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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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      (11)

華奢な身体から噴き出した赤は、目を奪われずにはいられないほどに、いっそ美しいとすら言えるほどに、ただただ鮮やかだった。

赤黒い光の刃に貫かれ、その衝撃のままに宙を舞った身体は、一拍置いて、どさりと音を立てて倒れ伏した。

そして、地の上に、静かに、けれど確かに広がっていく赤い液体を、エギエディルズは不思議と淡々とした気持ちで見下ろしていた。


「フィリミナ?」


そう呟いた声が自分のものであると気付くのに、エギエディルズは少々の時間を要した。他者よりも回転が速いという自覚のある頭脳ですら、目の前の光景が一体どういう状況であるかを理解できないでいた。

いいや、そうではないのだろう。理解できないのではなく、理解したくないだけだ。この目が、頭が、心が、全てが、現状を受け入れることを拒絶している。

エギエディルズの、杖を握りしめていた手から力が抜けた。杖はするりと手から離れ、芝生にその身を受け止められる。シャン、と一度だけ、その装飾が涼やかな音を立てたのが、酷く場違いだった。


「フィリミナッ!」


クレメンティーネの悲鳴のような叫びに、は、とエギエディルズは短く息を呑む。眩暈がするようだった。頭が割れそうに痛み、視界が歪む。いっそ踞ってしまいそうになるほどの痛みが、頭から全身へと伝わっていく。

これはなんだ。どういうことだ。そう静かに自問する。そうせずにはいられなかった。だってそうではないか。こんなことはあってはならない。許されていいはずがないというのに、どうして、他ならぬ彼女が―――フィリミナが、血を流して倒れているというのだ。

ふらり、とおぼつかない足取りで、倒れ伏しているフィリミナの元に歩み寄り、その横に跪いて彼女の身体を助け起こす。エギエディルズにとって本来軽く感じられるはずの彼女の身体が、ずしりと、いつもよりもずっと重く感じられた。フィリミナの細い手が、腹の上から滑り落ち、ぶらりと力なく垂れて揺れた。その手を取って自分の頬に押し当てるが、何の反応も得られない。常であれば、彼女は照れたようにしながらも、そっとこの頬を撫でてくれるというのに、今はただ人形のようにされるがままになっているだけだ。


「フィリ、ミナ」


いくら呼びかけても、エディ、と、自分を呼ぶあの穏やかな声は無い。彼女はまるで眠っているかのように目を閉じていて、その奥にあるはずの凪いだ瞳を瞼で隠している。それだけであれば、彼女はただ眠っているだけなのだと、そう思えたかもしれない。けれども、フィリミナの胸から流れ出す血が、じわじわとエギエディルズが着ているローブにまで染みこんでいく。一向に止まる様子のないその赤い液体の温もりが、それが確かに現実であることを、エギエディルズに突きつける。


「シュゼット!」


呆然としたままフィリミナを抱いて座り込んでいるエギエディルズの鼓膜を、セルヴェスの悲痛な叫びが震わせた。

ゆるりとエギエディルズの朝焼け色の瞳が、フィリミナから外されて、今にも駆け寄ってこようとしている彼へと向けられる。エギエディルズがセルヴェスに対してしたのは、たったそれだけのことだった。ただ視線を向けただけに過ぎないというのに―――セルヴェスの身体は、不可視の衝撃波によって、まるで小石のように弾き飛ばされる。悲鳴を上げることすら叶わぬまま、セルヴェスは先程アルヘルムがセルヴェスによってされた時と同じように、否、それ以上の力を以て、中庭の樹木の幹に叩き付けられた。

そのままセルヴェスは意識を失うが、それを確認するどころか、意識を払うことすらもなく、エギエディルズは再び腕の中のフィリミナへと視線を落とす。こうしている間にも、彼女の着ている、彼女らしいと言えば聞こえはいい、流行とは無縁の簡素なドレスの胸から咲いた鮮血の花は、どんどん大きく育っていく。


「フィリミナ」


血の気の失せたフィリミナの頬を、エギエディルズの白く長い指が撫でる。エギエディルズの脳裏に蘇るのは、幼かったあの日、火の高位精霊を喚び出し、フィリミナに庇われた時のことだ。

あの時と同じだ。エディ、とフィリミナはエギエディルズを呼び、そして突き飛ばした。本来エギエディルズが負うべきであった傷を彼女は負った。


―――大丈夫。大丈夫よ。大丈夫だから。


そうあの時エギエディルズに向かって繰り返された声は、今は無い。エギエディルズの目の前が真っ赤に染まっていく。それはフィリミナから流れ出る血の色だ。あの時と同じ、あかい色。色の無いフィリミナの顔が、あの時のフィリミナの顔と、完全に重なった。


「―――――あ、」


あの時の顔と同時に脳裏に思い浮かんだのは、フィリミナのいつもの穏やかな微笑み。耳朶に蘇ったのは、エディ、と自分を呼ぶ声。どちらも、驚くほど鮮明だった。この腕の中に、目を閉じてぴくりとも動かないフィリミナの身体が無ければ、そのままその記憶に浸ってしまいそうなほどに。

ふぃりみな、と、エギエディルズは腕の中の存在の名を呼ぼうとして失敗した。声が言葉にならない。震え、掠れた声音が零れ落ちる。当然の如く返事は無い。今、誰よりも何よりもその声を聞かせてほしい存在を証明するのは、エギエディルズの腕にかかる重みと、流れ出していく温もりばかりで。


「ぁ、あぁ」


エギエディルズの淡く色付いた花弁のような、薄い唇が戦慄いた。身体の最奥が熱い。ぐるぐると、どろどろと、溶けた鉄をかき混ぜられているかのような感覚がする。押さえられない。押さえようという理性そのものが、その熱に溶けてしまったようだった。そして。



「ああああああああああっ!!!」



エギエディルズの絶叫と供に、その時、確かに世界が悲鳴を上げた。

膨大なる魔力の奔流が、フィリミナを抱いたエギエディルズを中心にして巻き起こる。周囲の木々をなぎ倒し、東屋すらも呑み込んで、荒ぶるがままに周囲を屠っていく。王宮全体を包み込む結界が震えているのを、エギエディルズは自分の中の冷静な部分で確かに感じ取った。これ以上魔力を暴走させれば、結界は砕け散ってしまうだろう。エギエディルズが自ら創り上げた、今世最良の結界。その魔法体系の複雑さは、一度破壊されればそう簡単には再生できないものである。だが、それが何だというのだ。そんなものよりも大切な存在が、今、この腕の中にいるというのに。

フィリミナ。フィリミナ。フィリミナ。声なき声で、エギエディルズは腕の中の最愛を呼んだ。けれどそれに対する答えは無い。エディ、とこの世界で唯一そう己の名を呼ぶことを許せた存在は、今は沈黙の海の中に沈んでいる。

これまで幾度となく軽々と抱き上げてきたフィリミナの身体が、こんなにも重く感じることが、エギエディルズには信じられなかった。信じたくもなかった。普段以上に白くなったフィリミナの顔が直視できなくて、その痩せた身体を抱きしめる。


ああ、そうだ。ふとエギエディルズは気付く。フィリミナがこんなにも痩せてしまったのは、自分に原因があるのだということに。いくら隠されていたとは言え、何も知らず、気付かずにいた自分が憎い。そして、その痩せてしまった身体ですら、意識のない状態ではこんなにも重く感じるのだということをエギエディルズは初めて知った。全てが、今更過ぎた。


鉄錆のような鮮血のにおいが余計に生々しく鼻につく。どうしてこうなった。こうなってしまった。


「う、ぅ…」


微かな呻き声に、フィリミナに寄せていた顔を上げる。その朝焼け色の瞳が向かう先の存在を認識した時、魔力の奔流は、エギエディルズの意識とは無関係に更に大きくなった。ぴしり、と何かにひびが入る音がした。結界が限界を訴えている。それを無視して、エギエディルズは、ただその存在を―――セルヴェスを、見つめていた。青年のきっちりと三つ編みにされていたはずの灰と白が混じる髪は解け、紺碧の瞳には生理的な涙が滲んでいる。びきり、と青年に向かって、地表に亀裂が走った。

呪文の詠唱など要らない。杖を拾うまでもない。ただそう念じるだけでいい。それだけで相手を殺すだけの力を、エギエディルズは持っていた。


「か、はっ!」


どん、と。セルヴェスを中心にして圧力がかかる。びきびきと周囲の草木が押し潰されていく。ぱくぱくと声なき悲鳴を上げてセルヴェスは地に伏せさせられていた。それを見つめるエギエディルズのかんばせに、表情は無い。夜の妖精もかくやという中性的な白皙の美貌は、空恐ろしいほどにうつくしく、見る者の目を奪ったに違いない。だが、暢気にそれに見惚れていられるような状況ではないことを、この場にいる者達は皆解っていた。


「よせ、エギエディルズ!」


芝生に帯剣していた剣を突き立てて、自身が吹き飛ばされそうになるのをなんとか耐えながら、アルヘルムはエギエディルズに怒鳴りつけた。

ふ、とエギエディルズの朝焼け色の瞳が、アルヘルムの鳶色の瞳とかち合う。稀代の芸術品として持て囃されるであろう人形よりも人形らしい、その美しい無表情に、アルヘルムの背筋をぞくりとしたものが駆け抜けていく。だが、そんなことに怯むようでは、目の前の佳人の友人などやっていられない。そうだとも。目の前に居るのは、アルヘルムが認めた、アルヘルムの友人だ。向こうがどう思っていようが関係ない。エギエディルズの友人であると自負するのであれば、今ここでアルヘルムは、何としてでもエギエディルズを止めねばならない。それができなくて、どうして友人などと言えるだろう。

だが、そんなアルヘルムの思いに反して、エギエディルズの反応は鈍いものだった。


「何故だ?」


それは、本当に不思議そうな声音だった。頑是無い幼子が、親兄弟に明日の空の色でも問いかけるような声音だった。だが、その内容は、そのような可愛らしいものではない。ことりと首を傾げて、エギエディルズはアルヘルムに重ねて問いかけた。


「フィリミナを傷付けた者に、生きている価値など無いだろう?」

「っ馬鹿野郎!!」


即座に返された罵声に、凍り付いたように固まっていたエギエディルズの眉がぴくりと動く。誰が馬鹿だ。そう返そうとして、できなかった。へらへらとしていて緊張感に欠けるとエギエディルズが常々思っているアルヘルムの鳶色の瞳が、いつになく真剣な、確かな怒りを宿して、エギエディルズを睨み付けていた。魔力の渦に合わせるようにして爛々と揺れ輝く朝焼け色の瞳に怯むことなく、アルヘルムは続けて怒鳴る。


「そのフィリミナが、お前がそんな真似して喜ぶとでも本気で思ってんのか!?」


アルヘルムの絶叫に、エギエディルズはひとたび瞬きをした。知ったような口を利くなと言いたくなった。フィリミナ。彼女が喜ぶか否かなど、アルヘルムに言われるまでもない。いいや、アルヘルムではなく、誰であったとしても同じことだ。エギエディルズがこんな真似をしたら、フィリミナは悲しむだろう。それこそ、誰よりも悲しんでくれるだろう。そんなことは自分が一番よく知っている。けれど、それでも。例えフィリミナを悲しませることになったとしても、それでも、許せないことがあった。


「―――――ッ!!!」


セルヴェスは、悲鳴すらエギエディルズの魔力に殺されて、地に伏せさせられていた。びきり、びきりと地にひびが幾筋も走っていく。いくら苦しげな顔をされようとも、エギエディルズは、自分でも驚くほどに何の感慨も抱かなかった。かつて魔法学院で、フィリミナからの手紙を、自分を快く思わない一派に奪われた時のようだ。片付けなくては。そう思うのも、あの時と同じだ。


「エギエディルズ!」


そんなエギエディルズに、それでもなおアルヘルムが叫ぶ。煩い、と内心でエギエディルズは呟く。お前に何が解る。解ってたまるものか。いつも余裕ぶった笑みを浮かべているくせに、どうしてこんな時に、そんな、似合いもしない必死な顔をして、自分を呼ぶのか。

エギエディルズには自身を呼ぶアルヘルムの意図が解せない。アルヘルムには関係のないことだ。そのはずなのに。


「頼む、からっ!」


いくら一国の騎士団長であり、一定以上の魔力耐性があるとは言え、アルヘルムはあくまでも只人だ。にも関わらず、エギエディルズの突出した魔力の奔流の中で立ち続けるその根性は、褒め称えられるべきことだろう。どうしてそんなにも必死になるのか、と、フィリミナを抱きかかえたままエギエディルズは思う。らしくもない懇願までしてくるなんて、どうかしているとしか思えない。

そう、そうとしか思えないのに、何故だろう。その時、セルヴェスにかけられていた圧力が緩んだ。

かは、とようやくまともな呼吸ができるようになり、地に伏したまま肩で息をするセルヴェスの姿に、エギエディルズは愕然とする。圧力を緩める気など毛頭無いつもりだった。そのまま殺す気だった。そのはずであったのに。

魔力に全身を打ち据えられ、片膝を付いて、地に突き立てた剣でかろうじて身体を支えているアルヘルムが、にかりと笑った。その笑顔を呆然と見つめるエギエディルズに、更なる追い打ちがかけられる。


「アルヘルムの言う通りだわ」


吹き荒ぶ魔力の中ですら、明確な音を持って耳に届く声に、エギエディルズはひとつ瞬きをした。そして視線を向けた先には、エギエディルズの魔力のうねりによって、まともに立つことも難しい中、その絹糸のような白銀の髪を魔力によって発生した風によって玩ばれながらも、クレメンティーネが凜として立っていた。

女神の加護を受けた彼女だからこそ使える光魔法の結界を身に纏い、エギエディルズの元になんとか小走りに歩み寄る。その勢いのままに、両膝を地面に付けて、フィリミナを抱いたエギエディルズの胸ぐらを掴み、その手を振り上げた。

ぱん!と乾いた音が、魔力の奔流の中でも奇妙なまでに大きく響き渡った。エギエディルズの朝焼け色の瞳が大きく瞠られて、自分の頬をその手で容赦無く張ったクレメンティーネへと向けられる。


「なんて顔をしているのかしら。己が今すべきことを、履き違えている場合ではなくてよ!」

「すべき、こと…?」


琥珀色の瞳を金色に光らせて、クレメンティーヌはすぐさまフィリミナの傷口にその手を宛がう。ぽう、と淡い白銀の光がその手から発される。僅かではあるが出血の勢いが緩まっていくのを、エギエディルズはただただ何をすることもできず見つめていた。クレメンティーネがフィリミナにかけているのは、光魔法の中でも治癒魔法に分類される魔法だ。水精による霊魔法ほどの効果は無いが、魔族に関わる傷相手であれば、光魔法は確かに効果的だろう。そう奇妙なまでに冷静に分析していく自分を、エギエディルズは感じていた。

己が、今、すべきこと。クレメンティーネの台詞を内心で反芻し、エギエディルズは、再び腕の中の存在を見下ろした。先程までよりも一層悪くなっている顔色に、全身の血が沸騰するような、或いは凍り付くような、そんな矛盾した感覚に襲われた。そんなエギエディルズに、ぎろり、と金色に輝く瞳を向けて、クレメンティーネは言い放つ。


「貴方も早く手伝いなさいな! それとも貴方はあたくしから、大切なお友達を奪おうとでも言うの!?」

「ッ! 誰が、そんな真似を許すものか!」


常の悠然した声音が嘘のような少女の怒声に、エギエディルズは反射的に怒鳴り返した。そして、ようやく、本来の『自分が今すべきこと』が、すとん、と、エギエディルズの中に落ちてくる。


―――ああそうだ。そうだった。


自分はもう、幼かったあの日、ただ魔力を暴走させることしかできなかった自分ではない。

あの日から自分の魔力を研鑽し、魔法の研究に打ち込んできたのは何のためだったのか。それもこれも全て、この腕の中にいるフィリミナを守るため、ただそのたったひとつの目的のためであったというのに。素直に守られてはくれない彼女だからこそ、隣に立ちたいと言ってくれた彼女だからこそ、何者からも守りたかった。

自分ひとりの力でそれができると、できるようになったのだと過信していた、愚かだった自分にエギエディルズは気付かされる。何が守ることができるだ。実際は守るどころか、フィリミナが呪いを掛けられていたことにも気付けず、その上、土壇場になって庇われて、生命の危機に瀕しさせている。


朝焼け色の瞳が、こちらを睨みつけてくる金色にも見える琥珀色の瞳と、同じくこちらを見てくる鳶色の瞳を見た。いつかフィリミナに嬉しげに言われた、「エディにも、やっとご友人ができたのですね」という台詞が脳裏を過ぎる。その時は、「あいつらはそんないいものではない」と返した。けれど、今はもう、認めざるを得ない。自分の世界が、もうフィリミナと養父ばかりではないことを。新たな世界を、自分は既に受け入れてしまっていることを。


「馬鹿、だな」


ぽつりと落とした呟きが誰に聞き咎められることもなかったのは、幸いと言うべきか。自分などのために、こんなにも必死になってくれる彼等を馬鹿だと思う。けれど、それ以上に馬鹿だったのは、他ならぬ自分自身であることを、エギエディルズはようやく理解した。「本当に、鈍い人ですこと」。そう、エギエディルズはフィリミナに言われた気がした。


暴走していた魔力が、エギエディルズの元に収束していく。吹き荒れていた暴風は収まり、後に残されたのは、荒れ果てた庭園に、安堵に溜息を吐きながら座り込むアルヘルム、ようやく完全に自由になって地に伏したまま呼吸を荒く繰り返すセルヴェス、そしてフィリミナの治療にかかりきりになっているクレメンティーネ。

額に汗を浮かべて治療しているクレメンティーネの手に、エギエディルズは己の手を重ねた。クレメンティーネは顔を上げてエギエディルズを見つめるが、エギエディルズの表情を見て、すぐさま再び治療に戻る。それをいいことに、エギエディルズもまた、己の中で魔力を練り上げて手から放出し始めた。


一分、いいや、一秒すらもが惜しかった。先程までの暴走がどれだけ愚かしいことであったかを思い知らされる。こんな自分を、それでも「仕方の無い人」と笑って許してしまうであろう彼女の笑顔も台詞も、今は得られない。

長々しい詠唱などしていられない。全ての魔法理論を体内で瞬時に組み立て、詠唱破棄で治癒魔法をかける。本来治癒魔法を使うのであれば、クレメンティーネが使っている光魔法や、エギエディルズが使っている己自身の魔力を使う魔法よりも、水の精霊の力を借りる霊魔法が最も適している。だが、フィリミナにはその理論は適用されない。幼き日に負わせた、火の高位精霊による傷痕が、水精による治癒を拒むのだ。それは、普段の小さな傷であればいざ知らず、今の重傷を負ったフィリミナには大きな障害である。


そして、問題はそればかりではない。


「アルヘルム! ローネインから解呪の仕方を吐かせろ! どんな手を使っても構わん!」


フィリミナに掛けられた呪いは、夢を媒介にしている。夢とは、意識の無い状態で見るものだ。それはすなわち、今の彼女の状態にそのまま当てはまる。いくら身体の傷が癒えたとしてたも、彼女が目覚めるかどうかは、呪いが解けるか否かにかかっていた。

フィリミナへ治癒魔法をかけながらのエギエディルズの怒声に、最早抵抗する力も無く倒れ伏して肩で息をしているセルヴェスを、騎士団員として常備している魔封じの縄で改めて縛り上げていたアルヘルムは、きょとりと鳶色の目を瞬かせた。何故こんな時に、とでも言いたげであったが、こんな時であるからこそなのだろうと聡く判断したらしいアルヘルムは深く追求することなく、セルヴェスの上半身を起こさせた。


「…って、やっこさんは言ってるがね。オレとしちゃ、さっさと吐いてくれると有り難いんだが。あんたも痛い目見たくないだろ?」


荒い息を繰り返すばかりで無言を貫いているセルヴェスに、アルヘルムは、先程エギエディルズに笑いかけた時と同じように、にかり、と笑いかけた。


「それに、オレにとってもフィリミナはダチだ。そいつが死にそうになってるとあっちゃ、悪ぃが、手加減できそうに無ぇな」


ただ笑っているばかりのようでいて、その奥に驚く程の酷薄さを滲ませる鳶色の瞳が、セルヴェスの紺碧の瞳を射貫く。肩で息をしていたセルヴェスは、息を呑み、そしてはくはくと空気をその口から零して、やがてぽつりと何事かを呟いた。


「……ない」

「あん?」


ごく小さな、呟きのような台詞に、アルヘルムは眉を顰めた。セルヴェスは、そんなアルヘルムの表情を窺うこともなく、座り込んで治癒魔法をかけ続けているエギエディルズと、その腕に抱かれているフィリミナを睨みつけるように見つめながら、呻くように言葉を紡いだ。


「できない、と、言っているんだ…!」

「ふざけるな!」


その言葉を耳敏く聞き拾ったエギエディルズは、フィリミナから顔を上げ、その朝焼け色の瞳でセルヴェスを睨む。その美しいかんばせには、隠しきれない焦りがあった。


「お前がフィリミナに呪いを掛けた張本人だろう!? 術者が解けない呪いなど、あってたまるものか!」


恥も外聞も余裕も、何もかもかなぐり捨てて怒鳴るエギエディルズに対するセルヴェスの答え。それは、歪んだ笑みだった。くつくつと喉を鳴らし、やがてそれは哄笑へと変わる。狂気すらも孕むその笑い声が、荒れ果てた庭園の空気を震わせる。紺碧の瞳は、空虚な光を宿してエギエディルズを見つめた。


「はは、ははは! ああその通りだ! 呪いを掛けたのは僕だとも! ランセント、お前を苦しめるには、お前自身を呪うより、お前が大切に思う者を呪った方が効果的だと、魔法学院の事件で立証済みだったからな!」


そしてセルヴェスは語り出す。フィリミナに自身がかけた呪いについて。

それはエギエディルズ達が予想した通り、夢を媒介にしたものであるということ。術者であるセルヴェスが、契約した魔族の魔力を己の魔力と交換して創り上げられた呪いは、フィリミナの“名前”を起点に“魂”を苗床として育つということ。呪いは育てば育つほど魂から精気を吸い上げて、フィリミナをそのまま夢の世界に閉じ込めてしまうということ。セルヴェスがしたことと言えば、ただ“フィリミナ・フォン・ランセント”という名に呪いを掛けた、ただそれだけだということ。術者から切り離されてもなお、この呪いは続くということ。それこそ、種を蒔いただけで勝手に育つ、花の如く。


「普通の呪いではお前に早々に気付かれてしまうことは解っていた。だから創り上げたんだ、お前でも気付けない、とっておきの呪いを! 既に呪いは僕の手から離れている。呪いは成就した、お前の大切な“フィリミナ”はもう二度と目覚めない。はは、は、ははははは! ざまを見るがいい、エギエディルズ・フォン・ランセント!」


髪を振り乱し、壊れたようにセルヴェスは笑い続ける。


「―――何故、そこまで」


治癒魔法をかける手を休めないまま、エギエディルズは無意識に呟いた。

エギエディルズとセルヴェスの接点は、魔法学院における、一年にも満たない同期であった期間だけだ。次々に飛び級していくエギエディルズを、快く思っていなかったであろうことは予想できる。だが、それはセルヴェスに限った話ではない。無駄な嫌味ややっかみをかけてきたり、手紙を奪ったりした奴らと比べれば、セルヴェスは随分とマシな方だ。セルヴェスはエギエディルズに対し、内心はどうあれ、対外的には無関心を貫いていたのだから。

それが、今になってどうして、こんな真似をしたのか。解せないとセルヴェスを見つめていると、セルヴェスの紺碧の瞳が惑うように揺れた。けれどそれは一瞬で、その表情は嘲るようなものにすぐに塗り替えられる。


「何故、だと? そんなものは決まっている」


魔封じの縄で縛られていてもなお臆することなく、ハッと鼻で笑いセルヴェスは続けた。


「僕はお前が憎かった! 何故お前ばかりが手に入れる!? 魔力も、才能も、名声も、何もかも! 王宮筆頭魔法使い? 救世界の英雄? それらは全て、黒持ちだからこそ得られたとでも言うのか!?」


何故、何故、何故、お前ばかりが。セルヴェスが紡ぐ言葉は、羨望と嫉妬、そして憎悪によって織り成されていた。

『何もかもを手に入れている』だなんて、お笑い種だとエギエディルズは思わずにはいられなかった。生まれて間もなく封印され、散々化け物やら魔物やらと罵られてきた人生。それらの原因は、セルヴェスの言う黒持ち―――すなわち、エギエディルズの髪が、漆黒であることにあったのではないか。理由は決してそればかりではないのだろうけれど、黒持ちであることが、エギエディルズを他者が貶めてきた一因であることは疑いようもない。だと言うのに、今更、黒持ちであることを羨ましがるような発言など。随分と勝手なものだと、エギエディルズは内心で吐き捨てる。

そんなエギエディルズに気付いているのかいないのか、セルヴェスはその紺碧の瞳を、泣き出しそうに歪ませた。どうして、とその口が震える。その上、どうして。


「どうして、お前の“フィリミナ”までもが、僕の“シュゼット”なんだ…!」


それは、血を吐くような声音だった。その声音が、彼がフィリミナを…彼にとっての“シュゼット”を、どう思っていたかを物語っていた。セルヴェスを押えているアルヘルムの瞳にほんの僅かに同情的な光が宿るが、アルヘルムはそれでも容赦なく、セルヴェスのうなじに手刀を落とす。トン、と一見軽く叩いただけに見えたが、セルヴェスは成す術も無くその場で昏倒した。


「とりあえず、お前さんはしばらく黙っとけ。これで良かったよな、姫さん、エギエディルズ」

「ああ。そいつに対する制裁は、後々じっくりさせて貰おう」

「そうね。どうやら役には立ちそうにないし、これ以上余計な口なんて聞かされたくないわ。今はそんな場合ではなくてよ」


意識を失わせたセルヴェスを地に転がして、悪びれなく後から同意を取るアルヘルムに、エギエディルズとクレメンティーネは目をくれることもなかった。

フィリミナの出血は、当初に比べれば大分少なくなってきているが、それでもまだ完全に止血するには至らない。医療官が集う白百合宮に転移するのが先決か、とエギエディルズが歯噛みしていると、ふと視線を感じた。そちらを見遣れば、金色に輝く瞳が、エギエディルズを見つめていた。ばちりと視線が嚙み合うと、クレメンティーネは、冷えた声音で告げる。


「でもエギエディルズ、これだけは言わせて貰うけれど、貴方、あの男のことを言えた義理では無いと思うわ。あたくし、これでも、貴方に対してとても怒っているのだから」

「…解っている」


クレメンティーネの台詞を、エギエディルズは否定できなかった。クレメンティーネの言う通りだ。セルヴェスを許せないのは本当のことだが、それ以上に、エギエディルズがもっとずっと許せないのは、他ならぬエギエディルズ自身である。何者からも守ると誓っておいてこの様だとは、いくら責められても仕方がない。むしろ、こうして責められた方がずっと楽だ。責められないことのほうが、余程辛い。

エギエディルズは己の魔力の全てを治癒の力に変じさせながら、フィリミナの顔を窺う。色の失せたその顔を見ているのが苦しい。何が王宮筆頭魔法使いだ。何が救世界の英雄だ。一番大切な存在を守れないで、救えないで、どんな顔をしてその称号を受け入れていられるというのだろう。

頼むから目を覚ましてくれ。もう一度でいい、エディ、と呼んでくれ。そう祈りながら、治癒魔法をかけることしかできない自分の無力さが、エギエディルズはどうしようもなく許せない。


「フィリミナ…!」


今にも温もりの消え失せてしまいそうな細い手を握り締め、エギエディルズは、最愛の存在の名を、ひたすらに呼んだ。



***



ふ、と目を開ける。辺りに広がる真黒の暗闇に、またか、と冷静に判断する自分がいた。誰かに呼ばれたような気がしたのだけれど、この状態ではそれが誰かだなんて解るはずもない。

はて、私はどうしたのだったか。確か、王宮の庭園で、セルヴェス青年が私に呪いを掛けた犯人であると判明して―――そして、彼が放った光の刃から、我が夫であるあの男を庇って、そこからの記憶が無い。気が付けば、此処にいた。恐らく、というか確実に、あの光の刃に私は倒れ、意識を失ったのだろう。その後はお決まりの、例によって例の如くのこの悪夢コースにご案内、といったところか。


『…また、怒っているかもしれないわね』


ぽつりと呟いた台詞は、思いの外大きく暗闇の中に響き渡った。この悪夢を見るようになってそれなりの期間が経つが、こんな風に妙に実を伴った感覚は初めてだ。それを意外に思いつつも、誰にともなくふふと笑う。

王宮筆頭魔法使いであり、救世界の英雄と呼ばれるあの男の強さというものを、私ははっきりとは知らないが、そうと呼ばれるだけの実力があれば、あの凶刃も、男にとっては大した攻撃では無かったかもしれない。だとしたらきっと、余計な真似をするんじゃないと、あの男はさぞ怒っていることだろう。でも、仕方がないではないか。身体が勝手に動いてしまったのだから。


さて、それはさておいて、これからどうしたものだろう。前も後ろも右も左も上も下も解らないこの空間で、私は何処へ行けばいいのだろう。もしかしたら、何処へも行けないのかもしれない。そんな思いが脳裏を過ぎる。その予想を裏付けるかのように、一歩足を踏み出した途端に、どろりとした汚泥のような暗闇が足に纏わりつく。温度の無いそれはそのまま見えない足元の中に私を引きずり込もうとして、私はべしゃりとその場に座り込んだ。


ああ、泣き声が聞こえる。泣かないで、と声を掛けようにも、喉に何かが詰まったかのように言葉が出てこない。悲痛な泣き声のリフレインは止まることを知らず、まるで私自身の言葉なのかと勘違いしてしまいそうになる。


暗闇の中、それでもスポットライトが当たっているかのように浮かび上がるのは、あの男と、その横に並ぶストロベリーブロンドを持つ少女の姿だ。楽しげに、幸せそうに何かを話しているルーナメリィ嬢と、それに相槌を打つあの男の姿。付き合いの長さ故か、あの男は、一見何でもないようでいて、その実まんざらでもない表情を浮かべていることが分かってしまう。全く以て皮肉なことだが。


いつもの悪夢であれば、そんな二人の姿に臆してしまうところだが、何故だろう、今の私は、いつもとは違っていた。

纏わりつく暗闇を振り払い、立ち上がり、ふたりの元へと足を向ける。一歩一歩が酷く重いが、そんなことに構ってはいられない。着ているドレスの裾を無理矢理裂いて歩きやすいようにして、ひたすらにふたりの元を目指す。

馬鹿みたいに必死になっている私に、ふたりが気付く様子は無い。けれど、それでも構わない。


『エディ!』


この悪夢の中で、これまで一度として呼びかけることができなかった名前を、今、叫ぶ。エディ。それは、私だけに許された、私だけが呼ぶ、あの男の呼び名。あの男が私にくれた、何よりも大切な私の特権。けれど男は私をその朝焼けの瞳で一瞥したかと思えば、すぐさままたルーナメリィ嬢へと視線を落とす。そうして、私は、確信する。


『あなたは、わたくしのエディではないのね』


そう呟いた瞬間、ルーナメリィ嬢の隣に並んでいたあの男が、どろりと泥人形のようになって崩れ落ちた。あの男の姿を取っていたモノは、暗闇の中にそのまま溶けて消える。

やっぱり、と声無く私は呟いた。やっぱり偽物だったのだ。よくできていたけれど、アレはあの男ではない。どうしてもっと早くにそれに気付かなかったのだろう。

私がエディと呼べば、あの男はなんだかんだで必ず答えてくれる。時に面倒そうに、時に苛立たしげに、時に嬉しげに、時に面映ゆげに。そこにどんな感情が込められているかはその場の状況にもよるが、あの男が、私が呼びかけて答えてくれないことなどありえない。そりゃあ確かに喧嘩をした時などは、何度も呼びかけさせられる羽目になることもあるけれど、あの男はそれを楽しんでいる節があるのだからそれはまた別の話だろう。少なくとも、こんな風に無視されることなど、本来のあの男からしてみればありえないことなのだ。

あの男だったモノのいた場所にはもう何も無い。残されたのは、ルーナメリィ嬢ただひとりだ。


『ル…』


呼びかけようとして、思わず口を噤んだ。ルーナメリィ嬢の、深紫色の瞳が、真っ直ぐに私を見据えていた。彼女の顔に表情は無く、その容姿のかわいらしさも相俟って、正しく等身大の人形のように見えた。ぞ、と、何故か背筋に悪寒が走る。睨まれているのだと、遅れて気付いた。目の前にいるルーナメリィ嬢が、あの男の姿の泥人形と同じだと言うのであれば、彼女もまたこの汚泥のような暗闇を本質とする偽物であるに違いない。それなのに、何故だろう。今の彼女は、まるで―――――…


『ッ!?』


ずぶり、と急に足元が沈んだ。体勢を整える余裕など与えられなかった。ただただ成す術も無く、私は足元の暗闇に呑み込まれ、そして沈んでいく。ずぶずぶと、お世辞にも心地よいとは言い難い感覚が全身を包んでいる。泣き声がどんどん大きくなる。私が思わず上げた悲鳴は全て、その泣き声に呑み込まれてしまう。


沈む。沈む。沈んでいく。どこまどもどこまでも沈んでいく。


そして、どれほどの時間が経った頃だろう。最早悲鳴を上げることにも疲れ果て、延々と泣き声ばかりを聞かされていた私の足が、唐突に地面に着地する。地面と言っても、やはりそれは真黒の暗闇で、ただ感覚としてそこに地があるのだということが分かるくらいだけれど。

先程のように一歩踏み出そうとして、失敗する。またしてもべしゃりと座り込んでしまった。それは暗闇に足を取られたからではなく、単純に歩くと言う感覚を足が忘れてしまっているからだ。それでもなんとか立ち上がり、一歩ずつ、確実に前へと進む。

今私が向かっている先が、本当に前なのかと問われれば、それは自信が無い。けれど、解るのだ。この足の進む先に、ずっと、ずっと泣き続けている、『彼女』がいることを。



『ほら、やっぱり』



黒い茨の蔓に取り囲まれる中、蹲っている『彼女』が居た。止め処なく涙を流し、しゃくりあげたかと思えば、わあわあと声を上げ、そしてまたしゃくりあげるのを繰り返して。泣くこと以外のことを忘れてしまったように泣き続ける『彼女』。


―――死にたくなかった…!


ようやくはっきりと聞き取れたその声に、私は茨越しに『彼女』を見つめた。

この世界ではあの男以外には持ち得ないはずの、染めてもいないのに黒い髪。黒に近い焦げ茶色の瞳。それらを当然の如く持つ『彼女』…いいや、回りくどい言い方はもうやめよう。『彼女』が誰なのかなんて、もう解っている。

『彼女』は私だ。かつて地球という星で、あろうことか引ったくりなどという不測の事態によって命を落とした、今の私になる前の『私』。

『私』を思い出した時、私は三歳だった。その幼かった私が受け止めきれなかった、死を受け入れられないままでいる『私』なのだ。


『私』を取り囲んでいる茨に触れる。黒い茨は禍々しく、セルヴェス青年の両腕の紋様を思い起こさせる。これはあれか、これも呪いか。そう私が思うと同時に、茨に触れる指先から嵐のような思念が流れ込んでくる。


死。死。死。死にたくなかった。死にたくなかった。どうして『私』が死ななくてはならなかったの。死にたくなんてなかったのに。死。死。フィリミナがフィリミナとして生きるほど、『私』が消えていく。死にたくなかった。死。死。死。死。死。それでもまた『私』は殺されていく。そんなのは嫌。『私』はもう死にたくはない。


弾かれたよう茨から手を離す。ほんの少し触れただけだというのに、指先は酷い火傷を負っていた。じくじくと痛むその手を押えながら、私は『私』を見つめ続けることしかできない。

死に対する恐怖と憤りが、私から『私』を隔離し、呪いを助長させているとでもいうのか。専門職でもない私が勝手に立てた推測だが、何故だかそれが正解である気がした。

きっと、そういうことなのだ。この黒い茨は、『私』の最後の防波堤だ。呪いを変質させて創り上げられた、『私』を守るための城。それは同時に、『私』を閉じ込める檻でもある。


一度、深く深呼吸をする。こんなシチュエーションで深呼吸したとしても何一つ爽やかな気分になんてなれないのだが、それは気分の問題だ。気合入れとでも思えばいい。何せこれから、我ながら無茶なことをしようとしているのだから。


黒い茨に手を伸ばし、その蔓をむしり取りながら前へと進む。一歩前へと進む度、そのためにむしり取った茨で両手は焼け焦げて、顔や身体を棘が傷付ける。

痛くないと言えば嘘になる。というか、痛くない訳がない。それでも私は前へと進んだ。じゅうじゅうと自分の手が焼ける音が、泣き声が響き渡る中で、やけに鮮明なのが気に食わない。別にこの音は聞きたくないのだから。

私まで涙が出てくるのは、この痛みのせいだ。決して、茨から流れ込んでくる思念…かつての『私』の記憶が、懐かしいからではない。もう戻れない過去に縋って何になる。私にはもう『今』があるのだ。『私』に譲れないものが有るように、私にだって譲れないものがある。


本当は、解っているのでしょう。ねえ、『私』。


ようやく茨の檻を抜け、私は『私』の前に立った。あの日、あの瞬間、命を落とした日のリクルートスーツ姿で、年甲斐もなく顔をぐしゃぐしゃにして泣いている『私』は、我ながら酷い状態だ。けれど今の私も、『私』のことをとやかく言えない。ドレスは棘でぼろぼろで、身体はこれまた棘による刺し傷や切り傷まみれであちこちから血を流し、両手は焼け焦げて何やら焦げ臭く、顔にまで傷を負っている。丁寧に編んで纏めていた髪なんて、最早見る影もない。満身創痍とはきっとこういう状態のことを言うのだろうと他人事のように思う。そうでも思わなくてはやっていられない。ぶっちゃけ、非常に痛いのだから。

そんな私を、『私』はのろのろと見上げてきた。うむ、改めて見るに、つくづく酷い顔である。せっかくのフルメイクもぐちゃぐちゃだ。けれど、これが、これこそが『私』だった。

蹲っている『私』の前に、私もまた蹲る。そして、その背に両腕を回した。私の腕の中で、『私』が息を呑む。カタカタと震える『私』に、私は囁きかける。


『死にたくなかったのよね』

―――ッ!


大きく身体を竦ませる『私』を更に力強く抱きしめて、更に続ける。


『死にたくなかったの。解るわ。わたくしも、そうだったのだもの』


流行病に罹った三歳の私。あの時の私はとにかく、死にたくなかった。けれどきっと、本来私はあの時死んでいたのだろう。そこを、死の淵に瀕することで表出した『私』を飲み干すことで、現世に魂を繋ぎ止めた。そんな理由で『私』を得た三歳の私だ、“死”を直接体験した部分の『私』を受け入れられるはずがない。そのせいで、私はこの『私』を、こんなところに置き去りにしてしまった。


『ごめんなさい。謝って済むことではないけれど』


それでも、謝らずにはいられなかった。『私』の涙が、私のドレスに染み込んでくる。しゃくりあげていた『私』の身体の震えがふと止まる。その手が、私の背に縋るように回された。


―――死にたく、なかったの。

『そうね』

―――生きて、いたかったの。

『そうね』

―――死ぬのは、こわいの。

『そうね。でも』


一旦言葉を切って、『私』の顔を覗き込む。きょとんとした表情を浮かべる『私』に、私は笑いかけた。


『ねえ、『私』。わたくしたちは、もう、それ以上に恐ろしいことを知っているでしょう?』


その言葉に、焦げ茶色の瞳が見開かれる。ぽろりと大きな涙の雫が、その瞳から零れ落ちた。

そうだ。もっと恐ろしいものを、私は知っている。魔王討伐の際に思い知らされた。『私』だって知っているに違いない。何故なら『私』は、私なのだから。フィリミナ・フォン・ランセントにとって、エギエディルズ・フォン・ランセントを失うこと以上に、恐ろしいことなど無い。

虚を突かれたような顔をして、『私』が私を見つめてくる。はくり、とその唇が動いた。何かを言おうとして、それが声にならない、そんな様子だった。

その時だった。



―――――…ミナ



微かに聞こえてくる声に、私達は揃って顔を見合わせた。私はまた笑う。その拍子に、私の目からも涙が零れ落ちた。


―――――フィリミナ…!


ねぇ、聞こえるでしょう。私達を呼ぶ、あの声が。普段からは想像もできないような悲痛な声で、私達を呼ぶ、あの男の声が。あの男は、仕方の無い人だから。私達が側に居てあげなくて、どうすると言うのだろう。

ねぇ、解るでしょう。本当は、解っているのでしょう? 腕の中の『私』に問いかけると、泣き笑いを浮かべながら『私』は何度も頷いた。


―――とんだ男と結婚しちゃったわね、『私』。


涙声でそう口にする『私』に、私は思わず笑う。茨によって傷付けられた身体はそこかしこが痛むけれど、それよりも笑いの方が勝った。

さぁ一緒にいきましょう。行きましょう。生きましょう。あの男のためにも、私達自身のためにも、私達はいかなくては。

声に出さずとも伝わる台詞に、『私』が深く頷いた。そして、腕の中の『私』がかき消える。いいや、消えたのではない。ただ溶けただけだ。私の中に、今度こそ溶けきっただけだ。

気が付けば私は本格的に泣いていた。止め処なく涙が溢れてくる。それでも何故だろう、視界は涙でこんなにも歪んでいるというのに、気分としては目の前が大きく開けた気分だった。顔の傷に涙が沁みるけれど、そんなことには構っていられない。痛む身体を抱えて立ち上がる。気が付けば黒い茨は皆枯れていた。暗闇は未だ晴れないけれど、どこへ行けばいいかなんて解っている。


―――――フィリミナ


私を呼ぶその声に導かれるままに歩いていけばいい。ええ、エディ。今行きます。だから、もう少しだけ待っていて。

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