第93話 過去と現在
大きな木陰を作るカナンの樹の下は、昔からジルベルトの気に入りの場所だった。何か嫌なことがあるとこの樹の根本に座り、気持ちが浮上するまで一人で過ごした。
久しぶりに話をした兄は、幼い頃と変わらなかった。兄弟のうち厳格な父に一番似ているのが長兄のヴァルターだ。正直で、少々融通の利かないところはあるが、だからこそ信頼できる。
どれほどジルベルトが言い募っても、ヴァルターの表情は動かなかった。アーノルド同様、ヴァルターは尊敬する兄だったが、常に厳しく、何を考えているのかがわからない。
アーノルドが父に勘当されたときも、ヴァルターは父を止めなかった。アーノルドのことを咎めることはなかったが、救うこともしなかった。
ジルベルトにはヴァルターのことが理解できない。今でも変わらず敬愛する兄のはずなのに、あの時感じた隔たりは時が経つにつれて大きくなるばかりだ。
なぜ、ヴァルターはアーノルドを庇わなかったのか。幼い頃は三人とも仲が良かったが、特に歳の近い上の兄二人は、よくジルベルトを置いて走って行ってしまった。それほどに仲が良かったのに……。
「ジルベルト」
突如かけられた柔らかな声にジルベルトは顔をあげる。目の前には、日傘を差した姉、ヴィオレッタが佇んでいた。
「……変わらないわね、あなたも。何か悲しいことや悔しいことがあると、この樹の下でよく泣いていたわね」
ヴィオレッタは優雅な足取りでジルベルトに近づいてきたかと思うと、日傘をたたみ、すとん、とジルベルトの隣の地面に腰を下ろした。
「ヴィオ姉さん……汚れるよ」
「あら、懐かしいわね。その呼び方」
ヴィオレッタの青い瞳が細められる。「ヴァル兄さん」と呼んだときのヴァルターも同じ表情をしていたことに、ジルベルトは今更ながらに気が付いた。
「何でここに……?」
「実家だもの、しょっちゅう帰ってきてもいいでしょ? 別に」
「しょっちゅう帰ってきてるのか……」
「ち、違うわよ? 旦那様と仲が悪いとかじゃないわよ?」
ヴィオレッタはわたわたと指を動かし、ジルベルトに言い訳をしたが、姉が嫁ぎ先の伯爵家でちゃんと上手くやっているのは知っている。伯爵との仲も良好だと、父や兄がいない日を選び、時々家に帰ったさいに使用人たちが教えてくれた。
「ふ……何慌ててるの」
あまりの姉のあわてぶりに、ジルベルトの沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。
「まあ、ねえ。あなたたちって実は皆似た者同士なのよね。あのアンでさえ、似ているのよ」
「アン兄さんでさえ?」
「ああ、そうね。あなたはアンに盲目だったわね」
「俺が……盲目?」
「ねえ、ジルベルト。自分が憧れた人が自分の思った通りの人じゃなかったからといって、それをその人のせいにしては駄目よ?」
「そんなことはしていない」
「ええ。そうね。でも、これから先、もしかしたら、そういった状況に出くわすかもしれないわ。だから、知っておいて欲しかったの」
「わかった……」
「さあ、もう中に入りましょう? 今日は珍しくヴァル兄さんだけでなく父さんも帰ってくるらしいわよ?」
ヴィオレッタの言葉に、ジルベルトの肩が小さく震えた。そのことに気づいたヴィオレッタが、ジルベルトの肩に優しく手を添えてくる。
昔から、ヴィオレッタはジルベルトに優しい。この優しい姉が、なぜか一番辛辣に接する相手が次兄のアーノルドだった。
姉と次兄は両親から受け継いだ色が同じで容貌も似ている。歳も近いことから、二人が並ぶとすぐに兄妹だということがわかる。
性格も穏やかで優しく、ジルベルトとしては、二人はとてもよく似ていると思っていた。
思っただけではなく、そのことを姉に言ったことがある。そのとき、姉はとても嫌そうな表情をした。嫌悪ではなかった。ただ、おそらく衝撃を受けての表情だろう。
なぜ衝撃を受けるのか分からなかった。ジルベルトにとって兄二人は父に次ぐ尊敬の対象で、兄に似ていると言われれば、ジルベルトはとても嬉しかったからだ。
だが、どうやら姉にとってはそうではないらしい。しかも、ヴァルターのことはジルベルト同様尊敬をしているらしいので、ますます姉の次兄に対する態度が不思議だった。
そういえば……と、ジルベルトは一度だけ、お前のその金の瞳が羨ましいと次兄から言われたことを思い出した。
尊敬している兄に言われたことだけに、そのとき、とても嬉しかったことを今でも覚えている。
どちらかと言えば母親似のジルベルトだったが、色はそのまま父の色を受け継いでいた。
母のクラリッサが黒髪に青い瞳、父のライオネルが焦げ茶色の髪に、金の瞳。長兄がそのまま母の色を受け継ぎ、姉と次兄が髪は父から、瞳は母からの色を受け継いでいた。
金の瞳は、コア家の血を色濃く受け継ぐ証。祖父も、父も、金の瞳をしている。そして兄姉弟の中で唯一、金の瞳を受け継いだのがジルベルトだったのだ。
ジルベルトも、昔はこの瞳を誇りに思っていた。けれど、アーノルドの一件があってから、この瞳を鏡で見るたびに、どうしようもないやるせなさが胸に湧き上がってきてしまう。どうしても、あのときの父の顔を思い出してしまうのだ。
普通科への進学を決めた際に、この瞳を隠すように、度の入っていない眼鏡をかけることに決めた。勉強に力を入れ、剣からは遠ざかった。
騎士を諦め文官になったアーノルド。ジルベルトも、次兄のあとを追って文官になるのだと思っていたのだ――。
――コンコン
と、誰かが扉を叩く音でジルベルトは目を覚ました。
姉とともに家へと戻ったあと、自分の部屋の寝台で、ジルベルトはいつの間にか寝てしま
っていたようだ。
「ジル坊ちゃま。そろそろ夕食の時間でございますよ」
懐かしく優しい呼び声に、まるで子どもの頃に戻ったような錯覚を覚える。
「ああ、今行くよ……」
気だるい身体を無理やり起こし、ジルベルトは扉を開ける。扉の向こうに立っていたのは、ジルベルトの幼い頃からコア家に仕えてくれている侍女だった。
「まだ、お身体が辛いようでしたら、部屋に食事を運びましょうか」
「いや、いい。ありがとうタバサ」
甘やかされている自覚はあった。姉にも、タバサにも。だが、今逃げてしまったら、きっとジルベルトは一生逃げ続けることになる。フィーラが言っていたように、何度でも、同じ問題がジルベルトの前に立ちふさがるだろう。
「父はもう戻っているのか?」
「もうすぐ、お戻りになりますよ。今日は珍しく知らせがありました」
「そうか」
歩きなれた廊下を食堂へと向かうと、すでに席には、ジルベルトとライオネル、そしてアーノルドを除き、全員が座っていた。
「……遅くなりました」
「あら、別に遅れていないわよ? 今日は本当に珍しいの。いつもは私とライオネルだけだもの。ヴァルターなんてうちにいるのに、食事も満足に一緒に取らないのよ?」
母であるクラリッサが、ヴァルターを軽く睨んだ。
「……取らないのではなく、取れないのです」
「嘘ばっかり」
「……」
ヴァルターが視線を泳がせる。どうやら母の言うことは本当らしい。
ヴァルターの泳ぐ視線が、ふいにジルベルトで止まった。ヴァルターはそのまましばらくジルベルトを見つめ、また何事もなかったかのように視線を外した。
「さあ、座りなさいジルベルト。すぐにライオネルが帰ってくるわ」
母の言う通り、父はジルベルトが席についてからまもなく帰ってきた。使用人からの知らせに、母が席をたち、父を出迎えに行く。
「まあ、お母様ったら。まだお父様を出迎えているのね……」
ヴィオレッタの声には驚きと呆れが入り混じっている。
コツコツとした規則正しい音が、次第に食堂へと近づいて来る。その音が近づくにつれ、ジルベルトの鼓動も速まった。
使用人の開けた扉の向こうには、久しぶりに見る父の姿があった。後ろになでつけられた焦げ茶色の髪と、鋭い金の瞳が猛禽類を思わせる。
「久しぶりだな、ジルベルト」
地響きのような、低く掠れた声。ジルベルトの少し高めの声とは似ても似つかない。昔はこの声を聞いても怖いと思ったことは一度もなかった。だが今は、名前を呼ばれただけで身震いがおきる。
「……父さん」
「一人欠けているが、皆での食事は久しぶりだな」
一人欠けている。確かに今日の席にアーノルドはいない。父が、一人欠けていることを認識していることに、ジルベルトは安堵した。
食事中、ジルベルトたち男性陣はこれと言って話はしなかった。母と姉が社交界で話題なっているドレスについて、姉の夫である伯爵の寝言についてなど、とりとめのない話題を提供してくれたから、何とか重たく沈んだ雰囲気になるのは避けられた。
今日はこのまま、話を切り出せずに終わるだろう。そう思っていただけに、ライオネルからの突然の提案に、ジルベルトはすぐに答えることが出来なかった。
「……食事のあと、久しぶりに手合わせをするか?」
「………て、合わせ?」
「そうだ」
「俺と……?」
「そうだ。どうする?」
なぜ、父は急にそのようなことを言い出したのか。こうして会話をしたのさえ、数年ぶりだと言うのに。
「……お願い、します」
だが、気づいたら、ジルベルトはそう答えていた。
「ヴァルター。お前も来い」
「……わかりました」
そのまままた、父は黙々と食事を取り続け、ジルベルトとヴァルターもそれに倣った。
コア家には専門の剣の訓練場がある。ジルベルトが、アーノルドの腕を破壊したのもこの場所だった。
ジルベルトは、ライオネルから渡された刃を削いだ訓練用の剣を握り締めた。
「魔を祓ったそうだな」
「はい」
「いくら精霊が力を貸したとはいえ、よく騎士についた魔を祓えたものだ」
「……一緒に戦ってくれた人がいたので」
「そうか。それは貴重な人間だ。ほとんどの人間は、魔と遭遇するとまずは本能的に逃げようとする」
「その人は聖騎士候補ですから……」
「そんなことは関係ない。聖騎士候補だろうが何だろうが、己の中にある恐怖に打ち勝つのは並大抵のことではない。その人間は騎士になるに相応しい」
ライオネルの言葉に、ジルベルトの心が反応する。一体父の言葉のどこに反応したのか。だが、ジルベルトには父がテッドを褒めたからだということがすぐに分かった。
父が、アーノルドには騎士に相応しくないと言ったのに、テッドに対しては相応しいと言ったからだ。
魔をジルベルトたちから引き離すために、一人、走り出したテッド。テッドが騎士に相応しい人間だということは、ジルベルトも分かっている。
だが、アーノルドだってそれに相応しい人間だったはずだ。
「……何か言いたいことがあるようだな。そうだな……俺に勝ったら聞いてやろう」
父の口から放たれたその言葉に、ジルベルトは全身の血の気が引いていくのを感じた。
「父さんっ、それは……!」
ヴァルターも父の言葉に驚き、その言葉を口にしたライオネルを言外に諫める。あの日のことは、ヴァルターももちろん知っているだろう。その場にいたのだから。
あの事件があった日、アーノルドはジルベルトに言ったのだ。
俺に勝ったら何でも言うことを聞いてやる、と。
ジルベルトは、アーノルドに遊んでもらおうと思っていた。学園に入学し、忙しくなった兄に、一日中、思う存分遊んでもらおうと。
だから、本気を出した。だから、兄の腕を壊してしまった。
怯むジルベルトにライオネルが剣を向ける。
「来い、ジルベルト。お前は恐怖に打ち勝てるか? お前は騎士となるに相応しい人間か?」




