ミミアのとある日の出来事
こっそり番外編の追加です。二話とも主人公は出てきません。
ミミアの人生の中で一番苦しくて、惨めだったあの日。
ミミアは憧れの相手に糾弾された。
何もかも、ミミアが悪い。言い訳する余地などない。けれど、初めての淡い恋は無残にも散り、あとには恐怖と後悔だけが残された。
そしてもう二度と。
ミミアにその人の笑顔を望む資格はないのだと――そう理解した。
「ふうっ。これで良し!」
モップをかけた廊下を振り返り、ミミアは額の汗を袖で拭った。しかし、そんなミミアに無情な現実が襲い掛かる。
「あっ……あああ」
磨き上げられた床に、一点の黒い汚れ。
その小さなシミのような汚れを見つけたミミアはあわててその場にしゃがみ込み、その小さな一点に目線を近づけた。
「……何かしらこれ。煤? ……だったらさっきのモップ掛けで落ちているわよね? 焦げ? うーん。まあ、いいわ。ここはお嬢様に教わった方法を試してみましょう!」
ミミアは先日、敬愛する主人であるフィーラに雑巾がけというものを教わっていた。
この雑巾がけというものは手や足腰だけではなく、全身をくまなく鍛えることのできる大変素晴らしい掃除方法なのだという。
通常の掃除で床に這いつくばってまで、床の表面を拭くことはない。たまにはあるけれど、一般的ではない。それにこの公爵邸のように長い廊下を床に両手をついたまま磨き進むなど、さすがに効率が悪すぎる。フィーラもそれは言っていた。
けれどこの方法を用いれば力を入れやすく、かつ立ったままの掃除では見落としがちな小さな汚れやごみにも気付き易い。延々とそれを続けるのではなく、しつこい汚れを見つけた時にすると良いのだと、そう教えてくれたのだ。
ミミアはさっそく手持ちの布をバケツの水で濡らし、きつく絞った。そしてきゅっ、きゅっ、と黒い一点を無心でこする。
だがその汚れは一向に落ちず、薄くなる気配すらなかった。
「むむ……手強い……」
半ば意地になったミミアは懸命に腕を上下左右、そして斜めに小刻みに振り、床を拭くことに専念した。
どれくらいの間、無心にその行動を繰り返していたのか。ミミアに突然、背後から声がかけられた。
「何をやっているんだ?」
その声を聞いた瞬間、ミミアの息が止まった。
透明感のある、美しい声だった。そして威厳があり、そのため少々冷たい印象を聞く者に抱かせる。
だがそんなことが、ミミアの息を止めた理由ではない。
この屋敷へと迎え入れられてからすでに一か月ほどの時間が経過している。その間、この声の主と顔を合わせたことは片手で足りるほどだ。
そしてそのどの瞬間にも、ミミアの隣にもその人の隣にも誰かがいた。だからこそ気丈でいられたというのに、今この場にはミミア一人しかいない。
そして、声の主もおそらく一人だろう。
ミミアは身体が震えそうになるのを意思の力で持ち堪え、床から立ち上がり、後ろを振り返った。
「ロイド様……」
予想していた通り、ミミアの目の前にはこの屋敷の次期当主。ロイドが立っていた。
「床に這いつくばって何をしていた?」
透明なカナンの色の瞳で見据えられ、ミミアの心臓が大きく跳ねた。それは恐怖か、はたまた別の感情か。
「あ……あの……。………雑巾がけを、していました」
声に出してみると、それは何やらとても恥ずかしい行為に思えた。
ほんの数か月前まで、末端とはいえ貴族の令嬢だったミミア。モップを片手に床を掃除した経験など、修道院に入るまでは一度もなかった。
しかも先ほどのミミアは、床に這いつくばっていたのだ。
まるで地面に、へばりつくように
もし、お似合いだ、なとど言われてしまったら。
そうしたらきっと、ミミアの心は――。
「雑巾がけ? ああ、あれか」
しかしロイドから返って来たのは、予想外の言葉だった。
「……ご存じなのですか?」
「フィーが幼い頃やっていた」
「お嬢様が⁉」
公爵家の令嬢であるフィーラが、床に這いつくばって使用人のように床を拭いていたという。にわかには信じられないことだが、ここでロイドが嘘をいう理由はない。しかも溺愛する妹であるフィーラを、ある意味貶めるような嘘などを。
「しかも、そこは丁度フィーが床拭きをしていたところと同じ場所だな」
「え?」
ミミアは思わず足元に視線を落とした。ミミアと同じように、フィーラも床に這いつくばって拭いたという場所に。
ミミアは磨けど磨けど落ちる気配のない、一点の黒い汚れを見つめた。フィーラもこの黒い汚れと格闘したのだろうかと思えば、不思議な心地になってくる。
「それ、落ちないぞ。汚れじゃなくて模様だから」
「……え?」
ロイドから思いがけない言葉を聞き、ミミアはもう一度その場所にしゃがみ込み、黒い点をじっくりと観察した。言われてみれば確かに、それは汚れではなく模様だった。
「な、なぜこんな模様が……」
そして何故、気付かなかったのか。
美しい琥珀一色の床面に、そこだけ一点の黒い模様。むしろ奇跡だ。
「さあ? 自然のものなのだから、そういうこともあるだろう」
ミミアはがっくりと肩を落とした。結構な時間を費やしたというのに、汚れではなくまさかの模様だったとは。
「……フィーはそれが汚れではなく模様だと知ったとき、怒っていたな」
ロイドの声に笑いが含まれていることに気付き、ミミアは驚いて顔を上げた。だがミミアを待っていたのは、いつも通りの怜悧な美貌。
ミミアは少しだけ落胆した心のままに眉を下げた。
「何だその顔は。別に僕はお前の事を取って食おうなどとは思っていないぞ? 屋敷の者たちとも上手くやっているようだしな。まあ、フィーが何かとお前のことを気にかけていることだけは、面白くはないが」
「ロイド様……」
「そこはやるだけ無駄だから、拭くなら別の場所にしろ」
「は……はい!」
ミミアが返事をするのを待ってから、ロイドは何事もなかったかのようにミミアに背を向け歩き出した。
微笑みの貴公子などと呼ばれているというのに、ロイドはミミアと話をしている間、一度も笑顔を見せてはいない。
けれど、敬愛する主人の昔話が聞けた。
そして、その思い出を共有することができた。
たったそれだけのことだったけれど、ミミアにとっては涙がでそうになるほどに嬉しい出来事だった。
それはまるで、ここまで頑張って来たご褒美のように――。
「ありがとうございます……。ロイド様」
泣くのを堪えるために、ミミアは目と唇に力を入れる。
そうして、ロイドの遠くなっていく背中に向かい、深く頭を下げた。




