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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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      (7)

さて、笑っているように見えて、その実、全くこれっぽっちも笑っていない夫たる男に連れられて、私は姫様の寝室から出た。それはいい。姫様のベッドはそれはそれは心地良いものであり、叶うことならばそのまま居座ってしまいたくなる衝動に若干駆られたということは否めないのだが、そうは問屋が卸さない。よって、男によって連れ出されたことに対しては、物申すことなど何一つ無い。そう、問題はそこではないのだ。


「あの、エディ」

「何だ?」


いけしゃあしゃあと、私を見下ろし、小首まで傾げてみせる男に、私は思わず沈黙した。いい年した男が小首を傾げても何も可愛くなどないはずだ。だというのに、この男がしてみせると、何故だかその仕草は不思議と違和感がなくて、何やら悔しくなる。美形は得だということか。それを本人が無意識にやっているのならばいざ知らず、解っていて故意にやっているのだから余計に小憎たらしい。


「何だ、ではありません。下ろして頂けませんか? わたくしは自分で歩けます」


私の抗議に対する返答は沈黙。私の批難を込めた視線など何処吹く風だと言わんばかりに、男は無言でスルーしてくれやがった。

そう、今の発言で、私の現状をご理解頂けただろうか。私の現状。それは、所謂、お姫様抱っこ状態である。


ベッドの上からそのまま抱き上げられた私が悲鳴を上げずに済んだのは奇跡だった。姫様の手前、醜態を晒してなるものかという思いが、私の口を無理矢理閉じさせた。

そんな私の涙ぐましい努力を知ってか知らずか、この男は、姫様の呆れた視線をものともせずに、すたすたすたすたと人目も憚らず姫様の寝室から私を抱えて出てきたのだ。

姫様の寝室に控えている衛兵や侍女の方々には、ぎょっとした顔で見つめられ、そしてすぐさま目を逸らされた。男の纏う雰囲気が、男に対する制止を全て抹殺していた。今なら私は恥ずか死ねると思う。


男の腕は、鍛え抜かれた太い腕では決してなく、むしろ細い方であるはずなのに、なんということか、軽々と私を抱えている。

女性を横抱きにして悠々と城内を闊歩する男の様は、傍から見ればさぞかし絵になることだろう。ただしそれは、その腕の中にいるのが私ではなかった場合に限る。姫様やルーナメリィ嬢であれば、それはそれは見目麗しい、絵物語のような姿になっただろうに。このポジションは、私には荷が勝ちすぎる。


「エディ、お願いですから、わたくしの話を少しは聞いてくださいまし」

「この状態は、不満か?」

「………」


その言い方は狡いのではないだろうか。その朝焼け色の瞳がどことなく、まるで幼子のように不安げに揺れている。そんな顔をされたら、こんな言い方をされたら、私は何も言えなくなってしまうというのに。


「…不満と申しますか、ええと、その……」


ぼそぼそと呟いた声は、間近であろうとも、男の耳に最後まで届いたかどうか。

正直に言えば、不満という訳ではないのだ。ただ、恥ずかしいだけで。顔が熱くなっているのが解る。今の私はきっと、耳まで赤くなっているに違いない。

こんな、さながら硝子細工でも取り扱うような慎重さで、この男に扱われるなんて、もしかしたら結婚初夜以来ではなかろうか。いや、それ以外の場面では丁寧に扱われていなかった、という訳ではもちろんないけれども。

それでも今日のこの男は、取り分け優しくて、ひとつひとつの仕草に私に対する気遣いが感じられて、ただ抱き上げられているだけだというのに、私を酷く落ち着かなくさせる。


大体、こんな場面を誰かに見られたらどうするのだ。私とこの男の結婚は秘匿されたままで、そもそも私とこの男に繋がりがあるということを知っている者自体が少ない。それなのに、まさかのお姫様抱っこで城内散策だなんて、要らぬ噂の種にしかならない。それをこの男が理解していないはずがないのだが、それを『どうして』と問うことは愚問だろう。

この男にそうさせるだけの理由を作ってしまったのは、他の誰でもない私自身だ。改めてそれが失敗だったことを思い知らされる。そうすれば、この男に、ここまでさせることもなく、こんなにも心配をかけさせることもなかったのに。


姫様が『花の種』と表した、私にかけられた呪い。それは私の中に深く根を張り、最早簡単に解くことは叶わぬ状態にまで進行しているのだという。

“術者を見つけ出すのが一番である”。この呪いを解くには、たったそれだけの話に尽きるのであるが、それを簡単にはさせないのがこの呪いなのだと。

術者、魔族、そして、呪いの核となる『花の種』。てこの原理で言えば、支点が術者、力点が魔族、作用点が『花の種』と言ったところか。術者が支点となり、力点である魔族が『花の種』を作り蒔いて、そして作用点として『花の種』がその効果を発揮する。

作用点である『花の種』が露わになっている分、支点である術者は隠され、こちら側からは干渉できない。ならばどうすればいいのかと男に問いかけたところ、話は冒頭に戻って、現状のお姫様抱っこである。うん、意味が解らない。


「エディ、あの、どちらへ向かわれているのですか?」


せめてそれくらいは知っておく権利はあるはずだ。叶うのならばひとけのない場所が良い。もうこれ以上、「下ろせ」とは言わないから、せめて人の居ないルートでお願いしたい。

抱き上げられた腕の中から男を見上げると、男は速度を一切落とさない、淀みない足取りのまま、短く答えた。


「黒蓮宮の、俺の研究室だ」

「はい?」


一瞬、何を言われたのか解らなかった。遅れて理解が追いついて、知らず知らずの内に目を見開く。『馬鹿ですかあなたは』。そう言わずに、そのままその台詞を飲み込んだ私を誰かに褒めて頂きたい。

黒蓮宮は、この王族の居住区である紅薔薇宮から、結構な距離がある宮だ。そこまでこの男は、この状態で歩いて行こうというのか。いくらなんでも冗談ではない。結婚云々がばれるばれない以前の問題として、私が恥ずかしさの余り悶死してしまう。


「お、下ろしてくださいまし! ほん、本当に、大丈夫ですから!」

「お前の大丈夫はあてにならん」

「~~~っ!」


否定できない言葉がぐっさりと胸に突き刺さった。いやでもしかし、これは、これだけは譲れない。神聖なる城をなんだと思っているのだこの男は。

言葉の代わりに、必死に視線で訴えかけると、男はしばしの沈黙の後、小さく溜息を吐いた。ちょっと待った、その溜息は聞き捨てならない。溜息を吐きたいのはこちらの方だというのに、なんだその態度は。


思わずむっとした表情を浮かべると、男は小さく、そして短く何事かを呟いた。それは、私には理解し得ない、魔法言語と呼ばれる言語だ。

瞬間、ぐにゃりと視界が歪む。最初から抱き上げられていたというのに、更なる奇妙な浮遊感が全身を襲う。反射的に目を閉じた。そして、数秒もかからない内に、「もういいぞ」と男から声がかけられる。


「…?」


恐る恐る目を開けると、そこに広がっていたのは様々な本の山。鼻孔を擽る、インクと紙の匂いが入り混じる書物特有の匂いに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。先程まで私は、紅薔薇宮の回廊に居たはずなのだが。どうしてここに―――黒蓮宮にあるはずの、この男の研究室に居るのだろう。

どうやら私は随分と間抜けな顔をしていたらしい。本に埋もれる研究室の片隅で、肩身が狭そうに置かれているソファに私を下ろして、くつり、と男は喉の奥で笑った。


「大したことはしていない。転移魔法を使っただけだ」

「…城内での魔法の使用は制限されているはずでは?」

「この程度の制限、俺にはさしたる障害にならない。そもそも、この城の魔法制限体系を創ったのは俺だからな」

「……………然様ですか」


最早言葉もない。普段からチートだチートだと散々思ってきたが、その認識はどうやら甘かったようだ。チートどころの話ではない。昔からこの男は、私の予想の上をいってくれる。良くも、悪くも。

確かにあのままの状態で城内を縦断されたらと思うと恥ずかしいだけの騒ぎではないし、せっかくこれまで秘匿してきたこの男との関係が露見してしまう可能性が高いため、それと比べれば転移魔法を使ってくれたことを感謝すべきなのかも知れない。そうだとも、下手に騒がれてにっちもさっちもいかなくなるよりは余程…って、いや、いやいやいや。落ち着け私。誤魔化されるな。そもそもこの男がさっさと私を下ろせば済む話だったのだから、そこで感謝したらいけないだろう。それをしたら私の負けだ。

城内で転移魔法をかますような真似をする奴など、きっとこの男くらいなものだ。流石我が国筆頭魔法使い様である。無論のこと、褒めてはいない。嫌味である。


「それで、わたくしをここに連れてきて、どうなさいますの?」


柔らかいソファに身体を預けながら問いかけると、男は何を今更と言わんばかりに口を開いた。


「決まっている。お前の呪いを解くに決まっているだろう」

「ですが、その、わたくしに呪いを掛けた、という方がどなたなのか、解らないのでしょう?」

「ああ。だから、今からそれを、直接吐かせるんだ」


男の発言と声音には、淡々としながらも、不穏な響きが確かに混じっていた。吐かせるって。誰から吐かせると言うのだろう、と首を傾げつつ、男の顔をよくよく見てみれば、その表情は無表情なようでどこか違う。これは、もしかしなくても、相当腹に据えかねているのか。その怒りが私のためのものだと思うと、そんな場合でもないと解っていながら、何やらむず痒い気持ちになってしまう。

我ながら厳禁なものだと思う。独りで悪夢に苛まれていた時はあんなにも不安で、足下がおぼつかないような気がしていたのに。それなのに、今はどうだ。こうしてこの男と本音を打ち明けあって、抱き締められて、それだけでこんなにも心強くあれるだなんて。


「フィリミナ」

「はい?」

「何を笑っている」

「あら」


思わず両手で口許を押さえた。けれども笑みを形作った唇はそのままで、男の視線が鋭くなる。笑っている場合か、と、その朝焼け色の瞳が雄弁に物語っていたけれど、その視線が余計に私の笑いを誘う。荒んでいた心が癒されていく。そんな可愛らしい視線では決してないのに、不思議なものだ。

とうとうくすくすと声を上げて笑い出した私に、男は先程よりも大きな溜息を思い切り吐いた。その溜息は、私に向けてと言うよりも、苛立っている自分自身を諫めるための溜息のようだった。

そして男は、私に向かって手を差し伸べる。


「フィリミナ、こっちに来い」

「なんでしょう?」


何もしていないくせに私が羨ましくなるくらいに白い手に、促されるままに手を乗せると、そのまま引っ張られ、ソファから立たせられる。

そうして、あちこちに積み上げられている本や薬瓶、見たこともないような魔法陣が書かれた大きな羊皮紙、乾燥させた香草や薬草、天秤や貴重な魔宝玉などなど、いかにも魔法使いらしい物が無造作に広げられ転がっている中を、手を引かれるがままに、男の後についていく。

筆頭魔法使いの名に相応しいように男に与えられているそれなりの大きさの研究室は、これまで何度も訪れたことがあるが、ここまで奥には入ったことがない。

一体何をするつもりなのか、という疑問を私が抱き始めた頃、男は、数ある本棚の中から、ひとつの本棚の前で立ち上がった。男が私の手と繋いでいない方の手で、すい、と宙に指を滑らせる。と、同時に、目の前の本棚がズズ、と重い音を立てて横にスライドしていく。男の肩越しに、動いた本棚のの向こうを覗き込むと、そこには、地下へと続く階段があった。おお、これこそ正にファンタジー。

つい現状を忘れて感動していると、くい、と繋いでいる手が引かれる。


「行くぞ」

「は、はい」


手を引かれるがまま、ドレスの裾を片手で引き上げて、男の後に続く。

階段は思ったよりも狭くはなかった。左右の壁に設置された魔宝玉が、降りていく度に光っては消えていく。どこまで降りていくのだろう。

いくら魔宝玉の灯りがあるとは言え、薄暗いことにかわりはなく、暗闇に敏感になっている節のある私には、これは少々辛いものがある。それに気付いたのか、はたまた私が無意識に繋いだ手に込める力を強めてしまったのか、私と繋いでいる男の手の力が強くなる。


「大丈夫だ」


何が、とは男は言わなかった。けれど、そのたった一言に、確かに安堵してしまう私がここにいた。

男と手を繋いだまま、ただただ階段を降りていく。そうして、どれほどの時間が経過したか。周囲の変わらぬ光景に、時間の感覚が曖昧になる。長いようでもあり、短かいようでもあった。


やがて、カツン、と、男の固い靴底が硬質な音を立てる。それに続いてその隣に並ぶと、ようやく最下層に辿り着いたらしいことに気付かされた。

これは、帰りは登りなのだろうか、と、考えるだけで憂鬱になることを緊張感なく考えている私を余所に、男は、目の前に聳え立つ扉に手を掛ける。


リィン、と、鈴が鳴るような音がして、扉が開かれた。


「なんて、綺麗な…」


無意識の呟きが、小さく私の口から漏れた。

扉の向こうに広がっていたのは、予想以上に大きな空間であった。ドーム型の天井には、ここが地下であるはずだというのにも関わらず、月が輝き、星が瞬いている。よくよく見てみれば、それは実際の月の満ち欠けと星の動きを模した模型だということが分かるけれど、ただそうとだけ言い切るには勿体なさ過ぎる美しさがそこにはあった。

天井がそのような様相であるのに対し、地面は、ひとつの大きな魔法陣が描かれていた。複雑で細かい、まるで模様のようなそれは、古い魔法言語の綴りだ。それら一つ一つが薄く紫色に発光している。

天と地、それぞれがそれぞれの輝きを放ち、得も言われぬうつくしさを醸し出していた。


そして、そんな空間の中で、踞っている人影に、つい目を瞬かせる。薄明かりの中、たくさんの本を広げて、地面に綴られた魔法陣を書き写しているらしい、その小柄な人物のことを、私は知っている。


「ウィドニコル」

「うわあっ!? はい師匠!」


余程集中していたらしく、この男の弟子などという気の毒な、もとい、奇特な立場にいるウィドニコル・エイド少年は、男に声を掛けられることで初めてこちらの存在に気付いたらしく、慌てて姿勢を正してこちらを見てきた。そして、私の存在を認めると、その瞳を大きく見開いて、あんぐりと口を開けた。


「え、え? フィリミナさん!? どうして…」

「俺が連れてきたんだ。文句は誰にも言わせん」

「そ、そうですか」


少年は、男の言葉に頷きながら、羊皮紙を畳んで立ち上がり、こちらまで駆け寄ってきた。その表情はお世辞にも芳しいとは言い難い。しょんぼり、という表現がいかにも似合う表情で、肩を落としてウィドニコル少年は続ける。


「すみません師匠、今日の分はまだ…」

「ああ、今日はもういい」

「えっ?」

「臨時休業だ。今からここを使うから、お前は帰っていいぞ」

「ええっ!? いいんですか!?」

「…随分と嬉しそうだな」

「そそそそそんなことはありませんよ! 残念だなー…ははは…」


ウィドニコル少年よ、笑っているつもりなのだろうが、思い切り顔が引きつっているぞ。

男の方を窺うと、男はその整った眉を顰めていたが、やがて溜息をひとつ吐いて、ひらりと空いている方の手を振った。


「もういい。さっさと行け」

「はいいいいい!」


少年の反応は速かった。男に促されるが早いか、自らが持ち込んだらしいたくさんの魔導書や何本もの羽根ペンをわちゃわちゃとかき集めて、一目散に階段を駆け上がっていった。

その後ろ姿を見送る男が、無造作に少年の背を指差して、くい、と何かを引き寄せるような仕草をする。と、同時に、これでもかと荷物を抱える少年の腕から、羊皮紙と羽根ペンが浮かび上がり、宙を切ってこちらに向かってくる。が、ウィドニコル少年は気付くことなくそのまま行ってしまった。声を掛ける暇も無かった。

ううむ、見事なまでに調教され切っているな、と、本人が聞けば泣かれてしまいそうなことを思いつつ、隣の男の顔を見上げる。


「よろしかったのですか? ウィドニコル様のお邪魔をしてしまったようですが」

「構わない。確かにあいつには、仕事の一部も任せているが、これは完全に個人的なものだからな」


何でもないことのように男は言い、私の手を離して、ウィドニコル少年から失敬した羊皮紙と羽根ペンをキャッチする。その様子を余所にして、私は改めて周囲を見回した。天井の星々から発せられる光と、地面の魔法陣から発せられる光によって、ここは地下であるにも関わらず仄明るい。


「エディ。ここが何なのか、訊いてもよろしいでしょうか」


明らかに隠された場所であるここが何であるのかを、一般人である私が聞いていいものか、まずはそこからだった。

何も知らされないままに連れてこられたのはいいものの、ここが何であるのか、何故ここに来る必要があったのか、私にはさっぱりだった。唯一解るのは、ここが、魔法に関する場だということだが、それは私でなくとも、容易に解ることだろう。首を傾げる私に、男は淡々と言う。


「ここは、言ってみれば、魔力の調整場だ」

「調整場?」

「ああ。過去の筆頭魔法使いが造ったらしい。この魔法陣の中では、個人の魔力を増幅させることも、減衰させることもできる。ここは、自身の修行場として使っていたようだな」


さらりと男は言ってくれるが、その内容は、そう簡単には聞き流せないものだった。

魔力の増幅と減退。そんなことが可能であるのなら、黒持ちも何も関係なく、力の強い魔法使いが世の中に溢れかえるのではないのだろうか。これが公になれば、一騒ぎどころの話ではない。この話に比べれば、私とこの男の結婚など些末だろう。下手をしなくとも世界の常識が根底から覆される。この魔法陣を喉から手が出るほど欲しがる存在などごまんといるに違いない。この魔法陣の所有権を巡って戦争だって十分起こり得る。

だが、そんな私の危惧を読み取ったかのように、男は小さく笑った。


「そう心配するな。修行場だと言っただろう。ここの効力は、この魔法陣の中でだけだ。外に出てしまえば、この魔法陣の影響は一切残らない」


そういう風に造られている、と男は言い、更に続けた。


「でなければこんなものが今になるまで残っているものか。ただ、このいくらこの中でしか効果が無いとは言っても、魔法言語であることに変わりはない。多かれ少なかれそこには力が宿る。ウィドニコルには、この魔法陣の中でも、魔力を減衰させることができる魔法言語を抜粋して書き写させている。あいつの魔法は、取り分け感情に左右されやすいからな。保険をかけておくに越したことは無いだろう」


なるほど、と頷きつつも、内心ではとんでもなく冷や汗ものだ。

言っては悪いが、こんな場所のことなど知りたくなかった。国家機密レベルの場所の存在なんて、知らないでおくに限る。それだけ信用され、信頼されているのだと言えば聞こえはいいが、この場合で嬉しいかと問われると話は全く異なってくる。顔が引きつりそうになるのをなんとか堪えることしかできない。


「…ここがどういう場所であるのかは解りました。ですが、だからこそ解りません。どうしてわたくしをここに?」


そう、疑問点はそこだ。誰よりも強い力を持つ魔法使いのための修行場として在るのだというこの場所に、わざわざ私を連れてくる理由が解らない。呪いを解くのではなかったのだろうか。

私の疑問に、男は「ああ」と羽根ペンを手で玩びながら頷いた。


「ここは修行場であると同時に、結界としての機能も果たす。外へ魔力が漏れないようにしているのと同時に、外からの干渉をも防ぐ。反呪に対抗する魔法は当然仕掛けられているはずだからな。ここでならばそれが防げるはずだ」


男はそう言って薄く唇に笑みを履く。だがしかし、やはりその朝焼け色の瞳は全く、これっぽっちも、笑ってなどいなかった。

私に向けられている怒りではないというのに、ぞわ、と鳥肌が立つ。これは、単純に喜んでいる場合ではないということか。紫色の光の中に浮かび上がる、夜の妖精もかくやと謳われる美貌が浮かべるその表情は、幼い頃から側にいた私ですら、知らない表情だ。普通に怒りを露わにした表情よりも余程恐ろしく思えるその表情。

こんな時まで素直ではないのかといっそ笑いたくなるが、それをしたが最後、男の怒りの矛先はこちらに向けられるような気がして、結局私はぎこちなく「そうですか」と答えることしかできない。


「今の段階では、まだ呪いは解けない。犯人が分からないからな。『吐かせる』と言っただろう。今からここで、そいつを喚び出す」

「喚び出す…?」

「ここでは俺が何をしようと、他に漏れる心配が無い。何をしようとな」


どうしてそこを繰り返すのですか、とは訊けなかった。理由は言わずもがなである。

本当にこの男は何をするつもりなのか。他ならぬ私自身のことだというのに、私のこと以上に、この男のことの方が心配になってくる。

そんな私の視線を、敢えて無視するように、男は私に、手に持っていた羊皮紙と羽根ペンを差し出してきた。


「ここに名前を書け」


反射的に受け取ってしまったが、意味が解らない。手の中の羊皮紙と羽根ペン、そして男の顔を見比べて、目を瞬かせると、男は真顔で頷いた。


「そうだ。お前にかけられた呪いは、名前を起点にした可能性が高い。名前は魂そのものを縛る、この世で最も短く強力な呪だからな」

「そう簡単に名前からの呪いだと言い切れるのですか?」

「お前自身を知らずとも、対象の名前さえ知っていれば呪いを掛けることなど容易いものだ。逆を言えば、名前を知らない相手を呪うことは困難と言える。呪う相手の身体の一部を手に入れた、などと言えばまた話は別だが、そういう心当たりも無いのなら、まず名前から呪いを掛けたと考えるのが妥当だろう」


流石専門職、よく解っていらっしゃる。

私がこれまで散々考えて調べてきたことが、今日の数時間であっという間に解決しようとしている。本当に、さっさと相談すべきだったのだと言うことをまざまざと思い知らされて、苦い気持ちが沸き上がる。申し訳ないやら情けないやらで何も言えやしない。


表情が歪んでしまうのを隠すように踞って、地面の上に羊皮紙を置く。“フィリミナ”、と羽根ペンを紙面に滑らせて、そこで動きを止める。この続きをどう書いたものか、と一瞬迷った。けれどそれは本当に一瞬で、私は自信を持って“フォン・ランセント”と続きを綴る。姫様のベッドの上で男に言われた台詞が、私に自信を持たせてくれた。フィリミナ・フォン・ランセント。それが今の私の名前だ。

最後まで書き終えて、立ち上がり、男に羊皮紙を手渡すと、男はその紙面に視線を滑らせて、ひとつ頷いた。どこか満足げな、そして嬉しげな仕草に、なんだか面映ゆくなってしまう。ランセント。その姓を名乗れるのが嬉しいと思える。私がその姓を名乗ることを、嬉しいと思って貰える。それが、嬉しい。ああ駄目だ。だから、そんな場合でもないというのに。


男は魔法陣の中心に歩いていき、私が名前を書いた羊皮紙を置いた。側に近寄ろうとすると、その前に「フィリミナ」と呼びかけられ、踏み出しかけていた足を止める。男の朝焼け色の瞳が真っ直ぐに私を見つめてくる。


「俺はこれから、誰もが見たくもなく、聞きたくもないことをしようとしている」


耳触りの良い美声が紡ぐ言葉は、その声色にはてんで似つかわしくないものだった。


「だから、目を閉じ、耳も塞いでいろ」


この男がわざわざこんな風に注釈を付けるのだ。それ相応のことを、本当にこの男はしようとしているのだろう。長い付き合いだ。それくらいわかる。わかってしまう。だからこそ。


「いいえ」


頭を振って、今度こそ足を踏み出す。私の行動に、朝焼け色の瞳が瞠られた。自分の口許に、自然と笑みが浮かぶのが解る。男の隣まで辿りつき、並んでその驚きの表情を浮かべてもなお美しい夫の顔を見上げて、私は笑いかけた。


「ちゃんと、見ています。聞いています。これはわたくしのことですもの。あなたひとりだけに押しつけるなんて、そんなこと、頼まれたってするものですか」


そもそもが、これは私に掛けられた呪いなのだ。責任を負うべきは私である。

見ていることしかできないけれど。聞いていることしかできないけれど。誰もが見たくも聞きたくもないことだというのなら、それはこの男にとっても同意義だろうに。それでも、それをしようとしてくれているのは、私のためなのだと解るから。だから、例えどんなことであろうとも、少しでもこの男と共有したい。それは義務だからという訳では無く、ただ私がそうしたいと思うからだ。


はくり、と男の口が、何かを言おうとして動いた。けれど結局それは音にはならず、そのまま口は閉じられる。そしてもう一度、その薄い唇が開かれた。


「後悔するぞ」

「その時はその時ですわ」

「……この、馬鹿が」


あらあら、と笑う。いつもの毒舌が、どうしたことだろう、今はその切れ味が随分と悪いようだ。馬鹿だと言われようと、阿呆と言われようと、痛くも痒くもない。

いつものように微笑んでみせると、男は苦虫を噛み潰したような表情になり、そして、深い溜息を吐いた。


「…ならば、始める」

「はい」


開始の宣誓に頷くと、男が手を前に差し出した。ゆらり、とその手の上のあたりの空間が歪み、そこから杖が現れる。男が自ら作り上げた、魔王討伐の際にも用いられたという愛用の杖だ。その杖の魔宝玉は、既に淡く発光を始めていた。こんな地下では風など吹くはずもないというのに、男の漆黒の髪が宙に遊ぶ。


「     」


周囲を囲む魔法陣が、一際大きく輝き始めた。先程までは仄明るい程度だったはずの紫色の光が、今ではもう眩しいくらいだ。


「     」「     」「     」


高く、低く。囁くように、歌うように。まるで美しい詩歌を諳んじているかのような。魔法言語は言葉であり音だ。一語一音がそのまま力となって場を支配していく。

一般人程度の魔力しか持たない私ですら肌で感じる、高密度の魔力が凝り、私の名前が書かれた羊皮紙へと向かう。“フィリミナ・フォン・ランセント”という文字に光が宿り、羊皮紙から剥がれて宙に浮かび上がる。文字がひとつずつほどけ、ひとつに集まり、光の塊になった。ただその光は、美しいとは決して呼べないものだ。黒く澱んだその光の塊は、男に抵抗でもしているのか、激しく明滅を繰り返す。


「     」「     」


詠唱は続く。男の方を窺えば、その瞳が、魔法陣の光や私の名前の光に負けじと、爛爛と美しく輝いていた。それこそ、本物の朝焼けのように。そして。



「―――――捕らえた」



その言葉と同時に、光の塊が一気に四散し……いや、違う。四散したと思った光は、再び寄り集まって、先程までとは全く違う、もっと確固たる形を形成する。やがて光の明滅が止み、そこに残されたモノに、私は息を呑まされることになった。


「ッ!?」


宙に浮かぶ“ソレ”は、一瞬、赤ん坊のように見えた。けれどそんな可愛らしい存在ではないことは、二度目の瞬きの後にすぐに理解した。


赤黒い肌。大きすぎる頭に対して小さすぎる体。大きな目玉に白目はなく、真黒ばかりがぎょろりとこちらを見据えている。尖った耳まで裂けた口からは、鋭い牙が覗く。手足は細く、腹部ばかりがせり出した姿は、『前』の世界で見た地獄絵図の餓鬼のようだ。背中から生えた蝙蝠のような薄っぺらいボロボロの羽がぱたりと動く。たったそれだけの動きだというのに、冷水を頭から被せられたかのような気分になった。


自分が震えていることに遅れて気付く。泣き声が聞こえる。引いては寄せる漣のように泣き声は大きくも小さくも私の中で響き渡り消えてはくれない。そのまま泣き声の波に攫われてしまいそうだ。


「フィリミナ」


そんな時、耳元で囁かれる声音に、再び息を呑む。フィリミナ。それは私のことだ。他ならぬ、私の名前だ。

そのまま動けずにいると、腰を引き寄せられる。その温もりに身体を預けると、自然と身体の震えが止まっていくような気がした。

…情けない。本当に、我ながら情けない。後悔するぞと先に言われていて、その時はその時だと答えたのにも関わらず、この体たらくとは。情けないにも程がある。いくら相手が初対面する魔族だとは言え、これではあんまりだ。


―――そう、魔族である。

誰の目から見ても、赤黒いその生き物が魔族であることは明白だろう。その醜悪な外見は、いかにも不吉であり、悪意に満ちていた。


片手に杖を構え、もう一方の手で私を抱き締めるように抱えた男は、朗々たる声で、更に詠唱を重ねる。すると、何も無い空間の四方から、白銀に輝く鎖が伸び、魔族を縛り付けた。

きぃい、と、硝子を爪で引っ掻くかのような、不愉快な悲鳴が鼓膜を震わせる。耳を塞ぎたい衝動を堪えながら、ひたすらに様子を見守っていると、男は詠唱を止めて、魔族に問いかけた。


「貴様に訊きたいことはひとつだけだ。貴様と契約して、フィリミナに呪いを掛けた人物の名を答えろ」


冷たい、なんて言葉では表現しきれないほどに、冷え切った、絶対零度の低い声。淡々として、感情など欠片も込められていないその声は、だからこそ余計に、男の怒りが如何ほどのものであるかを表しているようだった。

男の問いかけに、にいい、と、魔族の口が歪む。わらっているのだと、遅れて気付く。


「きひひひひっ。だぁれがおしえるかよ。おまえらのせいでわれらがおうがァァァァァアッ!!」

「訊きたいことはひとつだと言ったはずだ。その巨大な頭は空なのか? ああ、答えなくていいぞ。あくまでも、訊きたいことはひとつなのだからな」


男が喋れば喋るほど、ギリギリと白銀の鎖が魔族を締め上げていく。そこには容赦のよの字も存在しない。

なんとか鎖から逃れようと魔族は身をよじっているけれども、それがどれだけ無駄なことなのか、男の表情を見ればすぐに解った。魔族自身もそれが解ったのだろう、苦痛に歪めていたその顔に絶望を浮かべた後、壊れたようにわらいだした。


「きひ、きひひひひひひっ!」


ぎょろり、とその奈落を覗き込んだかのような黒目が、私の方へと向けられる。びくりと反射的に身体を震わせてしまった。腰に回された男の腕の力が強まる。それに甘えて身を寄せると、そんな私を馬鹿にするかのように更に魔族はわらう。


「きひひひひっ! そのおんな! のろいかけるのかんたんだった!」


不快な甲高い声音が、耳朶に叩きつけられる。


「うつくしくもない、なんにももってない、やくたたず! せいれいにきらわれた、けがれもの!」


吐き出される怨嗟の声は、それだけで毒になるらしい。反論することができない。何故なら、その通りだったから。

美しくもなく、さしたる特技も持っていないこの私。『精霊に嫌われた』というのは、この背中の傷痕に起因する。上位精霊によって傷つけられた消えないこの傷は、私から精霊の加護を失わせた。おかげで霊魔法の中でも特に汎用性の高い治癒魔法がほとんど効かなくなった。けれどそれを不幸なことだと思ったことは無い。そりゃあ確かにすぐに治れば便利なのだろうが、普通の治療でも十分治るのだから問題無いことではないか、と思うのは、『前』の『私』の記憶があるからだろうか。

そう、私自身が気にしていなくても、周囲はそうは思ってはくれない。特に、私の横に居る、この男は。


「…れ」

「のろわれろ、のろわれろ! えいごうのやみにおぼれじね!」


小さく男が何事かを呟いた。それに気付くことも無く、魔族は私を罵り続ける。

永劫の闇とは、あの悪夢のことだろう。なるほど、その通りだ。確かにこのままあの悪夢が続けば、私は溺れ死んでしまうことだろう。泣き声ばかりが響き渡る、あの真黒の闇の中に。


「のろわれろ! のろわれろ! のろわ」

「黙れと、言っている」


男の手が唐突に杖を手放した。カラン、とその見かけからは想像もできないほど軽い音を立てて、杖は地に落ちて転がる。魔宝玉の輝きが消え、白銀の鎖の光もまた弱くなる。魔族の表情に余裕が戻り、更に声高々と私を罵ろうとして、男の方を見て、固まった。


なんだどうした、と私が男の顔を確認する前に、男は足を踏み出して私から離れ、魔族の元へと近付いていく。

そして魔族の前に立ち、杖を手放したその手が向かったのは、魔族の頭部。魔族の赤黒い肌とは対極に位置するような白い手が、いっそ丁寧にすら見えるような動きで、ゆっくりと頭部を鷲掴んだ。ジュウ、と何かが焼けるような音がする。


「言え。貴様の契約者の名を」

「ひ、いいいいいいいいいいい!」


その悲鳴は、先程までとは比にならないほどの悲鳴だった。断末魔の悲鳴とは、こういうもののことを言うのかもしれないとすら思う悲鳴。白銀の鎖に与えられる苦痛以上の苦痛が、魔族を苛んでいるらしい。身をよじることすらできずに、ただ魔族は悲鳴を上げ続ける。

何かが焦げる臭いが鼻に付く。吐き気を催すその臭いに、両手で鼻と口を覆った。離れた場所にいる私ですらこうだと言うのに、間近にいる男は、微動だにもしない。ただ、魔族の頭を掴み、悲鳴を上げる様を見下ろしている。


「いえ、いえな、いっ! さいしょ、から、そういう、けいやくっ!」


途切れ途切れになりながらも、なんとかそう言った魔族に対して、男がどんな表情を浮かべているかは、後ろにいる私には分からなかった。


「―――――そうか」


短く答え、男は頷いた。


「ならば、もう貴様に用は無い」


ぐしゃり、と。熟れすぎて腐りかけた果実を潰すように、魔族の頭部が握り潰される。あまりにもあっけない終わりだった。

握りつぶされた魔族の肉片は、男の手を汚すことなく、砂のような細かな粒子となって宙に消えていく。そして、カツン、と、赤黒い八面体の物質が地面に音を立てて落ちた。

白銀の糸が巻き付いたそれが気にならないと言えば嘘になる。けれどそれ以上に、もっとずっと重要なことがあった。


「エディ」

「………」

「エディ、こちらを向いてくださいまし」


二度呼びかけても、反応は無い。これ以上待っても意味が無いだろうと判断し、私の方から足を踏み出して、男の前に回り込む。そしてその秀麗な顔を見上げて、両手で男の白い頬を包み込んだ。


「何をそんな、情けないお顔をしていらっしゃるのですか」

「…す、」

「最後までその台詞を仰ったら、わたくし、このままあなたの頬を抓りますよ?」

「………」


端から見れば無表情なのだろうけれど、私にはこの男が泣き出しそうな顔をしているようにしか見えなかった。仕方のない人だ、本当に。


「大丈夫です」


この地下室に来る前、『あてにならない』と言われた台詞を、私は繰り返す。


「大丈夫ですわ、エディ。わたくしは、大丈夫です」


悪夢に立ち向かう勇気をくれたのは他ならぬこの男だ。この背中の傷は、この男を守れたという証だ。だからもう、私は大丈夫なのだ。それなのにこの男は、私以上に私のことを気に掛ける。何もかもから守ろうとする。それで傷付かれることの方が、私にとっては余程辛いことだというのに。


「名前を」

「はい?」

「お前に呪いを掛けた者の名前を、聞き出せなかった」

「そうですね」

「っ何を、他人事のように…!」


声を荒げる男に、つい苦笑する。つまりこの男が言いたいのは、呪いは解けないということか。それは確かに困ったことだ。男は頬に触れている私の手を掴み、朝焼け色の瞳を悔やむように伏せる。私は、そんな仕方のない男に笑いかけた。


「あなたがいてくださるのなら、わたくしは大丈夫です」


そう言うのとほぼ同時に抱き締められ、私は更に笑った。大丈夫、大丈夫。この温もりがあるのなら、大丈夫なのだとそう思える。

未だなおも脳裏に過ぎるストロベリーブロンドの面影や、耳朶に蘇る泣き声に気付かないふりをしながら、私は大丈夫を繰り返し続けた。

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