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001

 机の上に広げた一枚の地図を、俺はすっと息を深く吸ってから、見下ろした。


 いくつかの拠点と、川や山、街道といった主要な地形の書き込まれた空白の多い地図。

 右上、青の大河が東の大海へと注ぎ込む河口近辺に一際目立つように書き込まれた都市の絵模様。神聖文字の上に振られたルビには「ディオファーラ」――クロバール共和国の首都の名前が記される。


 そしてその対称点であるかのように、左下、大陸を斜めに走る剣の山脈の尾根が、朝霧の平野へと下りてくる山の端に記された点には、「エクスフィリス」――アグノシア帝国の帝都の名。


 集中に入る時の感覚と、ゲームの世界にログオンする時の感覚は似ていると思う。深い深い海に潜っていくような感覚。耳に入っている音が聞こえなくなり、目に入っている周囲の景色が認識されなくなる。


 おそらく……クロバールは、前線都市ロンギニエから進発するのだろう。全面戦争中は、戦場へのワープポイント機能が全面的に停止される。若干退屈なことだろうが、自国領を軍団ごとに分かれながら足並みをそろえて進み、そして一斉にアグノシアの領土へとなだれ込む。


 地図に記された地形は最低限だが、幾度も戦争で回った戦域の数々だ。記載されていない地形の特徴は脳裏から目の前の地図へと転写され、俺はその情報も加味しながら、防衛に適した点に印を付けていく。


 これまで起こったことの無い全面戦争。これまで動かされたことのない規模の軍勢。通常の戦争より、更にリアリティーが追求され、ゲームとしての便利さに制約をかけられた宣戦布告というシステム。

 その制約の上で、クロバールがどう軍勢を動かすのか、そして、その攻勢をどうすれば防ぎきることができるのか。

 見下ろした地図の上にいくつも仮想の矢印を書いては、×印で消す。

 戦術や戦略、あるいは作戦。それは突き詰めれば将棋や囲碁と同じような知恵比べであって、定石はあっても必勝の手は無い。どれだけ良い手を打とうとも、相手がそれを上回る手を指せば負け、逆に平凡手でも相手がしくじればそれが決定打となることもあり得る。

 だから、作戦などというのは仮定に仮定を重ねた……砂上の楼閣だ。


 しばらく止めていた息を深々と吐き、眉根を抑える。

 両腕を後ろに投げ出し、背伸びをしようとした……その瞬間、指先が湿った柔らかい感触に触れて、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。


「ぬあぁっ!?」

「わぁっ」


 慌ててヘッドフォンを外して振り返った、すぐ後ろにあったのは妹の怪訝な顔。どうにも後ろに忍び寄っていた妹の髪に触れたらしい。


「どうしたのさ兄様……」

「お、お前ちゃんと入る時はノックしろって何度言ったら」

「ノック何度もしたよー、兄様が聞き逃しただけでしょ」

 

 言われてみれば、外したヘッドフォンから漏れ出す音はかなり大きく、周囲の音を遮断するには十分なレベル。これはあれですね……いかがわしいことをしている時には音量に気をつけないと。いや、四埜宮くんはそんないかがわしいこととかしないけどね?


 見慣れた、住み慣れた、俺の自室だった。シルファリオンの炭焼き小屋や、ユミリアの木立も良くも悪くも大分居慣れてきたものだが、それでも、16年余りを暮らす現実の自室にはまだ及ばない。


 風呂上がりらしい雪乃は、緩めのTシャツ一枚に、いつもはポニーテールに結い上げられている髪は背中の半ばまでに流していた。そうしていると活発さばかりが目立つ普段に比べ、なんだか普通の大人しい女の子という風に見えてくる。


「全く兄様は珍しく銀剣やらずに勉強でもしてるのかと思ったら……」


 ……前言撤回。中身は普段と全く変わらない。


「……世の中には勉強より大事なことがいっぱいあるんだよ」

「良い事風に言ってもゲームの話だからね、兄様」

「ゲームだってさ……」

「わかってるよー、大事な約束のためだもんね」


 そんなことをしたり顔で言う雪乃に、俺は精一杯嫌そうな顔をしてやった。

 どうにもこの妹は、この前の栂坂さんとのやり取りを聞いてからというものの、何かと俺が銀剣でやることなすこと物知り顔で肯定してきてかえって気持ち悪いというか、嫌みたらしいというか。


 そろそろまた敵側で入ってぶった切ってやりますからね。


 そんな俺の密かの決意など知るよしも無く、雪乃は俺の肩越しに机の上を覗き込んだ。柔らかい感触が背中を覆う。これが雪乃じゃなければなぁと思うこと頻りです。


「でも兄様は凄いよねー、こんな地図見ただけで作戦立てられるんだから」

「伊達に世の連中がカップルでいちゃついたり部活で青春してる間に、ゲームの中で世界征服や天下統一してなかったからな」

「あ、うん……そうだね」


 申し訳なさそうに目を逸らさないでくださる?


 まぁ、これも世の人の言う努力や鍛錬のうちに入るんだろうか。シミュレーションゲームをやりこみ、歴史小説や資料を読み漁り、銀剣ではレギオンメンバーと作戦討議を何時間も重ねるうちに、地図を見れば大体、どこが守りやすいだの大軍を移動させやすいだの、そんなことが直感的にわかるようになってしまった。

 いや、ほんと現実で全く役に立たない能力……生まれる時代を間違えたのかもしれないね、俺。


「もう作戦は決まったの?」


 雪乃の問いかけに、俺は首を横に振った。


「まだだよ。やっぱり難しい。藤宮さんの……レティシアの言ったように相手とこっちの戦力が五倍開いているってのがホントなら……一応守るのは攻めるのに比べて三倍有利とは言うけど、それでも三分の五は差があることになるからさ。相手と同じレベルの作戦だったらまず間違いなく」

「勝てない……かぁ」


 ほう、とため息をついて雪乃は俯く。落ちかかってきた髪が鬱陶しかったのか、払った一房からシャンプーか何かの良い匂いが鼻腔をくすぐる。ほんとこれが妹じゃなかったら、ときめくシチュエーションなのに。

 いや、妹じゃなかったらなんていうと、雪乃が妹じゃ無ければ万事オーケーみたいに聞こえてダメだな。いや、まてよしかし。雪乃は俺の妹だけあって客観的に見てそれなりに可愛いし、妹じゃなければありなのか……? 


「? どうしたの兄様?」

「いや、ちょっと親等とか義理とかそういう問題について考えてた」

「……社会科の宿題でも出た?」


 こっくり首を傾げてみせた雪乃に、俺はひらひらと手をふってみせた。これは世の男性についてセンシティブな問題なので深く追求してはいけない件なのだ、妹よ。というか、やはり雪乃はない。


 まぁそんなくだらない話は良い、問題は作戦だ。


 何度も戦って解っている通り、クロバールの首脳部も馬鹿じゃ無い。

 通り一遍の戦略・戦術のセオリーは駆使した作戦で仕掛けてくることは間違いないだろう。

 その上で、それを三分の五倍上回る作戦というのは果たして存在するのか。


 いつ実際火ぶたが切られるとも知れない戦い――システム上は、宣戦布告を仕掛けたクロバール側が開始日を指定し、そこから正味丸三日、全面戦争期間となる。その間は通常の戦争では無く全面戦争ルールが布告された相手国との間で適用されるということだ。その、いずれ訪れる期日に追い立てられながら、俺は銀剣のログイン時間を減らしてまで、作戦に頭を悩ませていた。


 そして、クロバールに勝つということとは別に……もう一つ立てなければいけない作戦もある。


 地図の右下に、主戦となるメモ書きから離れて殴り書いた一本の線。


 目ざとい雪乃も幸いなことに見逃したようだったが……それは、クロバールの1人の少女が辿る予定の道筋。

 クロバール最大最強――すなわち銀剣最大最強のレギオンである聖堂騎士団(テンプルナイツ)に命を狙われる悲劇のヒロイン……なんて精一杯それっぽく表現してみたけれど、現実のところは頭に血が上りやすくやたらとリアルで俺のことを踏んだり蹴ったりしたがるクラスメイト……栂坂さんことカンナのための亡命路だ。


 はたして、そちらの方も進捗ははかばかしくなかった。 


 

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