SS1 大司教様と実家 前編
「ちょっと! 恒太! あんた、こんな時間にどこいくの!」
「コンビニだよ!」
母親の問い掛けにおざなりな返事をして、猪瀬恒太はスタンスミスのスニーカーをつっかける。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
母親が慌てるのも無理も無い。恒太は去年の冬に三か月の間、行方不明になっている。また、居なくなりはしないかと心配もするだろう。
恒太は、台所から聞こえてくる母の慌て声から逃れるように玄関の引き戸をぴしゃりと閉めると、ブロック塀に立てかけたままの自転車に跨って、慌しく門を飛び出した。
――ごめん、母さん。それでも僕は戻らなくちゃいけない。約束したんだ、彼女と。
急角度に飛び出したせいで、ペダルが門柱を擦ってガリッと音を立てる。傷が入ったかも。でも、それどころじゃない。これを逃せば、次はもう無いかもしれないのだ。
恒太の見上げた空には、薄らと淡い光に描かれた魔法陣のようなものが浮かんでいる。
どうやら、アレは恒太にしか見えていないらしい。
少なくとも、妹には見えていなかった。
恒太が興奮ぎみに指し示した空に目を向けて、彼女は「お兄ちゃん、やっぱり病院行ったほうがいいんじゃないの?」そう言ったのだ。
行方不明になっていた三か月の間、恒太がどこに居たのかと言えば、こことは異なる世界。
体感で言えば一年半ほどもそこにいた訳だから、あっちとこっちでは、時間の流れが違うのだろう。
だがそれを、どれだけ必死に説明したところで、頭がおかしいと思われるのが関の山。
実際、母親には幾度となく精神科の受診を勧められた。
結局、異世界に行っていたというのは、戻って来た当初、何人かに話しただけで、以降は『わからない』で通している。
舗装もされてない短い砂利道を抜けて、空を見上げながら、ペダルを漕いで国道に出る。
大きめの街に出るのも電車で一時間近く掛かるド田舎のこと。国道とは言っても、田んぼの真ん中を突っ切る、文字どうりの田舎道だ。
信号もなければ、街灯も疎ら。夜がちゃんと夜の色を残している。少し離れたところにある新興住宅地のあたりがやや明るいという程度のものだ。
昼間に熱せられたアスファルトが、未だに熱を放ち、カエルの声が騒がしい。車輪の回転音がやけに大きく響く。住宅地の方で、自動販売機がピピピとスロットみたいな音を立てて、そのまま静かになった。残念、ハズレです。誰だか知らないけど、またのチャレンジをお待ちしています。
しばらく走っている内に、魔法陣が随分近づいてきた。
恐らくアレが浮かんでいるその下にあるのは学校。嘗て恒太が通って、今は妹が通う中学校だ。
――もう少し。まだ消えないでくれ。
恒太はサドルから腰を浮かせて、坂道を駆け上がる。
背筋力テストみたいにハンドルを力づくで引いて、ペダルに乗せた脚を垂直に踏み下ろす。肺に入ってくる空気は温く、身体は汗まみれ。犬みたいに舌をだして、ハアハアと息を荒げた。
やっとの思いで正門脇に辿り着くと、恒太は自転車をその場に倒して、間髪入れずに緑のフェンスを駆け登る。
月明かりに浮かび上がる校舎のシルエット。窓の奥に非常灯の緑と消火栓の赤いランプが見える。
真っ暗な校庭に降り立つと、お下がりで誰かにあげてしまった服を、街中で見かけたような、そんな気がした。
「こんな、狭かったっけ?」
ついつい数年前まで自分達の居場所だった三階の教室の方へと視線を走らせながら、運動場をまっすぐに横切って体育館の方へ。
魔法陣が浮かび上がっているのは、そのすぐ隣の半透明のトタンに囲まれた一角。その真上だ。
「プールの方か……」
僅か五段ほどの階段を跳ねる様に駆け上がって、スチールの扉に飛びつき、それを力任せに引く。
魔王の城の扉と同じ感覚で引いてしまったものだから、余りの軽さに足下が縺れて、転びそうになった。
鼻をつく塩素の臭い。コンクリートの壁に手をついて、湿っぽい暗闇を手探りで進む。
靴と靴下を脱いでジーンズの膝を捲り、水の溜まったままの消毒層をじゃぶじゃぶと通り抜けて、夜のプールサイドへと歩み出た。
ポツポツと突起のある濡れた樹脂製の床。その感触を足の裏に感じながら水辺へと歩み寄る。
街灯の灯りも届かない暗闇の中に、幻想的なまでに凪いだ水面。何万光年を旅してきた星の光が水へと墜ちて、点描のように夜空を描き出している。
空を見上げれば遥か真上に淡い燐光を放つ魔法陣……いや、魔法陣のようなもの、が見える。だが、水の上にその姿は映っていない。
昨年冬、学校からの帰り道。茜空に浮かんでいたこの魔法陣を見ている内に、気が付けばヌーク・アモーズの大聖堂にいたのだ。
だから、
――帰れるかも。
胸の内でそう独りごちて、恒太は思わず苦笑する。
――帰るってなんだよ。
たった一年半居ただけの場所に『帰る』というのはどう考えても不適切だ。だが、それが自然な気がした。やり残したことが多すぎるのだ。何より約束したのだ。無事に帰るって。
ところが、幾ら眺めていても何も起こらない。
「もっと近づかなきゃダメか……」
恒太はTシャツを脱ぎ捨てると、ためらいも無くプールに飛び込む。ジーンズの中の空気が膨らんで、股間の辺りがカボチャみたいに膨れ上がった。
ゆらゆらとゆれながら、身体に纏わりついてくる星の光ごと水をかき分けて、魔法陣の真下へ。
「僕はここだよ! ねぇ! ヌーク・アモーズに繋がってるんでしょ! 連れて行ってよ!」
恒太は大きく手を振りながら声を上げる。だが、誰からも返事は返ってこない。
――変化なし……か。
恒太がそう思った途端。
「うわっ!?」
チカチカと視界が明滅して、ハレーションが飛んだ。頭上の魔法陣が激しく発光したかと思うと、目の前で光が爆ぜて、視界が白く染まる。思わず瞼を閉じる。それと同時にバシャン! と大きな水音がして、頬へと当たる飛沫の感触に顔を背けた。
胸元にゆらゆらと大きく水面が揺れる感触。コータは恐る恐る目を開く。だが、まともに光を目にしたせいで、視界は未だにぼやけている。
目の前にうっすらと白いものが見えた。恒太がピントの合わない目を細めるのと同時に、
「……コ、コータ?」
震えるような声が聞こえた。
それは、聞き覚えのある少女の声。
次第にぼやけた視界がはっきりとしだして、水面に反射する星灯り。それに照らされる幼い少女の姿へと像を結ぶ。
金色の巻き毛。その毛先から落ちた水滴が波紋になって、幾重にも彼女の周りに華を開いている。はしばみ色の真ん丸な瞳が恒太を見つめていた。
「ソフィー……さん?」
見間違う筈などない。
現実と幻覚の境を探って呆然とする恒太の傍へと、彼女は必死に水面の星灯りをかき分けて近寄ってくる。
「信じられん……コータじゃ。コータがおる」
すぐ近くまで近寄って来た彼女は、瞬きひとつせずに恒太を見上げて、譫言のようにそう呟いた。
「ソ、ソフィーさん、どうやってこ……!?」
戸惑い混じりの恒太の言葉は、唐突に途切れる。
「コータっ!!」
彼女は突然、恒太へと飛びつき、声を上げる間も無く彼の頭は水中へと沈む。突然の出来事に踏み堪えることも出来ずに、盛大に水しぶきが上がった。
恒太は、片手で彼女の身体を抱えると、必死に水を掻いて顔を水面へと持ち上げる。
「ぷはっ! ま、待って、ソフィーさん!」
「いやじゃ! もう待たぬ!」
彼女の吐息が鼻先へと掛かる。二人の顔の間には握りこぶし一つほどの距離も無い。それでも暗さのせいで、彼女の表情は良く分からない。ただ、彼女の頬を伝って滴り落ちた雫が、二人の間に幾重もの波紋を描いた。
「もう……待つのはいやなのじゃ。こぉーたぁ……」
潤んだ声が耳へと入り込んで来たその瞬間、恒太の唇を彼女の唇が塞いだ。
頭の芯まで痺れるような感覚。恒太は驚き、目を見開く。そして、静かに目を閉じる。
ひんやりとした水の中で熱をもつ身体。抱き寄せた彼女の身体の生々しい感触が、温い水の中に浮かんでいた。
やがて、二人は静かに唇を離し、彼女は「あ……」と小さな吐息を洩らす。
見た目のせいもあるだろうが、その声はまだ言葉を覚えていない幼児が、もの言いたげに発する呻きの様に思えた。
恥ずかしさのあまり宙空に目を泳がせれば、星灯りの空のどこにも魔法陣は見当たらない。
――ソフィーさんを連れて来てくれたってことなのかな。
恒太が思わず微笑みを浮かべると、彼女は彼の身体を手繰り寄せて、ただ慈しむ様に、壊れ物を手にする様に、その胸元へと頬を摺り寄せる。
二人はしばらくの間、抱き合ったまま水の中に立ち尽くし、やがてゆっくりとプールサイドへと上がった。
先にプールサイドへと上がった恒太は、思わず目を見開いて硬直した。
気づいていなかった訳じゃない。でも混乱しすぎて、そこまで頭が回らなかったのだ。
梯子を伝って登って来た彼女は、一糸纏わぬ姿。彼女の凹凸の少ない、妖精のような裸身が、暗闇に白く浮かび上がった。
「あ、わ、わわ! ソフィーさん、こ、これ着てください」
恒太は慌てて顔を背けながら、脱ぎ捨てたTシャツを拾って、彼女にそれを押し付ける。
「うっ、す、すまんのじゃ」
彼女もTシャツを受け取ると、自分の恰好に今気づいたとでもいうように、慌しく頭からそれを被った。
「うむ、コータ。もうこっちを向いても良いぞ」
恐る恐る彼女の方へと目を向けて、恒太はすぐに視線を逸らす。体格差があるとは言っても、恒太だってそれほど背が高い訳じゃ無い。
よって、Tシャツの丈も彼女の股下がギリギリ隠れる程度。ヤバいなんてものじゃない。
凹凸が少ないとはいえ、濡れた裸身にピッタリと張り付いたTシャツは犯罪的な気がした。
ソフィーは、落ち着かなげな恒太を楽しげに眺めて問いかける。
「コータ、いつまでもモジモジしとらんで教えてくれぬか。ここは一体どこなのじゃ?」
「え、う、うん。ソフィーさんからすれば、異世界ってことになるのかな」
「……そうか」
「……なんだか、全然、平気そうだね」
コータがなぜか不満そうな口調でそう言うと、ソフィーは口元に小さく微笑みを浮かべた。
「たわけ。儂がどれだけ長く生きてきたと思うておる。大聖堂の隅で、ピーピー泣いておったお主と一緒にされては困る」
「ぴーぴーとは泣いてないってば。……まあ、確かにソフィーさんは、どこの世界でも、平然と生きていきそうだけどね」
唇を尖らせる恒太の姿に、ソフィーは目を細めた。
「いや、そうでもない。お主のせいで儂は弱くなった。今となってはもう、お主のおらぬ世界では、一秒たりとも生きていけぬよ」
「え?」
すぐには言葉の意味が理解できず、恒太は瞼をしぱたかせる。
それを見据えてソフィーは、ぎゅっと拳を握った。
彼女は魔王の配下に捕えられて、意識を失った。以降、ずっと暗闇の中を落ちて行くような感覚の中にいた。
だが、その途中で、ソフィーは彼女の信じる神の声を聴いた。
そして、その直後、瞼を開けばそこに、コータがいたのだ。
もう逃げない。
歳の差を言い訳にもしない。
もはや心に一つの迷いも無い。
そしてソフィーは、はっきりとこう言った。
「コータ、お主、儂を貰ってくれぬか?」
――幸せにおなり。
暗闇の中、彼女の愛する神は、彼女にそう囁いたのだ。




