第182話 思い出したこと
ステラを中心にどんどんと広がっていく闇は、ステラ自身をも飲み込もうとしていた。
「ステラ様!」
フィーラはディランの腕を振り切り、ステラに向かって走り出していた。ステラの手は闇に飲み込まれながらも、こちらに向かって伸ばされている。その手を、必死でフィーラは握った。
「フィーラっ‼」
自分の名を呼ぶディランの声が聞こえたが、フィーラは握った手を離すつもりはなかった。ほとんど無意識だった。
繋いだ手の先から、闇が這い上がってきた。闇に触れられた個所の感覚は失われ、すでにステラの手を握っているのかどうかもわからない。
闇がフィーラの全身を包み込む直前に、頭の中に声が響いた。
『無茶をするな』
「……カナリヤ様?」
フィーラの声に応えるかのように、白金色の光が繋いだ手の先から徐々に闇を払拭していく。光に照らされ、細い腕が見え、次に体、顔と、少しずつステラの身体が現れて来た。
「ステラ様!」
ステラはフィーラの問いには答えない。目を閉じたままぐったりとしている。
ステラの姿がすべてあらわになると、ステラはその場にくずおれた。ステラの手を握るフィーラもつられて地面に膝を突く。
そのまま後ろに倒れそうになるステラを、すんでのところでフィーラが抱えこんだ。
「……ステラ様」
フィーラはステラの顔に残る涙の痕を見つめる。
たとえどれほどステラが道を踏み外したとしても、フィーラはこの少女を見捨てるわけにはいかないのだ。
この少女は数少ない同胞だ。
いつも何かを言いたげに、こちらを見つめてくる少女。手を伸ばしても、その手を握ることにさえ怯えていた少女。
ステラの気持ちを想うと、涙がこみ上げてくる。ひとつ、歯車が狂っていれば、もしかしたらフィーラとステラの立場は逆だったかもしれないのだ。
フィーラが今の立場にいられるのは、本当にただ幸運だっただけ。
「……あなたは一人ではありません」
フィーラはステラの細い身体を抱きしめた。
『フィーラ。身体は無事だが、この娘の心は闇に捕らわれた。助けに行くか?』
「ええ。もちろんです」
「フィーラ様! カナリヤ様と話していらっしゃるのですか⁉ 一体何を……」
「大丈夫です。必ず、ステラ様を連れて戻りますわ」
己を案ずるヘンドリックスに、フィーラはきっと戻ると微笑んで確約する。その言葉を受けたヘンドリックスが事態に気づいたが、制止する間もなく、フィーラの意識は闇へと飲まれていった。
すべてを思い出した。
ステラが本当に前世の記憶を思い出したのは、学園に入学する前ではない。もっと幼い頃だ。
前世のステラは仕事に悩んでいた。きつい仕事。人間関係の悩み。恋人の浮気とモラハラ。あの頃のステラはすべてに疲れていて、唯一の逃げ場が乙女ゲームだったのだ。
現実の恋人は絶対にかけてくれないような甘やかな言葉に心をほぐされ、こちらに向けられる微笑みに癒された。なかでも恋人の声に似ているモブキャラが、ステラは一番のお気に入りだった。
趣味という逃げ場があったことで、しばらくは仕事や生活の悩みにも対処出来ていた。けれどだんだんとそれも難しくなり、いつしかステラは自分ひとりの力では立ち上がれなくなっていたのだ。
だから、ステラはカウンセリングに通うことにした。
その診療所は職場から近く、ステラは仕事帰りによく通った。
最初は何カ所かに電話を入れて、どこへ通うか吟味していた。そこのクリニックにした決め手は、初めて予約を入れた際に対応してくれた受付の女性の声が、とても優しかったからだ。
聞いていると心が和んだ。とても美しい声で、聴く者の心を浄化してくれるような声だった。
実際にクリニックへ行き、受付に立ち優しく微笑むその女性に会ったことで、ステラはこのクリニックへ通う決心をした。もちろん、診察してくれた先生が素晴らしかったのは言うまでもない。
人、建物、すべてが柔らかい雰囲気を醸し出しているそのクリニックは、それほど時間のたたないうちに、前世のステラの避難場所となっていた。
事故が起きたのは、カウンセリングにも慣れた頃の帰りだった。仕事が忙しかった、ステラはいつも診断の最終時間に予約を入れていた。
その日もステラは最終の診察を受け、最終電車の一つ前の電車に乗るためにクリニックをあとにした。受付の女性もテキパキと片づけをしていたので、ステラが帰ってからほどなく、帰宅の途へつくだろう。
ステラは受付の女性が、帰りは大体が最終電車だが間に合えばステラと同じ電車で帰れるのだと言っていたことを思い出した。しばらく通ううちに親しく話すようになったのだ。
彼女は親の経営するクリニックの受付で働きながら、趣味で小説を書いていると言っていた。ステラはゲームが趣味だったのでそこまで話は合わなかったが、そんな他愛もない話ができることが、とても楽しく、嬉しかった。
クリニックを出て改札をくぐり、ホームに到着したが、仕事で疲れていたステラはホームの端に立ったままついうとうとしてしまった。ベンチに座って待っていれば良かったのに、寝過ごしてしまっては困るからと、ふらふらとしたままホームに立ってしまったのだ。
そんなステラの肩に、小さな衝撃が走った。誰かがステラにぶつかったのだ。
気づいた時には視界が反転し、ステラは線路に落ちてしまっていた。
線路に落ちた衝撃で、ステラは頭と腰を強く打ってしまったようだった。立ち上がろうとしても足に力が入らないのだ。
ステラは助けを求めたけれど、だれにも声は届かなかった。いつも、この路線のこの時間は電車を待つ人が少ないうえ、運の悪いことにその日は寝ている酔っ払いがほとんどだった。
誰もステラに気づかない。誰もステラに見向きもしない。
カウンセリングは順調だったが、ステラの傷ついた心は、まだ完全に癒されたわけではなかった。
絶望と恐怖でステラは叫んだ。誰か助けて、と。
泣き叫ぶステラの耳に、パタパタと微かな足音が聞こえた。ステラは顔をあげたが、すでに頭を打った影響で視界は悪く、さらには泣いていたことで、その人の姿を見ることが適わなかった。
何か言葉も駆けられたけれど、耳の中で声が反響し、何を言われているのかもわからなかった。
ただ、聞こえないなりにも、綺麗な声だなとは思った。その声と間近に差し出されたたおやかな白い腕の輪郭で、その人が女性だということだけはわかった。
その手を見た瞬間、ステラの心は救われた。身体は未だ鉛のように重く、線路に直接座り込んだ身体は冷えていたけれど、差し出された手に心の底から安堵し、心は温かくなった。
こうやって転生している以上、きっとステラはその時に死んだのだろう。だが、ステラの声は誰かに届いた。そのことがわかったとき、ステラの心は確かに救われたのだ。
ああ、私は見捨てられたわけではなかったのだと。
手を差し伸べてくれる人がいたのだと。
「あの手に似ていた……」
フィーラがステラに差し出した手は、あの時の手にそっくりだった。フィーラがあの時の女性と同一人物なわけはない。そう思う一方、なぜかステラには確信めいたものがあった。
あの時差し伸べられた手と、今差し伸べられた手は同じものだと。たとえ同じ人物ではなくとも、同じ優しさと勇気を持った手だと。そう思った。
だが、あの時ステラに手を差し伸べた女性は、あのあとどうしたのだろうか。間近に迫る電車の灯りが見えた時、ステラはすでにその人の手を掴んでいた。
「もしかして……あの人も巻き添えに……?」
もしそうだとしたら、ステラはその人を巻き添えに死んだことになる。それがもし、もしフィーラだったなら……。
「ああ……私、また同じことを……」
自分の運命に、フィーラを巻き込んでしまった。ステラが裏ルートなどを望んだせいで、フィーラの運命は変わってしまった。魔に憑かれて死ぬことがどういうことなのか、すでにステラは知っている。
ゲームと違い、現在のフィーラは精霊姫だ。同じ運命を辿るとは思えなかったが、絶対にないとは言い切れない。
「ダメ……それだけはダメ」
前世、絶望からステラを救ってくれた女性。最後まで、見放さなかった女性。それがもし、フィーラなら……。
「いいえ……。たとえフィーラじゃなかったとしても、二人は私に同じ優しさをくれた。同じように救おうとしてくれた。絶対に……今度こそ、絶対に失ったりしない」
しかしステラの想いを否定するかのような声が頭の中に鳴り響いた。
≪どうして? 別に失ってもいいじゃない。だってフィーラは邪魔でしょ?≫
「違う! 邪魔なんかじゃない!」
≪いいえ、邪魔よ。せっかく姫騎士の主人公ステラになれたのに、これじゃまるで、あっちが主人公じゃない≫
「違う……違う……違う!」
≪いいえ。違わない。自分の気持ちに素直になりなさい≫
「嫌、やめて……嫌!」
助けて、誰か助けて、と。気がつけばまた、ステラは誰かに助けを求めていた。
結局誰かに助けを求めるしか、ステラには出来ないのだろうか。そんな自分に心底嫌気がさしたが、それでもステラには諦めることが出来ない。誰かの手を借りてでも、自分と、そしてフィーラを助けたい。
「誰か……お願い……誰か」




