第六十話 イノセ・コータ
扉を押し開くと、「あっ……あんっ」と押し殺した様な嬌声が洩れ聞こえてきた。静寂の中に女の乱れた息遣いが響く。
毛足の長い赤絨毯を踏みしめて顔を上げると、窓から差し込む明るい月光の中に、一人の男の姿が浮かび上がっていた。
銀色の髪から突き出す捩じれた角。秀麗な顔に下卑た薄笑いを浮かべ、正面の玉座に深く腰を下ろす男。
無論、今のレイには、この男が誰なのか分かっている。
男の膝の上には、褐色の肌を持つ女が、薄絹一枚纏っただけの淫らな姿で横たわっていた。
色黒な肌に白いレースのコントラスト。男は女の乳房を弄び、女はそれを悦ぶように、男の首に両腕を回して、愛おしげにしなだれかかっている。
だが、レイの目を釘付けにしたのは、この二人ではない。
二人の周囲にしなをつくって横たわる六人の女達。その一番端にいる少女の姿。それを目にした途端、レイは、余りの不愉快さに、血が逆流するような感覚を覚えた。
「ミーシャ!」
思わずレイが声を上げると、彼女は目を見開いた。
他の女達同様のいかがわしい恰好。薄絹一枚……いや他の女達の恰好と明確に違うのは胸元。八割増しぐらいだろうか。そこだけは、ふわふわのレースがてんこ盛りになっている。
敵にまで胸の貧しさを気遣われるとは、憐れとしか言いようがない。
そんなレイの胸の内を他所に、ミーシャは何かを言いたげな顔をしながら羞恥に頬を染めて、切ない眼差しをレイへと向けている。
おそらく、身体の動きを制限されているのだろう。声を出すことさえ出来ないように見えた。
レイは兜の下で唇を噛みしめる。
この身体に乗り移っておいて良かった。
ミーシャの身に起こったことを想像すれば、こめかみの辺りが破裂しそうになる。
まさかここまで心を乱される事があろうとは思いもしなかった。自分が今、どんな顔をしているのかがはっきりと分かる。こんな表情を彼女に見られたくはない。
「くくっ……安心するがいい。その耳長には、まだ手をだしておらんよ。まだな……」
「あん! やぁ……ん」
男は艶っぽい声を上げるダークエルフの乳房を弄びながら、レイを見据える。
その目には獲物をいたぶる猫のような、嗜虐心がありありと見て取れた。
「貴様のことは、そこの耳長に洗いざらい喋らせた。おそらく、どこかで野垂れ死んだ兵士の成れの果てなのだろうが、古竜を倒し、まさかギガントまでも倒そうとは、流石に驚かされたぞ」
「……安心しろ。あとは貴様を倒して、それで終わりだ」
レイのその一言に、魔王はいかにも愉快げに笑う。
「ははは、言いよるわ。自分が何者かもわからんような奴がよくも大きな口を叩く」
「全て思い出したと言ったら?」
その瞬間、魔王は片方の眉を吊り上げ、ミーシャは目を見開いた。
「ほう……ならば、貴様は何者なのだ」
「……イノセ・コータ」
途端に、魔王はピクリと動きを止める。ミーシャの息を呑む音が聞こえた。
「戯れはやめよ。それはありえんのだ。絶対にな」
魔王は威嚇するように低い声でそう言った後、じっとレイを見据えて、手を差し伸べた。
「まあ良い。貴様が何者であろうと大した問題ではない。どうだ私の配下にならないか? さすれば、あの耳長も貴様にくれてやるぞ。望むならあの娘が、貴様を心から愛するよう魔法を掛けてやってもよい。こんな風にな」
「あぁん……魔王さまぁん」
魔王が乱暴に乳房をわしづかみにすると、ダークエルフは切なげに眉根を寄せて呼吸を乱す。
だが、レイは小さく首を振った。
「自分でも驚いているのだがな。お前がアイツのことを語るたびに、腸が煮えたぎるような気がするぞ。いいか、与えられるまでもなく、ミーシャは私の娘だ!」
喜び、怒り、失望、希望。
『私のモノ』という言葉に纏わりついたニュアンスを鋭敏に感じ取って、ミーシャはおそらく二度と再現出来ないであろう、あらゆる感情の入り乱れた複雑な表情をした。
「ふっ……」
魔王は鼻で笑うと、パチンと指をならす。すると、ミーシャを除く周囲の女達がゆっくりと身を起こし、その身をくねらせながら、レイの方へと歩み寄り始めた。
「どうやら貴様は女を知らぬらしいな。あんな小娘より、もっといい女を抱けば気も変わるだろう。好きなのをくれてやる」
女達はいやらしく身をくねらせてレイへと歩み寄ると、鎧にその身を摺り寄せる。そして、女の一人が兜のスリットから中を覗きこもうとした途端、レイが動いた。
「えっ!? や、な、なに、やめてっ! きゃああああああ!」」
慌てる女の頭をがしりと掴むと、そのまま乱暴に壁へと叩きつけたのだ。他の女達は、一斉にレイから飛び退いて身構える。
「魅了の魔法を使ってくるような物騒な女には、用はないのでな」
「ふ、ふふふ……ふはははははは!」
「きゃっ!?」
魔王は高らかに笑うと、膝の上のダークエルフを荒っぽく跳ねのけて、玉座から立ち上がる。
「おもしろい。偽勇者とはいえ、この私が不傷不死であることを知らぬ訳ではなかろう。なぜ勝ち目もないくせに折れぬ。それともただの死にたがりなのか?」
「勝ち目がない? 前に私とやりあった時に、聖剣で幾つか傷を負った筈だ。そこが既に不傷不死では無くなっていることに気付いていないとは、とんだ道化だな」
「口から出まかせを! 貴様は断じてイノセ・コータではない!」
魔王は玉座の脇に据え付けられた二振りの剣のうち、一本を引き抜いた。それは妖しく、赤く、光る妖刀。
「手足を斬り落として、苦しみのたうつところを貴様の大切な耳長に見せてやろうではないか!」
途端に魔王から、恐ろしいほどの威圧感が押し寄せてくる。だが、レイは兜の下でほくそ笑んだ。
かかった。ここからは忍耐の勝負だ。好機は必ず巡ってくる。
レイが静かに剣を引き抜くと、魔王がレイの方へと駆け寄って大上段から剣を振り下ろす。
だが、レイは反射的にそれを剣で受け止めかけて、急に背後へと飛び退いた。斬り結んだが最期。レイはそれを知っている。あの妖刀に付与された特殊な能力。金属を擦り抜ける力を。
だが、レイのその挙動を目にした魔王の目に、僅に戸惑いの色が浮かんだ。この妖刀のことを知っているものは限られているのだ。
その内の一人は、一度はこの剣に斬られたイノセ・コータである。
魔王の戸惑いを目にして、レイは打って出る。連撃。彼は両手で剣を掴むと、凄まじい勢いで突きを繰り出した。
だが、魔王にはそれを避ける様子がない。いや、必要が無いのだ。魔王の身体に接触した途端、剣先が甲高い金属音を立てて弾かれる。
「我が身に傷を付けることなど出来はしない。不傷不死に綻びなど有り得ん!」
魔王は高らかに声を上げる。
だが次の瞬間、レイは歩法を発動させた。
暗黒騎士の凄まじい速度が、歩法で更に乗算される。
周囲で見守る女達の目には、レイの姿が突然消えたようにすら見えたことだろう。
彼女達の視界に、再びレイが姿を現した時には、彼は魔王の足下に屈んでいた。
「なっ!?」
これには、流石の魔王も声を上げた。
「くらえ! 昇竜斬!」
レイは剣を掲げて跳躍し、魔王は思わず目を見開く。
「まさか貴様、本当に……! いや! そんなはずは!」
思わず頬を引き攣らせる魔王。その喉元へと迫るレイの剣。だが、剣が魔王の身体へと届いた途端、ガラスを叩いたような甲高い音を立てて剣が折れた。
「ふ、ふははははははは!」
転がりながら距離をとるレイを見下ろして、魔王は哄笑する。
「ふっ。コータの技を真似たところまでは褒めてやる。だが、そこまでだ。私の不傷不死の肉体を傷つけることなど誰にも出来はしない!」
魔王は鼻先で嗤うと、無防備にレイへと歩み寄り、赤い妖刀を振り上げた。
「面白い余興だったぞ。名も知れぬ亡霊……だが、もう良い。死ね」
ミーシャが目に涙を浮かべながら、動かない身体を必死に捩る。
今まさにレイの上へと剣が振り下ろされようというその瞬間――。
けたたましい音を立てて、弾ける様に扉が開いた。
「なんだ? 騒々しい」
思わず魔王は振り下ろしかけた剣を止め、そちらへと目を向ける。
飛び込んで来たのは、猫のような耳を持つ赤毛の少女。彼女は何かを探す様にぐるりと部屋の中を見回す。
「ニコ!」
レイが呼びかけると、その暗黒騎士が彼だと分かったのだろう。彼女は声を上げた。
「コータぁあ! 遅くなったにゃ!」
魔王は怪訝そうに目を細めると、彼女の手に握られているものに気づいて目を見開いた。
そこに握られていたのは、古めかしい短剣。
「バカな!?」
魔王が声を上げるのと同時に、
「コータ! 聖剣にゃ!」
ニコは暗黒騎士の方へと、その短剣を放り投げた。
弧を描く様に宙を舞う古びた短剣。魔王はそれに目をくぎ付けにされたまま、その秀麗な顔に焦りの色を浮かべた。
イノセ・コータかもしれない。レイが、散々そう思わせるように振る舞ってきた事が、ここで活きてくる。
勇者以外の者にとっては、聖剣は只の古びた短剣でしかない。この男がイノセ・コータである筈など無い。
たとえ頭でそう考えたとしても、もはや魔王には、レイが勇者である可能性を捨てきれない。
もし、本当にレイが勇者ならば、聖剣がその手に渡ることは魔王にとって最大の脅威となるのだから。
だが、レイは自分が勇者ではないことを知っている。
実際、聖剣を手に取ったところで、古い短剣でしかない。
だが、それで良い。それで良いのだ。
レイは宙を舞う聖剣に背を向けると、手甲から腕を引き抜く。
聖剣に意識を向けたままの魔王は、その指に填っているモノに気付かなかった。
レイには、この指輪の正確な発動条件はわからない。
だが、チャンスは一度きり。万に一つの失敗も許されない。
ならば、この指輪が以前、発動したその時の条件をそっくりそのまま繰り返すだけだ。
宙空を舞う聖剣を見上げたままの魔王。がら空きだ。そうだ。あの時もそうだった。
次元のひずみに落ちて行くイノセ・コータの姿に、私は慌てた。
何者も、自分を傷つけることなど出来はしない。そんな驕りもあったのだろう。
レイは魔王の懐に飛び込んで、そのままその身体にしがみつく。
「なにをする!?」
「何をするつもりなのかは、お前の方が良く知っている筈だ!」
魔王はレイの指に填った指輪を目にして、恐ろしい形相を浮かべた。
「くっ!! 貴様ぁああ! 死んだ筈では無かったのか!」
魔王は手にした剣を逆手に持ち変えると、それをレイの背に突き立てた。火箸を突き立てられたような、凄まじい灼熱感が襲い掛かってきて、喉の奥から血がせり上がってくる。
致命傷。だが、もう遅い。レイの命が尽きるまでには、まだ数秒の時間が残されている。
レイは薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、思考を巡らせる。
あの時、この男は何と叫んだ?
いや、大丈夫だ。全て覚えている。
発音まで完璧にトレースできる。
生まれついての私の特殊能力は、『複製』なのだから。
レイは昏くなっていく視界の中に、ミーシャの姿を見つけて微笑んだ。
――大丈夫だ。泣かなくてもいい。私が君に笑顔を取り戻してみせる。
孤独の刻は長かった。だがミーシャに出会った事で、彼の世界の有り様は一変した。曇天の空に、晴れ間が覗いたような気がした。
レイは魔王の首へと腕を回し、首の後ろ――延髄。そこに指輪を押し当てて、声を上げた。
「命の杯は覆る、今、汝の目は、彼の目たり!」
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※60話でおさめるつもりだったのですが……。
たぶんエピローグも含めて、あと2話ぐらいです。




