第183話 闇の中で
闇に飲まれたステラの心を追ってきたフィーラだったが、目を開いたとき己が立っていた場所のあまりの暗さに、一瞬自分が死んだのかと勘違いをしたほどだった。
カナリヤに姿を見せてもらうことで、辺りを照らし、ようやく己の姿が確認できた。
そして見つけたステラは、すでにその身体の半分以上を黒く染め、闇の中にうずくまり誰かと会話をしていた。否、それは会話と呼べるものではない。一方的なものだった。ステラの心を追い詰めるために放たれた言葉だ。
違うと泣きながら否定するステラに、その声の主は追い打ちをかける。助けを求めるステラの姿を見ていられなくて、思わずフィーラはその声の主に物申していた。
「どなたか存じませんが、しつこいと嫌われますわよ?」
フィーラの声を耳にしたステラが、辺りをきょろきょろと見回し、そしてフィーラの姿を認めた瞬間、くしゃりと顔を歪ませた。
「フィーラ、様……」
「お待たせしましたわ、ステラ様。さあ、一緒に帰りましょう?」
フィーラが差し出した手の平をステラが凝視する。そしてまたぽろぽろと泣き出した。
「……フィーラ様。でも、でも私……戻れないわ。あんなことをしておいて……」
「悪いことをしたと思ったら、謝ればいいのですわ。大丈夫です。遅すぎるなどということはないのですから」
ステラはおずおずと、しかししっかりとフィーラの差し出した手を握る。
フィーラはステラの手を力強く握り返し、腕に力を込めてステラを引き上げた。
「……良かった。間に合いましたわ」
闇に侵食されかかっていたステラの心を、何とか拾い上げることができた。
「……ありがとう、フィーラ様……」
こちらを見つめるステラの瞳には、また新たな涙があふれている。しかしその瞳にフィーラに対する怯えは見て取れない。
「どういたしまして」
そのことがどうしようもなく嬉しくて、フィーラはステラに向かって微笑んだ。
「フィーラ様……私、すべて思い出したの……」
「ステラ様?」
「私は前世の記憶を持っているわ」
ステラの言葉に、フィーラは息を飲む。やはり、という気持ちと、あらためてその言葉がステラの口から出たと言う驚きがないまぜになった不思議な心境だ。
「……ステラ様。わたくしも、前世の記憶を持っております」
「うん……。そうかな、と思ってた」
「でもわたくしは前世の自分のことをあまり覚えていないのです」
「……そうなのね。自分の名前すら覚えていないの?」
「はい。若い女性だったこと、働いていたことなどは覚えているのですが、家族や友人の顔さえ覚えていません」
能天気にも、フィーラは前世を思い出した直後、それらのすべてを思い出そうとすればすぐに思い出せるものだと思っていた。しかし、そうではなかった。
前世の記憶を詳細に思い出す必要性がなかったフィーラは、自分の前世の記憶がとても曖昧なものだと気づくのが遅れてしまった。
もとより前世を思い出す以前の自分の記憶すら危うかったものだから、前世の記憶に関してもさして重要とは思わなかったのだ。
「……私も、最初この世界に関することくらいしか詳細には覚えていないと思っていたわ。でもそれは間違いだった。さっき思い出したの。私は学園に入学する二か月前に前世の記憶を思い出したと自分では思っていたけど、本当はもっと前に思い出していたって」
「……それは、どういうことですか?」
「私が前世の記憶を思い出したのは、もっと子どもの頃のことよ。でもそのことを……今まで忘れていたの」
ステラの言葉に、フィーラが驚愕する。
「ううん。忘れていたんじゃないわ。忘れさせられていたのよ、きっと……」
「それは……ステラ様。どういったことでしょうか?」
「私、幼い頃にリディアスに会っているの。まだ子どもだったころ、二人で遊んだことがあったのよ。でも私は今までそのことを忘れていたわ」
「リディアス殿下と……。そのことをリディアス殿下は覚えているのでしょうか?」
「わからないわ。少なくともそんな素振りを見せたことは一度もなかった。……いつも私のそばにいる精霊ね……この精霊に出会ったのも、もっとずっと小さな頃なの」
そういうとステラの手の平の上に淡い光の玉が姿を現した。
「私がこの精霊と出会ったのは、はっきりとは覚えていないけど、多分、三、四歳の頃だと思う。一人で遊びに行った花畑で、この子に出会ったの。そこでこの子はふわふわと浮いていたわ。そんなことすら忘れていたのね……」
ステラの手の平の上で白金色に光る球。
――……もしかして、この光の玉はあちらの精霊王と関係があるのかしら?
『違うな。これはただの精霊、しかも闇の精霊だ』
「え? 闇の精霊……?」
フィーラが独り言を言う様に、ステラが眉根を寄せる。しかしすぐに何かに思い至ったようにフィーラに聞いてきた。
「もしかして精霊王と話しているの?」
「あ……ええ。カナリヤ様がおっしゃるには、この精霊は闇の精霊だと」
――ディランが確か、ステラ様には複数の要因が絡んでいると言っていたわね。この精霊もきっと関係があるのよね……。
「……そう。でも、どうしてこの精霊は契約を持ちかけてこなかったのかしら?」
精霊と人間の契約はそのほとんどが精霊からもちかけるものだ。精霊が人間に契約を持ちかけるのはその人間のことを気に入ったから。
ステラの精霊は契約こそしなかったが、これまでずっとステラのそばにいたのだから、ステラを気に入っていることは間違いないだろう。
「わかりません。ですが、この精霊がステラ様を気に入っていることは確かではないかしら?」
『この精霊がこの娘と会ってすぐのころは、まだこの娘が幼過ぎたのだ。そしてその後この精霊は娘の記憶に干渉している。そのせいで契約を持ち掛けることが出来なかったのだろう』
「それで、どうして契約が出来ないのですか?」
『記憶に干渉を受けているということは本人の意思が曲げられている状態だ。契約も本人の意思とはみなされないからだ』
フィーラはカナリヤの言葉をステラに伝える。フィーラの言葉に、ステラは何か考えるようにじっと光の玉を見つめた。しかしステラの口から出て来たのは、まったく別の事柄に関することだった。
「ねえ、カナリヤって、もしかして精霊王の名前?」
「え? ええ」
「ゲームでは精霊王に名前があるなんて情報、出てこなかったわ。この世界の精霊にも名前ってあるのね」
「ええ。わたくしも初めて聞いたときは驚きましたが」
この世界の精霊には名前はない。もしかしたら精霊王と同じようにあるのかもしれないが、人間が知らないだけという可能性はあった。あるいは、精霊王も誰かに名前を付けて貰ったのだろうか。
「そうなの……。カナリヤってね、この世界では花の名前なのよ。知ってた?」
「え? そうなのですか? わたくし達の世界ではカナリヤというと鳥でしたが……」
「標高の高い山に咲く小さな薄い黄色の花なのよ。とても珍しい花なの。もちろん花屋でも流通はしていないから、よほど花が好きでないと知らないわ」
「……ステラ様のご実家は花屋でしたわね」
「……ええ。この精霊が今のお義父様を実家の花屋まで案内してくれたことで、私は前世の記憶を思い出したのだと思っていたわ。でも……この精霊はそれよりずっと以前から、私のそばにいてくれたのよね。契約もしていないのに……」
ステラの瞳にまた涙が溜まってゆく。ずっと近くで、きっと誰よりも近くでステラを見守ってきた精霊。
ステラは手の平の上の精霊を、愛おしむように眺めている。その口元に笑みが浮かんでいるのをみて、フィーラはほっとした。
闇の精霊は、人の記憶に作用する。ステラの近くにいた精霊が闇の精霊だということは、きっとステラの状態にも関与していた可能性が高い。
それでも、ステラはこの精霊を愛しんでいる。気づいていないだけかもしれないが、たとえ気づいたとしても、ステラはこの精霊を疎んだりはしないだろう。
ステラが手の平の上の精霊か目を離し、フィーラを見つめる。
「ねえ……もうひとりの精霊王のことだけれど、私とは別の人間と契約を結んでいたのかもしれないわ」
「別の人間……」
てっきりステラを契約を結んでいたのかと思っていたが、どうやら違うようだ。
――でもステラ様にあの精霊王は降りたのよね? それでも契約者は違うということ?
『契約をしていなくとも、身体に降りることは可能だ』
――でもそれではステラ様の身体に負担が……。
『……その頻度と、この娘の耐性にもよる』
「私はその精霊王と契約を結んだ記憶はないの。もしかしたらまだ忘れているだけかもしれないけれど……」
ステラの思い出した記憶がすべてであるとは証明はできないし、ステラ本人もきっと断言はできないだろう。
「それが誰だか、ステラ様はわかりますか?」
「……もしかしたら、なんだけど。多分、リーディアかリディアス、その二人のどちらかだと思う」
「リーディア様……?」
リディアスのことは、もしかしたらと思っていた。ステラに執着していたようだし、優しいだけの人ではないと感じていたからだ。
しかしステラと仲が良いと思っていただけにリーディアのことは盲点だった。だが、さきほどステラの負の感情を煽っていた声は、確かにリーディアの声に似てはいなかっただろうか。
「前世の記憶だけじゃないの。時々、記憶が混乱することがあったの。きっと私があの人たちの都合が悪い方向へ進もうとすると、その都度記憶が修正されたのね」
「ステラ様……」
自分の記憶を他人に勝手にいじられるなんて、ステラは一体どれほどの恐怖を味わったのだろう。
たった一度だけ、フィーラもあの精霊王に干渉を受けたが、それに気づいた時には血の気が引いたものだ。
「……前世の記憶なんて、思い出さなければ良かった。そしたら……私は家の花屋を継いで……私は、あなたとだって、友達になれたかも知れない……」
ステラが泣きながら、その場にしゃがみ込む。この少女は、決して性根が悪いわけではないのだ。ただ、大きな流れに逆らうことをせず、何も考えずにそのまま流されてしまった。
「ステラ様……わたくしは、ステラ様のことをすでに友人だと思っていますわ」




