第二十六話 満月が見下ろしている。
みるみるウチに小さくなっていく街の灯。
星明りも疎らな漆黒の夜空に、巨大な蜘蛛を載せた一匹の飛竜が、風を斬って舞い上がる。
「アンタ……なのよね?」
――ああ、そうだ。
警戒心も露に、アリアが眉を顰めて顔を覗き込むと、飛竜は長い首を僅かに上下させた。
アリアは、ホッと大きく安堵の溜め息を吐いて、表情を緩める。
「重くない?」
――重い。『女性に体重の話をするなんて』とか、そういうフリに付き合う余裕がないぐらい重い。
実際、レイが乗り移る以前、この飛竜は、突然押しつぶされたということもあるのだろうが、アリアの重みで地面に腹を擦っていたぐらいなのだ。
「ぶー。感じ悪いわね。アンタ」
アリアが頬を膨らませて拗ねた顔をすると、今度はレイが彼女に問いかける。
――ところで……歩き方を意識すると、急に上手く歩けなくなることってあるよな?
「え、なに? 突然……何の話よ?」
――いや……それが、その……。
なにやら言い辛そうなレイの様子に、アリアが怪訝そうに首を傾げる。
――私はどうやって飛んでるのかなと……。
その瞬間二人の間に、やたらと緊張感を孕んだ沈黙が舞い降りた。
「うぉおおおおおぉい! ダ、ダメ! 考えちゃダメよ。絶対ダメだからね!」
――そう言われてもだな……。
「そう、そうだわ! い、今までで一番、楽しかったこととか考えるといいわよ」
アリアが頬をひくつかせながら、言い聞かせるようにレイの顔を覗き込む。
だが、口調の優しさとは裏腹に、その目は血走っていた。
――わ、分かった。
途端に、レイが思い描いた幾つかの場面が、アリアの脳裏に流れ込んでくる。
万華鏡のようにくるくると風景が入れ替わり、やがて――一つの場面が繰り返され始めた。
「アンタ、ほんとにそんなのが楽しかったの?」
アリアは、思わず口を尖らせる。
――……仕方あるまい。私には、ここ数日分の記憶しかない。
「はあっ……もう。ほんと、やってらんない」
アリアは呆れたと言わんばかりに、肩を竦めた。
「……まあ、いいわ。上手く生き残れたら、もっと楽しい事教えてあげる。それはもう、みっちりとね……」
――お、お手柔らかに頼む。
レイがどこか怯えるようにそう答えると同時に、周囲から翼のはためく音が無数に響いてきた。
元より空は、飛竜の領域。
飛竜たちは、二人を取り囲むように遠巻きに周囲を飛び回っている。
その様子を見る限り、姿かたちは飛竜でも、明らかに、彼らはそれがレイだと認識していた。
――やれやれ。仲間だと勘違いして見失ってくれることを少しは期待したのだがな。
口調こそ困った様な物言いではあったが、アリアの中に流れ込んでくるレイの感情は明らかに異なる。
――だが、この身体は悪くない。魔力が満ちている。それも、ゴブリンなんかとは比べ物にならないほどに。
どことなく高揚するようなレイの様子に、アリアはやはり呆れた。
「男はちょっとぐらい野蛮な方が良いとは思うけど……。あんたねぇ……四方八方、敵だらけよ? いくら飛竜の身体に魔力があるって言っても、相手も飛竜なんだから」
――ああ、分かっている。だが、キミと私の二人ならなんとかなる。そうだろう?
「その言い方は、……ずるいわ」
――まずは私は逃げる事に専念する。迎撃は任せた。
「任せたって! アンタねぇ! あ、うわっ、わっ、わっ!」
レイは言うだけのことを言ってしまうと、抗議の声を上げるアリアのことを気にも留めずに、速度を上げて急上昇し始める。
だが、レイ達が行動を開始したことで、周囲を遠巻きに飛び回っていた飛竜たちは、一斉に二人を追い始めた。
グォオオオオオオオオッ!!
背後から大量の飛竜が、牙を剥いて追ってくる。
重量級のアリアを載せたレイよりも、相手の方が断然早い。
そして、一匹の飛竜が、大きく顎を開いて、レイの尾に喰いつこうとしたその瞬間。
「もう、せっかちなんだから!」
背後に迫る飛竜に向けて、アリアは背中の穴から一気に糸を放出した。
それは、まるで煙幕のように、飛竜の体を覆いつくす。
白い大輪の華のごとくに広がって、そこに突っ込んだ飛竜を絡めとった。
張られた蜘蛛の巣を突き破るのとは訳が違う。
粘性を持った糸は飛竜の体にぶつかると、ほとんど形も分からなくなるほどに無茶苦茶に絡みついて、最後には、球に近い白い塊となって、地に落ちていった。
「うふふ、どうかしら? ねっとりした白いのをぶっかけられる気持ちは?」
――……下品だな。
「うるさいわね! アンタはちゃんと逃げることに専念しなさいよ!」
――上からも来るぞ、しっかり掴まっていろ。
アリアが見上げると、牙を剥いて急降下してくる飛竜の姿が目に飛び込んでくる。
――来る!
次の瞬間、ぐらりとレイの身体が傾いて、アリアは思わず顔を引き攣らせた。
「きゃあああああああ!」
迫りくる白い牙。
レイは身体を一気に傾けると、くるくると錐揉みしながら、それを躱す。
「こんのぉおおお!」
ぐるりと回る視界の中に、牙をむいたまま通り過ぎていく飛竜の姿を捉えると、アリアは、その翼に向かって口から液体を噴きかけた。
それは、骨すらも溶かす蜘蛛の体外消化液。
蜘蛛の口は決して大きくは無い。
だが、巣に掛かったものならば、蜘蛛は自分の体よりも大きなものであったとしても平然と食料にする。
全くの雑食性。
蜘蛛は獲物にこの体外消化液を注入し、ドロドロに溶かして食べるのだ。
途端に、白い湯気を立ち昇らせて、飛竜の翼が破れていく。
必死に翼をはためかせながら落ちて行く飛竜の姿を目の端に捉えながら、アリアはレイに向かって声を上げた。
「どうすんのよ。このままじゃ限が無いわよ!」
――まずは逃げ切る。這い出よ! 闇人形!
レイがそう唱えると、左右に飛竜の形をした黒い靄が現れた。数は全部で八体。
「な? なんなのよ、これ!」
――おちつけ、只の囮だ。この闇の中なら、少しはバレにくいはずだ。
レイの言う通り、八つの黒い靄が、それぞれバラバラの方角へと飛び始めると、後を追ってくる飛竜のうち、何匹かは目標をそちらに変えて飛び去って行く。
だが、それでも追ってくる飛竜の数が多少減ったという程度。
アリアはぐるりと周囲を見回す。
どこを向いても飛竜の群れ。
アリアはそんな中で飛竜の姿が異常に少ない方向をみつけて、声を上げた。
「アンタ! 月は見える? あっちは飛竜が少ないみたい。あっちへ向かって!」
◇ ◇ ◇
最後の一人にとどめの水平チョップを食らわせて、ドナは満足げに額の汗を拭った。
「ふう……これで、彼らも悔い改めてくれることでしょう」
「あはは……」
ここまでに散々ツッコみ尽くして、最早言葉も無いミーシャは、げっそりとした表情で渇いた笑いを零した。
悪霊が目覚めたら見境がなくなるというだけで、どうやらドナの強さに、悪霊は関係ないらしい。
石畳に山積みになっている男達を眺めて、ミーシャは思わず頬をひくつかせる。
見回してみれば、西の城門には既に人が殺到している。
だが、空を埋め尽くしている飛竜達には、なぜか人間を襲う様子は無い。
「ところで耳長殿、勇者様はどちらに?」
「ああ、レイならだいぶ前に蜘蛛女を追いかけて、どこかにいっちゃったわよ。その後を飛竜も追いかけてったみたいだけど……」
「どこかへって……そ、そんな悠長な! あなたは勇者様が、心配ではないのですか!」
「そんなこと言われてもねぇ……」
実際、蜘蛛女や飛竜がどれだけ化け物だといっても、デスワームをあっさりと屠ったレイの方が、正直ずっと化け物じみているのだ。
ドナの咎める様な視線をまっすぐに受け止めて、ミーシャは、はっきりと言い切った。
「大丈夫、信じてるから」
途端に、ドナは大きく目を見開くと、よろよろとよろめいた末に、膝を折って打ちひしがれる。
「くっ……な、何という事でしょう。神を信じぬ耳長殿ですら信じているというのに、神の化身たる勇者様を、神官の私が疑ってしまうだなんて……」
「そんな大げさな……」
ミーシャが思わず肩を竦めると、ドナは、じっとミーシャの顔を見詰めて呻く様に口を開く。
「……こ、これが、お二人の愛の形なのですね」
「…………はい?」
なにか複雑な感情の混じった瞳で見つめてくるドナに、ミーシャは背筋に冷たい物を感じて、取り繕う様に声を上げた。
「と、とにかく、荷物の大半は馬車から放り出されてたから、それを回収して、町の外に逃げるわよ」
だが、ミーシャが駆け出そうとすると、
「ちょ、ちょっとお待ちください」
ドナがそれを呼び止めた。
「何よ」
ミーシャが怪訝そうに振り返ると、空をじっと見上げるドナの姿が目に映る。
「おかしいんです」
「だから、何がよ!」
「今日は宿を出る時から、何度も空を見上げましたが、月は出ていませんでした」
「は?」
ドナの視線を追って空を見上げると、そこには黄色い満月が輝いている。
だが、次の瞬間――月が瞬きした。




