第203話 春を待つ
「精霊王はまだお目覚めにならないのか……」
「まだだ。日に一度はオリヴィア様がご確認されているが……」
「まさか、もう目を覚まされないのでは……」
「あっ……おい!」
廊下の中央で輪となり、口々に不安を吐露する精霊士たちの前に、美しい黒髪の聖騎士が立ちふさがる。肩より上で切りそろえられた髪がさらりと揺れた。
その姿を認めた精霊士たちは、ぎょっとしたように目を見開き、あわてて口を噤む。
「精霊王じゃないよ。彼女は精霊姫だ。そこを間違うな」
精霊士たちが口にした言葉に、エルザが訂正を入れる。会話をしていた精霊士たちは、気まずそうに口をつぐみ、そそくさと去っていった。
「……エルザ。気持ちは分かるが……」
そんなエルザに、クレメンスが声をかけた。今は学園の二年生になったクレメンスは、学園が休みの時は精霊教会に来てトーランドに教えを受けている。そして精霊教会にクレメンスが来ているときは、大抵エルザがクレメンスに会いに来るのが恒例となっていた。
「でも目覚めるのはフィーだ。精霊王じゃない。……我らが精霊姫だよ」
エルザがクレメンスを睨みつける。
精霊士たちに悪気はないことはわかっていた。精霊王の不在は、事情を知る者たちに、衝撃と不安を与えているのだ。
はやく目覚めてほしいと、人々がそう思ったところで、本来なら責められるものではない。
今まで疑うこともせずに、そこにあった偉大なる存在。その存在が急にいなくなることなど、きっと誰も考えたことなどなかったに違いない。
エルザの視線を受けたクレメンスが、小さく頷いた。その拍子に、背中にかかるほどまで伸びた髪が肩から胸へと滑り落ちる。
「……そうだな。またきっとフィーラに会える。……だから、そう苛立つな」
クレメンスに窘められ、エルザは息を詰める。クレメンスは意識して言ったことではないだろう。しかし精霊士に対しての己の苛立ちの原因が、先ほどのことだけではないとエルザは気づいていた。
初の女性の聖騎士、ひいては筆頭騎士になったエルザに、一年たった今でも否定的な声はあった。だが、それはほかの聖騎士たちに対しても同様だ。
現在の聖騎士はエルザを含め、七人。テッド、エリオット、ディランにカーティス、クリードにヘンドリックスだ。七人のうち、三人が新人の聖騎士で年も若い。
以前の筆頭騎士で残っているのはヘンドリックスのみ。ほかの中古参の三人は実力も実績もあるが、それでも聖騎士団のなかでは若い方だ。
だが、そのことについての否定的な意見のほとんどが、聖騎士団以外の場所からでていた。
「うん……わかってる。わかってるよ、クレメンス。でも精霊教会の奴らは、自分たちの不安や不満ばかり口にして、やるべきことをやっていないじゃないか。未だに賄賂や不正がまかり通るなんて……」
「そうだな。すべての腐敗を正すのは難しい。最短でもあと数年はかかるだろう」
寂しそうに言うクレメンスに、エルザがバツの悪い表情をする。
「……ごめん、クレメンス。君はこれから、そこでやっていかなきゃならないのに」
「……いや。それでもマテオ様が精教司になってからはどんどんと改革が進んでいるし、トーランド先生もマテオ様のあとを継ぐべく精進してくれている。精霊教会を変えようと士気が上がっている連中も多い。サーシャなどもその最たる一人だな」
「サーシャか……。サーシャはいずれフィー付きの精霊士になるんだよね? もちろんクレメンスも」
サーシャは今、フィーラが眠りについたことで引き続き大聖堂に残ることになったオリヴィアに会いに行っている。
サーシャもクレメンス同様、学園と精霊教会を行き来しており、卒業後に備えての人脈作りにも精を出しているようだ。
「そのつもりだ。だが、精霊姫付きは人気があるからな。どうなるかはわからない」
「二人ともフィーの友人だよ? なれるに決まっているじゃないか」
「そのことを良く思わない人間も多いからな」
「だって、それは仕方ないじゃないか。精霊姫の信頼を得た者が、そばで護ることを許されるのは精霊士も聖騎士も同じだよ。実力だけあれば良いってもんじゃないよ」
「……確かにな。それでも実力が大事なのは変わらないが、まあ、俺もサーシャもその点はさほど心配はしていない。サーシャの精霊も、あれから中級にまで成長したしな。ああ、そういえば……。ハリス殿下も、これから精霊士を目指すそうだ。この間呼び止められてな」
「王太子だよね? あの人。出来るのそれ」
第五王子として学園で過ごしていたハリスだったが、精霊姫の交代の儀では王太子として出席している。その日を境に名を変え、周囲の扱いも、第五王子のそれから王太子のものへと変わった。
「……学園にいるうちは独学で、卒業後に精霊士を王宮に招き、師事するそうだ。初の試みだろうな」
「それは楽しみだね」
エルザが愉快そうに唇の端をあげる。ハリスがフィーラに求婚をしたことはクレメンスとサーシャからすでに聞かされていた。しかもいまだに諦めていないようだということも。
「……ジルベルトにも、この間学園で会った」
クレメンスの口から出た名に、エルザの表情が緩む。
「へえ……元気だった? 私あまり会えていないんだ。近衛騎士団にはたまに仕事で会うけど、ジルベルトはまだ学生だから」
「……元気そうだった。卒業後はすぐに近衛騎士団に入るようだな」
「ま、そうだよね。というか、もう学園で学ぶことなんてないんじゃない? 休日は騎士団で指導を受けているわけだし」
「……そうだな。だが、近衛騎士団で出世するには、やはり学園は卒業しておいたほうが有利だからな」
「うーん。ジルベルトはどっちかというと一剣士って感じだけどな……。まあ、それでもある程度まで出世しないとサミュエル殿下の近くにはいられないか」
ジルベルトはサミュエルに仕えたいと言っていたのだ。将来の王に仕えるためには、ある程度の身分と階級は必要だ。
「それはそうとさ。クレメンス、ディランさん見なかった?」
「……いつものところじゃないのか?」
「やっぱりそうかあ。精霊の力の使い方、教えて欲しかったんだけどな。……気持ちもわかるしなぁ。わたしも頻繁に行っているし……」
「……テッドさんも風だろう? テッドさんに聞いたらどうだ?」
「もう聞いたよ。でもテッドさんだって私と似たりよったりだよ。カーティスさんが言うには精霊王が不在の今、精霊の力を制御するのが難しいらしくてさ。幼い頃から契約している新人精霊士の方が、よっぽど私たちより力を使いこなせているよ」
精霊との不調和は、新人聖騎士に顕著に表れている。原因は契約者との絆が深まる前に精霊王が眠りに入ってしまったためだろうと言われている。ようするに、精霊の力の使い方に慣れていないのだ。
「……なるほど。精霊王がいなくなる弊害は、こんなところにも出ているのか」
「まあ、精霊達も精霊王がいなくて不安になっているらしいんだけどね。クレメンスの精霊は大丈夫なの?」
「……俺の精霊は……そうだな。精霊王が眠った直後は多少不安定だったが、今はもう大丈夫だ」
「そっか。それは良かったね。あーあ。それにしたってもうそろそろ気を許してくれたって良いのにな」
「……きっと気は許しているさ。ただ精霊王がいないことで精霊自身もそうだが、精霊の力自体が不安定になっているんだろう。最近は下級精霊の力ですら、以前よりは上手く使いこなせなくなっているらしいからな」
「え? そうなの。うーんこれは、結構大変な事態なんじゃない?」
「……そうだな。だが、以前よりは魔の出現も抑えられているから、そこはまだ良かった」
「そっか……そうだね。……でもやっぱり早くフィーに会いたいよ」
「……そうだな。……今年のカナンの花は、一緒に見られるといいな」
「……うん」
今年のカナンの季節は、もうすぐにやってくる。
精霊姫であるフィーラが眠りについてまだ半年と少し。今年のカナンの花を一緒に見たいといいながら、エルザもクレメンスも、それが叶わないだろうことを心のどこかで知っている。
これからどれだけの月日を、そう想い、過ごすのか。それでも、それを願わずにはいられないのだ。
――大切な友人とともに、春の訪れを喜びたいと。




