二〇〇七年 六月一八日 Ⅳ
「はぁはぁ……」
虚しく蛍光灯が付いているトイレで、航大は洗面台の鏡を覗きこんでいる。
鏡越しに映るその顔は血の気がないといえるほどに青白い。
(薬……薬を飲まなきゃ――)
制服のポケットを漁り、見慣れた銀色の紙状の容器に入っているカプセルの薬を取りだす。本来なら、昼食を取った後に飲まなければならない薬だ。
航大はその薬を一つ取りだし、水も飲まずに一気に飲み込む。
「――っ……、はぁ……はぁ……」
薬を服用したことからか、少しは胸の鈍痛や心臓の動悸が治まった気がする。そして思考力が回復してくる。
(間違いなく希に見られた……)
希が気付いているかは分からないが、見られたことは事実だ。
その場では航大は見られていないと判断したが、あの角度から見えていないことはないだろう。
そのことに気付いて、航大は自分の不注意を呪う。
(どうしよう……)
急に襲ってきた胸の痛みよりも、希に見られたという事実の方に航大は恐れる。それは航大が一番恐れていたことだ。
「はぁ……はぁ……」
次第に安定してくる動悸とは裏腹に、回復していく思考はだんだんと混乱していく。
(どうしよう――)
同じ単語ばかりが浮かび、まともな判断ができない。
とりあえず呼吸が整うまではトイレにいようと、航大は汚いと分かっていながらも、トイレの壁に背を預けるようにして床に腰を落とす。
そのトイレの洗面台には血が残っていた。
「でさぁ、明日の体育がほんと嫌なのよね~」
希は咲良とトイレから教室へと帰ろうとしている。すでに授業は全て終わり、掃除も終わって、そろそろ生徒が部活に行ったり下校を始めている時間だろう。
「この時期にマラソンとかおかしいでしょ」
隣を歩いている咲良の話は止まらない。
どうやら明日の体育が憂鬱で嫌なようだ。
たしかにマラソンが好きな人はそれほどいないだろうし、冬にもやるだろうマラソンを六月にやる意味もわからないという咲良の話も分からなくはない。
しかし、そこは教師の決めたことであり、生徒である希たちがどうこうできるものでもない。
そう考えている希は別にマラソンをやることに異論はないし、咲良ほど嫌だとも思っていない。
「まぁ、この時期にやるのは驚いたけど――」
「でしょ~? マラソンなんて体力テストの時にやる持久走だけでいいってのに」
「マラソンと持久走はちょっと違うんじゃない?」
咲良との会話を合わせている希だが、その頭の中では先ほど見た航大の様子が鮮明に残っている。
(航大君、何か隠してるんじゃ――)
あの光景を見た後に希は真っ先にそう考えた。
その場では蹲っている航大の心配をしたが、彼は大丈夫だと短く言っていた。
しかし、希の目からでも大丈夫には見えないのは明らかだった。うっすらと見えた彼の手には赤い血のようなものが付いていたように思え、そう思うと希は不意に恐怖を感じたほどだ。
(今日遅れて来たことも間係してるのかな――)
自然と希はそう考えてしまう。
航大は学校に遅刻してくることがたまにある。その理由を、彼はいつも寝坊と答えていた。
裕也たちは分からないが、希は航大のその答えを疑問に思ったことはない。朝が弱い、という彼の弁は本当にその通りだと思うからだ。
「希、ちゃんと聞いてるの~?」
不意に、咲良の声が脳に響いてくる。
「……っ!? き、聞いてるよ」
「ほんと――?」
ぺらぺらと話をしていた咲良は疑わしそうな目を希に向ける。
「ほんとだって」
「まぁいいけど――。午後から希なんか心ここにあらずって感じだよね」
「そ、そうかな―……」
咲良の一言に、希はドキッとする。
それは彼女の言葉が図星だからだ。午前中の授業で見せた航大の表情や、先ほど見た航大の様子が希の頭に濃い残像をはっきりと残している。
希はその残像に振り回されるように、航大のことを考えていた。
「うん。何かあったの? 航大の表情がどうのこうの言ってたり――、まさか航大と何かあったの!?」
「え……っ!?」
「だって急に航大の話しだすんだもん。何かあったって思うじゃん! 告白されたとか――?」
「ぶ……っ!!」
希は盛大に吹きだす。
「そ、そんなわけないじゃん――!!」
慌てたように手をパタパタと振りながら希は答える。その様子をじとーっとした目で見ている咲良は、
「ふ~ん。でも、ノート貸したりとか仲いいよね?」
「そ、それは友達として――だよ。それに、航大君が私を好きだとも思えないし……」
必死になって否定している姿を見て、ますます咲良は怪しいと判断する。
「そうかな~。希は見た目も中身もいいしね~、男がほっとくようには見えないんだよね~……。航大ってそういう典型的なのに弱そうだし――」
「典型的って――」
希を評価する咲良の言葉に、希は敏感に反応してしまう。
「典型的じゃないか――っ。希はもっと可愛いもんね~」
「そ、そういうことじゃなくて――」
「まぁまぁ――。航大もわかんないよ? 本当に希に好意持ってるかもしんないし、じゃないと真っ先に声かけにいかないでしょ」
「……っ! そうかもしれないけど――」
不意に転校してきたばかりの頃を思い出す。
はるか遠くの街から転校してきた希はこれが人生で最初の転校であり、転校した学校での第一歩なども分からずに困惑している節があった。
転校初日こそはちやほやされたりしたが、それも次第に落ち着いてくると、クラスというのはやはりそれぞれのグループに戻っていく。その時に困っていた希に手を差し伸べたのが航大なのだ。
「あのグループに女子は私だけだったから、私はうれしかったけどね」
そう笑顔を見せてくる咲良。
それは彼女の本音だろう。男勝りな部分のある咲良だが、それでも居心地が悪いと思うこともあったのかもしれない。
「だから航大には感謝してるよ。でも、あの航大が一番に声かけにいったんだからねぇ~。気がないわけじゃないんじゃない?」
『あの』というのは希の知らない一年生の頃の航大を指しているのだろう。
希に声を掛けたのも、その頃のことが間係しているのだろうか。希にはそれは分からないが、その時の航大がいたからこそ、今はこうして咲良とも仲良く話をしていられる。
それに関しては咲良と同じで希も航大に感謝している。
この感謝の気持ちから航大が気になるという意識に繋がっていることに、今の希は気付いていない。
「そう……なのかな……」
「そうだって! 私たちもほんとに驚いたくらいなんだから」
一年前と今の航大の差を知らない希は咲良たちが驚いたというその度合いが分からないが、あの表情を見てしまった以上、航大には知らない一面がいくつもあるような気がしてならない。
航大がどのような意図で希に声を掛けたのか――それが分かれば、航大の見せた表情の意味も隠しているだろうあらゆる面も見えてくるかもしれない。
そう考えた希は、航大の心配から脱線してしまった咲良との会話も話して良かったと思えた。
(あとは、航大君に直に聞くこと――しかないかな)
次に取るべき行動を自分の中で確認した希は、それまでの心配や不安をひとまず一掃させる。抱いていたそれらの気持ちも航大の隠している一面を見てからだ、と改めて判断できたのだ。
静かな空気が建物を包みこんでいるように、病院の外はゆったりとしている。
病院に設けられている中庭では、親族が入院しているのだろう――散歩を楽しんでいる子ども連れの親の姿が見える。
その光景はどこまでも微笑ましいもので、その周囲の時間は目に見えて取れるほどにゆっくりと進んでいる。無邪気な子どもの笑顔が絶えないように、神様が時間をゆっくりと進めているかのようだ。
それでも昼下がりの病院内には人が多い。待合室には、診察を待つ様々な人の顔が見え、病院の受付も忙しそうにしている。
その病院に恵はまた来ていた。
「それで、話というのは何なのでしょう?」
恵の対面には、航大の担当医になっている先生が座っている。
「わざわざ、また足を運んでいただいて申し訳ないです。話というのはもちろん航大君のことに関することなのですが――」
先生は一旦話を区切って、口を真一文字にする。
その様子が恵には、話すべきなのかどうなのか迷っているようにも見えた。
「実は――航大君は、入院を望んでいないのです」
「……っ!?」
切りだした先生の言葉に恵は驚く。
「入院を望んでいない?」
「えぇ。入院をすれば、完治するとまではいかなくても病気の進行を遅らせることはできます。私どもとしても、以前に一度入院することをそれとなく勧めたのですが……、航大君は入院だけは絶対にしないと拒んでしまって……。なぜ、航大君が入院を望まないのか。お母さんに思い当たる節はありませんか?」
「はぁ……」
先生の話を聞いた恵は、航大の様子を思い返すように視線を動かす。
航大の担当医である先生は、航大に入院することを勧めたと言っている。容体の悪化を防ぐためには、入院することが一番なのだ。
しかし航大は、それを拒んでいる。ということは航大の意思に、先生が気付けていないのだ。
淡い期待を抱いている先生に対して恵は、
「……私には思い当たる節はありません」
「そうですか……」
恵の返事を聞いて、先生は落胆したような表情になる。
「けど、航大に何か考え――というか想いがあるのでしょう。私からも入院することを勧めます。その時に航大の考えも聞けたら、聞いてきます」
「それは有難いです。ぜひ、お願いします」
「はい。お話というのは――?」
「えぇ、航大君の入院に関することだけです。わざわざ時間を取らせてしまって申し訳ありません」
「いえ、私は大丈夫です。それでは――」
先生にお辞儀をし、恵は先生の病室を出る。その恵の表情は浮かない。
航大が入院を拒んでいるというのは、初めて聞いたことだった。恐らく家族で話し合う前に、航大自身に意思の確認の意味も込めてそれとなく話をしてみたのだろう。しかし、やはり恵にも航大が入院を拒む理由が分からない。
(入院を拒む理由――)
思えば、航大は体調が悪くてもなるべく学校に行くようにしている。
今朝だって、調子はよくなかったはずだ。それでも昼前から登校している。恵は、それが留年しないためや卒業するためだと思っていたが、何か別の理由があるのではないだろうか。
その理由が入院を拒んでいることに繋がるのでは、と考えれば考えるほどそう思えてくる。
航大の学校での様子は担任の教師から逐一報告が入っている。それを航大に言ったことはないが、授業なども保健室で休むことが多々あるということは聞いている。
今朝も体調が悪そうにしていたので、授業をいくつか休んでいるかもしれない、と恵は考えていた。
保健室で休まなければならないほど体調が悪いのであれば、学校自体を休んでも良いと恵も洋平も考えている。
そのことは航大にはきちんと伝えているが、頑なに学校に行っているのが現状だ。
(学校に行かなければならない理由でもあるのかしら……)
恵はそのような結論に至る。
その理由が航大が入院を拒む理由に繋がっていると考えた恵は、俯いていた視線を前へと戻す。その目には強い意志が宿っていた。
放課後。
急に胸の痛みを覚えた航大は、動悸が治まるまで生徒が帰った教室でじっとしていた。
「……」
じっと机の角に腰を落としている航大は、その視線をグラウンドの方へ向けている。航大が見つめているグラウンドでは、野球部が活動している活気のある声が響いている。
その胸の内は、先ほどのことで渦巻いている。
(明日希に会うのが怖いな……)
何を言われるのか分からない、という恐怖が航大の不安を助長させる。
希は、見た航大の様子を裕也たちに話しているかもしれない。もしそうであれば、これまで隠してきたことが無意味になってしまう。それだけは避けたいと航大は強く思っている。
「ここで考えててもどうにもなんないか――」
いつまでも教室にじっとしていても解決するわけではないと気付いた航大は、自分の机の横にかけられているかばんを取って、帰ろうと下駄箱へ向かう。
教室を出て歩く航大の足取りは、ほんの一時間前のそれとは大きく違う。
この一日を何事もなく過ごせていたことに大きな喜びを感じていた航大は、過去のものだ。
食堂で弁当を食べていた時に、裕也たちの前でもちゃんと薬を飲んでいれば良かったと後悔している今の航大は、あまりにも元気がない表情をしている。
明日からはなるようにしかならないと頭で考えていても、心の中の後悔が消えないといった苦悩の表情にも見える。
「はぁ……」
その気持ちからか、深いため息が零れる。
今の状態を裕也たちに見られたら、さらに心配されるのだろうな、と航大は自然と自虐してしまう。面倒見が特に良い希は、駆け寄ってくるかもしれない。
それはそれで嬉しい状況かもしれないが、そう考えてしまう自分が航大は嫌になるほど自分本位な人間に思えた。
そのような考えが頭を巡りながら、下駄箱で靴に履き替えようとしていると、
「ぼうっとしてどうしたんだ、航大?」
と声が掛けられる。
航大に声を掛けてきたのは、航大の中学からの友達である知樹だった。鞄を持っている所をみると、知樹も今から帰るとこみたいだ。
「知樹……」
「何かあったのか――?」
知樹は、航大の様子を見て、彼に何かあったのかと疑問に思う。彼はこの高校では、航大の一番長い知り合いと言える。同じ中学から、この高校に進学したのは航大と彼だけなのだ。
「や、何でもない――」
その知樹は心配がらせないように、航大は努めて平静に返す。そして自分も帰ろうと下駄箱から校門の方へ歩き始める。それでも知樹には見透かされてしまう。
「また――倒れそうになったのか?」
その一言に航大の身体がビクつき、足が止まる。
「どうやら、そうみたいだな。あれほど無理はしないほうがいいって言ってきたのにな。お前のクラスの奴らが言ってたけど、今日も遅刻してきたらしいな。病院に行ってたんだろ? なら無理して学校に来る必要はないじゃないか」
止まった航大の足を見て、知樹は確信する。知樹は、その航大を心配するように声を掛けるが、「大丈夫だよ」と返事が返ってくるだけだった。
大丈夫、と短く返した航大は知樹のほうを振り返ることもしないで、校門へと歩いていく。知樹はその後ろ姿を見ることしか出来なかった。
(どうみても、大丈夫じゃないだろ――。あの時だって……)
その航大の様子を見て、知樹は不意に昔のことを思い出す。
それは知樹には分からないが、航大にとって思い出したくもない辛い過去の記憶だ。その記憶が今も航大と知樹を繋いでいる。
「……はぁ……」
小さくため息を吐いて、知樹も航大が去った後に続いて校門へ向かう。
知樹に心配された航大は、自然と足を速めながら家へと向かっていた。
心配されたことはうれしく感じる。知樹とは中学の二年生で同じクラスになり、出席番号が近かったということもあり、仲良くなった航大にとって一番の友達だ。
その友達が自分のことを心配してくれているのはうれしく感じて当たり前だろう。しかし航大は、その知樹に対して冷たくあしらってしまった。知樹はそう感じていなくても、航大には自分に対しての罪悪感が残っていた。
(知樹は、全部知ってて心配してくれているのに……)
その罪悪感が、航大の身体を駆け巡っているのだ。
「弱いな……やっぱり」
自然と零れた言葉は、誰に届くでもなく風に乗って掻き消されていく。
全てを話せば、裕也たちも知樹と同じ反応を見せてくれるかもしれない。そう期待している自分がいることは航大も認識している。
しかし、そうじゃないかもしれない、と恐怖に怯えている自分がいることも航大は気付いていた。
その相反する気持ちが航大の決意を鈍らせ、現状を維持することが一番だという結論に至らせた。航大自身もそのことに不満はない。今の生活も十分楽しく思っているからだ。
(それでも、みんなが知樹みたいに想ってくれたら――)
淡い期待は抱いては消し、抱いては消しを胸の内で繰り返してきた。そのズキンと痛む心の反応までもが愛おしいと思えるほどにだ。
それでも裕也が言っていたことを自分に置き換えて、この間係は今のままが一番良いのだと思ってしまう。その陰で裕也たちがどのように感じているのかにも気付かずに。
「あと一年……あと一年だけはどうかこのままで――」
次に発した言葉は消えることもなく、緩やかに吹く風がどこまでも運んでくれるような、そんな気がした。




