第184話 闇を払う光
フィーラの言葉に、ステラが顔をあげる。涙に濡れ、キラキラと輝く、空色の瞳。
「これまでのこと……いらぬ他人の意志は入り込みましたが、ようするにわたくしたちは喧嘩をしたということですわね。ですが、ステラ様はすでに謝ってくださいましたし、わたくしもステラ様を許しています。喧嘩して、謝って、仲直りをしたら、それはもう友人と呼んでも良いのでは?」
「……許してくれるの?」
ステラが目を見開きフィーラを見つめる。
「そもそも、わたくしが許す許さないの問題ではないと思います。わたくしは、特に被害を被ってはおりませんし……」
「…………被っているわよね? あなた、私のせいで悪女扱いされたのよ? それに、下手をしたら死ぬところだったわ」
ステラの表情には如実に不可解といった感情が現われている。ステラが死ぬところだと言ったのは、きっとゲームの中での話だろう。さすがに今のフィーラが魔に憑かれて死ぬとは考えにくい。
――まあ、人間だもの。わたくしだっていつかは死ぬだろうけれど……。
「むしろわたくしよりも、皆さまの方が被害にあっておりますわ。自分の心を操られるなど、嫌に決まっています」
「そう……そうよね……ごめんなさい」
「でもそれはステラ様も同じですわ。むしろステラ様こそ、一番の被害者と言えるかもしれません」
「そう……かも」
フィーラの言葉に納得しかけたステラだったが、はっと目を見開き、かぶりを振った。
「……ううん。こういう考え方が悪いんだわ。だって、私は確かに私が主役の世界を願ったんだもの。それがたとえ、誰かに騙されていたのだとしても、誰かの思惑に乗ってしまったのだとしても、私にはその世界を選ばない自由があったんだもの」
「ステラ様……ステラ様はもう、大丈夫ですわ。わたくしと一緒に、元の世界に戻りましょう?」
「……うん」
ステは口元を引き結び、眼に涙を溜めてフィーラを見上げる。
ステラに向かってもう一度フィーラの手が伸ばされる。その手をステラが握ると、暗闇に一条の光が差し込んだ。
光は、何もない天井から降り注いでいる。否、天井があるのかさえわからないほどの黒い闇の中にフィーラとステラはいたのだ。
「カナリヤ様」
フィーラの声に呼応して、天井からパラパラと黒い欠片が落ちてくる。光が射しこんだのは、天井に穴が開いたからのようだ。
フィーラとステラ、二人に降り注ぐ、温かささえ感じる白金色の光。その光によってゆっくりと闇は払拭されていった。
徐々に強くなっていく光。
その輝きに耐えられず、フィーラは目を閉じた。
そして次に目を開けると、フィーラはステラの身体を抱きしめたまま、大聖堂の祈りの間の寝台に横たわっていた。
窓辺に座り目を閉じていたリーディアが、ゆっくりと瞼を開く。リーディアの瞳はまるで眠りから目覚めたばかりのように、焦点が合っていない。やがてリーディアの視点は、目の前に佇む青年の姿に定まった。
青年は長い黒髪に青い瞳を持ち、騎士服を着ている。この精霊王はリーディアの前でだけ、このように人の姿をとるときがある。精霊王が人の姿をとると知ったときには相当驚いたものだが、その姿が騎士服を着ていた時にはこれまた驚いた。
なぜ騎士服を着ているのかと聞いたことがあったが、姿を借りた人間が騎士だったからだという答えが返ってきた。
その人間との関係についても聞いてみたが、その問いについては答えてもらえなかった。
「ああ……これでもうお終いかしら。本当に残念」
精霊王の力で精神のみを飛ばしていたリーディアは、フィーラとステラ、二人のいた空間から白金色の光によって弾き飛ばされていた。
『……ふられたようだな』
まるで本物の人のように、精霊王が笑う。その表情は実に満足気だ。
「まあ……そのようにお笑いになるとは、この結末はあなたのお望みどおりだったということかしら?」
『……』
「……仕方ないですわねぇ。魔とはいえ、元精霊王を操れると思っていたなんて、わたくしも自らの力を過信した子どもだったと言うことかしら?」
『……お前はこれからどうする』
「それはもちろん。潔く負けを認めますわ。だってこの世界は遊戯なのでしょう?」
首を傾げながら笑うのは、リーディアの癖だった。リーディアが首を傾げ拍子に、金茶色の髪がさらりと肩から落ちる。
『そうだな……』
「随分と楽しませていただきましたわ。まるでつまらない毎日に光が射したようでした」
これまでのことを想えば、自然と頬は熱くなる。そんなリーディアを怪訝そうな顔で見つめる精霊王がおかしくて、またリーディアは笑った。
『そうか。……まったく、人間とは不可解なものだ……』
「そうはおっしゃいますが、精霊王様? あなた様こそどうなされるのですか。この世界にはすでに正当な精霊王様がいらっしゃいますわ。いっそこのまま魔の王とでもなられますか。お似合いですわよ」
『案ずることはない。光と闇は表裏一体。元より二つは同じものだ』
「え……」
精霊王の笑みがますます深まっていく。お前たちを騙していたのだと、言外に言っているのに、その事実にリーディアは怒りも恐怖も感じない。
精霊王が見せる笑み、そこにあるのは、すべてを包み込む慈愛にも等しい何かだ。
「……ふ、ふふふ。あはは。そう。そうですか! ああ……やはり神の遊戯になど手を出すべきではなかったわ。狡いわ、精霊王様」
口元を尖らせるリーディアに、精霊王が苦笑する。
『光も闇も、正義も悪も、人間側から見た観点でしかない。わたしにとってお前たちのしてきたことは不可解極まりないとは思うが、ただそれだけだ』
『なかなかに楽しませてもらった。お前の魂に幸あらんことを』
精霊王の微笑みを虚ろな瞳で眺めながら、リーディアは数か月前のことを思い出していた。
父に精霊姫候補の座を金品で買うと言われたとき、リーディアは反対しなかった。ほんの少しだけ、その行為を醜いと感じただけだ。
約四十年ぶりの精霊姫退任に接して行われる精霊姫候補の選定。その名誉に預かりたい家など、数限りない。
大聖堂の建つティアベルト王国の公爵家、しかも年頃の娘がいるセルトナーとしては、ぜひ娘を候補にと思うのも無理なからぬことだ。
しかし父があろうことかフェスタ家当主であるルディウスに話を持って行ったときは、馬鹿ではないかと思ったものだ。フェスタ家は精霊教会発足時から、精霊姫を支えてきた一族。賄賂など通用するわけがないと。
しかし馬鹿なのは相手も、そしてリーディアも同じだった。多額の献金を喜ぶでもなく、狼狽えるでもなく受けとったルディウスに、リーディアは拍子抜けした。そして理解した。精霊教会の権威など、すでに地に落ちているのだと。
次代の精霊姫選定を金品の力で歪めることに、多少の罪悪感らしいものを抱いていたリーディアだったが、一瞬にしてその気持ちがどこかへ消えてしまった。選定を取り仕切る精霊教会の最高位でさえ、敬意を払っていないのだ。
「……馬鹿らしい」
そのルディウスの息子、マークスからリーディアに話があったのはリーディアが候補に決まってからすぐのことだった。世界を変える手伝いをしないかと。
実質脅迫だった。リーディアが普通の娘だったなら、慌てふためき、父へと相談していたことだろう。しかしリーディアは普通の娘ではなかった。
精霊姫候補の選定でさえも、予定調和のなかで行われるのだ。この世に真に尊ぶべきものなど存在しない。そのことを幾分残念に思っていたリーディアは、マークスの語る言葉に魅了された。
異なる世界の神々に創られたこの世界。仲間になれば、この世界と精霊王の神秘に迫ることができるのだ。普通の令嬢として生きていては決して叶わぬ人生だ。
リーディアは精霊姫になることになど興味はない。精霊王と精霊姫という存在自体に興味はあっても、その地位に自分が付きたいとは微塵も思わない。
興味があるのは、自分にはわからないこと。予測できないこと。そして美しいもの。
それだけがリーディアの心を動かすのだ。
だからリーディアは、同じ公爵家に生まれた同年代の二人の少女のことを嫌ってはいなかった。
深い紅の髪に瞳、気高いサルディナと、白金の髪に青緑の瞳、類まれな美貌のフィーラ。
しかしどちらかといえば、煩いフィーラよりも表面だけは淑女のふりをしているサルディナの方が面倒がなくて好きだった。
しかしフィーラが変わってからは、ステラと同じくらいには興味が湧いたが、どのみち、フィーラのことも、ステラのことも、サルディナのことも、リーディアは観賞用としてしか見ていなかった。つまらない自分の人生に、刺激を与えてくれる存在としてしか。
リーディアにとって心を砕くべき相手は家族だけ。とりわけ、すぐ上の兄であるルーカスのことを、リーディアは慕っていた。
マークスの話に乗ったのも、世界を変えることで、兄であるルーカスの人生に光があたると言われたからだ。
今のままの世界では、ルーカスは平の騎士のまま終わってしまう。
ルーカスは一見遊び人風で軽く見られがちだが、本当は思慮深く他人の気持ちに敏感だ。しかしそのすべてが仇になり、騎士団の中で出世することは叶わない。
もし世界を変えることができたとしたら、ルーカスのその美しい資質は開花され、ルーカスは表舞台へと出ることができる。
近衛騎士団副団長。それが裏の世界でのルーカスが到達する人生だ。
表の世界では、副団長は今の団長の息子。しかし裏の世界ではその息子は怪我をして副団長になることは出来ない。
裏と表の世界。その二つの世界は表裏一体。一方に光が当たれば、もう一方には影が差す。そのことにすぐにリーディアは気づいたが、リーディアが行動を慎む理由にはならなかった。
「もう少しだけ……」
終わる準備はすでに出来ている。この世界は遊戯なのだ。負けを認めることに否やはない。しかしもう少しだけ、すべてに決着がつくまで、最後まで見届けたい。
リーディアはいざというときのために用意していたカバンをクローゼットから持ち出し、
使用人に言付けを残して、屋敷を後にした。




