最終話 目覚め
「フィーが眠ってからもう三年か……」
ロイドのため息交じりの言葉に、執務机に座るサミュエルが、持っていたペンを置く。
開け放たれた窓からさわやかな風が入ってきて、ロイドとサミュエルの頬をなでた。
精霊王と精霊姫がいつ目覚めるともわからない眠りに入ったということをオリヴィアから聞かされた聖五か国の王たちは、最初こそ聖五か国を省いての決定に文句を言っていたが、結局無駄なことと悟ったのかすぐにこれからの対応へと意識を向け始めた。
サミュエルがこのことを知ったのも、二人が眠りについたすぐ後のことだった。
「まだ三年だ。そうそうすぐに目覚めるものでもないのだろう? 何十年先か、あるいは何百年先か」
サミュエルがロイドを見ずに問う。あの日、ゲオルグとロイドがともに家へと帰ったことを聞いたサミュエルは、すぐに公爵邸を尋ねて来た。
仔細は省き、この世界が滅びかけていること、それを防ぐために、精霊王とともにフィーラが眠りにつくことを伝えた。
そのことを聞いたサミュエルはすぐに大聖堂へと向かったが、そのときにはすでにフィーラは祈りの間で眠りにつき、結界がほどこされたあとだった。
「……そんなこともない。数年後に目覚める可能性もあると言っていた。本当に、予想はつかないらしい」
「そうか」
サミュエルはそうつぶやいたきり、また書類の処理を再開した。
「それだけか?」
「何がだ」
頁をめくる音が、途切れることはない。
「お前は何も、思うところはないのか?」
「フィーラには感謝している。あいつのおかげで、この世界の崩壊は防がれた。王太子として、のちの王として、あいつが目覚めた暁には、欲しいものは何でもくれてやろう」
「フィーが褒美を欲しがるとでも?」
「さあな。あいつはまるで予想がつかない。そこらへんに咲いている野の花を強請られるかもしれないし、国を強請られるかもしれない」
「……さすがに国は強請らないだろう。……恐らく」
しかし以前のフィーラなら確かにあり得るかもしれないと思えば、自然と自信はなくなる。ロイドの言葉尻が面白かったのか、サミュエルが小さく笑う。
「……もし、フィーが国を強請ったら……お前はどうする?」
目覚めたときのフィーラは、眠りについたときのフィーラとは別人かも知れない。そのことをサミュエルも知っているはずだ。
「あいつになら、くれてやってもいい」
意外なサミュエルの解答に、ロイドが驚く。
「だが、もし目覚めたときにフィーが……」
「ただしフィーラ自身が目覚めるとしたら、という条件はつくがな。……あいつは継承権三位だし、世界を救った。王としての資質にも問題はない」
「驚いたな……結構フィーのことを評価しているじゃないか」
「俺は昔からあいつのことは評価している。言い方と伝え方が最悪だっただけで、間違ったことは言っていない。ただ、昔のあいつのままでは、王位は譲れなかったがな。あの直情的な性質のままでは、いつか無理解な臣下に討たれただろう」
「……まあ、誤解を生みやすい態度ではあったな。……だが、そこまでフィーのことを評価していたのなら、本当は手放すのは惜しかったんじゃないか? フィーの意思を優先したということもあるだろうが……」
サミュエルがフィーラを定められた運命から逃すために、婚約の辞退を受け入れたことは知っている。しかし、サミュエルだったら、婚約を維持したままフィーラを護り続けることも出来たはずだ。
「もともと俺たちの仮初の婚約は、打算的なものだった。それも極めて王家に都合の良いな。あの時点でフィーラに俺の婚約者候補でいる利益などほとんどなかった。お前の言う通り、俺はあいつの意思を優先しただけだ」
「……最初からお前の本音を話していれば、フィーはきっとお前を選んだだろうに。何しろ、フィーの初恋はお前だったんだから。……腹立たしいことにな」
フィーラは覚えていないだろうが、はじめてフィーラとサミュエルが顔合わせをしたとき、フィーラはサミュエルを見て数秒間固まり、そして顔を真っ赤に染めて俯いたのだ。誰が見ても一目ぼれをしたのだとわかっただろう。
そんなフィーラにサミュエルは手を差し出し、照れながらもサミュエルの手を取ったフィーラは、天使のように愛らしく微笑んだ。
「俺ではあいつを幸せにはできない」
サミュエルは視線を下に落としたまま、ぽつりと零した。いつしかペンを走らせる腕は止まっている。
「あいつは、自分に正直で、嫌なものは嫌だと、間違っていることは間違っているとずっと言い続けた。あいつのその心は尊いが、同時に危うい。王太子である俺にとって、あいつという存在は人としての道を誤らないためには必要だが、唯一として傍に置くには危険すぎた。人として正しくあることと、王として正しくあることは、時に相反する。あいつを選べば、俺はあいつの存在に目がくらみ、誰よりもあいつの心に寄り添い、きっと王としての正確な判断を下せなくなる。王が王としての役目を果たさない国では、人が幸せになることは難しい」
「……やっかいなものだな。王太子になぞ生まれなければ、フィーは今頃お前の隣で笑っていたかもしれないのに」
「俺は俺に課せられた役目を全うしようとしただけだ。フィーラもそうだろう。精霊姫としての役目を、誰よりも理解し、そして果たした」
そうはいいつつも、サミュエルの表情は苦渋に満ちている。暗い雰囲気をどうにかしようと、ロイドが話題を変える。
「そういえば、サルディナ嬢との婚姻はいつになる?」
婚約者候補だった、リーディアがあのようなことになってしまっては、選定をし直すほかはない。
サミュエルの婚約者、のちの王妃となるならば、出来れば侯爵家以上の家柄が望ましい。伯爵家でも無理ではないが、その家の教育如何によっては本人が苦労することになる。
その点、サルディナであれば、家柄も本人の資質も申し分ない。
ロイドの脳裏に、紅の髪、紅の瞳の大人びた顔の令嬢が思い浮かぶ。彼女も随分と印象が変わった。以前の高圧的な雰囲気は鳴りを潜め、柔らかく微笑む淑女となった。
「ああ。今年中には」
「そうか……彼女なら、きっと良い王妃になれる」
「ああ。共に戦うと言ってくれた。互いを見張り、道を違えないようにしていこうと」
「……そうか。きっと良い国になるな。不本意だが、俺もお前のそばで見張っていてやろう」
「お前は口うるさいからな。たまにはよそ見をしてくれ」
「何を言っているんだ。フィーの代わりに見張ってやるんだぞ。光栄に思え」
ロイドの心外だと言わんばかりの口調に、サミュエルが破顔したところで、扉を叩く音が聞こえた。
「何だ」
扉の向こうから聞こえて来たのは美しく凛とした声。
「サルディナでございます。殿下。お目通りをお許しくださいませ」
優雅な物言いではあるが、少々早口だ。いくらか焦っているようだ。
「入れ」
サミュエルの返事とともに、性急に扉が開かれる。サルディナに付き添っているのは、ルーカスだ。
入ってきたサルディナの眼には涙が浮かんでいる。
「殿下……。カナンの花が……」
そういったきり、サルディナは続きを話そうとはしない。わなわなと唇を震わせながら、目じりに涙を湛え、サミュエルを凝視している。
「……泣いているのか、サルディナ? カナンがどうした? まだ季節ではないだろう」
「いいえ……殿下。王宮のカナンの花が、一斉に咲き誇っております……」
サルディナの代わりに、ルーカスがサミュエルの問いに答えた。公爵家の生まれ同士、以前からサルディナの知り合いだったルーカスは、現在サルディナの護衛をしていた。
「……何だと」
ロイドとサミュエルは急いで窓に駆け寄り、王宮の庭園を見る。窓から見える庭園には、ところどころにカナンの花が植えられている。今そのカナンは一斉に花開いていた。
今朝までは確かに、カナンの花は咲いていなかった。それどころか、まだ若葉が出たばかりの季節だ。
この王宮のカナンは普通種だ。メルディア家の庭園に咲くカナンの花は早咲きの品種だが、それでもこれほど早く、しかもいっせいに咲き揃うはずはない。
「……サミュエル。大聖堂へ行こう」
ロイドの言葉に、サミュエルが頷く。
カナンの花が咲いているのは、王宮だけではない。サミュエルの執務室の窓からはかなりの範囲が見渡せる。
はるか遠くまで、点々とけぶる様に咲く薄紫の花。こんな御業ができるのは、精霊王以外には存在しない。
サミュエルは振り返り、今や人目も憚らず嗚咽するサルディナに声をかけた。
「サルディナ。お前も行くか?」
「……行ってもよろしいのですか?」
「何を遠慮することがある。俺の婚約者として、未来の王妃として……精霊王を出迎えるぞ」
深く、深く。
光も闇も届かない静かな場所で何も考えず、何も感じずまどろんでいた意識は、ふいに誰かに呼ばれた気がして急速に覚醒していく。
意識は闇の中を通り抜け、やがて光に到達すると、ようやく己を形作る肉体を感知した。
身体のすべてが重く、指一本動かすのにひどく時間がかかった気がした。瞼の奥で光を感じ、閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。
――ああ、綺麗……。
目が覚めて最初に見たもの。それは涙でにじむ瞳に映る、色とりどりの光の球。こちらを気遣うように、いたわる様に、優しく点滅を繰り返す光たち。
――こんな光景を、以前にも見たことがある。
――以前って……それはいったい、いつのこと?
――もう、ずっと前……永い、永い年月を、この光とともに生きて来た……。
――ああ、わたくしは……。この光を知っている……。
――わたくし? ……いえ、違う。『わたし』。……そう『わたし』は……。
「……フィーラ」
柔らかく震える、低い声が耳に届いた。その響きに、混濁していた自我が徐々に鮮明になっていく。
――……ああ、この声。この声を聞いたことがある……。
「フィーラ」
――フィーラ? ……ああ、そうだわ。……それはわたくしの名前。
――わたくしの名はフィーラ。……フィーラ・デル・メルディア。メルディア公爵家の嫡女で、当代の精霊姫……。
声の聞こえる方へと、ゆっくりと視線を動かすと、目じりから涙がこぼれ落ちた。滲む瞳に映ったのは、光を浴びた若葉のような、透き通る淡い緑の瞳。
「……ディラン?」
「……ああ、そうだ。……フィーラ」
こちらに向かって微笑む彼に、口元が自然に緩んでいく。
もう一度会えた。
それだけで、こんなにも嬉しい。
――ああ。わたくし……覚えているのね……。
以前とは見える景色が違う。目に映る世界は、より鮮やかに、より神秘に満ちている。
以前とは、感覚が違う。鳥の囀り、葉のこすれる音、星の瞬き、誰かの頬をなでる風の感触。
意識を集中すれば、世界中のすべての音、景色、命の輝きが手に取る様にわかる。
世界中に広がる、精霊たちの鼓動がわかる。ちかちかと点滅を繰り返し、世界を祝福していたのだと知る。
世界を総べる精霊王の感じていた世界。けれど、確かに、この肉体と意識はフィーラのものだ。
フィーラは確かに、フィーラとしての記憶を持っている。そして、精霊王であるカナンの記憶も……。
「……カナン。わたくしはもう一度、わたくしをはじめるわ」
今はもう会えない大切な存在に、フィーラは語り掛ける。
――わたくしの中で眠る、あなたと一緒に。
フィーラはもう一度瞳を閉じ、世界の音に耳を澄ます。
風が吹く音、水の流れる音、火が爆ぜる音、土が動く音。
たくさんの命が紡ぐざわめきのなか、この世界のどこからか、優しい笑い声が聞こえた気がした。
この物語を読んでくださった方全員に感謝いたします。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




