第85話 貸与
イアンからの攻撃を躱しつつ、テッドはだんだんとジークフリート達のいた場所から遠ざかっていった。
これなら、たとえ攻撃が飛んだとしても彼らに当たる確率は低くなる。
「テッドさん! 横!」
ジルベルトの声で、テッドは横から繰り出されるイアンからの拳をすんでのところでよけた。
「……素手かよ」
ジルベルトが後を追ってきていることは分かっていた。きっとテッド一人に魔を任せることを、良しとしなかったのだろう。
それはテッドを信頼していないということではなく、ただ単に、ジルベルトの責任感の強さによるものだろう。
あるいはテッドに申し訳ないと思ったのかもしれない。
聖騎士候補とはいえ、テッドも今はただの学生だ。だが、この学園に入る前は、護衛としての実戦経験もある。あの場で魔と戦うことが出来たのは、テッド以外にはいなかった。
おそらく、ロイドの従者であるクリスも戦えただろうが、クリスの存在意義は主人であるロイドを護ることだ。どうしようもない事態に陥るまでは、ロイドの傍を離れることはないだろう。
ジルベルトはフィーラとエルザが今日の模擬戦のために連れて来た。不戦敗にするとは言っていたが、テッドにジルベルトがまったく戦えない人間には思えなかった。彼からは剣を扱う人間特有の匂いがする。
さきほども、イアンの拳が繰り出される前に、ジルベルトの声が聞こえた。イアンの次の攻撃を見切っていた証拠だ。
「大丈夫ですか、テッドさん」
「ジルベルトさん……俺たちは同学年ですから、敬語も敬称もいりません」
テッドの言葉に、ジルベルトはわずかに目を瞠ってから口の端をあげた。
「だったら、君も。敬語はやめてくれ」
「了解」
端的に指示を飛ばす必要がある場面――特に戦いの場においては、敬語は嫌厭される。テッドとしても、おそらく己より身分の高いジルベルトから敬語を使われると少々やりづらい。
「ジルベルト。もし俺がやられたら、クリスさんを呼んできてくれ」
正直いくら剣の心得があるとはいえ、侍従であるクリスにこの場がどうにか出来るとは思えないが、聖騎士の助けが来るまでは何とか持たせなければならない。
聖騎士でなくとも、魔に憑かれた生物を殺すことはできる。しかし魔を祓い、消滅させることが出来るのは聖騎士だけなのだ。魔を消滅させなければ、魔は次の獲物を狙うだけ。
「……あのイアンという男より、君のほうが技量は上だ。悪いが踏ん張ってくれ……俺も一緒に戦おう」
ジルベルトの言葉に、今度こそテッド驚きを隠せなかった。
「ジルベルト……お前……」
魔に憑かれたイアンは、候補者の中でも成績上位だ。だがジルベルトの言う通り、イアンよりもテッドの方が剣技の成績はいい。
ジルベルトはこの戦いをみただけで、それが分かったというのだろうか。
少々剣を嗜む者ならば、試合においての優勢か劣勢かの区別はつく。だが、双方の実力を見誤らずに見抜ける者は少ない。やはり、ジルベルトには相当の実力があるのだろう。
「……正直に言うと、剣を握るのは数年ぶりだ。君の助けになれるかはわからない」
貴族の子息であれば、剣を嗜む者はめずらしくはない。ロイドとて、ああ見えて護衛団からの手ほどきを受けている。
だが、おそらくジルベルトは違う。剣を握る手は少しも震えていないし、その瞳から怯えは見て取れない。はじめて魔を前にして、普通科の学生ではありえないことだ。
そしてテッドは彼の持つ名を思い出した。
最初は同姓だと思っていた。彼の姓は珍しいが、まったくないというわけではない。だが、これまでのジルベルトの言動を鑑みれば、おのずと答えは出てくる。
「……ジルベルト。俺は護衛としての経験はあるが、魔と戦うのは初めてだ」
「……ああ」
「いつ助けがくるかはわからない。だが、俺たちが倒れたら他の人たちに危害が及ぶ」
「ああ」
「俺が前衛を努める。後衛を任せても?」
「ああ。任せろ」
ジルベルトの金色の瞳が獲物を見据える様に細められた。
ジルベルトの殺気を感じ取ったかのように、ぐらぐらと揺れていたイアンの身体が急に定まったかと思うと、一瞬で間合いを詰めて来た。
前衛のテッドがその剣を受けるが、剣戟の重さに耐えきれず斜めに受け流すことで、どうにか直撃を免れた。
そこへすかさず後衛のジルベルトが斬りかかるが、イアンは難なくその攻撃を躱し、また二人から距離をとった。
「くそっ! やっぱ重い……」
何度も重い剣戟を受けて来たテッドはすでに相当体力を消耗してしまっている。だが、魔に憑かれたイアンには、一向に力が衰える様子が見られない。
「魔に憑かれた生物は、魔によって限界まで力を引き出される……か。実際に相手をするとなると、たまったものじゃないな」
テッドが苦々しい思いで吐き出す。
「それでも、剣筋にぶれが出てきている。……彼の身体が限界に近いのかも知れない」
ジルベルトの言葉に、テッドがほぞを噛む。
魔に憑かれた人間は、助からない。それは聖騎士候補になる以前から、常識として知っていたことだった。
だが実際に魔に憑かれた人間を目の前にすると、あまりの理不尽に、腹の底から怒りが湧いてくる。
彼とは何度も剣を交えたことがある。とても気のいい奴だった。学年は同じだが、歳はテッドよりも上。聖騎士候補として集められた人間の中では一番年上だ。
彼を倒すということは、彼の命を奪うということ。
魔に憑かれた人間は、命の限界までその身体を駆使される。たとえ魔が祓われたとしても、そのころにはもう彼の命は尽きたも同然だろう。
候補であるテッドには、魔を祓うことのできる精霊はついていない。カーティスが来るまでの時間稼ぎだ。
生かさず殺さず。彼が死ねば、魔は別の人間に憑くだけだ。
「カーティス先生……なるべく早く来てくださいよ……」
「サミュエル殿下。ひとつ提案がある」
前を向いたまま、ハリスがサミュエルに話かける。目の前では二人の近衛騎士が、魔を相手に闘っている。すぐそばでは、ステラとリーディアが、己を庇って倒れたエリオットを介抱していた。
「なんだ」
「殿下の守護精霊は風の上級精霊だろ?」
質問の意図が分からず訝しみながらも、サミュエルはハリスの問いに答えた。
「? そうだが……今の状況に、それが何の関係がある」
「俺は火の上級精霊だ。きっと彼とは相性がいい」
サミュエルの問いに、ハリスは微妙にずれた返答をする。
「……彼とは誰だ。何を言っている」
「向こうで戦っているコア家の三男坊だよ」
「……知っていたのか」
「有名だからな」
コア家の血筋は騎士の血筋。だが、他国がその血を欲しいと思っても、彼らは自国以外に忠誠を尽くそうとはしない。
「ここには魔に憑かれた人間が二人。残った聖騎士候補は一人だ。周りにいる騎士科の生徒たちも使い物にはならないし聖騎士であるカーティス先生もこの場にはいない。すぐに来ないところを見ると、まだこの事態を知らない可能性もある。たまたま君の護衛として近衛騎士二人がこの場に残ったからまだましだが、魔を祓えないのでは堂々巡りだ」
「そうだな……」
「だが、聖騎士に頼らずとも、魔を祓う方法はある。試してみたんだが……上級精霊ならば、あの結界は抜けられるようだ」
「それは、俺たちの守護精霊に戦わせるということか? だが、俺たちでは守護精霊を戦わせることはできないぞ。唯一いた精霊士も今はここにはいない」
「いや、そうじゃない。たとえ精霊士がいたとしても、俺たち同様、精霊を魔と戦わせることはできないだろう。基本的に精霊のみで存在する場合、わざわざ魔と戦うようなことはしない。すべて人間の都合だ。それに、いくら精霊士は精霊と契約すると言っても、それはあくまで精霊の助けを借りているだけ。契約の縛りは多少効くだろうが、精霊の生存本能に関わることは強制できない。精霊に断られたら、どうすることも出来ないだろう」
「ではどうする?」
「守護精霊との契約は、精霊教会が仲立ちして行われる。いわば、俺たちも精霊教会から精霊を貸して貰っている状態だ。しかし、守護者の意思があれば、他人への譲渡は出来なくとも、貸与は許されている」
「それすら、精霊に断られたら元も子もないのだろう? それに……なぜ、テッドではなくジルベルトなんだ? あるいは、そこの二人でもいいのではないか?」
サミュエルは魔と戦う己の臣下二人を見つめる。二人を連れて来た目的は別にあったのだが、とんだことに巻き込む結果となってしまった。
いくら精鋭の近衛騎士といえども、魔に憑かれた人間が相手では分が悪い。いや、技量でいえば、それほど相手に後れは取っていない。魔に憑かれた生物は能力が高められるとはいえ、一介の学生と近衛騎士とではやはり技術に差は出てくる。
問題は、憑いた魔を祓えるかどうかだ。
魔は精霊の力でしか祓えない。だが、精霊士とて精霊に戦いを強制することは出来ないし、普通の人間にいたっては、精霊が自ら姿を見せない限り、精霊をみることさえ叶わないのだ。
だからこそ、精霊の力をその身に宿し、魔を祓う聖騎士が存在する。
「聞いたからだ。どちらとの相性が良いか、守護精霊に。向こうの背の高い彼は、俺の守護精霊とは相性が良くない」
ハリスの言葉に、サミュエルが目を見開く。精霊の言葉を聞くことが出来る者は、精霊と契約した者に限られる。王族には守護精霊がつくが、それは本人と精霊との契約ではない。
当然王族は簡単な指示は出せても守護精霊の言葉を聞くことはできない。己の指示通りに精霊が動いたかどうかだけは感覚でわかるが、細かすぎる指示では精霊に伝わらない。
守護精霊の任務は、守護対象を護ることに特化される。守護対象を護る上で必要と精霊が判断したことならば、簡単な指示ならば動いてくれるのだ。
だがハリスのように、誰が精霊と相性が良いかなどという守護精霊の任務とは関係がない――正確には直接関係がないだけで必要なことではあるのだが、その判断を意志の疎通が出来ない精霊に仰ぐのは至難の業だ。
「ハリス殿下……あなたは」
サミュエルはさきほどハリスが自分の守護精霊を風だと見抜いたことを思い出した。
一般の人間は精霊の姿を見ることはできない。本来なら他人の守護精霊の性質など知らされなければわからないはずなのだ。
あまりにも自然に口に出された言葉だったので、そのことに気づくのが遅れてしまった。やはり自分も少なからず動揺していたのだろう。
「俺には、守護精霊以外にも精霊がついている。その精霊を通して教えて貰った」
「契約してたのか……」
「俺が契約した精霊は火の中級精霊。俺についている守護精霊も火の上級精霊だ。上級ならば、契約せずともある程度の力を人間に貸与することができる。君の守護精霊にも聞いてもらったが、彼女は君から離れる気はないらしい」
「彼女? 精霊に性別はないはずだが」
「君の精霊から受ける印象から、俺がそう呼称しているだけだ。……これは賭けだ。本当に契約もせずに、聖騎士と同じようなことが出来るかはわからない。だけど、可能性は高いと思っている」
「……それが成功すれば、まずは一体、魔を倒せるな。……やってみるべきだ」
サミュエルの言葉を受け、ハリスは頷いた。
何度も繰り返される重い攻撃に、テッドの体力が限界に近づいていた。だが、
「……あいつの身体も、もうそろそろ限界のはずだ……」
テッドはイアンの身体を観察する。テッドとジルベルトによって与えられた攻撃によって、至る所から血が流れているうえ、脇腹には深い傷を負っている。通常、あの怪我では動くことさえ出来ないだろう。
たとえ魔が祓えたとしても、イアンはもう救えない。
テッドはきつく歯を食いしばる。
カーティスが来るまで、イアンの命は持たないかもしれない。もし、魔を祓えないままイアンが死んでしまったら、魔は次の獲物を狙うだろう。
だが、誰がその獲物となるかは分からない。心に隙がある者が魔に憑かれるのだと昔から言われているが、まったく隙のない人間などそうそういるものではない。
テッド自身はいわずもがな、この場所にいる誰もが、次に魔に憑かれる可能性はあるのだ。
「……どうする。どうすればいい。……殺すわけには行かない……」
隣で戦うジルベルトが、うわごとのようにつぶやいている。ジルベルトも、イアンを殺す危険性は分かっているのだろう。
イアンに決定的な攻撃を加えないまま、どうにかカーティスが来るまでの時間をやり過ごすしかない。そう覚悟した矢先、異変が起こった。
ジルベルトの身体から、テッドが思わず身を引いてしまうほどの熱波が放たれた。
「ジルベルト⁉」
敵が攻撃を仕掛けた――一瞬そう思ったが、ジルベルトの身体には攻撃を受けたあとは見受けられない。
ジルベルトが目を見開き、自身の右腕を見つめていた。そこには燃え盛る炎の威力こそ弱かったが、一度目にしたことのあるカーティスの剣と同じように、炎を纏った剣が握られていた。
「……何故、炎が……」
あっけにとられ炎を纏った剣を見つめるテッドとジルベルトに、その場にはいないはずの人間の声が響いた。
≪俺の精霊を貸してやる。さっさとその魔を祓ってしまえ≫
抑揚のない、だが張りのある美しい声。それはハリスの声だった。
「精霊の伝達……自分の声を飛ばすことも可能なのか……」
ジルベルトが声の響いた中空を見上げる。だがそこに精霊の姿は見えない。
「魔を祓う……。聖騎士でもないのに、出来るのか? そんなこと」
テッドが呆然としてつぶやく。
契約していない精霊の力を借りるのは、推奨されていない。そうカーティスが言っていた。それは裏を返せば契約をしていなくとも精霊の力を借りることが出来ると言うことだ。現に、今、ジルベルトの持つ剣には炎が揺らめいている。
だが、それと魔を祓えるかどうかは別の問題だ。
「さあ? やってみなければわからないが……やる価値はある」
ジルベルトは剣を構え直し、イアンと向かい合う。殺気を感じ取ったイアンが一足飛びに間合いを詰めるが、ジルベルトが剣を振る方が早かった。
ジルベルトの剣がイアンの身体に触れた瞬間、イアンの全身を包み込むように、ひと際大きく炎が膨れ上がった。
ジルベルトはそのままためらうことなく、剣を振りぬく。
炎を纏ったジルベルトの剣を受け、イアンの身体は薙ぎ払われた。




