第二十五話 スベる飛竜と飛ぶ蜘蛛女
「言っとくけど、止められてもほんの数秒。それ以上は無理よ」
――分かってる。
「じゃあ、こっちに来て。そこに居られたら、糸出せないから」
アリアは背中にしがみついているレイに手を差し伸べると、そのまま彼を、赤ん坊のように豊かな胸へと抱きかかえる。
「じゃ、行くわよ。ここじゃ見通しが良すぎて囲まれてしまうもの」
アリアは迫りくる飛竜の群れをぐるりと見回して、鐘楼からすぐ隣の屋根の上へと飛び降りた。
◇ ◇ ◇
「なにが竜殺しよ! 真っ先にビビって逃げてんじゃないのよ」
「うるせぇ! くそ女! あの数だぞ! 無理言うんじゃねぇ! 俺ぁ逃げるぞ!」
外から男女の言い争うような声が響いてくる。
「うぅん……」
霞がかった意識の中で、赤毛の少女は煩げに身を捩った。
「ふわあぁあああああ、うるさいにゃぁ……もう、何時だとおもってんのにゃ……」
彼女は積み上げた藁の上から身を起こして、猫みたいな仕草で寝ぼけ眼を擦ると、形の良い乳房に張り付いた藁クズを払い除けて、酒の抜けきらない頭でぼんやりと思考を巡らせる。
にゃ? そーいえば、昨日はどうしたんだっけ?
行きつけの酒場で飲み始めたところまでは覚えている。
そこから時間が跳んで、お勘定を払った辺りのことは、薄らと記憶にある。
でも、思い出せるのはそれだけ。
にゃぁ……?
彼女は訝しむような目つきで、辺りを見回す。
窓から差し込む星明りが、薄らと部屋の中を照らし出している。
隅に置かれた彼女の数少ない荷物と、転がる何本もの酒瓶。
部屋に戻るなり脱ぎ捨てたらしい衣服と愛用の軽装鎧が、扉から寝藁まで足跡の様に点々と床に落ちている。
とりあえず、脱いだのは部屋に戻ってきてかららしいと分かって、彼女はホッと胸を撫でおろした。
おそらく、無意識のままに、なんとか部屋まで辿り着いたというところだろう。
「あっぶにゃかったにゃ……ライトナちんが一緒だったら、まーた説教地獄が始まるところだったにゃ……」
癖の強い赤毛の髪を無造作に掻きながら、思わず苦笑いを浮かべるこの少女の名はニコという。
彼女がこの鐘楼の二階を不法占拠してから早三か月が経とうとしているが、昨日も待ち人は現れなかった。
「しっかし、なんだか、騒がしいにゃ……」
ニコはめんどくさげに立ち上がって窓辺に歩み寄ると、木戸を押し開けて外を眺める。
どうやら時刻はまだ深夜。
ざわざわと祭りのような喧騒が、遠くから響いてくる。
「にゃ?」
思わず小首を傾げて、何気なく見上げたその瞬間、空を埋めつくす青い鱗に、彼女は思わず声を上げた。
「にゃにゃ!? 飛竜!?」
驚きの余り、普段は引っ込めている耳と尻尾が飛び出した。
「にゃんで? にゃんで? もしかして、竜のお爺ちゃんも来てたりするのにゃ?」
彼女自身、パーティの一員として、飛竜達と対峙したこともあった。
だが、それはディアボラ山脈の向こう側。魔王領の更に向こう、古竜の支配圏でのこと。
どう考えても異常な事態である。
いますぐここを飛び出して、竜達が何を考えているのかを問い糺さなくてはならない。
「何が起こってるか、分かんにゃいけど……」
彼女は真剣な表情で、点々と脱ぎ捨てられた衣服を眺める。
そして、
「まずはパンツを見つけるところから……にゃ」
そう言った。
残念ながら、洗い置きの下着はない。
明日まとめて洗濯するつもりだったのだ。
彼女が思わず肩を落とすと同時に、窓の外、隣の屋根の辺りでズシン! と何か重たい物の落ちる音が響き渡った。
◇ ◇ ◇
屋根の上に降り立つや否や、アリアは八本の脚を忙しく蠢かせて、一気に駆け出した。
「さあ、ついておいで! トカゲさん達!」
空へ向かってそう呼びかけると、彼女はまるで白煙を噴き上げるかのように、背中の穴から白い糸を噴き出し始める。
通常、蜘蛛の巣は粘性のない縦糸の間に、粘性のある横糸を張り巡らせて造られる。
蜘蛛が自分の巣に引っかからないのは、粘性の無い縦糸の上だけを渡るからだ。
今、彼女の背中から引っ切り無しに噴き出し続けているのは、その粘性の無い縦糸。
それを羽衣の如く、風の中に泳がせながら、彼女は屋根から屋根へと慌しく飛び移っていく。
だが、その動きは、軽やかというにはほど遠い。
蜘蛛の巨体には、相当の重量がある。
着地する度に足元で建物が軋む音を立てて、砕けた砂礫がパラパラと地に落ちた。
やがて、一際大きな建物の上に降り立つと、アリアは胸元のレイへと呼びかける。
「首狩り兎! 飛ぶわよ! しっかり掴まってなさい」
――わかった。
レイはこくりと頷くと、無造作に腕を伸ばして、二つの乳房をがっしりと小脇に抱える。
「あん! って、ちょっとは遠慮しなさいよ、アンタ! 金取るわよ!」
――我慢しろ。他に掴まる所が無い。
「このエロ兎ぃいい! 後でぼったくってやるからね!」
――請求はエルフの方へ回してくれればいい。
「結構クズね、アンタ……」
間違いなくエルフの少女がブチギレるであろう一言に呆れながら、アリアは平らなマンサード屋根の上を滑走し始める。
そして、硬い節足にえぐり取られた外壁を撒き散らしながら、大通りの方へと一気に跳躍した。
余り知られていない事実だが、実は蜘蛛は空を飛ぶ生き物である。
これは比喩では無い。
実際、高い場所で網を振り回すと、稀に小さな蜘蛛がかかる事があるのだ。
長く吹き流した糸に風を受けて、宙を舞うバルーニングと呼ばれる行動。
小さな蜘蛛ならば、数百キロの飛行も可能なのだが、流石にアリア程の巨体となるとそうはいかない。
せいぜい長距離跳躍の補助程度のものだ。
それでも百メートルを超える大跳躍。
背後から追ってくる飛竜の姿を視界の隅に捉えながら、人のざわめく大通りを一気に飛び越えて、彼女は通りの向こう側、いかがわしい店が軒を連ねる裏通りへと舞い降りた。
アリアは八本の脚を大きく開いて、石畳の上を滑りながら勢いを殺すと、間髪入れずに細い通りを奥へと走り始める。
――逃げるだけでは、いつか追いつかれるぞ。
「お黙り! ちゃんと考えてるわよ。歓楽街がアタシの庭なの!」
見上げれば何匹かの飛竜が獲物を狙うかのように低い所を旋回している。
アリアの肩越しに背後を覗き見ると、地面すれすれを土煙を上げて追ってくる一匹の姿が見えた。
――奴ら、人間には見向きもしないな。
「完全にアンタしか狙ってなさそうね。アンタを投げ出して逃げれば、私も大丈夫なんじゃないかって思い始めてるんだけど」
――やってみるか?
「ウソよ。アンタと私の仲じゃないの」
――だから、喰われるのは御免だと言っている。
思わず渋い顔をするレイの姿に、アリアはクスリと笑うと、角を曲がる。
そこから入り組んだ通りをいくつも通り抜けて、やがて二人は広めの通りに躍り出た。
「ここがかつてのメインストリート。『吸精鬼の洞』よ」
それは数十メートルにも渡る、長く真っ直ぐな通り。
道の両側にはいかがわしい看板を掲げた店が軒を連ね、通りの途中には区画を区切るためか、道の上を横切る様に石造りのアーチが掛かっている。
饐えた臭いと塗装の禿げた派手派手しい看板が、この通りの寂れきった雰囲気を、より一層濃い物にしていた。
――いかにも、という感じだな。
「……昔は賑わってたのよ、ほんとに」
アリアはどこか懐かしむような顔になった後、
「まあ、あんまり焦らせても、萎えちゃうし……押し倒すんなら、そろそろかしら」
どこか艶めかしい声音でそう呟くと、アリアはじゅるりと唇に舌を這わせる。
その時、二人の背後で盛大に路地の壁を破壊する音を立てながら、飛竜が通りへと躍り出てきた。
二人の姿を見つけた途端、飛竜は一気に速度を上げ、アリアも必死に脚を蠢かせて逃げる。
真っ直ぐな通りを駆け抜けるアリア。だが、背後から追ってくる飛竜との距離は縮まる一方。
アリアがアーチをくぐると同時に、
グゥウオオオオオオオオ!
飛竜が咆哮を上げながら、長い首を伸ばす。
そして、遂にその鋭い牙が、蜘蛛の身体へと食い込もうとするまさにその時――――アリアは行動を開始した。
「がっつくんじゃないわよ。坊や!」
彼女は身体を大きく仰け反らせると、後ろ四本の脚で強く地面を蹴って跳ぶ。
仰け反ったまま宙を舞う彼女の、逆さまの視線。
その先には通りを横切るアーチが映る。そこには通り過ぎざまに巻き付けた、白い糸が絡みついていた。
高く跳躍した彼女は、糸にひかれるままに、アーチを軸にしてくるりと一回転。
大車輪の要領でアーチの周囲を回ると、背後から飛竜の背中へと落下した。
グゥウオオオオオオオオ!
突然の激しい衝撃に、飛竜は地面で腹を擦り、砂煙が舞い上がる。
咆哮を上げて、激しく身もだえる飛竜。
地面すれすれを飛びながらも、背中にしがみついたアリアを跳ねのけようと激しく暴れた。
だが、
「激しいのはきらいじゃないけどぉ……」
アリアは、八本の脚を飛竜の胴体に絡ませてホールドする。
そして、太い縄のように編み込まれた蜘蛛の糸を両手に掴むと、首を持ち上げてアリアに喰いつこうともがく飛竜の顎に、轡のように咥えさせた。
アリアは必死でもがく飛竜を轡でねじ伏せながら、切羽詰まった声を上げる。
「早く! 長くは保たないわよ!」
――充分だ。
アリアの胸元にしがみついていたレイは、力強く頷くと、飛竜の首筋へと飛び降りた。
無茶苦茶に翼をはためかせる飛竜。
レイは、その首筋へと鋭い前歯を突き立てて、ギリギリと後ろ足に力を込める。だが、飛竜の鱗は相当硬い。
グゥウオオオオオオオオ!
傷口が裂けるに連れて、益々暴れる飛竜。
その首筋をじりじりと抉るレイ。
噴き出した血が、兎の白い口元を真っ赤に染めていく。
やがて、弱々しい吐息と同時に、飛竜の身体がぐらりと揺らいで、力なく翼が折れた。
飛行中の勢いのままに、飛竜の体が地を打つ激しい音と衝撃。
石畳が削れて土煙が舞いあがり、千切れた白い糸が宙に吹き上がって白煙のように立ち昇る。
「な!? 首狩り兎!」
その凄まじい衝撃の中で、アリアの目に、投げ出された兎が後方へ点々と転がっていくのが見えた。
だが彼女も方も、人の心配をしている場合ではなかった。
このまま滑って行けば、正面の城壁に衝突する。
アリアが思わず身を固くしたその瞬間、突然、飛竜は息を吹き返したように首を持ち上げると、必死に翼をはためかせて、アリアを身体にしがみつかせたまま、再び宙へと舞い上がる。
そして、
――大丈夫か?
アリアの脳裏に、レイの声が響いた。




