第三十五話 もう一人いた。
少し時間を遡る。
ミーシャとレイが丘の上を目指して、坂道を登っている頃。
オーランジェが二人に追いついた、丁度その頃のことである。
ドナとニコはヌーク・アモーズの北の端。大聖堂の正面扉の前へと辿り着いていた。
「うん、にゃ……っ!」
ニコは大聖堂の重い扉を僅かに押し開けると、その狭い隙間に頭をつっこんで、グリグリと身体を扉の内側へと捻じ込んでいく。
「ちょ、ちょっと、そんな無理に入らなくても、今開けますから!」
慌ててドナが扉を押し開くと、ニコは勢いのままに大聖堂の中へと飛び込んで、そのまま鳥の様に両手を広げて駆け出し始めた。
「にゃー! にゃー! にゃー!」
「ま、待ってください! ニコ殿!」
扉の内側、大祭壇の前に跪いて祈りを捧げていた神官たちが、一斉にニコの方へと目を向ける。
だが、騒がしいと、彼女を咎めるものは誰もいない。
むしろ微笑ましげに、彼女の走っていく姿を、目を細めて追っていた。
「あらあらぁ、ニコちゃん帰って来たのねぇ」
「うん! おばちゃん! ただいまっ!」
祭壇のすぐ脇にいた中年女性とニコの通りすがりのやり取り、それを目にして、ドナは盛大に顔を引き攣らせる。
ニコが今、おばちゃん呼ばわりしたのは、教会の序列第三位、エンリケ司教。
ドナにしてみれば、雲の上の存在だ。
ひーーーーっ!?
内心、悲鳴を上げながら、ドナは小走りでニコの後を追う。
だが、ニコはドナのことなど気に留める様子も無く、祭壇脇の扉を乱暴に開いて中へと飛び込むと、その奥の階段を駆け上がり始める。
二階、三階、四階。
そして、最上階の大司教の居室フロアまで昇り切ると、スタッと着地する様なポーズを決めて、息絶え絶えに後をついてくるドナを振り返った。
「にゃー、ドナちん遅いよー!」
「ド、ドナちん?」
我々は、いつの間にそんなに親しくなったのかと、戸惑うドナの手を掴んで、ニコはそのまま大司教の居室へと突っ込んでいく。
「ちょ、ちょっと、ま、待ってください。そこ大司教猊下の!」
慌てるドナを気に掛けもせずに、「にゃはは!」とバカっぽい笑い声を上げながら、ニコは扉を蹴り開けた。
「たっだいまーーーーーー!」
部屋の奥にはマホガニーの執務机。その向こう側にいた人物が手元から顔を上げる。
白い円形帽を被った黒髪の女性。年齢はドナより少し上で、細い顎と銀縁の眼鏡が怜悧な印象を与えている。
彼女は一瞬、目を大きく見開いた後、柔和な微笑みを浮かべる。
そして、静かに席を立って両手を広げると、飛びついてくるニコを、
「扉を足蹴にするんじゃありません!!」
「にゃぎょ!!」
拳で叩き落とした。
ひーーーーーーーっ!?
めり込む勢いで地面に叩きつけられたニコを目にして、ドナが声にならない悲鳴を上げた。
「まったくもう、ニコったら、居なくなるのも帰ってくるのも唐突なんですから!」
「い、痛い。ライトナちん……めっちゃ痛いにゃ……」
「痛くしましたもの!」
腕組みして、涙目のニコを見下ろす、大司教ライトナ。
彼女は、ニコの背後で硬直しているドナに気付くと、小さく首を傾げた。
「誰でしたっけ、あなた?」
「あ、え、はい、も、も、も、申し訳ございません。侍祭のドナ・バロットです。ハノーダー砦より帰着のご報告に伺いました」
「ドナ・バロット……?」
ライトナは、不思議なものを見る様な顔をした。
数分後。
「髪が短いから、分かりませんでしたよ」
「も、申し訳ありません」
ソファーに差し向いに座ったライトナが溜息を吐くと、ドナは慌てて詫びる。
無論、彼女に非がある訳では無いが、相手は教会のトップ。詫びる他に出てくる言葉も無い。
だが、たとえ髪が長くとも、分からなかっただろうとドナは思う。
実際、ドナがライトナと言葉を交わしたのはソフィーに従って、ハノーダー砦へ出立する時。その一度限りだ。
緊張の面持ちのドナとは対照的に、ニコはライトナの膝を枕に、ソファーの上で丸まっている。
その緊張感の無さを羨ましげに眺めた後、ドナは口を開いた。
「幾つか……ご報告がございます」
そこからドナは、レイとミーシャがハノーダー砦を訪れてから、今日までの出来事を、ライトナに語った。
頷きながら聞いていたライトナは時折、眉を上げたり、下げたり顰めたりと、やたら自己主張の強い眉を中心にころころと表情を変える。
取り分け、ソフィーにレイを篭絡するよう命じられた事を告げた時には、
「聖職者に男性を誘惑させるなど、あの方は一体、何を考えているのでしょう…………」
と、地の底まで落ちて行きそうなほど、深い溜め息を洩らした。
「まあ、篭絡の方は、ほぼ失敗に終わっておりますが。私も、その……そういうことには疎い方でございますし、胸を押し付けるのが精一杯で。勇者様は、特別気になさられるような素振りもありませんでしたから」
「……それはおかしいですね。コータ様は女性と目があっただけで挙動不審になるような方でしたよ。やはり勇者様は身体も清いのだと、感心したものです」
つまりライトナに言わせれば、勇者は皆、童貞ということらしい。
「その生霊は本当にコータ様なのですか?」
「私はコータ様とは面識がある訳ではありませんので、はっきりした事は申せませんが、ニコ殿は……」
「にゃ、アレはコータにゃ! 絶対そうにゃ!」
ニコは、がばっ! と跳ね起きると、二人の話に割り込んでくる。
「だって、昇竜斬を使ったのにゃ!」
「それだけ?」
「充分にゃ!」
途端に、ライトナは厳しい顔つきになった。
「その生霊は、自分が勇者だと主張しているのですよね?」
「……はい」
よく考えてみれば、レイ自身の口から勇者だと聞いたことはなかったが、それを言って、態々話を混ぜ返す必要も無いような気がした。
「実は、コータ様の他に、勇者を名乗る方がもう一人いるのです」
「え?」
ライトナが声のトーンを下げてそう言うと、ドナは戸惑いを露にし、ニコはイヤそうに唇を尖らせた。
「魔王討伐には、コータ様、バルタザール殿、私の三人で出発いたしました。ですが、実はその後、私たちを追って合流した方がいらっしゃったのです」
「ニコ殿以外に、ということでしょうか?」
「ええ、その方は、グロスクロイツ家の嫡男でレイモンド殿です。降嫁された王妹テディシア様の御子息で、ジェラール王の甥にあたる方です」
「ジェラール王の甥? そんな方が何故……」
「レイモンド殿が仰るには、神が彼に聖なる指輪と魔王を打倒する秘策を授けたとのこと。故に本物の勇者は自分だと主張なさっておいででした」
「それはまた……なんとも……」
「胡散臭いでしょう? 私も大方、神の名を騙る悪魔にでも騙されておるのだろうとは思いましたが、何と言っても王家に連なる方、無碍にもできず同行せざるを得なかったのです」
「ぐろくろは嫌い」
ニコがブスっとした顔で吐き捨てると、ライトナが苦笑いを浮かべた。
「まあ、ニコが嫌うのも仕方ありません。なにせ、尊大で自信過剰、陰湿な割に怖いもの知らずで脳筋という、実に厄介なお方でしたし……」
「まさか大司教猊下は、我々と一緒にここまで来た勇者様は、そのレイモンド様ではないかとお考えで?」
「ええ、出発した時点では我々とは一緒ではありませんでしたので、彼が同行していた事を知る者は、ごくわずかですが……確かに魔王の居城まで一緒でしたし」
「違う! 違うにゃ! 竜のコータは『ぐろくろ』みたいな嫌な奴じゃないにゃ! 『ぐろくろ』は昇竜斬なんて使えないにゃ!」
ライトナは、ブンブンと首をふるニコの肩を掴んで、言い聞かせるように語り掛ける。
「ニコ、冷静に考えてごらんなさい。サイクロプスと戦った時に、レイモンド殿もコータ様が昇竜斬を使う所を見ています。レイモンド殿もかなりの剣の使い手でしたし、もしかしたら魔物の身体能力で、再現出来ただけかもしれませんよ?」
「……違うのにゃ」
弱々しく肩を落とすニコ。
その肩を優しく抱きながら、ライトナはドナへと向き直る。
そして、
「私が瀕死のニコを連れて魔王の城を脱出した時、そこに残っておられたのはコータ様、バルタザール殿、レイモンド殿のお三方です。レイモンド殿が神から授かったというあの指輪が、例えば魂を地に留め置くような力があったのだとすれば……辻褄が合うような気がしませんか?」
そう言った。
◇ ◇ ◇
そして同じ頃、王宮の玉座の間には、この国の主だった者達が、絶望に彩られた顔を連ねていた。
ジェラール王の座する玉座の正面。
赤い絨毯の上に跪いているのは、ボロボロの軍装を纏った一人の兵士。
「もう一度……申して見よ」
ジェラール王が声を震わせると、兵士は血を吐くように、途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「ハノーダー砦が……陥落、いたしました。騎士団長ゴディン殿は、敵主将と一騎打ちの上、討ち死に、司祭ソフィー様……の行方は分かっておりません。魔王軍……は途中の村々を蹂躙しながら進軍中。明日には、ヌーク・アモーズに到達する見込みで……ございます」




