第200話 眠り
眠る場所は祈りの塔になった。精霊姫となり、はじめてカナリヤと一対一で話をした場所で、フィーラは眠りにつくのだ。
ゲオルグとロイドに別れを告げ、フィーラは大聖堂へと戻ってきた。
すべての準備はオリヴィアが整えてくれていた。フィーラが眠りについた後のことも、オリヴィアが精霊姫代理として請け負うことを了承してくれた。
祈りの間へと入る前、皆に会うかどうかオリヴィアに聞かれたが、フィーラは断った。会えば決心が鈍ってしまうから、と。
フィーラは小さく息を吐き、部屋の中を見渡す。
フィーラが今のフィーラとしてはじめて目を覚ましたのが、メルディア家の聖堂だった。そして今度目覚める時は、大聖堂の、しかも精霊姫が祈りを捧げる祈りの間だ。
「……ものすごく、グレードアップしたわね」
自分の言葉がやけに面白く感じ、フィーラはこらえきれずに声を出して笑った。
「……何を笑っているんだ」
突然かけられた声に、フィーラの身体がびくりと震える。まさか人がいるとは思わなかったのだ。だが聞こえて来たその声は、フィーラのよく知る人物のもの。
「ディラン……」
もう一度会いたいと、そう願っていた人が目の前にいた。
「もっと沈んでいると思ったのに、まさか笑っているとはな。君は本当に能天気だな、お嬢さん」
「どうやって入ったの?」
「……聞きたいのはそこか?」
呆れたようにため息をつくディランだったが、今この祈りの間には誰も入れないようになっているはずなのだ。
「……オリヴィアに頼んだんだ。……フィーラ、本当に良いのか? 精霊と人間の同化など、例がない。それは本当に上手くいくのか?」
「……それは。……大丈夫、なはずよ」
同化自体が失敗するかもしれないとは、カナンは言っていなかった。
「……賭けなんだろう? 君が犠牲になったとして、確実に世界の崩壊が止められるとは限らない」
「いいえ、世界の崩壊は止めるわ」
「……その犠牲を、君が負う義務はない」
「……義務ではないの。わたくしは、精霊王様がいなくなるのも、この世界がなくなるのは嫌なの。ねえディラン……わたくしは、自分は何の役に立てるのか、何のためにこの世界に生まれ変わったのか。心のどこかにはいつもその想いがあったの。でもきっと、わたくしはただ生まれて来ただけ。偶然この世界に生まれ変わっただけなのかもしれない。けれどもし、わたくしに出来ることがあるのなら、ましてやそれがわたくし以外には出来ないことだというのなら……それがわたくしの運命なのよ。きっとわたくしは、そのためにこの世界に生まれたのだわ」
「……そんなわけがあるか。君は好きに生きていいんだ」
「言ったわよ。わたくしが嫌だから、と。わたくしはわたくしの気持ちに従っているの。それに、このままわたくしがこの役を降りたとしても、世界の崩壊を待つだけだわ。それが数年後か、数百年後かはわからないけれど」
「……本当に君じゃなければ駄目なのか?」
「わたくし以外では駄目なのよ」
「フィーラ……」
なおも言い募ろうとするディランにその先を言わせないよう、フィーラは言葉を紡ぐ。これ以上聞いていたら心が揺らいでしまう。
「ねえ、ディラン。わたくしは決めているの。わたくしの未来は幸福に満ちていると。そう確信しているのよ。大切な人達が笑っている世界なら、たとえその未来にわたくしがいなくても、わたくしはきっと幸せだわ」
「……君は幸せでも、君を失った者たちはどうなる。それでも笑えると思うのか……?」
「失わないわ。わたくしはずっと、ここにいるもの」
フィーラは自らの胸に手を置き、目を閉じる。
「死ぬわけではないの。たとえわたくしがわたくしではなくなっても、精霊王様の中に、わたくしは存在するわ」
「……君は残酷だな」
「ディラン……」
何かを堪えるかのように、ディランがきつく目を閉じる。若葉色の瞳が隠れてしまったことを、フィーラは少しだけ残念に思った。すこしでも長く、見ていたいと思ったのだ。
フィーラの想いが通じたわけではないのだろうが、ディランの瞼がゆっくりと持ち上げられた。
「……フィーラ。目覚めたとき……もし君が今の君ではなくなっていたとしても、それでも俺は君を護ると誓おう」
「……ありがとうございます……」
もうその言葉だけで十分だ。それだけで、フィーラの心は満たされた。
泣かないでおこうと決めたけれど、やっぱり涙が滲んでしまう。そんなフィーラの瞳を見つめながら、ディランが恐ろしく不敬な言葉を放った。
「……精霊王よ。もし彼女を奪っておきながら世界の崩壊が防げないなどということになったら……俺はたとえあんたでも許さない」
『そう言われても仕方ないな。すべて、わたしの驕りと油断が招いたことだ』
波打つ白金の髪に、青緑の瞳。フィーラの姿をかたどったカナンが、その場に姿を現した。
「カナン⁉ ……あっ」
カナリヤではない精霊王の名を呼んでしまったことに気づき、フィーラはあわててディランの表情を確認する。しかしなぜか驚いてはいないようだ。
「やっぱり、そいつか……」
「やっぱり?……どうしてわかったの?」
「オリヴィアの様子がおかしかった。それに……闇の精霊は記憶を覗けるからな」
「精霊の記憶も見られるの⁉」
『そうだったな。油断していた』
しかし本当にそうは思っていないのだろう。その証拠にカナンは笑っている。精霊王ならきっと記憶を覗けなくすることも出来ただろうに。
「どちらだろうが、どうでもいい。世界の崩壊は、何としても食い止めろ」
『それは言われるまでもない。……フィーラ、こちらへ』
手招きに応じ、フィーラは前へと進み出で、目の前にいるもう一人の自分へと手を伸ばす。
『この世界を、守ると誓おう。お前の、いや、お前たちの愛した、すべてを』
「ええ。よろしくお願いしますわ。カナン」
悲しみとも苦しみともとれる表情をつくるカナンを見て、フィーラの口元に笑みが浮かんだ。
フィーラの手がカナンの手に触れると、目の前にいたはずのもう一人の自分の姿は掻き消えていた。
そしてその光景を最後に、フィーラはそのまま、瞼を閉じ意識を失った。
「……フィーラ」
ゆっくりとくずおれていくフィーラの身体を、ディランが受け止める。すると、背後の扉がゆっくりと開かれ、コツコツと近づいて来る二人分の靴音がした。
「……二人は眠った?」
「ああ」
オリヴィアがレイザンと共に室内へと入ってくる。二人とも眠るフィーラの顔を見て、わずかに顔を歪めた。
「……寝台へ寝かせて頂戴」
オリヴィアの言葉を受け、ディランはフィーラを奥の部屋の寝台に横たえる。
「……ごめんなさい、ディラン。本来ならこれは私の役目だったのに……」
「あんたが謝ることじゃないだろ……。それに、本当にこれがあんたの役目なら、彼女にやらせるはずがない」
「……それでもよ。それでも、やっぱり、謝らせて。あなたに、そしてこの子に……」
オリヴィアが寝ているフィーラの頬に手を当てる。長い睫毛に縁どられた瞳は、今はぴたりと閉じられている。しかし閉じた瞼の端に滲む涙を見て、オリヴィアの瞳からも涙があふれだした。
「……ごめんなさい、フィーラちゃん」
「……彼女はきっと、あんたが悲しむのは望んでいない」
「ええ、そう。そうね」
それでも涙が溢れるのを止めることはできない。
「……きっとまた会えるわ。そうフィーラちゃんが言ったのだもの」
「……オリヴィア様。重ねて祈りの間に結界を張りましょう。精霊王がすでに結界を張られておりますが、さらに幾重にも……」
泣き続けるオリヴィアに、レイザンが躊躇いがちに声をかける。レイザンの声を聞いたオリヴィアは、手の甲で涙を拭った。
「ええ……。悪意のある者は決して侵入できないよう。なんびとも、彼女と精霊王の眠りを妨げることのないように」
レイザンが手の平を上向けると、輝く白金色の光が浮かび上がった。レイザンの手から離れた精霊は、光の筋となり祈りの間を周回する。光は糸のように張り巡らされ、まるで繭のようにフィーラが眠る寝台の周りを包んでいった。
「……二人は先に部屋を出て。あとは私が仕上げをするわ」
オリヴィアの言葉を受け、レイザンとディランが祈りの間を出ていくと、オリヴィアは寝台に横たわるフィーラの横に立ち、両手をかざした。
「さあ、フィーラちゃん。最後の結界を張りましょうね。この結界は火に巻かれても、雷が落ちても、物理的なダメージの一切を吸収してくれるのよ。……この結界は精霊姫の役を降りた人間に残される護りだけれど、私には必要ないわ。あなたが目覚めるまで、私が引き続き精霊姫としての役割をこなすから、聖騎士たちが私を護ってくれる。だから、この結界にはあなたを護ってもらうわ。何があっても、あなただけは傷つけさせはしない」
オリヴィアは自らに残された精霊王の力を使い、フィーラの身体に添うように、縦に横にと、幾重にも光の筋を走らせる。
張り巡らされた結界の光に照らされたフィーラの顔を眺め、オリヴィアが呟いた。
「フィーラちゃん……あなたに、また会いたいわ」
祈りの間にはオリヴィアの嗚咽だけが響いた。




