第56話 魔というもの
一話投稿します。
「また君か、お嬢さん」
聞こえてきた声に、フィーラは驚きに目を見開く。
現われたのは、一期一会だと思っていた、あの時の男。お互い名乗りあわず、別れた男だ。
確かに彼はフィーラの聖騎士なのか、という問いに、一応、と返していた。しかし、実際にそれを目の前にすると、やはり驚きを隠せない。
「お知り合いですか?」
砂色の髪の男が問いかける。
「ああ」
「いや~それにしても、何だ? あいつ。強くないか? 三人だけじゃ足りなかったかな?」
太い首をかしげながら、この場で一番大柄な、額に真一文字の傷がある男がいう。
「けれど、王や王妃がいる場所にも何人か送りましたからね。あまり大聖堂の人数を削ぐのも……。いざとなったら近くにはカーティスさんもいますし、大丈夫じゃないでしょうか」
「まあ、こっちは精鋭揃いだしな!」
「自分で言うんですね……」
砂色の髪の男が、呆れたように目を細めた。
「おい、俺は団長だぞ! 精鋭でなくてなんだというんだ。クリード、とりあえず王族の確保をしてくれ」
「承知しました」
砂色の髪の男―クリードがサミュエルに近づく。クリードがサミュエルに手をかざすと、瞬時に薄い水の膜が広がりサミュエルを包み込んだ。そして、そのまま二人の姿がかき消える。
先ほど、聖騎士たちがここへ来た方法も、精霊の基本の力、物の移動の応用だろう。
「ディラン、どうだ、あいつは?」
――あの方、ディランというのね……。
黒髪の男が呼んだ名を、フィーラの耳が拾い上げる。そんな場合ではないと思いつつも、フィーラは男の名が知れたことに微かな喜びを感じた。
「妙ですね……魔に憑かれたにしては静かすぎる」
やはり、通常の魔に憑かれた人間とサルディナは様子が異なるのだろう。
「ああ。それに王族の守護精霊が働いていない。俺たちほどとはいかなくとも、王族にはかなり強い精霊がついているはずなんだが……あいつの放った瘴気に対して、まったく抵抗できていない」
「……あいつ、やっぱりただの魔とは思えないな」
「……だとすると何だ?」
「そこまではわかりませんよ。ただの勘で……」
ディランが途中で言葉を止め、剣を構えなおす。ほぼ同時に、黒髪の男も同じ行動をとった。
「……何で?……何で私じゃないの?」
「サルディナ様?」
この声はサルディナの声だ。さきほど一緒に聞こえてきた男の声は消えている。あの男の声が魔だというのなら、男は一体どこに行ったのだろう。聖騎士と手合わせをしたいと言っていたというのに。
しかし、今はサルディナのことが優先だ。
「サルディナ様……」
ふらふらとサルディナに近づこうとするフィーラの腕をディランがつかんだ。
「何を考えているんだ! 今の彼女はいつもの彼女じゃない!」
「わかっています」
「なら近寄るな!」
「ですが……」
サルディナが泣いている。流れ落ちる涙によって、化粧は落ち、同じ女性としてはとても見ていられぬ有様になって。
「サルディナ様……泣いているのに……」
気位の高いサルディナが、まるで子供のように泣きじゃくっている。
「……どうして、私じゃないの? ……どうして私だけなの?」
小さな子どもが問うように、何度も同じ言葉を繰り返すサルディナ。
「……どうしてっ……どうしてっ……どうしてっ」
嗚咽するサルディナの体から、また黒い靄が出現した。
「お嬢さん、下がっていろ」
今度は黒髪の男が、フィーラを制す。
「待ってください! ……どうするのですか?」
聖騎士が魔を祓うということは知っている。だが、どう祓うのかを、フィーラは知らなかった。
「……サルディナ様は無事に済むのですか?」
フィーラの問いに、ディランだけではなく、黒髪の男もわずかだが、苦しそうに眉をひそめた。
それだけで、フィーラには分かってしまった。もし、この場を聖騎士に託したのならば、もう二度とサルディナの声を聞くことは出来なくなるのだろうと。
「……待って。……待ってください」
フィーラの目に涙が浮かんでくる。魔に憑かれた。そんな理不尽な理由でサルディナは命を落とさなければならないのか。
「お嬢ちゃん……残念だが、あの子はもう元には戻らないんだ」
黒髪の男が、優しくフィーラを諭す。
「ダメです……ダメ……」
「お嬢さん。もうどうしようもない。魔に憑かれた人間は、精神を崩壊させる。そして魔が振るう力に、人間の体は耐えられない」
「……そんな」
精霊姫は魔を抑え、聖騎士は魔を祓う。
幼い頃からさんざん聞かされてきたその言葉の意味を、フィーラはこれまで一度も深く考えたことはなかった。
魔がどういったものかは知っていた。動物や、人に憑くことがある。その魔が人間に憑く前に、抑えるのが精霊姫。人間に憑いた魔を、祓うのが聖騎士。そう教わった。
では、魔に憑かれてしまった動物や、人間はどうなるのか。魔が祓われた後、憑かれた者たちはどうなるのか。それらを教えられたことはなかった。
ただ、魔に憑かれた者は助からない、そう一言教えられてきただけだ。
今まで、そのことを具体的に想像したことはなかった。
運が悪い。その程度にしか思っていなかった自分に気が付き、フィーラは愕然とした。
――……ああ。わたくしはなんて愚かなの?
精霊姫という存在の真の重要性を、まったくわかっていなかった。魔に魅入られたら最後、もう取返しがつかないのだ。
―…どうして、サルディナ様が魔に憑かれたの? 精霊姫によって、魔は抑えられていたのではないの?
以前のフィーラだったら、きっと叫んでいただろう。
だが、今のフィーラには、その言葉を口に出さないだけの分別があった。精霊姫を責めるような言葉は、死んでも口にしたくない。
精霊姫や聖騎士、大聖堂に集う精霊士や精霊教会に、どれほど自分が守られてきたのか、フィーラはようやく理解した。
だが、それでも、このままサルディナを諦めることはできない。
――誰か……誰か助けて……サルディナ様を助けて……。
フィーラが呆然としたまま、サルディナを見つめていると、ふいにサルディナの視線がフィーラを捉えた。
「……お前、お前は……」
フィーラの姿を確認したとたん、サルディナの中から一層黒い靄が湧き出してきた。
「……どうして……どうしてお前は……」
「お嬢さん、下がっていろ!」
ディランの言葉とともに、フィーラとジークフリートは見えない何かの力によって、後方へと飛ばされた。
衝撃が来るものと思っていたが、見えないその力は、フィーラとジークフリートに衝撃を与えないように、緩和剤としての役割も同時に果たしてくれたらしい。
「……風か」
ジークフリートがつぶやく。
しかし、フィーラにはジークフリートの言葉に反応している余裕はなかった。このままではサルディナは助からない。
――どうすれば……どうすればサルディナ様を助けられるの? ここに精霊姫がいたならば、助けられたの? いえ、せめて、本物の精霊姫候補なら……どうにか出来たの?
前世の記憶を取り戻してから今、初めて、フィーラは己の境遇を恨んだ。




