第83話 結界
「フィーラっ! エルザっ!」
アーロンの身体から出た瘴気を確認した段階で、クレメンスはフィーラたちに向かって走っていた。
クレメンスの手がフィーラとエルザに向かって伸ばされる。
その手のひらからでた光が、水の膜となり二人の身体を包み込んだ。
二人に向かって精霊を放ったクレメンスは、当然無防備な状態になる。魔から出た瘴気が直撃したクレメンスは、そのままぐったりと意識を失ってしまった。
「クレメンスっ!」
「フィー! ダメだ。私から離れるな!」
エルザがクレメンスに近づこうとするフィーラを止める。
「エル! クレメンスが!」
「大丈夫だよ、見て。ちゃんと自分にも最低限の護りは残している。しかも、精霊の本体は私たちに張り付けたままだ。優秀だね、クレメンスは」
クレメンスの身体を見ると、フィーラたちよりも薄い水の膜が、ぴたりと張り付くようにクレメンスの身体を包んでいた。外見に大きな怪我は見られない。エルザの言うとおり、フィーラたちを護りながら、自分も護り切ったらしい。
「良かった……」
「しかし、まいったね。私は剣は使えるけれど、魔に憑かれた人間を相手にしたことはないからね」
エルザは口元には笑顔を浮かべているが、その表情は険しい。
「デュ・リエールのときは、ジークフリート様が聖騎士の方々を呼んでくださったのだけど……」
「ああ、ジークか。ジークは王族だから守護精霊がついているからね。でも私にはいないしな……」
――守護精霊……。ここにはジークフリート様以外にサミュエルとハリス殿下もいるわ。どうにか向こうに合流できれば……。いえ、そうだわ。
「エル。ここにはカーティス先生がいるわ」
臨時の教師として学園に来ているカーティスは、現役の聖騎士だ。この闘技場へは来ていないが、同じ騎士科の敷地内にはいるはずだ。
「それに……こんな至近距離で魔が現われたんだもの、きっとすぐに誰かが気づいてくれるわ」
「それもそうか。……よし。とりあえず、ここから逃げよう。闘技場への道は塞がれているから、反対方向へ行くしかないけどね……」
闘技場のある方向には、アーロンがいる。まさか横をすり抜けるわけにはいかない。
「エル、クレメンスは⁉」
「今は置いておく! クレメンスは精霊の加護があるから大丈夫! このまま私たちがここにいる方が危ないよ」
そういうや、エルザはフィーラの手を取り、闘技場とは反対方向へと走り出した。
所定の位置に立ち見つめ合うテッドとエリオットの表情は、それぞれ如実に、互いの今の心境を表していた。
険しい表情で闘争心を顕わにするエリオットと、そんなエリオットに対しいくらか食傷気味なのか、げんなりとした表情のテッド。
エリオットは、そんなテッドに高々と告げる。
「お前に負けたなんて認めないからな! あの時は体調が悪かったんだ! 今日は絶対に僕が勝つ!」
「……そうですか」
テッドが表情と同じく、げんなりとした口調でエリオットの宣戦布告を受けた。
「……そろそろ始めても良いですか?」
ウォルクが笑顔を浮かべ二人を見る。テッドはエリオットに巻き込まれただけなのだが、ウォルクから見れば同じようなものなのだろう。
柔和に見せながら殺気の籠ったウォルクの笑顔に、二人は無言で頷いた。
「では。試合……はじめ!」
試合開始の声がかかってもエリオットはすぐには動かない。テッドを警戒しているのだ。負けたことは認めていなくとも、どうやらテッド自身の実力は認めているらしい。
「どうした? 来ないのか?」
エリオットは自分からは動かず、相手を迎え打つ戦法をとったようだ。
「そちらからどうぞ」
だが、テッドはエリオットの誘いには乗らない。泰然と構えたままこちらもエリオットが動くのを待っている。
「お前……そういうところが腹が立つんだよ!」
エリオットが地面を蹴ってテッドに飛び掛かる。
エリオットがテッドに向かって剣を振るうも、そもそもテッドとエリオットでは体格差があるため、テッドはエリオットの剣がその身に届く前に上手く避けてしまう。
エリオットが何度も剣を突き出し、その都度テッドに避けられる。
「……エルザの方が相手との体格差を利用することに長けているな」
聖騎士候補であるエリオットよりもエルザの方がおそらく技に優れている。先ほどのエルザの試合を思い出し、ジークフリートは何やら誇らしい気持ちになった。
「そういえば、二人とも戻ってきませんね。呼びに行ったクレメンスも」
ジルベルトが、ジークフリートに話しかける。
実際には今日はじめて会ったが、ジルベルトの話は以前からよくエルザから聞いていた。彼はエルザが剣を本気でこころざす切っ掛けとなった人物だ。
「ああ。そうだな。エルザはテッド君のことも気になっていたようだから、遅れることはないと思っていたけれど……」
テッドとエリオットの試合がそろそろ始まるからと言い、クレメンスが二人を呼びに行ったのだが、結局試合には間に合わなかった。
「フィーだって、テッドの試合を見るのは楽しみにしていたんだ。すぐに来るだろうと思っていだが、確かに遅いな」
「私も様子を見てきましょうか?」
クリスがロイドに申し出る。いくら近いとはいえ、女性二人と女性のように華やかな容姿のクレメンスでは、何かしらの事態が起こっても不思議ではない。特に、ここはほぼ男性しかいない騎士科の敷地内なのだ。
「そうだな。悪いが……」
「きゃあああっ!」
見てきてほしい、そう言いかけたロイドの言葉は、突如響いた女性の悲鳴によって遮られた。
テッドとエリオットも試合を中断して、声のした方向を見ている。
悲鳴が聞こえた方向では、リーディアとステラが一点を凝視してその場に立ち尽くしているのが見えた。
「あれは……倒れているのはリックというやつか」
リーディアとステラの視線の先、地面に騎士科の生徒が倒れている。赤茶色の髪から、倒れているのはさきほどサミュエル側の対戦相手として紹介されたリックと思われた。
倒れているリックのすぐそばにはもう一人の生徒が立っている。だが、リックを助けるでもなく、ただ、地面に横たわる生徒を見つめているだけのようだ。
「喧嘩でもしたのでしょうか?」
騎士科では地面に倒れる生徒は皆無というわけではない。
私闘は禁止されているが、喧嘩は別であるし、皆体力の限界まで修練を積むため、力尽きてその場に倒れる生徒もなかにはでてくる。
「いえ、そのわりには様子がおかしい……」
クリスの言葉に、ジルベルトが答える。
リーディア達のいる場所は、こちらから少し距離がある。状況が分からないながらも、様子を見るため近寄ろうと率先して動いたジルベルトに、サミュエルから制止がかかった。
「駄目だ! こちらへ来るな!」
ジルベルトは反射的に歩を止める。サミュエルの言葉が終わり切る前に、サミュエルのすぐとなりにいた二人の生徒が、サミュエルを庇うように前にでて剣を構えた。二人の連携の取れた動きはただの学生のものではない。
事実、野次馬として来ていたほかの学生は、その場に立ち尽くすか逃げ出すかのどちらかだ。
「あの二人は……サミュエルの護衛か。 サミュエル! 何があった!」
ロイドがサミュエルに向かって大声で叫ぶ。
「ロイド! 逃げろ!」
サミュエルの声に呼応するかのように、立ち尽くしたままのリックから、ぶわりと黒い靄が立ち上がった。
護衛がサミュエルとハリスを護ろうと動くのと同時に、エリオットが地面を蹴って走り出した。
「エリオット……⁉」
まるで動くものに反応するかのように、リックが剣を振り上げサミュエルたちに襲い掛る。 テッドもエリオットのあとに続こうと駆けだしたが、途中、見えない壁にはじき返された。
「何だ⁉ 結界?」
「馬鹿な……。なぜ、この場に結界がある⁉」
見えない壁の向こう側で、エリオットが倒れるのが見えた。
「エリオット!」
テッドがエリオットに向かって叫ぶ。
エリオットはどうやらリーディアたちを庇ったようだ。倒れこむエリオットをウォルクが支え、リーディアとステラが口々に何かを叫んでいる。恐らくエリオットの名を呼んでいるのだろう。
「声が聞こえない……。音まで遮断するのか」
ジルベルトが軽く結界に触れ、確かめる。
これでは向こう側との連絡がとれない。
テッドが横に移動してそこから進もうとするが、やはり壁に弾かれた。左右どちらに動いても、結界に阻まれる。
結界はまるでサミュエルたちとジークフリートたちを分断するかのように、存在していた。
「エリオットは、結界が張られると分かっていたのか……?」
テッドのつぶやいた疑問に、ジークフリートが答える。
「結界が張られることを、分かっていたわけではないだろう……分かっていたのはおそらく、王族の護衛は王族以外を護ることはないという事実だ。あの二人はサミュエル殿下の護衛だが、余裕があれば同じ王族であるハリス殿下も護る。だがそれではほかの三人の護りが手薄になってしまう恐れがあった。だからエリオット君は走ったのだろうな」
「くそ! 何で気づかなかった……!」
テッドが結界を拳で殴る。護衛であった己が気づかなかったことを、エリオットは気づいた。強さではテッドに軍配があがるかも知れないが、エリオットは他人を護る騎士として、テッドよりも優秀だ。
「それにしても……魔が結界を張るなんて聞いたことがないぞ」
ロイドの言葉に、ジークフリートは嫌な予感を覚える。
以前、前例のない魔に出会ったことがある。
王宮に出現し、精霊王を前に逃げおおせた、不遜の魔だ。ここには聖騎士であるカーティスがいるが、もし、またあれが出たとするならば、カーティス一人では対処できるかどうかわからない。
ほかの聖騎士も呼ばなくては――。そう思い結界が現われた時点でその考えを実行に移したが、大聖堂へと精霊を飛ばそうとした段階で、結界らしきものに阻まれた。
結界は、この場所だけではなく、学園全体に張られている。
このようなことがあって良いのか――。ジークフリートはやり場のない憤りを感じた。
精霊姫候補が集うこの学園で、こうもやすやすと魔の侵入を許し、あまつさえ大聖堂への助けの要請まで阻む結界まで張られる始末。
いよいよ嫌な予感が増してくる。
今、この場にフィーラはいない。そのことが幸か不幸かはわからないが、今フィーラのそばには、おそらくエルザもいる。あの二人を危険に晒さずに済んだことに、ジークフリートは心の底から安堵していた。
そして幸いにも、この学園内であればどうにか精霊の移動は出来るようだ。結界を破るのに力の消耗はするようだが、完全に阻まれるわけではないらしい。
その事実を確認したジークフリートは、同じ敷地内にいるであろうカーティスの元へと己の精霊を飛ばしていた。
「……頼む。どうにか頑張ってくれ」
長い付き合いになる己の守護精霊に、ジークフリートは願いを込めてつぶやいた。




