第三十八話 風の契約者
眼下には海。
穏やかな波が陽光を散らして、金粉を振りまいたかの様に水面が光る。
陸地の騒がしさなど我関せずと、寄せては返す波の間に間に光が揺蕩う。
ミーシャはレイボーンの肋骨をガッチリ掴んだまま、静かにそれを眺めて、潮風に流れる髪を手で押さえた。
「降りる」
「……うん」
二人を乗せた人面獅子は、旋回しながら徐々に高度を下げて、やがて丘の上、花に飾られた墓標のすぐ脇へと降り立つ。
人面獅子の背から降りると、レイボーンは注意深く、その鼻先に剣を突きつけて凄んだ。
「約束通り解放する。だが、次に会えば命は無い。いいな」
ブォオオッ……。
相変わらずの、破れた金管楽器のような鳴き声を上げて後ずさる人面獅子。
だがレイボーンが、僅かに剣を下げた途端、その後ろ脚に力が籠った。
次の瞬間、人面獅子は、真横に飛び退いて、蠍の尾を振り上げる。
ニヤリ。
老爺のような、皺くちゃの顔がいやらしげに歪んだ。
振り下ろされる、蠍に酷似したその尾は、風斬り音を立てて、レイボーンの背後。そこにいるミーシャの方へと伸びていく。
だが、
「所詮、獣か……」
レイボーンがその呟きと同時に剣を振るうと、尾の半ばからボトリと地面に落ちた。
ブゥォオォ! オオオオォォ!
苦しげな声を上げて身もだえる人面獅子。
それをがらんどうの眼窩で見据えるレイボーンの口から、恐ろしく冷たい声が零れ落ちる。
「……死ね」
魔獣が倒れる音がした。
それを背中で聞きながら、ミーシャは静かに墓標へと歩み寄る。
「……お姉ちゃん、ごめんね。騒がしくしちゃって」
そう言って彼女は寂しげに微笑むと、背後へと声を上げた。
「レイボーン。少しの間、二人だけにして欲しいんだけど……」
「構わない。だが、すぐにここにも魔王軍が来る」
「うん……ちょっとだけだから」
「分かった」
坂道を下る足音。
レイボーンの足音が、遠ざかって行く。
それが聞こえなくなると、ミーシャは、すぅと息を吸い込んで、細く、長く吐き出した。
そして、
「……ジニ、そこにいるんでしょ?」
ミーシャが静かに呟くと、海と空。その蒼い風景を背景に、足をぶらぶらとさせる白い貫頭衣姿の少年が、まるでだまし絵のように、墓標の上で浮かび上がる。
「やあ、ミーシャ。どうしたのかな? 墓参りなら昨日来たばかりじゃないか」
「言わなくったって、分かってるんでしょ?」
その一言に、ジニは静かに微笑む。
緑色の髪がさらさらと揺れた。
「でも、ちょっと意外な気はしてるんだよ。エルフの中でも類まれな才能の持ち主の癖に、ずっと契約を嫌がってた君がね」
「だってヤなんだもん。契約で縛りつけるなんて」
「ははっ、精霊の方は別に嫌がってないんだけどね。まあその辺は感性の違いかな」
「でも、でもね。今は……ジニ。力を貸して、お願い。私は……私は、運命に抗いたい!」
「オリビアの傍から離れたくないって言ったら?」
ミーシャはジニの目を真剣な表情で見つめる。
「お姉ちゃんの大切なものを守りたいの」
その眼差しを見つめ返して、ジニは小さく肩を竦めた。
「ははっ……そんなこと言われちゃったら、断れないよね」
「……ごめんね」
「いいさ」
ジニは静かに微笑むと、ふわりとその身を宙に浮かべる。
「でもミーシャ。忘れちゃダメだよ。オリビアの大切なものには……君も含まれているってことを」
ジニはそのまま、まるで波間を漂う様にミーシャの傍へと近づいて、彼女の額にその唇で触れた。
「愛し子よ。その求めに応えて、ボクの持てる力を全て、君に貸し与えよう。風の精霊王の名において」
ミーシャの耳元でそう囁くと、ジニは小さな光へとその姿を変える。
そして、ミーシャの左胸、心臓のある場所へと溶けていった。
◇ ◇ ◇
レイボーンは坂道を下りながら、考える。
「逃げない」
ミーシャはそう言った。
どんな心境の変化があったのかは知らないが、そういう事なら自分のやるべきことはただ一つ――
静かに顔を上げて、遠くへと目を向ける。
立ち昇る土煙。
丘へと続く一本道を、駆け登ってくる魔獣の群れが見える。
――彼女に降りかかる全ての不幸を切り裂く。ただそれだけだ。
白く固い骨の指先で、剣の柄へと指を這わせる。
空洞の眼窩が、遠くを見据えた。
此方へと駆けてくるのは、双頭の巨大な魔犬の群れ。
先頭の魔犬には、草色のローブを目深に被った、細身の魔物が跨っているのが見えた。
レイボーンの姿に気付くと、魔物の群れは次第に速度を緩め、警戒しながら脚を止める。
「どういうことだ? 何故こんなところにスケルトンがいる?」
草色のローブの魔物が、レイボーンをじっと見据える。猛禽類の鋭い眼。梟の頭がフードの下から覗いていた。
「まさか人間どもは、不死者の傘下にでも下ったのではあるまいな?」
言われてみれば、これまでに出会った魔物に不死者はいなかった。
この魔物の口ぶりから推測するに、魔王軍とは別に不死者の勢力があるということなのだろう。
「ははは、まさか魔力が膨らんだというのは、こいつのことではあるまいな?」
レイボーンは剣を静かに引き抜く。
「べらべらとよく舌が回る。……梟かと思えば、どうやらオウムだったらしい」
スケルトンが喋るとは思っていなかったのだろう。一瞬驚いたような表情になった後、梟頭の魔物は、怒りに顔を歪める。
「誰がオウムだ! 殺れ! オルトロスども!」
途端に、双頭の魔犬たちが、レイボーンの方へと次々に飛び掛かってくる。つやつやとした短毛種、黒毛の巨大な犬。
レイボーンは剣の柄を握り直すと正面から飛びかかってきた一匹、その二つの頭の間に狙いを定めて刀身に気を流す。
肩口に食いつこうとする一頭で二つの顎。
それをギリギリまでひきつけて、その場でひらりと体を躱す。
空洞そのもののレイボーンの耳孔の直ぐ傍で、ガチンッ! と牙の合わさる音が響いた。
狙うは二つの首の間、彼はそのど真ん中へと剣を振り下ろす。
魔獣は飛びついてきたその勢いのままに、岩に割られた川の流れのように、もしくは裂かれた干物のように、真っ二つになってレイボーンの左右をはずみながら転がっていく。
「なにいぃ!?」
驚愕するストラス。
だが、血の匂いに興奮した魔獣達は止まらない。
次から次へと襲いかかってくる魔獣の攻撃を、レイボーンは右へ左へ飛び退きながら、時にはバックステップを踏んで、紙一重で躱す。
踊るように凶悪な牙から逃れながら、次から次へと、まるで流れ作業のように、レイボーンは魔物の首筋を刺し貫いていく。
二頭、三頭と倒れて、やっと攻撃が止んだ。
飛び込めばどうなるか。魔獣の足りない頭でも流石に理解できたらしい。
「バカな! スケルトンごときが、オルトロスをどうこう出来るわけがないぞ」
「まあ、スケルトンじゃないからな」
剣を肩に担いで、レイボーンが軽い調子でそういうと、梟頭の魔物は、クルリと首を一回転させた。
「なるほど……竜牙兵だったか」
「よくご存じで」
「当然だ。私は知識の悪魔であるゆえ。どうやら古竜は人間に与したらしいな。しかし……喋る竜牙兵とは興味深い。できれば、こやつも連れて帰って、調べてみたいものだが……な」
「出来るものなら、やってみればいい」
「慢心は身を亡ぼすぞ。牙のゴーレム如きが、このストラスに敵うと思っているのか?」
ストラスがオルトロスの背から飛び降りて身構えると、レイボーンは揶揄う様に言った。
「まあ、なんでも良いが、王都を攻める気なら道を間違えてるぞ」
「惚けた事を……。一つ問おう。耳長姫はこの先か?」
「耳長姫?」
おそらくミーシャのことだろう。
『耳長』と呼ばれたり、『姫』と呼ばれていたのは傍で聞いていたが、合わせ技は初めてである。
なぜ、魔物がミーシャのことを問うてくるのかは分からないが、いずれにしろ、彼のスタンスは変わらない。
「残念ながら、ミーシャは取り込み中だ。ここから先に行かせる訳にはいかない」
「……ミーシャ?」
ストラスは話が通じていないとでも言うように、眉間に皺を寄せて、何か変な顔をした。
だが、問い質すよりも、押し通る方が早いと判断したのだろう。
ストラスが顎をしゃくると、オルトロスたちは半円状に周囲を取り囲む。
そして、レイボーンの正面でストラスが身構えた。
一対一。
まるで決闘する二人と、それを取り囲む野次馬のような絵面である。
レイボーンは、ストラスを見据えて、空洞でしかない鼻を鳴らした。
「そんなやせ細った身体で、私と戦えるとでも?」
「やせ細った? お前がそれを言うか?」
ストラスが、不愉快げに吐き捨てる。
……御尤もである。
現在、レイは骸骨。
やせ細るどころの話では無かった。




