第二十二話 蜘蛛の女王
――ふむ。
レイは少し考え込む様な素振りを見せた後、ミーシャの方へと振り返って言った。
――ミーシャ、教えてくれ。どうやらこの女に勧誘されているようなのだが、今の話のどこに、私のメリットがあったのか良くわからないのだ。
「は?」
レイにふざけている様子は無い。
きょとんとするアリアを目にして、ミーシャは思わず「ぷぷぷっ……」と噴き出す。
絶対優位に立っているつもりのアリアにしてみれば、メリット云々以前に、命は助けてやっても良い。その程度の意味だったのだろう。
この兎には、それが分からなかったのだ。
もしかしたら、ピンチだという認識すら無いのかもしれない。
「さあ? 女の子に大人気ってあたりじゃないの?」
洩れそうになる笑いを口の中でかみ殺しながら、ミーシャが適当な事を言うと、レイは、
――これ以上、モフりにくるヤツが増えたら、心労でハゲる。
と、心底イヤそうに顔を顰めた。
そして、相変わらずきょとんとした顔で、二人の会話を聞くともなしに聞いていたアリアに向き直ると、レイはぺこりと頭を下げる。
――今回はご縁が無かったと言うことで。
その瞬間、アリアの顔が怒りに歪む。
艶っぽい口元から、ギリリと歯ぎしりする音が零れ落ちた。
「バッカじゃないの! 珍しいからって仏心を出してみれば、首狩り兎ごときが調子にのってぇ! 良いわ! 皮を剥いで襟巻にしてあげるわよ!」
――ミーシャ。なんだか怒らせたみたいなんだが?
「さぁ? なんか栄養が足りてないんじゃないの? ああ、あれよ、あれ。更年期ってヤツじゃない?」
レイが再び振り向いて問いかけると、ミーシャは揶揄う様にそう言って、ドナの肩を支えに立ち上がる。
治癒は既に終わっているらしい。
頬を汚している血の痕は痛々しいが、額の傷は既に塞がっている。
ミーシャもドナも擦り傷だらけで、服もかぎ裂きだらけ。
どこの浮浪者かと見紛う有様ではあったが、レイの目に、ミーシャの額以外には、大きな怪我は無さそうに見えた。
だが、せっかく凄んでみせたというのに、軽く流されてしまっては、アリアの立場が無い。
緊張感のないレイたちの様子に、彼女のこめかみがミチミチと音を立てた。
「アンタ達! そこの娘を捕まえなさい! 殺しちゃダメよ。自分から殺してくれって懇願するぐらい、酷い目に合わせてやるんだから!」
男達に向かって甲高い声で叫ぶと、アリアはレイを血走った目で睨みつける。
「アンタは、この子たちの餌にしてあげるわよ!」
途端に、アリアの足元に擦り寄っていた二匹のヒュージスパイダーが、かさかさと八本の足を蠢かせて、レイを取り囲んだ。
――まあ……そうしてもらえると助かるな。
「なにがよ?」
後ろ脚だけで立っていたレイが、身体を折って前脚を地面につけた。
――この身体では手加減が出来ないからな。相手は人間じゃない方がありがたい。それに……
レイの背後で、男達が足下をふらつかせながら、ドナとミーシャの方へと迫っていく。
――あの女は強いからな。
迫りくる男達の姿に、ミーシャが顔を引き攣らせた途端、
「テンバァァァァァツ!」
ドナはいきなり意味不明な叫び声を上げながら、手近な男に殴り掛かった。
「な!?」
アリアの驚愕の声を掻き消す様に、ぐしゃ! っという水気を含んだ音が響き渡って、男の首があらぬ方向へ折れ曲がる。
だがそれで終わりではない。
いや、寧ろ、開戦の狼煙でしかない。
ドナはそのまま男の頬を力一杯殴り抜けると、いきおいまかせにくるりと回って、隣の男の腹に膝を減り込ませる。
そして、男が呻きながら前のめりになると、その髪を引っ掴み、顔面へと執拗に膝蹴りを叩きこみ始めた。
「うっわ、エグっ……」
ドン引きするミーシャを気にも留めず、ドナはその場で足踏みする様に、更に何度も膝蹴りを叩きこむ。
恐ろしいのは垂れ目がちの目が、僅かに笑っていること。
男の鼻が折れて血が零れ落ち、折れた歯がポロポロと地面へと落ちる。
やがて、男の身体が小刻みに痙攣し始めると、ドナは飽きたおもちゃを投げ出す子供みたいに、その身体を石畳の上へと投げ捨てる。
そして、威嚇するように周りを睥睨すると、彼女は声を張り上げた。
「寄ってたかって、か弱い女性を手に掛けようとは言語道断! ワタクシは唯一絶対なる神の、地上における代行者。そう、神は仰られました。殺られる前に殺れ。殺る時は徹底的に殺れ。と」
「絶対、邪神だって……そいつ」
ミーシャのその呟きは、幸いにもドナの耳には届かなかった。
次の男へと襲い掛かるドナの姿を目で追いながら、アリアが声を震わせる。
「ちょ、ちょっとアンタ! 何なのよ!? あれ!」
――さっき言っただろう? あの女は強いと。
レイが呆れたとでもいうように肩を竦めると、アリアの顔が怒りで赤く染まった。
「きぃいいい! 馬鹿にするんじゃないわよ! 兎の癖にィ!」
彼女が声を荒げると同時に、周囲を取り囲んでいたヒュージスパイダーが、わさわさと節の付いた足を蠢かせて、一斉にレイの方へと殺到してくる。
その瞬間、レイの四つの脚が石畳の地面を蹴った。
トンという軽い音をその場に残して、レイは正面の蜘蛛へと突っ込むと、八本の脚の間、蜘蛛の体の下を、放たれた矢のようなスピードで駆け抜ける。
そして、レイがくぐり抜けた途端、蜘蛛の身体がいきなり大きく傾いて地面に倒れ込んだ。
みれば、左側の四本の脚が斬り落とされて無くなっている。
片側の脚を失った蜘蛛は、石畳に身体を擦りつけながら、身悶える様にその場でくるくる回り始めた。
――一匹。
レイは間髪入れずに身を翻すと、再び石畳を蹴って、次の蜘蛛へと襲い掛かる。
突っ込んでくる白い塊。その姿を縦に並んだ六つの目で捉えた蜘蛛は、口から粘ついた液体を吐き出した。
だが、レイの速さには対応できていない。
飛び散った液体は石畳を溶かして、湯気を立ち昇らせる。
移動する後を追って次々に吐き出されるそれを、躍る様に躱しながら、レイは再び蜘蛛の脇を駆け抜けた。
蜘蛛の向こう側へと抜けてレイが顔を上げると、今まさにドナが一人の男を、頭突き一発で仕留めるところ。
ミーシャはというと、そのドナの背後で「そこだ! やっちゃえ!」と、野次馬のような声を上げている。
――心配する必要は無さそうだな。
レイが、半ば呆れ気味にそう独りごちると、背後で蜘蛛の身体が地面を打つ音が聞こえた。
そして、レイはゆっくりと、アリアの方へと向き直る。
――もう終わりか?
その一言に、アリアの顔が盛大に歪んだ。
「調子に乗るのも、いい加減にしろぉおおおお!」
途端に、アリアの身体がぐにゃりとゆがんだかと思うと、それが一気に膨れ上がり、徐々の蜘蛛の姿を形作っていく。
ヒュージスパイダーの何倍もあるであろう巨体。それこそ、小型の竜にも匹敵するほどにまで膨れ上がっていく。
――変化か、幻術かはわからないが、よくもいままでそんな物を隠していたものだ。
アリアは、この歓楽街の顔役だと言っていた。
この姿を隠して、それこそ文字通りに、この町に巣食っていたのだろう。
「この姿を見ても動じないなんて、大したものね」
頭上から響いてくるアリアの声。
巨大な蜘蛛の背から女の上半身が生えている。
肌の色は人間離れした青。六つの赤い目がレイを見据えた。
魂の憶測に散らばる失われた記憶。
その断片を拾い集めながら、レイは応える。
――いや、結構驚いてるぞ。蜘蛛の女王。




