第99話 個別授業
ティルフォニア学園の精霊学の教師には、それぞれ研究室が与えられている。精霊とともに生きるこの世界では、国を挙げて精霊学の研究を支援しているのだ。
「……トーランド先生、今日もよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。クレメンス君」
クレメンスがトーランドの研究室へ通うようになってから、数週間が経つ。
模擬戦での魔との遭遇以来、クレメンスは自分の精霊士としての能力を少しでも上げることは出来ないかと思い、現役の精霊士に個別で教えを乞うことを考えていた。
学園内でも教師に個別指導を願う学生は多くはないが存在する。しかし教師も忙しいため、その希望が叶う生徒もまた多くはない。
クレメンスは運が良かった。トーランドの事はフィーラを通して名前を知っていたため、個別指導を願い出たときも、すぐに承諾してくれた。
個別指導には別途賃金が発生するのが通常だが、トーランドはそれを頑なに拒んだ。
「……テナトア派とルドア派。この二つが精霊教会の二大派閥です。今の精霊教会はこのどちらかの派閥に入ることが強く推奨されています。……私も教会所属の精霊士です。これから教会に入ろうという若者にこんなことは言いたくないのですが……精霊教会に所属しない、という生き方も、これからは有意義な選択肢のひとつなのではないかと、私は思っています」
現在の精霊教会の派閥争いの激化は、クレメンスの耳にも入っている。精霊士の資格を得るためには精霊教会が行う試験に受からなければならないが、必ずしも教会に所属しなければならないというわけではない。教会に所属しないで活躍する精霊士も少ないが存在する。
よく意外だと思われるが、精霊士の資格を持つ騎士などは教会所属の者が多く、文官や使用人になる精霊士は教会に所属していない者が多い。だが、後者は精霊の力を十分に発揮できる仕事とは言い難い。
精霊士という資格を十分に発揮できる仕事に就くには、やはり教会に所属していなければ難しい。
「……精霊教会に所属しないで活躍できる仕事は限られます」
「そうですね。精霊の力を活かしたいと思うなら、やはり教会に所属せざるを得ないですか……」
精霊の力を活かすということ自体に、明確な定義はない。そもそも、精霊の力はすでに人間の生活に必要不可欠となっている。小さな灯りも、人への伝達も、精霊の力があるからこそ可能なのだ。だが、それらの精霊の力はあまりにも身近にありすぎて、普段人々の意識には登ってこない。
精霊士が扱える精霊の力は大きい。それは事実ではあるが、同時に特別意識により生み出され、誇張された概念でもある。どんな仕事にも精霊の力が働いている現状、精霊士として精霊の力を活かしたいなど、驕った考えであるとも言えるのだ。だが……。
「……俺は幼い頃、今の精霊と出会い契約しました。俺は子爵家の次男です。俺の家は古くから続く旧家ではありますが、今はあまり裕福ではありません。次男の俺は将来何らかの職を得なければいけないと、幼い頃から思っていました」
クレメンスの言葉を、トーランドは黙って聞いている。
「……正直、俺自身がどうしても精霊士になりたかったわけではないんです。ただ、俺を選んでくれた精霊との絆を、どうにか生かせる道を選びたかった。それに、今までほかの選択肢など考えたことがなかったんです。今更精霊士以外の何を目指せばいいのか……」
「……すみません、先ほどの言葉は忘れてください。君は君の好きなようにすればいい。今のは私の想いを全面に出し過ぎた意見でしたね」
トーランドは一呼吸おいて、クレメンスに切り出した。
「クレメンス君。君の精霊を見せてくれませんか?」
「……俺の精霊、ですか?」
「はい。君の精霊は確か水の中級精霊でしたね?」
「そうですが……」
「少々気になることがありまして……。お願いできますか」
「……はい」
トーランドに請われ、クレメンスは己の精霊を呼びだした。クレメンスの目の前には淡い水色をした光の玉が点滅しながら浮かんでいる。
その光の玉を、トーランドは長いことただじっと見つめていた。
「……トーランド先生?」
「ああ……すみません。……クレメンス君、最近なにかありましたか?」
「……何か、とは?」
「そうですね……。君自身、何か成長するようなことがなかったですか?」
トーランドの問いはとても曖昧だ。クレメンスが首をひねり考えていると、ふとトーランドが笑った。
「すみません。ようするに、とても衝撃を受けた事とか、考え方が一新するような事という意味です。……君はこの間の学園内に魔が出現した際、魔から瘴気を受けていますね」
「……はい」
「君が瘴気を受けるに至った経緯は聞いています。精霊姫候補を護ろうとしたと」
「……ですが、結局大したことは出来ませんでした」
「それは謙遜というものです。君は二人の精霊姫候補を護りながら自分自身をも護り切った。それは現役の精霊士であっても難しいことですよ。そしてその際、君の心の内で何か大きな変化があったのではないかと、私は思っているのです」
「……変化ですか?」
クレメンスはトーランドに言われたことを真剣に考える。
確かにあのとき、フィーラとエルザを護ろうとしたことで誰かの助けになりたいという明確な想いが湧き上がった。それと同時に、自分の不甲斐なさも感じた。ジルベルトの怪我を見たときには、自分がそばにいたら助けになったかもしれないとも思った。
確かにあの一件で、クレメンスには精霊士としての自覚が芽生えたと言ってもいい。それをトーランドに話したら、
「そうですか……。きっとそれが切欠なのでしょうね」
しばらく考えてから、トーランドがクレメンスを見つめ言った。
「クレメンス君。君の精霊は成長しています。君の精霊はすでに中級の域を超えている」
「……それは……」
クレメンスにはその後の言葉を続けることが出来なかった。精霊士候補として、精霊が人間と関わることで成長するということはもちろん知っていた。
だが、考えてみれば今までその精霊の成長を実際に目にした者はいないのだ。少なくとも、その精霊の成長を目にしたと思われる人物の話を、クレメンスは聞いたことがない。
「君の精霊は中級精霊として教会に登録されています。ですが今見たところ、君の精霊の力は中級のそれではない」
「……ですが、確かに……俺の精霊は中級のはずです」
「はい。ですが、先ほども言ったように君の精霊は成長している。たとえば、誰かを護りたいと言う強い気持ち。あるいは死の恐怖。……精霊の成長は契約した人間の内面に著しい変化が起こったときなどに起こりやすいのです」
「……そんな話は、聞いたことがありません」
「そうでしょうね。これはまだ世に発表されてはいない、研究段階におけるただの推測です」
「……その研究はどなたが?」
「私です」
トーランドは何でもないことのように言うが、もしそれが本当だとしたら、精霊の進化の一部を解き明かせたということになる。
精霊への階級付けは人間によるものだが、精霊の力に格のようなものがあることは早い段階からわかっていた。
一番原始に近いのが下級、進化の頂点が上級、その中間が中級。だがどうやって下級から中級へ、中級から上級へと変化するのかは、今まで明らかになっていなかったのだ。
「……先生はなぜ、そのことがわかったのですか?」
「まだ推測の域を出ていないことですが……これは私自身の経験に基づいています」
クレメンスの食いつきの良さに苦笑しながら、トーランドは自身の経験を語った。
「幼い頃、私は死の恐怖を体験したことがあります。その際発現した私の精霊の力は、教会で認定された中級という力の枠を超えていました。そのときに私ははじめて気づいたのです。私の精霊が上級精霊へと成長したことに……」
「……上級精霊? 先生の精霊は、上級なのですか?」
上級精霊と契約している精霊士など、クレメンスの知る限りでは大聖堂に数人しかいない。上級精霊と契約した者は、精霊姫付きの精霊士となることを約束されたも同然だ。それくらい、上級精霊と契約する者は稀なのだ。
「協会には中級として認定されていますが、明らかに私の精霊は上級精霊でしょう」
そういうと、トーランドはクレメンスの目の前に上向きにした手の平を差し出す。するとその手の平の上に、渦を巻いた水が現われた。
飛沫をあげどんどんと大きくなるその渦は、トーランドとクレメンス二人を飲み込むほどに膨らんでいく。
「……水が……こんなに」
下級、中級が呼びだせる水の量はわずかだ。下級でコップ一杯ほど。中級で盥いっぱい程だろうか。だが今トーランドが呼びだした水量は、明らかに中級のそれを超えている。
これほどの質量を呼びだせるのなら、もしかしたら物質の置換による人体の移動も可能なのではないだろうか。
部屋いっぱいに広がるかと思われた水球は、そのまま急速に小さくなり、トーランドの手の平に消えていった。
「……先生……なぜ、学園の教師をしているのですか? 先生なら大聖堂付きの、いえ、精霊姫付きの精霊士にだってなれたのに……」
「……私は教師という仕事が好きなのですよ。君のように、才能ある子の助けとなりたい。そう思い教師になりました」
「……それは、俺たちにとっては幸運なことですが」
「私にとっても幸運です。私のような気の利かない者には精霊教会で上手くやっていく自信はありませんからね」
どこか寂しそうに笑うトーランド。上手くやっていく自信がなかったのは本当かもしれない。だが、きっとトーランドは精霊教会を見限ったのだろう。
「さあ、講義の続きをしましょう」
「はい……」
クレメンスが目指している精霊士は、きっと精霊教会にいなくては務まらない。だがトーランドほどの才能の持ち主でさえも逃げ出したであろう場所で、果たして己がやっていけるのだろうかとも思ってしまう。
「……弱気だな」
「何でしょう?」
「……いいえ。お願いします。トーランド先生」
クレメンスは弱気な己を振り払うために、大きく頭を振った。




