第198話 お別れを
「フィーラお嬢様?……が二人?」
屋敷に突然現れたフィーラたちに、コンラッドが目を瞬かせている。
「コンラッド。こちらは精霊王様よ。今は訳あってわたくしの姿をとっていらっしゃるの」
三度目ともなれば説明にも慣れたものだ。フィーラの言葉を聞いたコンラッドが慌ててその場に膝を突く。
『よい。それよりも、すぐにフィーラの父と兄を呼び戻してくれ』
「ゲオルグ様と、ロイド様を?」
『王へはわたしとフィーラがここへきていることは伝えるな。出来るか?』
「ゲオルグ様とだけやりとりする方法がありますから、それは大丈夫ですが……」
目配せをしてくるコンラッドにフィーラは頷く。その仕草を見たコンラッドがすぐに精霊を王宮へと飛ばした。
「ロイド様にはゲオルグ様から連絡していただきます。その方が転移門を使えて速いでしょうから」
「ありがとう、コンラッド」
『フィーラ。父と兄が来る間、時間がある。好きに使え』
「ありがとうございます。精霊王様」
「お嬢様……?」
精霊王の言葉を訝しんだコンラッドが不安そうにフィーラを見つめる。コンラッドのこんな表情はめずらしい。
「コンラッド。調子はどうかしら?」
コンラッドの気を逸らすように、フィーラは他愛のない話題を振った。
「……私ですか?」
「ええ。お父様が今度宰相になるでしょう? きっとコンラッドの負担も増えるわ」
宰相就任のパーティはまだ行われていない。結局、約束を違えることになってしまった。
「私の負担などはゲオルグ様に比べたら些細なものです」
「お父様をお願いね、コンラッド。あと、お兄様のことも」
領地のことはコンラッドに任せておけば問題ない。家の中のことも、マルクがいれば健康管理はちゃんとしてくれるだろう。
「もちろんでございます。お二人のことはご心配なさらず」
「ふふ。ありがとう。……今はアン達はどこへ?」
「……今は使いでマルクさんと一緒に町へと出ております。素材の良い店を四人に教えるそうですよ。呼び戻しますか?」
「いいえ……大丈夫よ。少し屋敷と、庭を回りたいわ」
「どうぞ、ご自由に。ここはお嬢様の家でございます。ゲオルグ様とロイド様が来たら知らせに参ります」
精霊王とともに突然現れたフィーラ。
フィーラの行動はどう考えてもおかしいだろう。きっと何かしら察してはいるだろうけれど、しかしコンラッドは何も言わずにいてくれる。
「もちろん、護衛はいらないわよ? 精霊王様がいるのだもの」
「……承知いたしました」
笑顔のフィーラに、コンラッドの表情もゆるんでいる。フィーラが護衛を付けずに庭をふらふらするのは昔からなのだ。
屋敷内ですれ違う使用人のほとんどが、最初二人いるフィーラを見てはぎょっと目を見開き、そしてすぐにそれが誰だか気づき、あるいは気づかなくとも、すでに精霊姫となったフィーラに対し、頭を下げる。
そんな使用人に、フィーラは笑って手を振るのだ。中には声をかけてくれる者もいた。そんな者には、フィーラは労いの言葉をかける。
肖像画のかかった廊下。マルク自慢の食堂。今はもう使っていない、自分の部屋。ずっと鍵がかかっていた母の部屋。精霊王に頼み中に入れてもらい、フィーラはしばし母との思い出に浸った。
「わたくし、お母様とはお会いしたことないの……」
フィーラを産んですくに亡くなった母。本当は、赤子だった自分は母に会っているだろう。だがそのときの記憶はフィーラにはない。
『そうか』
「でもわたくしは今でもお母様のことが大好きよ。一度も会ったことのない、もう二度と会えない人だけど、そんなことは関係ないのね」
『そうだな』
「わたくしもそうでありたいわ。たとえもう二度と、会えなくなったとしても、皆には忘れて欲しくない。これって我儘かしら?」
目覚めるのは数十年先かもしれないと言っていた精霊王。それが二十年か九十年かではかなりの差がでてきてしまう。もしかしたら、このままもう二度と会えない人もいるかもしれない。
――いえ、数年かもしれないとも、言っていたわ。
『いいや。愛する者にいつまでも覚えていて欲しいと思うのは当然のことだ』
「まあ、精霊王様。まるで人間みたいね」
フィーラは本当にそう思っていた。下手をしたら、カナリヤと接しているときよりも、より人間くさいと感じているかもしれない。
『長く人間と過ごすことで、精霊も人間というものの感情を理解する。成長するからな』
「そうね。でもきっと人間も精霊と関わることで成長しているわ。二つの存在が関わるとき、一方通行の学びなどきっと存在しないもの」
『そうか……。そうかもしれないな』
感慨深げにそう答えた精霊王が、窓に近づき外を眺める。きっと外から見たら、フィーラがいるように見えるだろう。そう思えばまるでいたずらを仕掛けているかのようで、なかなかに面白い。
ひとり心の中で楽しんでいたフィーラに、精霊王が唐突に問いかけて来た。
『フィーラ。わたしの名を呼ばないのか?』
精霊王からの問いに、フィーラは一瞬動きをとめる。今の精霊王は以前の精霊王ではない。以前はカナリヤの名で呼んでいたが、今その名を呼ぶのはどうにも憚られてしまう。
オリヴィアはカナリヤと呼びかけたけれど、それも一度だけ。フィーラと同じように意識的に名を呼ばぬようにしていたのだろう。
「……どちらの名で呼んだら良いか迷っていたのです。あなたは確かに精霊王様で、カナリヤ様の記憶も持っているのでしょうけれど……」
オリヴィアに名を呼ばれたとき、この精霊王は一瞬だったが確かにたじろいだ。だが二つに分かれていた存在が一つになるということを、フィーラたち人間では真に理解しえないだろう。
『……確かに、今のわたしはそなたにつけられた名がより馴染んでいる。だが二つに分かれてからの歴代の精霊姫やオリヴィアと過ごした間の記憶も、確かにわたしの中に存在する』
「……では……二人だけのときはカナンと。……それ以外、皆の前では精霊王様で」
――なんとなくだけれど……魔のときの印象が強いせいか様をつけるのに違和感があるのよね……。
もしかしたらその考えは不敬かもしれないが、オリヴィアもカナリヤのことを呼び捨てにしていたので、まあ大丈夫だろう。
『それでいい』
「ふふ。カナン、そろそろこの部屋から出していただけますか? 庭が見たいわ」
そう言った次の瞬間には、フィーラは庭園の真ん中に佇んでいた。だいぶ暖かくはなったが、今の季節は春にはまだだいぶ早い。
――思えば、前世の記憶を思い出してから、まだ一年も経っていないのね……。
「……ここの庭はいつ見ても綺麗だわ」
ここの庭園にはいつどのような季節であっても、何かしらの種類の花が咲いているのだ。
『この庭はフェリシアが新たに造らせたものだろう? 古くからある庭園に手を加えたと言っていた』
「覚えているのですね……!」
――それはカナリヤ様の記憶かしら? それともお二人の?
フィーラは一瞬聞こうかと迷ったが、どちらでもいいかと思い直す。どのみちもう二人を区別することには意味がないのだ。
以前のフィーラと今のフィーラが同じで違うように、カナリヤとカナンも違うけれど同じだ。
『わたしがどれほどの時を生きていると思っている』
「それでも……百年以上前のことですわよ?」
『わたしの感覚と人の感覚は違う』
「……人の一生など、精霊たちにとってはほんの一瞬なのでしょうね」
『そうかもしれない。あまりに儚く、時折、共に過ごすことがつらくなるときがある』
フィーラは自分と同じ姿をしたカナンを見つめる。すべての者が自分より先にいなくなってしまうのだ。フィーラには想像するしかできないが、それはとても寂しいことだろう。
フィーラはまだ蕾すらつけていないカナンの樹を見つめる。
――もう一度、カナンの花を見たかったわ。……それと。
フィーラの脳裏に、ひとりの人間の姿が思い浮かぶ。このカナンの若葉のような、美しい瞳を持った青年。
唐突に浮かんできたその姿を、フィーラは頭の中から振り払った。いつ目覚めるかわからないのでは、もう己の気持ちを伝えることさえできない。万が一にも、これからの彼の足枷とならないように。
ただ、もう一度だけ見たかったと、思ってしまったのだ。美しいカナンの花も、あの美しい若葉色の瞳も。
――……いいえ……目覚めてから見ればいいのよね。
フィーラはもう、眠りにつく前に家族以外の誰にも会うつもりはなかった。会えばさすがに、泣いてしまうかもしれない。そして自分が泣けば、きっと友人たちはフィーラの行動を止めようとするだろう。悲しませてしまうことになる。
父や兄とて同じかもしれない。ただ、どうしても、二人にだけは会っておきたかった。それくらいの我儘は許されるだろうと。
「フィー!」
声のする方を見れば、急いで帰ってきたであろうゲオルグとロイドが、こちらにかけてくるところだった。
二人の姿を見たフィーラは泣きそうになった。先ほどまでは大丈夫だと思っていたけれど、やはり父と兄の姿を見ると、もう二度と会えないかもしれないのだという実感が湧いてくる。
「お父様、お兄様……」
「フィー……!」
ゲオルグの表情からは切羽詰まった思いが見て取れる。コンラッドは精霊王とフィーラが屋敷に来ているため至急ロイドを連れて戻って欲しいと連絡したと言っていた。
精霊王が屋敷に訪れることなどそうそうあることではない。何かがあったのだと、ゲオルグならばすぐに気づいただろう。
「フィー。どうしたんだ? それに……そちらにいるもう一人のフィーが、精霊王かい?」
「ええ。今はわたくしの姿を借りていますが……」
『わたしに対する挨拶はいい』
膝をつきそうになったゲオルグとロイドをカナンが制止する。
「……ではすぐに用件をお伺いしましょう」
ゲオルグの視線を受け、カナンが小さく頷いた。
『今この世界は崩壊しかかっている。それを食い止めるために、お前の娘にはわたしとともに眠りについてもらうことになった』
何の遠慮も脚色もなしに伝えられた言葉に、ゲオルグとロイドの顔色が変わる。
「……それは一体どういうことですか?」
『この世界の崩壊を食い止めるためには、わたしはこの世界の物質と同化しなければならない。その役目をフィーラが負うことになった。いつ目覚めるかはわからない。数年後かもしれないし、数十年後かもしれない。あるいはそれ以上ということもある。そして次に目覚める時は、わたしとフィーラの魂はひとつの肉体を共有することになるが、おそらく意識はどちらか一方のものとなるだろう。そしてそれがどちらのものになるかはわからない』
――改めて聞くと結構なものだけれど……一気に言い過ぎではないかしら? 大丈夫かしらお父様とお兄様……。にわかには信じがたいことだと思うのだけれど……。それにもし、目覚めるのがわたくしだったとしても、記憶がないかも……とは、言わない方がいいかしら……?
さすがにそこまで言ってしまうと、フィーラの自己議性感が強くなりすぎる。
「……要するに、この世界を救うために娘に犠牲になれということですかな?」
――それを言っちゃうと元も子もないけど! 間違ってはいない、のかしら……。
『そうなるな』
「おい! ふざけるなよ! 何でフィーなんだ!」
「お、お兄様……!」
今この屋敷に大聖堂の人間はいないけれど、さすがに精霊王に対してのその物言いいは不敬極まりない。
『拒むならそれでもいい。この世界が崩壊したとして、わたしには何の問題もない』
「はあ⁉」
『わたしは人間との契約により魔からこの世界を護る役割をこなしているが、人間に隷属しているわけでも依存しているわけでもないのだから』
――……先ほどはそんなこと一言もいわなかったのに……。
きっとロイドとゲオルグを説得するためなのだろう。もうあとがないと思わせたほうが、人は多少の無理難題にも納得しやすい。
『どのみち世界が崩壊すれば、お前も、お前の妹も消えるのだぞ?』
カナンに見据えられ、ロイドが顔を歪める。
「本当に……本当にそれはフィーラでなくては駄目なのか? いや、その方法しかないのか?」
「父様……!」
――本当はカナンが魔に堕ちるという方法もあるけれど……。
だが、それでは上手くいかないのではないかと、フィーラは思っている。これはただの勘だ。だが、人の世界のことを、人ではない存在に丸投げしてあとは見ているだけだなんて、そんなことでは幸運が逃げてしまう。そんな気がするのだ。
――人の世界のことだもの、せめてカナンの手伝いくらいしたいわ。
「お父様……お兄様。わたくしはこの世界を失いたくありません。この世界に生きる方たちを、失いたくはないのです」
「でもフィー! それではフィーが……!」
ロイドがフィーラを見つめる。珍しくも目に涙を浮かべている。ロイドの表情を見て、フィーラは最初少しだけ浮かれていた自分を反省した。
「お兄様……。お願いですから、悲しまないでください。わたくしは、本当に大丈夫なのです」
「フィー、そんな……そんなことを言わないでくれ」
話しているロイドの視線が、どんどんと下がっていく。フィーラを直視できないようだ。
「たとえ、目覚めるのがわたくしではなくても……」
フィーラはロイドの肩越しに、ゲオルグの瞳を見つめる。兄と同じ、カナンに似た薄紫色。
「……わたくしは、それを不幸だとは、悲しいとは思いません。……わたくしはこの世界が好きです。この世界に生きる方たちが好きです。精霊王様と一つになるということは、この世界のすべてと繋がるということ。ずっと、この世界を見守っていけるということです……。お兄様やお父様、わたくしの大切な方たちを、ずっと守っていけるということなのです」
ゲオルグが目を瞑り、そのカナン色の瞳を隠す。涙をこらえるかの様に、その眉根は寄せられていた。
「……お兄様、どうか、お父様のことをよろしくお願いしますね。もし、次にお会いできたとき、わたくしがわたくしでなくなっていても……どうか、そのときのわたくしを慈しんでください。わたくしはただ、その方の中で眠っているだけですわ」
ロイドがフィーラを強く抱きしめる。学園に入学してから、兄にはこうやって心配ばかりかけている。だが……。
――お兄様が泣く姿を見るのは、もしかしたら、初めてかもしれないわ……。
抱きしめられる一瞬前、フィーラはロイドの顔に、流れる涙が見えた。どうか泣かないで欲しいという想いを込めて、フィーラもロイドを抱きしめ返す。
「フィー……。約束するよ。ずっとずっと、たとえどれほど変わろうと、たとえ、生きているうちには、もう会えなくとも。……君はいつまでも、僕の大切な妹だ」
ロイドの絞り出すような声に、フィーラの目にも涙が浮かんでくる。声を発すれば嗚咽が抑えられなくなりそうで怖かったが、たっぷりと時間をかけ、フィーラはようやく一言答えることが出来た。
「はい……お兄様」




