第98話 本を探しに行きましょう
食堂の片隅で一人、フィーラは紅茶を飲みながら考え事をしていた。食堂は朝から夜まで開いているため、授業終了後、食堂へお茶をしに来る学生も少なくなかった。
ジルベルトが騎士科へと移ってから、残されたフィーラたちが昼休みの図書館へ集まる機会は自然と減っていた。
クレメンスは昼休みになると一人どこかへと消えていき、エルザはといえば、やはりこの間の模擬戦で体力の衰えを実感したらしく、今では昼休みと放課後、時間を惜しむように騎士科へと通っている。
騎士科どころか普通科ですらない精霊姫候補であるエルザの相手は、主にテッドとジルベルト、そして驚いたことにエリオットがしてくれているらしい。
「……いやだわ。わたくしだけすることがないみたい」
エルザとジルベルトは聖騎士を目指し邁進しているし、クレメンスも何も言わないけれど、席を外すときはいつも精霊学の教科書を持っているので、教師に質問にでも行っているのかもしれない。
――わたくしも、精霊姫についての自主学習でもしましょうか。
以前、精霊姫についてもっと調べてみようと思ったことを思い出し、片付けを給仕に頼んだフィーラは一人図書館へと向かった。
「……精霊姫についてだけ書かれた書物って、意外とないのね」
精霊について書かれた資料は多々あるが、精霊姫についてだけ書かれた資料はなかなか見当たらない。
――一人で探しても埒が明かないわね。こんなときのために司書がいるのだもの。聞いてみましょう。
フィーラは作業机で作業をする老齢の司書に声をかける。
「あの、作業中に申し訳ございません。ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ああ……、はいはい。何でございましょう?」
司書が作業の手を止め、顔をあげる。皺の刻まれた顔。小さな鼻の上にはちょこんと小さな眼鏡が乗っている。
どうやら書物の修理をしていたようだ。司書の手元には濡れて歪んだ紙が何枚か置いてあった。
「精霊姫についての資料を探しているのですが、わたくしでは見つけられなくて……」
「ああ、はいはい。精霊姫ですね。精霊姫についての資料は確か……五番目の棚にあったかしらね。今持ってまいりましょう」
「あ、あの。指示していただければわたくしが自分で探しますわ。どうぞ、そのままお座りになっていらして」
椅子から立ち上がろうとした司書の脚が震えていることに気づいたフィーラは、司書にそのまま座っているよう促す。
「あらまあ。気を使っていただいて申し訳ないわねぇ。じゃあ、お言葉に甘えようかしら。精霊姫についての資料は五番目の書架の右から二連目、上から四段目にあるはずですよ」
「ありがとうございます。確認してきます」
フィーラは司書に言われた通り、五番目の棚のある場所へと向かう。
――近くて良かったわ。えっと、右から二……上から四。
「あった……」
深緑色の装丁の書物の背表紙には、短く『精霊姫』とだけ書かれている。
フィーラは書物に手を伸ばすが、横からも同じように手が伸びて来た。
「あ」
「あら?」
横を見るとカスタード色の髪の少女が目を丸くしている。
「エーデン様」
「まあ、メルディア様。ご機嫌麗しゅう」
サーシャ・エーデン。ミミアのことで一度声をかけたことのある人物だ。サーシャはすぐに姿勢を整えフィーラに対し略式の挨拶をした。
――同じクラスなのだから、そんなにかしこまらなくてもいいのに……。
そうは思いながらも、相手にされた挨拶はちゃんと返さなくてはならない。フィーラもサーシャと同じように略式の挨拶を返した。
「エーデン様。わたくし達は同じクラスで学ぶ者同士。もっと気楽に接していただけたら嬉しいわ」
「まあ、メルディア様。……それではお言葉に甘えさせていただきますわ」
――……やっぱり固いのよね。まあ、わたくしの以前の噂を知っているとしたら、それも当たり前かしら?
急に崩れた口調で話してほしいというわけではないが、サーシャのフィーラに対する態度はどこか仰々しい。
それでもサーシャのこの態度がとりわけ特異というわけではないのだ。高位の貴族ほど礼儀や礼式を重んじる傾向にあるため、サーシャの態度はあくまで一般的な社交の態度だ。
だが、やはり同じクラスで学ぶ者同士、もう少し砕けた付き合いがしたいとフィーラなどは思ってしまう。
ミミアのことで話をして以来、フィーラはサーシャの姿が目に入るとつい意識して見てしまっていた。サーシャはいつも凛として、優秀な生徒のようだった。
仲良くなれたら、そう思いつつもミミアのこともあり、フィーラはいつも声をかけることをためらってしまっていた。
「メルディア様は、こちらの書物をお探しで?」
サーシャが深緑色の装丁の書物を指しながら言った。
「え? ええ。精霊姫についてもう少し知りたいと思いましたの。わたくし精霊姫について一般的な知識しか持ち合わせていないのです。授業で習う以外のことが知れたらと」
「……そうですか。ですが精霊姫についての情報は機密扱いが多いのです。この学園の授業で習うことが、巷で得られる情報の中ではおそらく最良のものですわ」
「そうなのですか? 精霊姫についての情報が機密扱いとは……初めて知りました」
「まあ、関係者以外にはあまり知らされてはいないでしょうね。知らせる必要性がないのではないかしら。精霊姫に関われる人間は限られるわ。それこそ聖五か国やその他の王族くらいだもの」
急に饒舌になったサーシャをフィーラはまじまじと見つめる。こころなし喋り方もほんの少しだけ砕けたように感じられた。
「……サーシャ様、お詳しいのですね」
「え⁉ ええ、その。……わたくしも大聖堂つきの精霊士を目指しておりますし……」
「まあ、大聖堂へ!」
「ええ。聖騎士のように前線で戦うことはしないけれど、精霊士も精霊姫や人々を護る盾のひとつですわ。聖騎士のほとんどは業務も力も闘いに特化しておりますから、魔によって傷ついた者たちへの処置や配慮などは主に精霊士が行うのです」
「そう……ですわね。そうでしたわ。精霊士の方たちも、魔と戦っていらっしゃるのでした」
世間では大聖堂や精霊教会の外で働く精霊士たちの業務の方が認知されがちだが、精霊教会、主に大聖堂つきの精霊士は皆が思っているような精霊士としての一般的な業務とは異なる業務をこなしているのだ。
一般的な精霊士はそれぞれの仕事において専門家の補助的な役割を果たすことが多い。もちろんその道で一級となる者もいるが、あくまで精霊士として業務に携わろうとするならば、自然とそうなってしまうのだ。
ちなみに精霊士は下級精霊と契約している者が多いため、中級精霊と契約した精霊士は下級精霊と契約した精霊士よりも仕事の幅が広くなり、仕事でも重宝される。
「……戦う、というほどのことは出来ませんわ。そのことに歯がゆい思いをしている精霊士は多くおります……それに、わたくしの契約している精霊は下級精霊なのです。大聖堂つきになるのは、少々厳しいかもしれません。大聖堂で働く精霊士のほとんどは中級精霊以上との契約者だもの」
サーシャが悩ましそうに小さく息を吐く。いつもきびきびとした印象を受けるサーシャにしてはめずらしい。
「……でもサーシャ様は優秀ではないですか。評価されるべきは精霊の力がすべてではないと思いますわ。少なくとも、わたくしはそう思います」
フィーラはサーシャのことを良く知らない。だが精霊の階級がその契約者の価値を決めてしまうというのは、正直どうなのだろうと思う。
必ずしも、心の清い者が精霊と契約するわけではない。そういった性質の者を好む傾向があるのは確かだが、精霊士が悪事を働かないという保証もない。人は変わるし、心が美しくても選択を間違わないとは限らない。
とはいえ、精霊の力が重要なことには変わりなく、なかなかに難しい問題ではあるのだ。
――精霊教会にさえ賄賂は通用するのだもの。清廉潔白な者だけではないのは確かだわ。
「……あの。ありがとうございます、メルディア様」
かけられた礼の言葉はいつもより小声で、うつむき、視線を外したサーシャの頬はほんのりと桜色だ。
――まあ、サーシャ様にもこんな一面があるのね。
とても可愛らしいとフィーラが思っていると、サーシャが棚から件の書物を取り出しフィーラに押し付けた。
「とはいえ、この本も復習のためには役立ちますわ。一度中身を見てみたらよろしいわ」
そのまま言い捨てる様にカスタード色の髪を揺らし、サーシャは足早に去って行ってしまった。
――照れたのね……サーシャ様。意外とわかりやすい方だわ。
残されたフィーラはサーシャから受け取った書物の頁をめくった。
目次にざっと目を通してみたが、やはりサーシャが言うように授業で習った以上のことは書いてなさそうだ。それでもと、期待をこめてパラパラと中身を確認する。
――やっぱり、目新しいことは書いていないわね。
期待していた内容ではなかったが、それでもせっかくサーシャも復習には良いと薦めてくれたし、司書にも教えて貰ったのだからと、フィーラは書物を持ち貸出のために司書のいる作業机へと戻った。
「見つかりました?」
「はい。ありがとうございました」
フィーラは普段通り、資料の貸借のための手続きをする。紙に名前を書き込むフィーラに、司書がニコニコしながら声をかけて来た。
「いつも勉強熱心で感心ね。貸出期限もちゃんと守ってくれるし、書物も丁寧に扱ってくれてありがとう」
司書の言葉にフィーラは驚く。確かにこの図書館には入学当初から毎日のように通っていたが、ここに通っているのはフィーラだけではない。まさか覚えられているとは思っていなかった。
――ああでも、いつも四人で集まって話をしていたから、もしかしたらうるさかったかしら? 一応、小声で話していたけれど……。
「わたくしのこと、覚えていてくださったのですね。わたくしたち、結構おしゃべりをしていましたから、少々うるさかったかもしれませんわ。もしそうでしたら、申し訳ございません」
「あら、いいのよ。あのくらいの声量なら、うるさいということもないわ。それに、いつも人気のない机に集まっていたでしょう? ちゃんと周りへの配慮も出来ていたもの」
「それなら、良かったですわ」
「でも、最近はいつもあなた一人ね」
少し心配そうな響きを司書の声に見つけ、フィーラは軽く目を見開く。
――まあ。心配をかけてしまったようね。……そうよね。いつも四人で集まっていたのに、ある日突然わたくし一人になったら、それは心配するわよね。
喧嘩でもしたかと思われても仕方ない。
「ええ。皆それぞれの夢に向かって忙しいのですわ。……ご心配をおかけしてしまったようですわね」
「まあ……。いいえ、こちらが勝手に憶測してしまっただけ。……またいつでも声をかけて頂戴」
「はい。ありがとうございます」
期待していたような資料は見つからなかったけれど、フィーラの機嫌は上々だ。サーシャとも話が出来たし、司書とも顔見知りになれた。
本来はそれが正解なのだが、最近は図書館で誰かと会話をすることが極端に少なくなっていたので、フィーラにとっては思いがけず有意義な時間を過ごすことができた。
――わたくし、やっぱり少しさびしかったのかしら?
そうなのかもしれない、とフィーラは思う。なんだかんだフィーラの周りにはいつも誰かがいてくれたのだ。そのおかげか、遠巻きにひそひそと囁かれることはいまだあるけれど、もう少しも気にならない。
――わたくしも、何か目標でも作りましょうか?
フィーラは精霊姫を目指しているわけではない。サミュエルの婚約者候補という立場からも降りたので、王妃教育に邁進する必要もない。将来何になりたいという明確な目標がないフィーラには、友人たちが眩しく見えた。
――ダメね。わたくし、いうなれば二度目の人生だと言うのに。何もしたいことはないのかしら?
「……クレメンスに相談してみようかしら」
エルザやジルベルトが駄目というわけではないのだが、二人とも方向性は違えど目標を定めたら一直線にそこへ向かっていくところなどが似ていなくもない。特にエルザは、うだうだとせんないことを悩んでいるフィーラなど、何とかなるさ、と一喝されてしまいそうだ。
それでいくとクレメンスが一番親身になって相談に乗ってくれそうな気がする。
――そうね。クレメンスが良いと思うわ。明日時間が取れないか聞いてみましょう。
図書館の本を小脇に抱え、フィーラは教室への道を歩いて行った。




