。それはなんて矛盾だろう。
我ながらわがままなものだと内心で苦笑していると、男は何やら、はくり、と何かを言おうとして、結局口を閉ざした。ぽたり、と再び頬に男の涙が落ちてくる。
「結局、お前はいつもそうだ」
その紫と橙が入り混じる、夜明けの空の帳を切り取ったかのような美しい瞳。未だ透明な雫を湛えたその瞳で真っ直ぐに私を見下ろして、男は私の手を両手で握りしめたまま続ける。
「いつもいつもそうやって俺を甘やかすくせに。それなのにお前は、俺が一番させてほしいことをさせてくれない」
血を吐くような声音だった。怒りを押し殺しているような、悲しみを飲み干しているような、悲痛な声だった。
これは、責められているのだろうか。そんな疑問が浮かんで、すぐにそれを自分で打ち消した。違うのだ。男が責めているのは私では無い。私に庇われてしまった、自分自身であるに違いない。それは、なんて馬鹿馬鹿しい思い違いだ。
「エディ」
「…なんだ」
低い声音はそのまま男の機嫌を表していた。睨み付けてくる男を見つめ返して、私は笑う。
「だって、わたくし、ただ大人しく守られたい訳ではありませんもの」
そう、言ったではないか。守られるだけではもう足りないのだと。隣に、立ちたいのだと。救世界の英雄のひとり相手になんて烏滸がましいことを言っているのかという自覚はあるが、それでも、これが掛け値のない本音だった。
男は虚を突かれたような顔をして、改めて私を見下ろした。ベッドに身を預けたままそんな男を見上げる。左目の下に走る傷痕が改めて目に付いた。それが、私の知らない場所でこの男が傷付いてきた証であるような気がした。集大成だと言うには、あまりにも些細な傷だけれど。それでも、この身が少しでもこの男の楯になれると言うのなら、これ以上のことはない。
「わたくし、後悔はしておりません。むしろよくやったと自分で自分を褒めてやりたい気分です」
にっこりと笑って言い放つと、男は今度は口いっぱいに苦いものを押し込められたような顔をした。そんな顔をしても美形は美形なのだから面白いものだ。私の手を握りしめていた男の手から力が抜ける。私の手をベッドの上に戻して、男は深々と、肺の底から汲み上げたかのような溜息を吐いた。
「―――――お前がそう言うのならば、俺はもう何も言わない。礼も言わん。ましてや謝罪など以ての外だ」
「はい。そうしてくださいまし」
「…この、馬鹿が」
力強く言い切られてしまった。そのくせ口調からは想像もできないような優しい手付きで、男は私の頬を撫でた。まるで甘えてくるかのようなその手がくすぐったい。どこか幼子じみた反応に、思わず笑ってしまう。むっとしたように私を睨み付けてくる瞳から、涙が一筋、頬を伝って落ちていった。
それが最後の雫だということを確認しつつ、完全に寝そべっていた体勢から、上半身を起こそうとする。
「おい、待っ」
「―――ッ」
男の声かけとほぼ同時に身体に走る痛みに、全身が震えた。身を起こすことは叶わず、再びベッドに上半身を逆戻りさせる羽目になる。無言で悶絶する私の手をまた握って、男はその声にようやく気遣わしげな色を乗せ、私の身体を掛け布団の上からぽんぽんとごく軽く叩いた。
「無理をするな。今のお前は痛み止めが効いているだけで、傷が完治した状態である訳ではないのだからな」
「は、い」
なるほど、目覚めてからずっと全身が鈍い倦怠感に付きまとわれているのはそのせいか。痛み止めが効いた状態でこの痛みとは、薬が切れた後が恐ろしくなる。
そういえば、今更の疑問ではあるが、ここは一体どこなのだろう。視線を彷徨わせると、その視線の意図に気付いたらしい男が、「ああ、」とひとつ頷いた。
「ここは白百合宮の治療室だ。医務官には席を外させた」
「然様ですか」
「お前の傷そのものは、姫と俺の魔法と、医務官の治療でなんとか落ち着かせた。だが、呪いがかかった状態のお前が目を覚ますかは、分の悪い賭けだった」
淡々と男はそう続けるが、そこに宿る怒りは未だ根深いらしい。おどろおどろしい響きを持ったその声は、これ以上この話題を続けることは藪蛇だと告げているが、それでも訊かずにはいられなかった。
「エディ、もしもの話ですけれど」
「なんだ」
「もしも、わたくしが目覚めなかったら、どうなさっていましたか?」
朝焼け色の瞳が見開かれ、一拍おいて、皮肉げに眇められる。
「…さあな。俺にも解らん」
「まあ、あなたにも解らないことがあるのですね」
「あまり褒められているようには聞こえないな」
「そうですか?」
「ああ。嫌味に聞こえる」
それはまた失礼した。曖昧に笑って誤魔化す私に、男はそう言って、不機嫌そうにしながら、枕の上に散らばった私の髪に指を絡めて玩ぶ。そうして、ふ、と笑みを浮かべた。その笑顔は確かに見惚れるほどに美しいのに、何故だ。なんだ、今私の背を駆け抜けていった悪寒は。
「―――ああ、でも、そうだな」
「は、はい?」
寒い。魔法で適温に保たれているはずの部屋の温度が、何故か急激に下がった気がする。恐る恐る男を見つめていると、冷たい光を宿してゆらめく朝焼け色の瞳と、視線がばっちり噛み合った。同時に体感気温が更に低くなる。寒い。寒すぎる。がたぶると震える私の内情を知ってか知らずか、男はわらった。凄絶、と表現するのがぴったりな笑み。
「もしもお前が目覚めなかったら。その時は第二の魔王にでもなって、世界までとは言わずとも、国のひとつやふたつ程度は、滅ぼしていたかもしれないな」
「……………冗談ですよね?」
「半分はな」
「………」
思わず沈黙する私を見遣り、くつくつと男は喉を鳴らす。まるで悪戯が成功した子供のような笑い方に、からかわれたことを知る。遅れて私も「うふふふふ」と笑うが、その笑いが乾き切ったものであることに、この男は気付いているに違いない。
だって『半分』って。繰り返すが、『半分』って! 半分冗談だということは、残りのもう半分は本気だと言うことではないか。それこそ冗談ではない。良かった、本っ当に目覚められて良かった。魔法使いの婚約者から救世界の英雄の妻へとジョブチェンジしたと思ったら、今度は魔王の妻にジョブチェンジだなんて笑えない。
してやったりと言わんばかりの男の頬を抓ってやりたくなるが、ベッドに縛り付けられたかのように自由にならないこの身体ではそれも叶わない。万事休すである。
大人しくベッドに身を預けて男を見上げ、一息吐く。男の手が伸びてきて、頬に掛かった私の髪を払った。
そうして、それから、どれだけ時間が経ったことだろう。大した時間では無かったのだろうけれど、酷くゆっくりとした、久々に味わう安寧の時間だった。互いに何も言わず、ただただ静かに時を過ごす。ずっとそのままでいたい気もしたけれど、そうは問屋が卸さないことも解っていた。訊きたいことが、訊かなくてはならないことが、私にはあった。
「―――――セルヴェス様は?」
ぴしり。空気が凍り付く音というものは、こういうもののことを言うのだろう。セルヴェス青年の名を口にした瞬間、また男の纏う雰囲気が硬質化したのを感じた。
「気になるのか」
「はい」
気にならない方がどうかしている。セルヴェス青年の放った魔法により、現在の私の状況がある訳だが、意識を失っていた間に何が起こっていたのか、私は何一つ知らないのだ。
不思議なことに、こんなことになってもなお、セルヴェス青年の心象は変わらない。殺されかけたというのに何を脳天気なと目の前の男には言われるかもしれないが、セルヴェス青年が憎いだとか、怖いだとか、そういう負の感情は湧いてこない。敢えて言うのであれば、申し訳ない、という感情が付与されたということだろうか。ああでも、セルヴェス青年にとってしてみれば、私の存在は憎しみの対象になってしまったかもしれない。だとしたら、それは悲しいことだ。彼の存在は、私にとって、そう思えるくらいの存在だった。
いかにも“言いたくない”という雰囲気を醸し出していた男は、私が退く気が無いことを悟ったのか、溜息混じりに口を開いた。
「あいつは騎士団預かりとなった。今は尋問を受けている頃合いだろう」
「そう、ですか」
予想通りと言えば予想通りの返答に頷きを返す。まあそれが妥当な線だろう。訊くまでもないどころか、考えるまでもないことだ。魔族との契約は重罪である。彼はその罪に相応しい罰を受けることになるのだろう。そして私の元にはまた平穏な日々が戻ってくる。もう二度と彼に、会うことは無いままに。それが当たり前のことなのに、どうしてだろう。胸が痛い。何もおかしなことなど無いのに、身体ではなく心が痛む。
「エディ、あの…」
何を、言おうとしているのか。自分でも解らないままに、そう口走っていた。けれどそれ以上は言葉にさせてもらえなかった。男の白い手が伸びて、私の両目を覆った。
「少し眠れ」
「ですが」
「ちゃんと側に居る。話も後でちゃんと聞く。だから、今は休め」
前髪を払われ、額に柔らかな感触が落ちる。口付けられたのだと気付くと同時に、漣のように睡魔が穏やかに押し寄せてくる。こうなってはもう何も言えず、大人しく目を閉じるしかない。
もっと聞きたいというのが本音だったけれど、ひたひたと睡魔に浸されていく私の意識はそれを許してはくれなかった。眠くて眠くてたまらない。それが男の魔法によるものなのか、目を覆う温もりのせいなのかは解らない。何故か溢れそうになる涙を、男の手が隠してくれているのが有り難かった。
眠ることに対する恐怖は無い。もう悪夢は見ないことを、私は知っていたから。




