夏の日の午後
「お嬢様~どちらにいらっしゃるのですか~?」
己を呼ぶ侍女の声に気付いたフェリシアは、遊んでいた手を止めて、座り込んでいた地面から立ち上がった。
「アン! こっち!」
地面を蹴り、フェリシアはアンに向かって勢いよく駆けだした。そんなフェリシアの姿を見たアンが目を剥き、急いで静止の声をかける。
「お嬢様! 走ってはいけません!」
アンが声をかけるのとフェリシアの身体が前のめりに傾くのとは、ほぼ同時だった。陽の光を弾く白金色の髪が背後に靡き、若葉色の瞳が大きく見開かれる。
「お嬢様っっ!」
アンが手を差し伸べるが、寸でのところでフェリシアの身体には届かない。しかしフェリシアの身体が地面に到達することはなく、ふわりと地面からほど近い場所で、そのまま静止した。
アンはすぐさま静止したままのその小さな身体を受け止め、ほっと安堵の息を吐く。
「……お嬢様! アンの心臓を壊すおつもりですか!」
「……ごめんなさい」
アンに怒られ小声で謝るフェリシアに、頭の上から声が降ってくる。
「まったく……運動が苦手なのはフィーと一緒だね? フェリ」
「エル!」
フェリシアはアンから離れ、母の友人であり護衛でもある大好きな人に抱き着くが、しかしフェリシアがまだ小さいのと相手の背が高いことから、足に抱き着く格好となってしまった。
「おっと……駄目だよ、フェリ。足を固定されたらいざというときに動けないよ」
「ごめんなさい……」
申し訳なさそうに謝るフェリシアを、エルザは己の目線の高さまで抱き上げた。
「ま、もう少しフェリが大きくなったら丁度腰のあたりに抱き着けるようになるかな? 早く大きくおなり? そしたらうちの子と婚約しよう」
「アルフレッドと?」
「そうだよ? フェリはアルのこと嫌い?」
「ううん。でもフェリは将来リオンと結婚するんだって、伯父様が言ってた」
フェリシアの言葉を聞いた途端、エルザが目を見開き、次いで渋面を作った。
「何それ、ずるい! アイヴァンだってさっさと囲い込んじゃってさ! いくら兄妹だからって横暴だよ!」
「まあまあ、エルザ様。アイヴァン様については仕方ないではありませんか。エルザ様のところはご子息がお二人でしょう?」
アンに窘められたエルザは口を尖らせた。
「ジークのところに婿に行ってもらおうかと思っていたんだよ」
「そうは言っても、王族の婚姻ですしねえ。エルザ様が決められることでもないのでは?」
「ジークが嫌と言うわけないよ。ま、問題は奥方だけど……精霊姫の息子の婿入りを拒むとも考えにくいしね」
「それにかなりの美貌ですしねえ」
フェリシアもその兄であるアイヴァンも、王家とメルディア公爵家の美貌を完璧に受け継いでいる。アイヴァンは黄金色の髪と薄紫色の瞳。フェリシアは白金色の髪と若葉色の瞳。
二人とも幼いながらも見る者を圧倒する美貌を持っている。その美貌だけでも、引く手数多だろうに、それに加えて当代の精霊姫を母に持ち、後見は王家と、そしてティアベルトで王家に次ぐ権力を持つメルディア公爵家だ。
二人の価値を考えれば、やはり公爵家か王家辺りで囲い込むのが一番安全な策であることは確かだった。
「お兄様、どこかいっちゃうの?」
フェリシアに心配そうな声音で尋ねられ、エルザとアンは顔を見合わせた。
「いなくならないよ、フェリ。それにアイヴァンがどこへ行っても、すぐに会える。私が連れて行くから大丈夫」
「でもエルはお母様の護衛だもの」
「フィーにはほかにも護衛がいるから大丈夫。フェリのお父様だって付いているんだから、心配いらないよ」
「いいの?」
躊躇いがちに、しかし期待を込めた瞳で、フェリシアがエルザを見つめた。そんなフェリシアにエルザは満面の笑みを返す。
「いいの。だからさ、フェリ。将来はアルのお嫁さんにならない? そうすれば、私はフェリのお母様だよ?」
エルザは己がフェリシアに好かれていることを知っていて、それを餌に使おうという魂胆だった。
「……エルがお母様?」
首を傾げるフェリシアのあまりの可愛らしさに、エルザの表情がとろける。
「そう。フィーと私が、フェリのお母様」
フィーラからエルザに母が変わるなどと勘違いされては、母親が大好きなフェリシアからはきっと断られてしまう。
だから母親が変わるのではなく、二人に増えるのだとエルザは印象付けた。実際嫁に行ったからといって実の親子関係が無くなるわけではない。
エルザとて嫁に行った先で新しく母となる人物を得た。そしてその義母親に、エルザはとても感謝しているのだ。家に入ることなく聖騎士という職務を遂行することを、こうして許されているのだから。
だからということもあるのかもしれない。せめて婚家が末永く栄えるように、名誉ある縁繋ぎをしたいと。
そしてそれは、夫婦共通の大切な友人との縁を深めたいという、エルザ自身の我儘でもあった。
「二人とも?」
「そうだよ。二人ともフェリのお母様だ」
「……じゃあ、なる!」
「よし、決まった!」
「決まっておりませんよ、エルザ様。ロイド様に怒られますよ?」
エルザは抱き上げていたフェリシアを地面に降ろし、アンに反論した。
「なんだよ。だって向こうはすでにアイヴァンに唾つけてるじゃないか。フェリまでもだなんて、狡い! 贅沢!」
「もう……! 子どもみたいに……。ですが、実際フィーラお嬢様のお子様たちは別格ですからね。ロイド様だけではなく、聖五か国からも、その他の国からも縁談は引きも切らずなのですから」
「まあね。フィーの子どもということは、ある意味精霊王の子どもでもあるということだし……」
フィーラが精霊王と同化し目覚めた後、人と精霊との関わりは変わった。精霊王のいる人間の世界に、以前よりも頻繁に精霊が訪れるようになったのだ。
精霊王とフィーラが眠っていた間は不安定だった精霊の力は、フィーラが目覚めたあとにはより強力なものとなった。
そしてこれから先の精霊姫はしばらくの間、フィーラの血筋から選ばれることになる。それがどれほどの期間続くのかはわからない。あるいはこのままフィーラ一人の一生で世界の崩壊を止めることができれば、また血筋関係なく、精霊姫は選ばれるようになるのかもしれない。
あるいは、精霊姫という存在自体がなくなる可能性すらあるのだ。
だがそれがはっきりとわかるまでは、当代の精霊姫であるフィーラの血筋は、何を置いても護られるべき血統となっている。
実際、アイヴァンとフェリシアには生まれたときから強力な精霊の護りが付いている。二人は生まれた時から護りについた精霊の力を使うことが出来た。それはこれまでの精霊と人との関わりを覆すほどのものだった。
「二人がどこへ行くにしても精霊の護りはつくだろうけど、人間側としても護りの強いところへ行ったほうが無難ではあるだろうね。まあ、一応は二人の意思を尊重してどのような家柄の者を選んでも良いということにはなっているけれどさ……」
「ですが、もともとフィーラお嬢様は公爵家のお生まれではありますが、アイヴァン様もフェリシア様も生まれてすぐにメルディア公爵家と王家が後見についておりますからね。政略的なものからも護られてお育ちになられましたから、今更その護りが薄いところへ行くとなれば、結構な準備が必要となるでしょうし」
「そうだね。でも、その点うちは護りという点では万全じゃない? 家柄だって侯爵家だし」
「まあ、そうなのでしょうけれど……」
結局はお二人の意思が一番大事。
そう思っているアンは、意気込むエルザに曖昧な微笑みを返した。
番外編一旦終了です。また話が思い浮かんだら追加します。




