第197話 提案
『穴を塞ぐことができなければ人の世は滅ぶ。わたしの心配をしている場合ではないぞ』
「でも……」
フィーラの瞳に涙が滲む。これまでずっと人間を護ってきてくれた精霊王が、人間のために自ら犠牲になろうとしている。そんなのはあんまりだ。
「ねえ、本当にほかに方法はないの? ……カナリヤ」
オリヴィアが呼んだ名に、精霊王の表情が変わった。しばらくの間そのまま黙っていた精霊王は、ひとつ、小さく溜息をついてから観念したように話し出した。
『……お前たちは本当に、これまでの精霊姫とは違うな。強情で、しつこい』
「精霊王様?」
『やはり異なる世界の魂を持つことが影響しているのか……。ひとつだけ……わたしが魔に堕ちることなく、人の世に常時存在することが出来る可能性が残されている』
「それは……?」
精霊王の言葉に、フィーラは希望をみいだし前のめりになる。
『わたしが肉体を得ることだ』
「肉体を?」
『人の世界は物質の世界。わたしも物質としての肉体を得れば、魔に堕ちることなくこの世界で存在することが出来る』
「精霊が肉体を得る? そんなこと出来るの? それは魔が人に憑くことと何が違うの?」
『原理は変わらない。だが魔が生物につくときは、無理やりにその生物の肉体を変えている。己の持つ能力を最大限に引き出せるように。その結果はお前たちも知っての通りだ。精霊や魔のような大きな力を受け入れ同化するには、この世界の生物は弱すぎる。それを可能とするには、時間をかけて肉体を作り変えるしかない』
「肉体を……作り変える?」
『そうだ。常に共に存在出来るように、わたしに適した肉体に作り変える』
「作り変えるって……どうやって?」
『肉体の状態としては、仮死の状態だ。はたから見ればただ眠っているだけに見えるだろう。だがその内部は著しく変化することになる』
――蛹……みたいなものかしら。
「それができるなら……なぜ今までやらなかったの?」
『肉体を作り変えるということはそう簡単なことではない。器となる者の負担は計り知れない。形は同じでもその肉体は今までの肉体とは異なるものとなる。全く新しい命に生まれ変わるということだ。それに……わたしの意識が残る代わりに、器の意識がなくなるかもしれないし、器の意識が残ったとして、今の記憶を失っているかもしれない。一度同化してしまえば、分離は恐らく、器の命が終わるまでは不可能だろう』
「……それは……その、器となる人間一人で済む話なの?」
『それもわからない。人の一生が数十年として、その間に穴が塞がるかどうかはやってみなければ……』
「……私はどう? 私はあなたの器としてこれまで生きて来たのだもの、同化するには都合が良い肉体なのではない? ……ちょっと寿命が足りないかもしれないけれど」
精霊王の言葉を聞き終えたオリヴィアが、我こそはと名乗りをあげる。だがその役目をオリヴィアに任せるわけにはいかない。
これまでずっと精霊姫として世界を護ってきたオリヴィア。これからは家族と孫を見守っていくのだと、嬉しそうに語っていたのはついこのあいだのことだ。
「いいえ。オリヴィア様、それは精霊姫であるわたくしの役目ですわ」
「フィーラちゃん⁉ ……いいえ。駄目よ。精霊姫でなくとも構わないわ。あなたはこれからの世界を導く役割があるのよ」
驚くオリヴィアに、フィーラはかぶりを振る。
「オリヴィア様。これはわたくしに適任ですわ。わたくしはカナリヤ様との親和性が高いのでしょう? なら同じ精霊王であるこの方とも同じなのでは?」
『確かに、お前のほうがオリヴィアよりはよりわたしに適している。成功する確率はお前のほうが高いだろう。だがお前の意識はなくなるかもしれないのだぞ』
「それは絶対なのですか?」
『……五分五分だ。とくに、お前たちの魂はこの世界のものではない。そしてわたしの力をすべてその身に降ろせるお前なら、同化した後も今の意識を保っていられるかもしれない』
「ならば……この世界とあなたが消えないですむ道があるのなら、わたくしはどれほど可能性が低くとも、それに賭けたいです」
『だが、お前と同化するためにかかる時間はどれほどになるかわからない。数日かも知れないし、数年かも知れない。もしかしたら、数十年ということもあり得る』
「……同化にそれほど時間がかかったらわたくし一人では間に合わないのでは?」
『どのみち間に合うか間に合わないかはやってみなければわからないが、同化している間はわたしも人の世に存在することになる。同化にどれほど時間がかかろうとそこは気にしなくても良い』
「……もし、わたくしが生きている間に穴の修復が終わらなかった場合は、どうするのですか?」
『次の精霊姫の役目となるだろうな』
「次の……精霊姫。……出来ればわたくしの代で終わりにしたいわ……」
精霊王の言う同化がどのようなものか、体験してみないとわからない。だがそのような重責を、やはり次代に残したいとは思えなかった。
――ああ……オリヴィア様も同じ気持ちだったのかしら……。
これまでずっと、フィーラのために手を尽くしてくれたオリヴィア。ここで恩を返さなければ女が廃るというものだ。オリヴィアのしてきたこと。それを引き継ぐのがフィーラの役目なのだ。
フィーラの言葉を聞いたオリヴィアが眉を下げた。その瞳には涙が浮かんでいる。
「フィーラちゃん……」
オリヴィアだけではない。精霊王もフィーラを見つめている。己を見つめる二人に、フィーラは笑って言葉をかける。
「……そんな顔をしないでください、オリヴィア様。わたくしはきっと大丈夫ですわ」
「……ごめんなさい、フィーラちゃん。私がその役目を負えれば良かったのに」
オリヴィアが涙を零しながら、フィーラを見つめる。
「オリヴィア様……。わたくしとて、精霊王様がいなくなるのは嫌ですわ。大丈夫ですわ、オリヴィア様も知っているはずです。わたくしたちの存在は、不滅なのだということを」
フィーラもオリヴィアも、こことは違う世界で生まれて、死んで。またこの世界に生まれた。
フィーラが覚えている転生はその一回だが、きっとそのサイクルは延々と続いてきたのだろう。精霊だけではない。人間にとっても、生と死は仮初のものなのだ。
たとえ、記憶を失おうとも、たとえ、意識すらなくなるのだとしても。フィーラは不思議とそれを怖いこととは思わない。
「きっと、またお会いできます」
そのことを疑う気は不思議とまったくおきないのだ。
その時のフィーラが、今のフィーラかは分からない。けれど、フィーラはきっとまた、皆を好きになるだろう。きっとまた、フィーラは新しい自分で、戸惑いながらもこの世界を生きていくだろう。
そのときの自分を想像して、フィーラは少し楽しくなった。まるで、まだ見ぬ娘を見守る母のような気分だ。こんな時だというのに、フィーラの心に悲壮感はまるでない。
むしろ、新しい世界へ旅にでるようなわくわくした気持ちが溢れてくるのだから、自分でも相当能天気だと思う。
『フィーラ。同化はすぐにでも始めるべきだ』
精霊王の言葉にオリヴィアが待ったをかける。
「そんなにすぐ? もう少し時間は貰えないの?」
「オリヴィア様、わたくしは構いません。今から用意が出来次第、すぐにでも……。でもその前に、せめてお父様とお兄様にだけは、会えないかしら?」
『良いだろう。このままお前の家に向かおう』
精霊王がフィーラに手を差し出す。その手を握る前、フィーラはあることに気が付いた。
「あの……そのお姿なんですけれど……」
『なんだ』
「……カナリヤ様が普段とっていた人の姿はわたくしの姿です。公爵家の皆はそのことを知りませんが、一応、姿を変えていただけますか?」
『ああ』
そういうと、精霊王の姿はすぐさまフィーラの姿に変じた。その姿を見たフィーラは安心してオリヴィアに向き合う。
「オリヴィア様。さきほどの話をどうか皆様には内密にできませんでしょうか?」
「フィーラちゃん……」
「わたくし、犠牲になるつもりなどまったくありませんが、聴きようによってはそのように受け取られてしまうやもしれません。せめてわたくしが無事眠りにつくまでは……」
「……わかったわ。でもヘンドリックスには、このことは伝えるわ。だって誤魔化せないもの」
「そうですわね」
ヘンドリックスの顔を思い出しフィーラは苦笑する。ヘンドリックスは勘が鋭い。そして大聖堂中の誰よりも、フィーラとオリヴィアをそばで見守ってきてくれた人だ。きっとすぐに二人の嘘になど気づかれてしまうだろう。
「あと……すべての人間に話をしないというわけにはいかないわ」
オリヴィアの言う通り、誰にも、何もかもを秘密にしてことを進めることは出来ないだろう。フィーラが眠りにつく準備もしなくてはならないし、オリヴィアとヘンドリックスを助ける人間は必要だ。
「そうですわね……はい。そこはオリヴィア様にお任せします。……申し訳ありません。お辛い役目をお願いします」
「……辛くなんてないわ。フィーラちゃんに比べたら、私なんて」
オリヴィアがフィーラの両手を握り締める。
「いいえ、オリヴィア様。わたくしとて辛くなどありませんわ。だってわたくし、すべてが終わるまで寝ていればいいのですもの。よいご身分ですわ」
なるべく深刻な雰囲気にならぬよう、フィーラはにこやかに言葉を紡ぐ。
「フィーラちゃんたら……」
「……行ってまいりますわ、オリヴィア様。あとはお任せしました」
「ええ。任されたわ。……いってらっしゃい」
オリヴィアに見送られ、フィーラは精霊王と共に家へと向かった。




