第91話 動き出した刻(とき)
「めずらしいな、お前がここまで訪ねてくるとは……」
騎士団の宿舎では家族の申請ならば比較的容易に面会の許可がおりる。もちろん、身元のはっきりとしている者だけであることは言うまでもない。
仕事中だったヴァルターの元へジルベルトが訪ねて来たのは午後の訓練を終え、そろそろ休憩を挟もうと思っていた矢先だった。
「ごめん、仕事中に……」
「いや……構わない。ちょうど休憩を挟もうと思っていたところだ」
ヴァルターは目に入りそうになる汗を、手に持った布で拭う。
「ヴァル兄さん……」
昔のままの呼び方で己を呼ぶジルベルトに、ヴァルターの表情がゆるむ。
ここ数年、ヴァルターの仕事が忙しくなったこともあり、ジルベルトとはまともに話していなかった。話しても挨拶程度。そもそも臆病な己は、弟と話すことを無意識に避けていたのだ。
しかし、ようやく弟と話す勇気が持てた。そう思っていたヴァルターだが、ジルベルトから切り出された話に、次第に己の勇気が萎んでいくのを感じた。
「アン兄さんのことなんだけど……」
てっきり、この間のことを話しに来たのだと思っていた。だが、考えてみれば当然だ。ヴァルターの知る限り何年も剣を握らなかった弟が、剣を持ち、魔と戦った。
そのことで、ジルベルトが己の心の傷と向き合う決心をしたとしても、何ら不思議ではない。
話そうと決めたばかりなのに、ジルベルトのほうから切り出されてしまうと、途端に尻込みしてしまう。
「……あのあと、一度父さんと話をしたんだ。その時父さんは、兄さんは騎士には相応しくないと言った」
「ジルベルト……それは」
「アン兄さんが騎士に相応しくないなんて、俺にはどうしても思えない。ヴァル兄さんは……兄さんはどう思う?」
縋るように見つめてくる弟に対し、ヴァルターはそれでも嘘のない言葉を紡ぐ。
嘘をつくことが苦手なのだ。だから話をすることを避けていた。ジルベルトを傷つけずに真実を話すことが、己に出来るとは思えなかったから。
「……悪いが、ジルベルト。俺も父と同意見だ。アーノルドは騎士には向いていない」
ヴァルターの言葉に、ジルベルトが目を見開き、次いでくしゃりと顔をゆがめる。やはり傷つけてしまった。
「何で……兄さんが、俺に、弟に負けたから? 兄さんは悪くない……俺が悪いんだ。俺が調子に乗ったから……。俺が自分の力を過信したから……」
「アーノルドが騎士を諦めたことと、お前は関係ない」
ヴァルターの言葉に、ジルベルトは押し黙る。そのまま下を向いたままの弟に、ヴァルターは声をかける。
「……ジルベルト……」
「……もういい」
ジルベルトの拒絶の言葉に呆けるヴァルターを残し、ジルベルトはその場を去ってしまった。
「君は言葉が足らないんだよ」
ジルベルトに去られた後、ぼうっとその場に立ち尽くしていたヴァルターに、いつの間にか後ろに来ていたルーカスが声をかけてきた。
「ルーカス……」
「まあ、言葉が足りないのは君だけじゃないけどね。弟が可愛いのはわかるけれど、真綿でくるむように守っていたって、彼は成長できないよ? 辛い真実も、時には必要だ。騎士として生きていくには特に」
「……わかっている」
「わかっていたら、ここまでこじれていないと思うんだけどね……。まあ、私も他人のことは言えないんだけどさ……」
急に勢いのなくなったルーカスを訝しみ、ヴァルターが顔をあげる。
驚くことに、いつも笑顔を浮かべているルーカスの顔から笑顔が消えていた。
「……うちの妹が、サミュエル殿下の婚約者候補になったのは知ってた?」
「最有力候補だと言われているのは知っていたが……決まったのか」
「今はまだ、候補に挙げられているというだけだよ。けれど、メルディア家のご令嬢のように候補者のまま据え置かれたりはしないだろう。ほぼ、リーディアで決まりだろうね」
メルディア家の令嬢のときは長らく候補のままだった。しかしサミュエルはすでに成人を迎えているため、今度は候補ではなくすぐに正式な婚約者になるだろう。
「……嬉しくはないのか?」
ルーカスの表情からは、妹が王太子の婚約者に選ばれることへの優越感や喜びは見られない。
「兄の私が言うのも何だが……リーディアは品行方正、優秀で美しく、非の打ち所がない」
「そうだな」
人の好みはそれぞれだろうが、ヴァルターとしてもルーカスの意見にはおおむね賛成だ。リーディアだったら、フィーラよりもサミュエルの婚約者に相応しい。
「だが……王妃には向いていない」
「……それは、将来王妃という重荷を背負うだろう妹を心配しての発言か」
「いいや、違う。本心からそう思っている」
「なぜだ? 前の候補だったメルディア家の令嬢よりも、君の妹の方がよほど王妃にはふさわしいと思うが」
ヴァルターはフィーラ本人に会ったことはなかったが、噂を聞く限りではとてもあの聡い王太子の婚約者には相応しくない令嬢だ。
「……妹が王妃として立つ国に、私は忠誠を誓えるかわからない」
ルーカスの言葉に、ヴァルターは驚く。見た限りだが、ルーカスとリーディアの仲は悪くなかったはずだ。それなのに、リーディアが王妃として立つことを、そこまで否定する理由がヴァルターにはわからない。
そう正直に口にするとルーカスはかぶりを振った。
「いいや。君にはわかるはずだよ、ヴァルター。アーノルドという弟を持つ君にならね」
今度こそ、ヴァルターはルーカスの言葉に驚愕する。
優秀で、評判の良いヴァルターの弟。兄として、弟であるアーノルドをヴァルターは愛している。だがアーノルドは確実に、権力を持ってはいけない人間の一人だった。
アーノルドには、他人の苦しみがわからない。
アーノルドには、他人の悲しみがわからない。
しかし、わかっていなくても、わかったふりができるのだ。優秀で器用なアーノルドには、そんなことは造作もなかった。
祖父も、父も、母も、妹も、もちろんヴァルターも。アーノルドの本性を知っても、アーノルドを愛している。だが、下の弟だけは、まだアーノルドの本性を知らない。
一生知らずにいてくれればと、これまで嘘を吐き続けた。そのことで弟が苦しんでいることを知りながら、真実を知ればもっと苦しむからと、真実を伝えることをせず、弟から目を背け続けて来た。
「……私は妹を愛している。けれど、妹を信頼してはいない。……することが出来ない」
苦悶の表情を浮かべるルーカスの気持ちが、ヴァルターには痛いほどよくわかる。
愛する相手を信頼できないことの、なんと苦しく悲しいことか。こんな思いを、ジルベルトにはさせたくない。その一点においては、家族の気持ちは同じだった。
「だが、君は、ジルベルト君と向き合う努力をするべきだ。どれほど苦しくとも、私はリーディアという人間の本当の姿を知れて良かったと思っている。君は違うのか? アーノルドの本性など、生涯知らなければ良かったと思うか?」
「――思わない」
どれほど壊れていようと、アーノルドはヴァルターの愛する弟だ。出来る限り、理解したいと思う。
たとえ、理解したいと思っていることが、ヴァルターの驕りであっても。理解したと思ったこと、それ自体が幻想だとしても。
結局、アーノルドのしたことを許せないとは思っても、決して憎むことなどできないのだから。
「だったら、きっとジルベルト君も同じだ。ジルベルト君だけが、敬愛する兄の本当の姿を知らないなんて、不公平じゃないか。仲間外れと言うんだ、そういうのは」
ルーカスの顔に笑顔が戻る。ただでさえ垂れている瞳が、とろけるように細められた。
軽薄な男だと思っていた。悩みなど何もないのだろうと。だがそれは、ヴァルターが本当のルーカスを知らないだけだったのだ。
ヴァルターたちは、ジルベルトがこうやって真実を知る機会を奪ってしまった。何という思い上がりだったのか。
「……そうだな、それでは不公平だ。ジルベルトもきっと、どんなアーノルドでも受け入れるだろう」
最初は、悲しむかもしれない。苦しむかもしれない。ヴァルターがそうだったように、最初はアーノルドのことを拒否するかもしれない。
けれど、それでも知らなければならなかったのだ。きっとそれが、本当に人を愛するということなのだろうから。
「ジルベルトと話をしよう……」
「さすが、コア家の子息ですな。聖騎士候補ですらないのに、魔を祓うとは……」
「何と勿体ないことだ。彼が近衛騎士団に入れば、いずれは団長も夢ではないのに……」
ここ数日、ライオネルにかけられる言葉は息子であるジルベルトに対する賛辞ばかりだ。
先日、末の息子であるジルベルトが学園に出現した魔を二体祓ったという報告を、ライオネルは長男のヴァルターから聞かされた。
なぜ、ヴァルターがその場にいたのかということも疑問だったし、なぜ、ジルベルトが魔と対峙するような事態になったのかも疑問だったが、よくよくヴァルターから話を聞きだせば、すべてこの国の王太子、サミュエル殿下が原因だった。
「困ったものだ、我が国の王太子殿下は……」
「……すべて仕組まれたことだったのでしょうか?」
隣を歩くヴァルターが、つぶやく。
ヴァルターはライオネルとそう背丈が変わらない。昔はすぐに追い越されるだろうと踏んでいたが、意外と早くに成長が止まってしまった。それでも、騎士としては十分すぎる高さではある。
だがアーノルドはもっと体躯に恵まれていた。ヴァルターとは反対側、誰もいない空間にアーノルドの幻を見た気がして、ライオネルはゆるくかぶりを振った。
「どうだかな。魔が出ることなど予測不能だ。ジルベルトが誘いに乗るかどうかも賭けでしかない。だが、上手いこと流れを利用したことは確かだろうな。たかが学生の模擬戦だ。どう転んだとしても、特に痛手にはならないと踏んだんだろう」
今回は、魔に憑かれた者以外死者は出ていない。
死者が出てしまった以上すべてが上手く運んだとはいえないが、魔がでたことは予測不能の出来事であり、サミュエルのせいではない。むしろ普段はいない近衛騎士がその場にいたのは僥倖だったともいえる。
魔と対峙したルーカスやヴァルター、ジルベルトやもうひとりの学生も怪我をしてはいるが、命に別状はない。現にヴァルターは翌日から団の訓練に参加していた。
だが、ジルベルトは、ようやく寝台から起きられるようになったばかりだという。昨日ありがたくもサミュエル本人から教えてもらった。
「……団長、いえ、父さん」
ヴァルターは普段職場ではライオネルのことを役職で呼んでいる。今ヴァルターはわざわざ父さんと言い直した。これから話すことは、仕事の話ではなく、家族の話だということだ。
「どうした、ヴァルター。めずらしいな」
「俺は……ジルベルトにアーノルドのことを話そうと思う」
ライオネルが静かにヴァルターを見据える。
「そうか……」
「良いのですか?」
「お前が今のジルベルトを見て、話しても良いと判断したんだろう? だったらそれでいい」
「父さんは……ジルベルトとは話さないのですか?」
「……俺が話したところで、素直に受け入れはしないだろう。お前が適任だ」
ヴァルターが適任。そう思う反面、やはり自分はジルベルトと話すことから逃げているだけなのではないかとも思う。
アーノルドの一件以来、ジルベルトはあからさまにライオネルを避けていたし、ヴァルターはおろか、罪悪感からかアーノルドとすら話をしている様子はない。
原因であるアーノルドも、さっさと騎士科をやめ、普通科へと転向し、文官となった現在は家を出て家族からは距離を置いている。
唯一、ヴァルターはあの一件の真実に気づいていたらしく、以前のように純粋には慕ってこないが、かわらず騎士としてライオネルの後を追っている。だがやはり、弟たちとはあれ以来碌に話をしてはいなかったらしい。
妻や娘は、男どもの冷戦をどうしようもないと呆れた眼差しで見ている。だが、決して誰一人見捨てることはしない。
二人とも、それぞれの息子たちとは交流があるらしく、ライオネルは二人を通じて、息子たちの現状を知ることができた。
ライオネルも妻や娘同様、息子の誰一人見捨てるつもりも諦めるつもりもなかった。
ただ、時が巡ってこないだけ。そう思っていた。いつかは、すべてが動き出す時が来るのだろうと。
そしてきっと、今がそのときなのだ。




