二〇〇八年 一二月一八日
どれほど眠っても心の傷はやはりそのままで、起きてもまた同じ夢の中にいるかのようで、夜になり眠ることが恐くなる。
この日も洋平はそのような寝つけない夜を過ごしていた。
「……」
何度もベッドの中で寝返りを打ち、その度に航大のことを考える。
それで心の中で何かが解決するわけでもないが、そうしていなければ眠ることへの恐怖がなくならないような気がしてならないのだ。
(眠れない……)
その理由は分かっている。
航大の部屋で、航大が書き記していた日記を見つけてしまったからだ。息子が亡くなったという悲しすぎる事実もだが、それ以上に日記に書き残すことで気持ちの整理をつけていた航大の心情に気付けなかったという親としての情けなさが洋平の心を占めているのだ。
その気持ちが眠ることへの恐怖を助長させている。
「……はぁ……」
タイマーをセットしているエアコンは洋平が眠りに付くまでの間、部屋を暖めておこうと鈍い音を発しながら暖かい風を運んでいる。
静寂に満ちている部屋には、そのエアコンの動いている音しか響かない。厳しい寒さを耐える上では有難いエアコンだが、今はその音が嫌になるほどうっとうしく思う。
(航大はいつもこんな夜を過ごしてたんだろうか)
寝つけない時は、異常なほどに様々な考えが頭を巡るものだ。
洋平も、自然と今の自分を病気の進行に恐怖していただろう航大と照らし合わせていた。それは洋平には一生分からないものだ。
それゆえに、気になってしまうのだ。
最後に見た航大の表情が、不意に思い返される。これで死ぬのだと悟ったような航大の表情は洋平にとってあまりにも辛い息子の顔だった。
思い出したくもない、けれど忘れてはいけないその息子の表情が、洋平の眠れない夜を長引かせていく。
洋平が目を覚ましたのは、それから数時間が経った頃だった。
寒さに負けじと小鳥がさえずる声が聞こえてくる。
「ん……」
漏れる吐息は脳が活動を始めようとする意思表示かのように、次第に洋平の瞼が開いていく。その顔に、カーテンの隙間から差し込む冬の日差しが当たる。それは天然の目覚まし時計だ。
「……朝……」
いつの間に眠ってしまったのか分からない洋平は、目が覚めると朝になっていたことに驚く。
(もうこんな時間か……)
寝ぼけ眼のままベッドの脇に置かれているデジタル時計を見ると、七時前を指していた。その洋平の隣には、いつも恵が眠っているベッドがある。しかし、恵の姿はすでにそこになかった。どうやら恵はすでに起きているようだ。
隣に恵がいないことを確認して、洋平もベッドから起き上がる。
「……」
その表情はどこか虚ろなままだ。
息子を亡くしたという事実をいまだ上手く飲み込めていない表情にも見え、現実逃避をしたいという意思の表れにも見える。
しかし、それでも洋平は生きていかなければならない。いつもと同じように起き、朝ご飯を食べ、支度をし、会社に行き、仕事をし、家に帰ってまた明日に備える。その繰り返しをこれからも行わなければならない。
(いつから、こんなに自分は弱くなったのだろう……)
不意に洋平はそう思う。
その答えをすぐに見いだせないまま、時間は洋平を先へと進ませる。このままぼうっとしているわけにもいかない洋平はおもむろに立ち上がり、夫婦の寝室を後にする。
洋平が寝室から出ると、その前には航大の部屋がある。昨夜は心の安定を求めるように、無意識に入って行った息子の部屋だ。
「…………」
部屋の扉には、やはり見慣れた札がぶら下がっている。札に書かれている文字は、随分と薄れていて、『の』という文字が読みにくいほどだ。
そこに、洋平は時間の流れを強く感じてしまう。
感じた流れはどうやっても取り戻せるものではなく、懐かしむためだけに存在する思い出のように、洋平の記憶の中に留まるだけだ。その記憶すら曖昧になっていくことに憤りを覚えるほどに、洋平は自らの無力さを呪いたくなる。
「あなた――、そろそろ起きてよ~!」
そこに、恵の声が届いてくる。
「……っ!」
自暴自棄に陥りそうになっていた洋平の意識が戻る。
「あ、あぁ、今行くよ――っ」
恵の声に急かされるように、洋平は階段を駆け降りる。
リビングに行くと、併設されているキッチンで恵が洗い物をしていた。あまりにも起きるのが襲い場合は起こしにくる恵が一階から声をかけたのは洗い物をしていたからだろう。
リビングの窓のカーテンは全て開けられており、厳しい冬の朝空でも窓からは暖かそうな日差しが部屋に入り込む。
エアコンから届く暖風よりも、その天然の暖かさのほうが効果があるような気になりながら、日差しが届いている方の席に腰掛ける。
テーブルにはすでに恵が作った朝ご飯が並べられていた。
「おはよう」
まだキッチンに立っている恵に、洋平は朝の挨拶を掛ける。その声に、リビングに背を向けている恵が振り返る。
「うん、おはよう――」
返ってくる返事は、いつものように活気ある声だ。その表情や声色に昨日のことが見えない。いや、見せないでいるのだろう。昨夜家に帰ってきたときも、恵はその強さを洋平に見せていた。自分の妻の強さに改めて、洋平は驚く。これではどっちが男らしいのか分からない。
「いただきます――」
そんなことを考えながら、朝ご飯を食べ始める。
白米が好きだった航大のために朝もパンではなくご飯という決まりなのだ。航大がこのテーブルに座ることはないが、それでもそのことを忘れないようになのか、それとも習慣としてご飯を炊くことがもう染みついているのだろうか。
少し硬めに炊いてあるご飯は歯ごたえがあっておいしい。ここの辺りも水っぽいお米が嫌いだった航大の好き嫌いがしっかりと出ている。
そのことに気付くと、それまで感じていた恵の強さも儚いものに思えてくる。
「……」
涙が出そうになるのをこらえながら、無言で箸をすすめる。
「どうかしたの――?」
そんな様子の洋平に、恵が不思議そうに尋ねる。その声で我に返るように恵を見やり、自然と涙が出た。
「ど、どうしたの!?」
洋平の顔を見て、恵は慌てる。キッチンから急いでハンカチを差し出すが、洋平は片手で「なんでもない」と制する。
「あなた……」
昨夜と同じように、恵は優しい声を洋平へかける。
それは妻として夫を支える決意によるものだ。母親として息子を支えることが出来ていたのか、恵にははっきりとした自信はない。昨夜洋平に言った言葉に嘘偽りはないつもりだが、その自信がはっきりとついてこないのだ。
「こんなんじゃ、これからが思いやられるな……」
小さな苦笑とともに、洋平は自分のふがいなさをぽつりと呟く。
「いきなり全部を割り切って、元の生活に戻るなんてできませんよ。少しずつでいいから、また元気な姿を周りの人に見せてあげましょ」
洋平にかけられる言葉は丁寧で、実直なものばかりだ。
その全てが恵の洋平を慰めよう、元気づけさせようという気持ちからくるものだろう。その恵の決意が見えるようで、洋平は自分の妻はとても頼りになると改めて思う。先ほどまで想っていた恵の強さが儚いものではないのだとはっきりと思えるほどに。
「そうだな……」
止まっていた箸を再び動かして、朝ご飯を食べる。
恵が作る料理はいつもおいしい。そのことを肌で感じながら、一つだけ空いているテーブルの椅子をちらっと見て、味噌汁を飲み干す。
(心の傷は時間が洗い流してくれる……か――)
今の心境ではとてもそのように思えないが、それでも生きるために生活はして行かなければならない。一人息子を亡くしたとはいえ、洋平にはまだ守らなければならないものがあまりにも多くある。同じ後悔を二度としないために、今をしっかりと生きようと洋平は決意する。
「ごちそうさま――っ」
とりあえず今は会社に行き仕事をしなければ、と洋平は朝ご飯を食べ終わると自室へと戻って行く。
食べ終わった朝ご飯の食器は、テーブルの一片だけに固められて置かれていた。
リビングから自室へと戻る間の廊下に、航大の部屋へ通じる二階への階段がある。昨日はおもむろに上った階段だが、今朝はそんな時間はない。
(行ってくるよ、航大)
航大の部屋にそのように念を飛ばして、スーツに着替えるために洋平は自分の部屋へと入って行く。
洋平が去ったリビングで、恵は洗い物の続きをしていた。
(まだもうちょっとかかりそうね――)
手は泡だらけのままで動かしているが、頭の中では別のことを考えている。
今朝も涙を少なからず流していた洋平は、心の中でまだ区切りがついていないのだろうか。そこまでは恵には分からないが、息子を亡くしたというショックはまだ当分洋平の中で残りそうだった。
(それも仕方ないこと……か)
もちろん恵も航大を失ったことには深い悲しみを抱いた。恵にも洋平にもたった一人のわが子だったのだから、その悲しみの深さは想像を絶するほどだ。
「ふぅ……」
洗い物を終えた恵は一息つこうとテレビを点ける。
点けたテレビからは朝の情報番組が流れている。そのテレビから聞こえてくる話題は明るいものから暗いものまで様々だ。それらのニュースや話題を見て、恵は世界がいつものように回っていることを改めて自覚する。
恵がソファに座ってテレビから流れてくる話題にじっと耳を傾けていると、スーツに着替えた洋平がリビングに戻ってくる。
「そろそろ行くよ」
「……っ! 準備できたの?」
洋平の声に、ぼうっとテレビを見ていた恵は意識を戻す。
「あぁ。次の電車には乗らないと間に合わないからな」
「ちょっと待って――」
洋平が出勤しようとしているのを見て、見送ろうとする恵だが、
「いや、そのままでいいよ。ずっと気を張ってただろ? 今日は一日ゆっくりしてくれ。帰ったら俺が家事もするよ」
落ち込んでいる洋平に変わって昨夜から気を張り詰めていた恵を気遣って、洋平はそう言葉をかける。
「でも――」
「俺はもう大丈夫だよ。完全に吹っ切れるにはもう少し時間がかかるかもしれないけど、いつまでもうじうじしてらんないからな」
そう言って、はにかんだ笑顔を見せる。その表情は昨夜見せていたものとははるかに違っていた。
「あなた……」
「それじゃ行ってくる」
小さく言葉を残して、リビングの扉を開ける。
「気をつけてね。いってらっしゃい」
振り返ると、いつもと変わらない暖かい表情で送り出してくれる恵の姿がある。その表情を見ただけで、洋平の胸が落ち着く。
それだけで頑張ろうと思えるのだ。




