002
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「いよいよ明日だね」
「うん?」
「全面戦争だよ。ずっとその話してたのに」
陽射しは既に傾いた、図書室の目立たない片隅のことだった。
何を考えていたのだっけ。まるで一瞬だけ眠りに落ちて夢を見てしまったみたいに、意識に断絶があった。
顔を上げれば、そこにはクラス委員長の姿。長い睫毛に彩られた綺麗な瞳、良く通った鼻梁に、艶やかな唇。目が合ってしまって、慌てて逸らす。
「何か?」
「なんでもない」
ふんわりと微笑む藤宮さんに、ぱたぱたと手を振った。
誰もが憧れるクラス委員長と、向かい合って二人きり。自分の置かれた今の状況には、未だに慣れなかった。
それがゲームの中では数年来の付き合いの旧友とはいえ。
二人で勉学に勤しむような風をして、机の上に広げられたのは、現実には存在しない場所の地図やら、現実にはまず居ないだろう人名の並ぶ組織図やら。
そう、いよいよ明日には、アグノシアとクロバールの全面戦争が幕を開ける。
アグノシアの作戦の最後の詰めを、俺――ユキと、藤宮さん――レティシアは行っていた。
何日間にもわたって悩み抜き、ゲームの中でも外でも打ち合わせを重ね、ここまで来ている。だけど、作戦に果ては無い。考えれば考えるほど、何か見落としていることがあるのではと不安になる。
「昔もよくこうやって、話し合ったよねー」
「ゲームの中でだけど」
藤宮さんが言うのは、まだ俺がレギオンマスターだった頃の話だ。なんとなくその頃の話をされると色んな古傷を撫でられるようで、居心地が悪かった。
「万軍殿は、勝てると思っているのかな」
「だからもうその呼び名はやめてって」
藤宮さんはそんな俺の反応も面白がっている風なのだからほんと、昔から性格が悪い。
口の中で文句をいくつか呟いてから、俺はじっと考えて、それから首を横に振った。
「……どうだろうね、わからない」
「こういう時は、嘘でも勝てるよって言うものじゃない?」
「みんなの前でならそうかもしれないけどさ」
「それは、私は特別枠っていうことかな?」
「一緒に作戦考える相手に、隠し事したってしょうがないでしょ」
「……はー、これだからユキちゃんは」
やれやれと肩をすくめられて、釈然としない気持ちになる。
「それで、自信の持てない理由は何なのかな?」
「だって戦力差五倍の相手だよ? ダヴー将軍だって勝てるかどうか」
「アウエルシュタットの戦いだって二倍だったもんねぇ」
すんなりと戦史上の固有名詞に応答が返ってくるあたり、藤宮さんも大分染まっているみたいだった。ナポレオン時代の戦いである、イエナ・アウエルシュタットは用語集でかする程度の話だ。世界史の授業で取り扱うはずもない。藤宮さんが優等生であることとはもう別物の知識。
「まぁもう多分全力は尽くしたよ。あとは実際あたってみるしかない。戦いはその場の流れでなんとでも変わりうるしね」
「悩みすぎも良くないかぁ。そうだね、自分の進路でもこんなに悩まないかもねー」
「俺、まだ進路とか考えたこともない」
「いいんじゃないかなぁ、四埜宮くんの人生だし」
「凄く見捨てられた感のあるコメントですけど……」
不満げに漏らすと、藤宮さんはくすくすと上品に笑った。
「今は私も、先の人生より何より、この戦いの行く末が気になるよ」
「そうだね……」
窓ガラス越しに落ち行く陽を眺めた。もう一度陽が昇って、また落ちる頃、戦いが始まる。現実世界で言ったら、次に日が落ちるまでには、決着が付いている。
その時に見る陽は、どんな風に見えるだろう。
「ユキは……思い残すことは無いかな?」
「何その、死を覚悟して戦いに赴くみたいな。ある意味間違っちゃいないけれど」
俺が苦笑と一緒に聞き返すと、珍しく藤宮さんは、少し躊躇うような顔をした。
「だってこの戦いは、ユキにとってはさ……私にとっても、あの時、出来なかったことを、失敗したことをやり遂げようとする戦いに、なるんじゃないかな」
そんなことを言われて、息がつまった。ユキ、と呼ばれていることもあまり気にならなかった。
それは、きっと、間違い無く。
「そうだね。俺はあの時、ミハネを、大事なレギオンメンバーを守れなかった。みんなでずっと楽しくこのゲームを遊んでいたかったのに、そんな単純なことさえ、あの時は出来なかった」
「ユキはすぐ間違える。俺は、じゃなくて、俺達は、だよ。私もあの時何も出来なくて、ユキが居なくなって、誰よりも強いレギオンマスターになろうって決めたんだもの」
同級生の少女の口から紡がれる、かつて願ったこと。
伏し目がちの表情が、見とれるくらい綺麗だった。
「それで、ちゃんとなっちゃうんだからレティシアは凄いよ」
「だから、私はこの戦いに勝ちたいと思っているよ。誰よりも強いレギオンマスターであることを証明し続けるためにね」
また、こちらを真っ直ぐに見つめてきた藤宮さんの瞳が、ゲームの中の蒼氷色に見えた。
「ユキは、この戦いでどんな願いを叶えるんだろう、そう思って」
「俺の願いは……」
願いだなんて問われて、答えられる人がどれくらいいるんだろう。
こうあったら、ああであったら良い。そんな願望は大小、誰だって持ち合わせているだろう。でも、藤宮さんの言う願いは、そんな小さな話じゃない。
今この時、心の全てを賭して、叶えられたらと願う。そんな願い。
――――俺は、クロバールに勝って……それから……。
……もし、どちらかしか叶えられないとしたら、どちらを願う?
口元を引き結んだ。
そんな俺に、藤宮さんはふっと微笑んで、立ち上がった。
「さ、もう学校閉まっちゃうよ。今日はゆっくり寝て、明日に備えようね」
「あ、う、うん」
慌てて立ち上がる、俺に、レティシアが呟く。
「間違えないでね、ユキ」
何が正しくて、何が間違いなのかなんて、俺にはわからなかった。それが分かっていたら、人間誰も、間違いなんてしないはずだ。まるで、レティシアは答えを知っているみたいに。
でも、俺が訊いたところで、教えてはくれないんだろう。実際レティシアにだってわかるはずがない。俺の答えは、俺が見つけるしかない。
二人で、図書館を後にする。
なんとなく、いつも、藤宮さんと並んで歩くのは気後れしてしまって、俺は半歩後ろを遅れて歩いた。
「そういえば、ちゃんと24時間ゲームに入ってられる環境、四埜宮くんは用意できてるの?」
「ああ、うん、なんとか」
全面戦争のシステムは過酷だ。丸一日24時間、ゲームにログインし続ける必要がある。ゲーム内期間では一ヶ月。俺達学生が何より難儀するのが、24時間ゲームをやり続ける状況を整えることだった。
「雪乃ちゃんも一緒だし、大変だよね。まさか禁断の仲良し兄妹二人きり旅行の体とか……」
「何が禁断か知らないけれど、二人とも友達のうちに泊まりにいくことにしてるよ」
「ふーん……?」
歩みを止めた藤宮さんがくるりと振り返り、花がほころぶように微笑む。
「それで、実際はどこに泊まるの?」
「……友達のうちだけど」
「だから誰のおうちなのかなーって」
「……えーと……」
見た目は花な藤宮さんだったけれど、実質の所、俺は蛇にでもねめつけられている心持ちだった。




