第9話 再生
フィーラは屋敷の庭園を散策しながら、先ほどゲオルグに取り付けた約束の事を思い出していた。
使用人たちにもこれまでのことを謝りたいが、癇癪をぶつけた一人一人を探しだし頭を下げて回る訳にはいかない。なぜならば、恥ずかしながら誰にそれを行ったかをすべては覚えてはいないからだ。恐らく、関わった全員だとは思うのだが。
それに、さすがに公爵家令嬢が行うにはいささか問題がある行為だ。
雇う側から―あくまで雇っているのは父だが―使用人への謝罪自体、そうそうあるものではない。一人一人への謝罪は、都度機会があった際にするとして、まずは一堂に会してもらい、そこでこれまでのことを謝罪するのはどうだろうかと思ったのだ。
あくまで、貴族令嬢としての枠内での謝罪ではあるが、それでも、フィーラが変わったことを知ってもらうには十分だろう。
あとは先ほどゲオルグに言ったように、これからのフィーラを見て貰うしかない。
「さてと、残りの方たちにはどうしましょうか?」
出先で無礼を働いた人に対しての謝罪は、使用人への謝罪よりも容易ではない。フィーラの位は公爵令嬢という、王家に次ぐ家格を持つ家の娘だったため、フィーラの癇癪の被害にあった者たちも、皆大事にはしなかった。
もし、フィーラが下位貴族の娘でありながら同じような行為をしていたとしたら、それこそ無礼打ちもありえたかもしれない。
そもそも、フィーラとてさすがに家同士に確執が残るような行為は、していないとは思うのだ。
フィーラは誰にたいしても奔放に振舞っていたため、正直謝罪というよりは悔い改めた証拠に出家でもして修道院へと行った方が早い気がするのだが、それはさすがに父と兄が許さないだろうし、身分を隠すか偽りでもしない限り、修道院の者たちに気を使わせてしまう。
たとえ出家したとしても、公爵家から放逐でもされていない限りは、フィーラは腫物以外の何者でもないのだ。
どうしたものかと考えていた矢先、後ろから声をかけられた。
「フィーラお嬢様!」
振り返ると、聖堂の前で別れた護衛の青年が立っていた。
――ああ、確かこの青年の名前は。
「あなたは確か……テッド? だったかしら」
フィーラが青年の名を呼ぶと、青年の目は大きく見開かれた。
――先ほども思ったけれど、随分と若いわね。背は高いけれど、身体がまだ完成していなさそう。もしかしてわたくしとそう年が変わらないのかしら?
「どうかしたかしら?」
名を呼んだまま一向に話だそうとしない青年に対し、フィーラは先を促す。
「は……はい。あの、すみません。まさか名前を覚えていて下さっていたとは思わず……」
――驚くのも無理はないわね。以前のわたくしは普段から使用人のことを名前で呼んだことはほとんどなかったもの。
だが、呼んだことがなかっただけで、覚えていなかったわけではないのだ。
「もちろん。覚えているわ。さすがに雇われている人間すべては人数が多いから無理だけれど、自分付きの使用人や護衛に当たってくれている人の名前くらいは覚えるわ」
「そ、そうなのですね」
「ええ。雇い主側の人間としては当然ではないかしら? 本来だったらすべての人の名前を覚えるべきなのだろうけど、それは……なかなか難しいわね」
「そんなこと……身近で接する者の名前を憶えていただけてるだけで……」
青年の頬にはわずかだが赤味がさしている。明らかに興奮している様子だ。やはり使用人の名前を覚えているというのは、珍しいのだろうか。
――そういえば、この世界ってぎちぎちの貴族制度ではないけれど、貴族と平民の間には、やはり大きな溝があるのよね。最近は以前ほどのものではないと、お父様が以前おっしゃっていたけれど……。前世の感覚を思い出したから、もう何とも思わないけれど、以前のわたくしだったら、護衛などと親しく話したりなど絶対しなかっ……いえ、違うわね。以前のわたくしも違う意味で身分はさほど気にしていなかったわ。王族だろうと平民だろうと、気に入らない者には態度に出していたもの。本当、よく今まで無事だったわ。
「ねえ、テッド。何かわたくしに用事があったの?」
以前の己の所業に思いを馳せながらフィーラはテッドに問いかける。
フィーラの問いかけに、テッドは何かを思い出したらしく、はっとした顔をして姿勢を正した。
「申し訳ありません。フィーラお嬢様がお一人で歩いてらした姿が見えたもので、警護をしに参りました」
「まあ、そうなの? それはありがとう」
フィーラがにっこり笑うと、とたんにテッドの顔に赤みが増した。先ほどよりもさらに赤い。
「い……いえ。そんな」
――あら。やっぱり謝罪もお礼も言わない貴族は多いものね。以前のわたくしでもお礼など言わなかったでしょうし。良い傾向だわ。そうね。これからは些細なことでもお礼を言いましょう。誰にたいしても。それにしても、屋敷内の使用人に関しては今日夕食時に集めるから良いとして、護衛団の方はどうしましょうか? そもそも、屋敷内で働く使用人ほどの接点はないのよね。屋敷内に全員集める訳にもいかないし……後日こちらから視察という名目で挨拶に行くことにしましょうか?
「ねえ、テッド。護衛団を一か所に全員集めることって出来るのかしら? それを命令されては迷惑?」
「えっ? 全員ですか? えーと。そうですね。警備や警護の問題がありますので、全員は……難しいと思います」
「そうよね。屋敷やお父様たちの警備を怠る訳にはいかないし……。ごめんなさい。今のは忘れてちょうだい」
「えっ、あ、はい」
忘れてほしいと言われても、やはり気にかかってしまうのだろう。テッドは怪訝そうな顔をしながら、フィーラを見つめている。
「それにしても、風が心地良いわね」
話を逸らすつもりで言った言葉だったが、意外にも、それが己の心からの言葉だとフィーラは気が付いた。
以前のフィーラも自然が好きだった。ごてごてした装飾品も好きだったが、それとは正反対である素朴な花や木、自然の風景を好んでもいた。
以前のフィーラは、気に喰わないことがあると、よくこうやって一人散歩をしたものだ。誰にもわかってもらえないような気分になったとき、自然だけは、すべてを許してフィー
ラを迎えてくれるような気がしたから…。
「……わたくしがこうして一人で散策できるのも、あなたたちのおかげね。ねえ、もうしばらく付き合って貰ってもいいかしら? 今はカナンの花がとても美しく咲いているから、もう少し見ていたいの」
「はっ……はい!」
カナンとは薄紫の大木に小さな花をつける春の花木だ。強い風が吹くと薄紫の花びらが宙に舞い、幻想的な光景を見ることができる。前世を思い出した今、フィーラはカナンの花が、桜の花に似ていることに思い至った。
この庭園のカナンは通常よりも一月ほど早く咲く品種で、しかも一般的なカナンよりも開花期間が長い。これはこのメルディア家の庭園にのみ咲くものだ。
メルディア家は過去二人の精霊姫を輩出していることもあり、庭園には精霊の力によって、他家にはない特徴を持つ木や花が育っていたりする。
精霊姫になったからといって、精霊の力を好きに使ってよいということではないが、それはいわば建前であって、精霊姫の良心により抑制されていると言っていい。そのため、多少のお目こぼしは黙認されている。
というよりも、精霊が精霊姫のために勝手にしてしまうことも多々あるのだ。いうなればお母さんを喜ばせようとする子どものようなものだ。
精霊姫となった四代前の当主の長女がたいそうな花好きだったらしく、大聖堂とメルディア家の庭園は季節ごとに色とりどりの花々が入り乱れて咲いている。精霊たちがこぞって美しい花、珍しい花を咲かせたらしい。
フィーラが持っている精霊や精霊姫についての知識は、必須の教養科目や短い候補期間中に得たものだけではなく、精霊姫と関わりが深かった家に生まれたからこそのものでもある。
それは幼い頃からのものであり、もちろん、この庭園についても知っていた。だからこそ、フィーラは一層この庭園が好きだったのかもしれない。
――まさに百花繚乱ね。
今は春というにはまだ少し早い時期だけれど、メルディア家の庭園には、すでに春の花々が咲き乱れている。
――わたくしも、植物は好きだわ。それは以前のわたくしも、前世のわたくしも変わらないわね。
聖堂で目覚めてから、どんどんと以前のフィーラの感覚は薄くなっていた。
これまでの記憶ははっきりと残っている。けれど、もう遠い過去のことのように思えてしまうのだ。かといって、前世のフィーラのままの性格かといえば、それもどうも違う気がしてならない。
父の言う通り、自分は確実に変わったのだろう。見る人によっては、それこそ人が変わったかのように思えるはずだ。それもあながち間違いではないのだろう。
今のフィーラは以前のフィーラでも、前世のフィーラでもない。
しかし、不思議とフィーラの心は穏やかだった。むしろ、ようやくパズルのピースが揃ったような、本来の自分に戻れたような安堵さえ覚えるほどだ。
――わたくしは、ようやく本当の意味で転生できたのかも知れないわ。
ふと、フィーラの唇に笑みが浮かんだ。確実に、昨日と今日では、フィーラを取り巻く世界は変わっている。以前よりも優しく、穏やかに。そのことが、とても嬉しく、心が躍っていた。
カナンの花を見つめるフィーラは、この世のものとは思えぬ程に美しかった。かつての性格を知る者でさえも、ただただその姿に見惚れるほどに。




