第28話 甘い感情
「どうしましょう……。結構な時間が経ってしまったわ。門限に間に合うかしら……」
「ん? ああ、生徒は全員寮住まいだっけか。君、どこの寮?」
「……光星寮です」
「……精霊姫候補か」
「ええ……一応」
奇しくも、先ほど「聖騎士か?」と問われた際の男の答えと一緒になってしまった。
――光星寮に入っているのに、精霊姫候補でないとは言えないわ……。
光星寮とは精霊姫候補のみが入ることを許された寮だ。光星寮を取り囲むように、王族のみが入る創智寮、精霊士のみが入る清河寮がある。そこから離れた位置に普通科の生徒が入る深嵩寮、騎士科の生徒が入る斗衛寮があった。
「……ふうん」
男の返事からは、男の感情は読み取れなかった。せめてこんな奴が精霊姫候補か、などと思われていないことを祈るしかない。
「送っていこう」
「えっ、でも、さすがにそこまでご迷惑をお掛けするわけには……」
「この時間に、女性を一人で歩かせる男はいないよ」
「でも、まだ明るいですわ」
前世、仕事で真夜中近くに帰宅していた身からすれば、これだけ明るければ全然大丈夫だ。
「君、何かと心配だね」
男はフィーラを何か残念なものでも見るような目で見つめている。
――それは……この子ほっといたらヤバいんじゃない的な? 意味合いかしら?
確かに短時間の内に、この男にはおよそ令嬢らしくない態度を何度も見られてはいる。しかもそれが精霊姫候補とは、男もきっと驚いただろう。世間の精霊姫候補に対する認識は、フィーラも概ね理解しているつもりだ。どう考えても、フィーラの取って来た行動はその範疇から外れる。
――というよりも、令嬢の範疇からも外れるかも知れないわ……。
貴族令嬢は絶対、木には登らない。絶対。……多分。
フィーラは大人しく、男の好意に甘えることにした。令嬢とは……と考えた時に、ここで断る令嬢は令嬢ではないと思ったからだ。
「では、お願いしますわ」
「了解。では行こうか」
中庭から光星寮までは時間にして十分程度だ。その間フィーラは男ととりとめのない話をした。学食や寮の食事が美味しいこと、初めて出来た友人が精霊士だったこと、少し落ち込むことがあって、あの中庭に行ったこと。
寮の前に着いた時、「そういえば、その猫どうする気?」という男の言葉でようやくフィーラは己の手の中で眠り続ける子猫のことを思い出した。男に指摘されなければ、そのままうっかり寮にまで連れて行ってしまうところだった。
だが、思い出したはいいが、解決策が浮かばない。
「どうしましょう……この先のことを考えていなかったわ」
一日くらいだったら、寮で匿えるかもしれない。しかしそれ以上は難しいだろう。なにより、フィーラは見た感じで軽い怪我と判断したが、一度ちゃんと獣医に見せた方がいい。
食事も与えなければならない。子猫はまだ生まれてから数週間ほどしか経っていないだろう。おそらく、夜中に何度も起きることになる筈だ。
「実家であれば飼えるとは思うけれど、すぐには渡せないし」
そしてその場合、子猫の世話をするのはフィーラではなく、使用人の誰かだ。自分は本当に考えなしなのだと、フィーラは落ち込んだ。助けた以上、途中で放棄する気は毛頭なかったけれど、自分の立場をちゃんと考えていなかった。
「……マークス先生に、相談してみましょうか」
ちゃんと軽はずみな行動をしたことを謝って、どうすればいいか、一緒に考えて貰おう。まさか「元の場所に戻してきなさい」とは言わない筈だ。そうだ、そうしよう。と思った矢先、意外なところから助けの手が差しのべられた。
「俺が引き受ける」
「えっ?」
「昔猫を飼っていたんだ。子猫の世話も慣れているし、大聖堂なら、誰かしら人がいる」
「いえ、でも、そんなご迷惑」
「その先生だって迷惑だろ」
「ぐうっ」
「これも何かの縁だ。だろう?」
一期一会のことを言っているのだろうか。それほど、あの言葉はこの男の心に響いたのか。
この男は聖騎士で、本来、猫などに構っているほど暇ではない筈。それを思うと、軽々しく子猫を差し出す気にはなれなかった。男を信用していなかったわけではない。この男の人となりは、短い時間でも十分に伝わった。だからこそ、負担をかけたくなかった。
「聖騎士はお忙しいお仕事でしょう? 負担になります」
「子どもはそんなこと気にしなくていい」
「子どっ……そんな年ではありませんわ!」
「まだ十五くらいだろう? 十分子どもだ」
そうだ……確かに、十五歳は子どもだ。男の言葉でフィーラはその事実を思い出した。
この世界での十五歳は成人の年。しかし、前世の感覚を思い出したフィーラからすると、まだ大人とはいいがたい年齢だ。
この男は、その感覚を共有できるのだろうか。あるいは、本物の大人からすれば、成人したとしても、まだまだひよっこ扱いなのかも知れない。
この男といると、何故かゲオルグやロイドといる時のような安心感を覚える。むしろ今のフィーラしか知らない分、二人よりも自分を素直に出せているのかも知れない。この世界で生きてきた過去のフィーラではなく、前世のフィーラでもなく、今、何者でもないただの十五歳の少女としてのフィーラしか、この男は知らない。
それはとてつもなく甘い感情だった。転生して初めて、否、もしかしたらフィーラとして生まれて、初めて抱いた感情かもしれない、子どもとしての大人に対する甘え。フィーラのままではきっと生涯感じることのできなかったものだ。
フィーラは確かに、ゲオルグやロイド、コンラッドに甘えていた。しかし、心の中ではいつも、どこかで一線を引いていたことは否めない。それはフィーラの立場なら、仕方ないことかも知れない。
王家に一番近い、名のある公爵家の令嬢として生まれ、生まれると同時に母を亡くした。
それでも幼い頃は、周囲の大人に対して甘えを見せていた。しかし成長するにつれ、自分と使用人との間には見えない壁があることに気付いてしまう。いつも忙しそうな父にも、遠慮をしてしまっていた。
しかし、これはフィーラだけが抱える感情ではない筈だ。前世の記憶を思い出したフィーラだからこそ、客観的に己の感情を見つめることが出来ただけで、ほかの貴族の子どもたちも、皆、多かれ少なかれ似たような経験はあるだろう。
――ああ、わたくしは本当に果報者だわ。
寂しかった――。そのことに気付けただけで、自分の中で凝り固まっていた何かが、急速に溶けだしていくのを感じた。
「え……と。あの……。では、お願いしてもよろしいですか?」
父や兄以外に甘えることに慣れていないため、つい、挙動不審になってしまう。
おずおずと差し出されたフィーラの手から、男は優しくハンカチに包まった子猫を受け取った。
「ああ。自身が無骨な者が多いせいか、騎士たちは意外と可愛いものが好きなんだ。きっと競って世話を焼いてくれるよ」
「まあ」
それは存外貴重な情報だ。今度家に帰った際には、護衛団の皆に何か可愛らしいものでもお土産に買っていこうとフィーラは決めた。
結局、護衛団には未だフィーラ自ら謝りに行くことが出来ていない。もとより関わりは少なかったとはいえ、やはり一度これまでのフィーラの行動を謝っておきたい。でないと、どことなくすっきりしないからだ。
「お嬢さん、もうそろそろ行った方がいい。さすがに寮の方でも探しているんじゃないか?」
「あら、いけない。そうですわね。今日は本当に、何から何までありがとうございました」
フィーラは感謝の意を表し、深く頭を下げた。
「気にしなくていいよ。俺としても良い気晴らしになったから。良いお土産も出来たし」
男は手の中の子猫を、愛おしそうに見つめている。きっと、気を使ってそう言ってくれたのだろう。けれど、男の気遣いを無にするようなことは言わない。
「それならば……良かったですわ」
男と別れたあと、フィーラはお互いに名乗り合っていなかったことに気が付いた。聖騎士と精霊姫候補ということはお互い分かっているけれど、きっと、今後わざわざ探すようなこともないだろう。
「本当に、一期一会の出会いだったのかしら」
そうだとすると、少し寂しい。フィーラは素直にそう思った。




