第89話 虚構と現実
騎士科の医務室は転移門を通じて学園の医務室の一角へと続いていた。
フィーラたちは転移門をくぐり、待合室のような場所に出た。周囲を見渡すと転移門のすぐ近くには扉があった。どうやらそこが医務室への扉のようだ。
扉を叩こうとしたクレメンスが医務室の中から聞こえて来た泣き声に、一瞬手を止める。そして一度フィーラとエルザと顔を見合わせてから、クレメンスは控えめに扉を叩いた。
すると中から、どうぞ、という返答があった。メリンダの声だ。
医務室の扉を開けると、泣きじゃくるステラと、ステラを宥めるリーディアの姿、そして二人に寄り添うウォルクの姿が目に入った。
三人の傍には、背の高い、赤い癖毛の女性が仁王立ちしている。久しぶりに会うメリンダだ。
メリンダは、フィーラと目が合うと唇の端をあげた。
フィーラとエルザ、クレメンスは、静かに医務室の中へと入る。ステラ以外の二人がフィーラたちに気づき顔を向けたが、すぐにまたステラへと視線を落とした。
ステラは椅子に座り俯いている。しゃくりあげる声は絶え間なく続き、顔は蒼白で、今にも倒れそうだ。
――ステラ様……よほど恐ろしい目にあったのね……。
「嘘よ……そんな。身体すら残らないなんて……」
ステラの口から出たのは、魔に憑かれた者の末路だ。
フィーラもそのことをなるべく考えないようにしていた。魔に憑かれた場合、精霊の攻撃する力によっては、憑かれた生き物の肉体そのものが消滅してしまう。強い魔に憑かれたものほど、その傾向が強い。
魔を倒したと聞いた瞬間、魔に憑かれたであろう人物のことが頭をよぎった。だが、あの場でそれを口にすることは出来なかった。
皆を護るために闘ってくれた人たちを目の前にして、犠牲になった人間のことを口にするのは、あまりにも酷というものだ。
だが、ステラの気持ちも分かる。しかもステラの様子を見るに、実際にその現場をステラは見てしまったのだろう。もし、フィーラとてその現場を目の前にしたら、このような達観した心情ではいられなかったに違いない。
「ステラ様……」
フィーラの声に、ステラの肩が大きく震える。リーディアとウォルクも、こちらに顔を向けた。
ステラはまるで幽霊でも見たかのように、フィーラを見つめ、とまりかけていた涙を、またぽろぽろと流し始めた。
「フィーラ……様……」
嗚咽を漏らし、泣きじゃくるステラはまるで拠り所を失った子どものようだ。
「大丈夫ですか? ステラ様……」
フィーラが無意識にステラに近づき手を伸ばす。すると、ステラは大きくのけぞりフィーラから距離をとった。しかしすぐさま己の反応が大仰であったと思ったのか、フィーラに謝罪をした。
「あ……ごめんなさい。ごめんなさい……私」
――これは……。相当恐れられているわね。でも悪気があるわけではなさそう……。
「構いませんわ。ステラ様。このようなことがあったばかりですもの。気が高ぶっていても仕方ありません」
フィーラはなるべく優しく聞こえるよう、見えるように己の言動に注意を払った。
「う……うう……」
しかし、ステラはついに手で顔を覆って泣き出してしまった。なぜか、ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながらずっと泣き続けている。
「メルディア嬢の言う通り、気が高ぶっているのでしょう。ステラとリーディア嬢はもう下がって寮で休んだほうがいい。聴取は後にしてほしいと、殿下に言っておきます」
ウォルクがステラの肩に手を置き、退場を促す。リーディアがステラを支え、ウォルクが二人に連れ添い、医務室を出て行った。
「大変なことに巻き込まれちゃったねぇ、お嬢ちゃん」
三人が出て行った直後、メリンダがドスっと音を立てて、先ほどまでステラが座っていた椅子に腰を掛けた。
「メリンダ先生……」
「とんだ再会になったもんだ。あの時、ベッドに横たわっていたのはお嬢ちゃんだったけど……」
「その節はお世話になりました」
「はは。もういいって」
「フィー、先生と知り合いだったの?」
「ええ。以前わたくし、倒れてしまったことがあって、その時に……」
エルザからの質問に、フィーラは当たり障りのないことだけを話す。
――でもいずれエルには話しましょう。クレメンスには話してあるものね。
「ふうん。まあ、フィーは体力ないしなぁ」
「う……」
魔から逃げる際、ほんの数百メートル走っただけで、フィーラはばててしまった。反論の余地はない。
「メリンダ先生……ジルベルトの様子は?」
「ああ、怪我はしているが命に別状はないよ。ただ、契約していない精霊の……しかも上級精霊の力を使ったからね。体力の消耗が激しい」
椅子から立ち上がり歩き出したメリンダが、フィーラたちを手招きする。何台もの寝台が並ぶ一番奥、カーテンで仕切られた区画にフィーラたちは案内された。
カーテンを開くと、そこには寝台の上で眠るジルベルトがいた。
ジルベルトは顔中、何の痕かよくわからない傷だらけだ。きっと魔の瘴気にあたった痕だろう。
「……手は特にひどいな。契約していない精霊の力を受けたそうだから、ジルベルトへの保護が甘かったんだろう。俺がその場にいたら、冷却するくらいは出来たのに……」
包帯の巻かれたジルベルトの手を取り、クレメンスがくやしそうに眉根を寄せる。
「クレメンス……」
「大丈夫。ちょっと痕は残るだろうけど、すぐに治るよ。あたしは腕が良いからね」
水の精霊は治癒の力に優れている。ほとんどの生物の体内には水分が含まれているから、水の精霊は生物に及ぼす影響がほかの精霊よりも比較的高い。
「それより、あんたの精霊も水の精霊なんだね。それもなかなか力が強いみたいだ」
「え……? 俺の精霊がですか?」
「大らかで澄んだ力を感じるよ」
「精霊の力って、精霊士同士には分かるものなんですか?」
「まあ、そうだね。大体だけど。たとえば……この子に力を貸した精霊は気性が荒いねぇ。力の残滓からでも、そうとわかるほどだよ」
メリンダがジルベルトの額に手を当てる。するとわずかにジルベルトが身じろぎをした。
「へえ、精霊って個性的なんですね。魔とは大違いだ」
エルザが感心したようにつぶやく。
「うん? まあ、魔っていうのは精霊よりも純粋な力の塊だからねぇ」
「あっ、でもさ。さっきの魔はかなり個性的だったよね? どうやらフィーに執着していたようだし」
「あっ、エル……!」
フィーラが止める間もなく、エルザがメリンダの目の前であの魔の話をしてしまった。
「お嬢ちゃんに執着? どういうことだい?」
メリンダの言葉を遮る様に、医務室の扉がノックされた。
「どうぞ、入っていいよ」
メリンダの許可を得て、ゆっくりと扉が開かれる。扉の向こうにはロイドとジークフリートが立っていた。
「お兄様」
「もう聴取は終わったの?」
エルザが近くにきたジークフリートに聞いた。
「まだだ。また後日改めて行われる」
「お兄様……テッドは? あんなに怪我をしていたのに……それに護衛の方たちも」
てっきりテッドもあとで治療をするのだと思っていたのに、テッドが来ている様子はない。
「テッドは騎士科の医務室の方へ行ったよ。近衛騎士たちはそのまま王宮へ戻った。それよりも、さっきの話はどういうことかな? フィー」
「さっきのって……聞いていらっしゃったの?」
「たまたま聞こえて来たんだ。で? どういうことかな? エルザ」
ロイドは今度はエルザを標的に問い詰める。
「えっと……。アーロンに憑いた魔が、どうやらフィーのことを知っているらしくてさ。私とフィーが話をしているだけで面白くないって、私を殺そうとしたんだよ? あり得なくない?」
「……何だって?」
エルザの言葉にジークフリートの表情が険しくなった。従妹が殺されそうになったなどと聞いたら、それは心中穏やかではないだろう。
「フィーが魔と知り合いだって?」
ロイドが眉を顰める。
「どういうことだい? それは」
ロイドやジークフリートのみならず、メリンダからも追及の視線を受け、フィーラは恐る恐るいきさつを話す。
「わたくしとエルザを襲った魔なのですが……どうやらデュ・リエールのときの魔と同一のようなのです」
「何だって……? 王宮に出た魔は聖騎士が祓ったはずだろう? 団長が出向いて魔を逃がすなんてあり得ないよ!」
団長とは、おそらくあの時の黒髪の大男を指しているのだろう。メリンダもカーティス同様、魔が逃げたということが信じられないようだ。
「僕もあの時の魔は祓われたと聞いていたが……?」
「わたくしもそう思っていましたわ。ですが、あの魔は普通の魔とは違ったのです。だから、サルディナ様も助かったと聞いていたのですが……」
「サルディナ嬢? なぜそこでサルディナ嬢の話が出てくるんだ?」
ロイドの言葉に、今度はフィーラが驚く。
「なぜって……あの時、魔に憑かれたのはサルディナ様ではないですか。けれど普通の魔と違ったから、サルディナ様は助かったのでは? わたくしはジークフリート様からそう聞いておりましたが……」
「……ジーク。どういうことだ」
ロイドがジークフリートをねめつける。ロイドからの追及に、ジークフリートは視線を泳がせ、やがて観念したかのようにため息をついた。
「悪い、嘘を吐いた」
「え? 嘘?」
確かにその話をジークフリートから聞いたときにロイドはいなかった。アンとアルマが一緒にいたため二人きりと言うわけではないが、その二人からロイドにジークフリートとフィーラの会話が伝わることはない。
ジークフリートにもあまり他言しないようにと言われていたため、フィーラは今までこの話を誰にもしてこなかった。
――お兄様とも話のすり合わせはしなかったものね……。
「……ロイドにだよ。というか、君以外の全員にかな」
「どういうことですか?」
「……悪いが、いくら君たちとは言えこの話は私の一存で出来る話じゃないんだ。確認をとってからでないと」
「お前が……確認?」
ジークフリートは第二王子とはいえ、聖五か国の王子だ。そのジークフリートが確認を取らなければならないというのなら、口止めをしている相手は相当な地位にいる人物ということになる。
「ああ、そうだ」
「それはあたしにも話せないのかい?」
「……すみません」
メリンダは大聖堂つきの精霊士だ。通常魔に関する情報は精霊教会が取り仕切るので、魔に関することで精霊士に対して話せないなどという事態は相当異常なことでもあるといえる。メリンダも断られたことに驚いているようだ。
「……その話を聞くことは、僕たちにとって不利になるのか? あるいはお前にとって」
ロイドがジークフリートを見据え、そんなロイドをジークフリートもまた見つめる。
「……正直分からない。だが私は決して、あるお方の許可なくこの話の真実を口にすることは出来ない」
「……わかった。この話はお前が話せるようになってからでいい。それまでは、僕たちに吐かれた嘘を信じるとしよう。フィーもそれでいいね? この話はこれまでだ」
「……わかりましたわ」
前回といい、今回といい、魔が出現する率が高まっている気がするのは、フィーラの気のせいではないだろう。それに、まさかジークフリートに嘘をつかれているとは思ってもみなかった。
どうやらフィーラの知らないところで何かが動いているのは間違いないようだ。
「ねえ。お可哀想だわ、ステラ様」
物憂げに、囁くようにリーディアが言う。
リーディアはステラを寮の部屋まで送り届けたあと、またウォルクの元へと戻ってきた。
二人が寮の門をくぐる際、また戻るから待っていて、とリーディアに囁かれたウォルクは、げんなりする気持ちをそのまま表情にだしてしまった。
そんなウォルクを見てもリーディアは少しも傷ついた様子は見せなかった。否、実際傷ついてなどいないのだ。そんな玉ではないことは、短い付き合いのなかですでに嫌というほど理解している。
「……どうしろと?」
ウォルクの言葉に、リーディアは淑女の微笑みを返す。
「嫌な記憶など、忘れさせてあげましょう?」
「……忘れたからといって、問題が解決するわけじゃないけど」
「あら? でも一定の効果はあるのではない? いつも辛い気持ちでいるのと、楽しい気持ちでいるのとでは結果が違ってくるわ」
可愛らしく小首をかしげるリーディアに、ウォルクは渋面をつくる。傍から見たら可憐なその仕草も、中身を知っているウォルクには通じない。
「それは逃げているだけだ」
「逃げてはだめなの? ステラ様だけではないわ。皆辛い現実からは目を背けたいものよ。そうしなければ生きていけない人間だっているでしょう?」
「……」
だが目を背けた先にあるのは偽りの現実だ。あるいは逃げた先でまた、同じようなことが起るだけ。そのことをウォルクは身をもって知っている。
自分のしていることが間違っているとわかっているのに、問題が起こるたびに、仕方のないことだと目を背け続けて来た。その結果、どんどん袋小路に陥ってしまっている。
「……ステラ様が目覚めたら、わたくしの部屋にお茶へと招待するわ。楽しいことをして過ごせば、きっと嫌なことなど忘れてしまうはずよ」
「……ほどほどにしてください。リディアス殿下に怒られますよ?」
「怒らないわよ。殿下だってわたくしと同じことをしているのだもの」
にっこりと微笑むリーディアは、誰よりも淑女としての名声を欲しいままにしている。品行方正、優雅で、美しい。だが、きっと誰よりも恐ろしいのだ。
リーディアならばきっと微笑みながら死刑宣告をしてしまえる。ウォルクはそう確信していた。




