第179話 契約
「大丈夫かしら……」
ソファに寝転ぶディランの対面で、フィーラは白猫を膝に抱いて座っていた。
別室ではヘンドリックスたちが、大聖堂へとやってきたリディアスたちと対峙しているのだが、フィーラはいないほうが良いと言われてしまったためここで待機しているのだ。しかし、さきほどからあちらが気になってしまい仕方がない。
「君が心配することはない。あんな主張が受け入れられることはないさ」
ディランの言う通り、連判状を提出したからといって、その主張が通るとは限らない。むしろ無効になることのほうがほとんどだ。
しかも正式な交代の儀を済ませた精霊姫に対しての物言いだ。通常ならばその主張は跳ね返されるだけだ。
「でも、向こうにも精霊王がついているわ。精霊姫になる条件が精霊王をその身に降ろせることなら、もしかしたらステラ様にも、その資格はあるのかもしれないわ」
ステラが実際に精霊王を降ろせるかはわからない。けれど連判状などというものを出してくるのだから、出来ると想定しておいたほうがいい。
「精霊姫の条件ね……」
何か考え事をしているディランを見て、フィーラもあることに思い至る。
「あ……」
「何だ?」
――忘れていたわ……。もし精霊姫の選定をやり直すとしたら、筆頭騎士の選定もやり直すのかしら?
「……もし精霊姫の選定がやり直しになるとすれば……筆頭騎士の選定もやりなおすことになるのですか?」
精霊姫の交代とともに筆頭騎士も交代する。もしフィーラが精霊姫から降ろされるような事態になれば、今の筆頭騎士たちも選定のしなおしになる可能性は高い。
とはいえ、筆頭騎士はまだ正式には決まっていない段階だ。それでもディラン、カーティス、クリードにはすでに打診を終え了解を得ているし、近々エルザたち三人にも話をする予定だったのだ。
――そんな……わたくしだけならまだしも……これから筆頭騎士になるという方たちまで……。
「だろうな。まあ、まだ筆頭騎士は先代を据え置きのまま完全に決まっていないのだからやり直しという言い方はおかしいが。ただ、少なくとも俺はその時点で聖騎士を辞めるな」
「どうして⁉ ……わたくしが降ろされるのはわかりますが、あなたが聖騎士を辞める必要はありませんわ」
「俺だけじゃないと思うけどな。君はオリヴィアが指名した正式なオリヴィアの後継だ。その君を排除しての精霊姫の再選定など、これまでオリヴィアに仕えて来た者たちが納得するわけがない」
「でも……」
「そもそも、何度も言っているように君が精霊姫を降ろされるなんてことにはならない」
「……どうしてわかるのですか?」
「君は精霊王に選ばれた。それに、ティアベルト、フォルディオス、タッタリア……カラビナの王太子はわからないが、まあクリードがいるから大丈夫だろう。聖五か国のうち、四か国の次期王たちが君を支持している。いくら難癖をつけようと選定の結果を覆すことはかなり難しい」
「でも……そもそも精霊姫選定の基準があいまいな気がするのよね。わたくし自分でもちゃんと選定の末選ばれた気がしないのよ」
「今更何を言っているんだ……。精霊姫選定の基準なんか、最終的には精霊王の目に敵う。その一点だろう」
「そうなのですが……」
それはオリヴィアからも聞いた。精霊姫の役割は精霊王の器。それを知ってもなお、それだけで精霊姫が務まるとは到底思えない。
「精霊を統括する存在として精霊たちの意見ならある程度は参考にするだろうが、いくら人間がこちらの娘が良いと差し出したところで、精霊王が良しとしなければ何の意味もない」
「ですが精霊の意見は参考にするのでしょう? しかももう一人の自分の意見ならなおさらではない?」
「精霊王は精霊たちの王のような存在だ。王が臣下の意見を聞くことはあっても、最終的な判断は王自身が下す。それに向こう側の精霊王はステラ・マーチを精霊姫にしようとは思っていないと思うぞ」
それもオリヴィアが言っていたことだ。だが本人に確かめたわけではないのだから絶対とは言えないはずだ。
「本当に……そうなのでしょうか?」
「そうだろう。精霊王がステラ・マーチを精霊姫にすることを望んでいるのなら、もっとそれらしい動きをするはずだ。それにな、例え人間がどれほど望もうと、人間の願望を精霊王が叶えてやる義理などない。精霊王が人間に仕えているんじゃない。人間が精霊王に仕えているんだからな」
ディランの言い分は多少強引だが、間違ってはいない。精霊王は人間を護る存在だが、それは人間が精霊王に頼み実現していることなのだ。
――そうね。精霊王は万物を司る存在。わたくしたち人間に譲歩して味方になってくれているけれど、人間の思惑通りに動いてくれる都合の良い存在ではないわよね。わたくしがどう思おうと、カナリヤ様が白と言ったら、黒でも白と言うしかないのよね。それはあちら側も同じということかしら……?
フィーラが思案していると、急にディランが寝ていたソファから飛び起きた。
「ディラン……?」
「フィーラ。後ろへ」
ディランはすぐさまフィーラの前に立ち、フィーラを後ろに下がらせる。
一瞬の後、何もない空間に光が走り、そこにステラが現われた。突如現れたステラに、フィーラを背に隠したディランが剣を向ける。
「ステラ……様?」
そう呼びかけてはみたが、今のステラは明らかにいつものステラではない。亜麻色の長い髪は中空に漂い、足も床から離れている。
ステラが閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには虹色の虹彩が現われていた。
「あなた……!」
「フィーラ様!」
ステラのすぐ後を追うようにヘンドリックスとクリード、そしてカーティスがステラを囲むように現われた。
しかしステラはそんな三人には目もくれず、まっすぐにフィーラを見つめている。
『わたしの名を呼べ、娘』
「何を言って……あなたの名など……」
知らない。そう答えようとしたフィーラは、一瞬頭に浮かんだひとつの言葉を、そのまま口に出していた。
「……カナン……」
フィーラの声を聞いたステラは満足そうに微笑み、そしてその場に昏倒した。
「ステラ様!」
「駄目だ!」
フィーラはディランの背から飛び出し、ステラに駆け寄ろうとする。しかしすぐにディランに腕を掴まれ制止された。
倒れたステラはヘンドリックスによって支えられた。
「どうなっている。仲間割れか?」
ディランが現われた三人に問いただす。
「そう言ってもいいのか……? このお嬢さんに精霊王が降りたと思ったら、どうもリディアス殿下の思惑とは異なるらしい言動をとり出したんだ。そしたらいきなりこれだ」
「……フィーラ。今君はあいつの名を呼んだのか?」
ディランが振り返りフィーラに尋ねる。だがフィーラには答えるべき言葉を持っていない。なぜ自分があの精霊王の名を知っていたのか、なぜフィーラが自分でも知らなかった事実をあの精霊王は知っていたのかわからない。
「精霊王の名? あれはやはりカナリヤ様なのか?」
「団長。先ほども言っていましたが、団長にはあの精霊王がカナリヤ様に見えたんですか?」
「……いや、俺の勘違いかもしれん。ただ、最初に王宮で見たときと今の精霊王はまったくと言ってよいほどに別物だ。あの時は本体ではないとカナリヤ様も言っていたが、それでも受ける印象がこうも違うとは」
ヘンドリックスが己の腕の中で眠るステラの顔を不思議そうに眺める。今のステラの瞳は閉じられているが、さきほどは確かにその瞳に虹色の虹彩が現われていた。とすればカナリヤを降ろしたフィーラの瞳も同じなのだろうか。
「フィーラ。君は何か知っているのか?」
――わたくしが、何かを知っている? いえ、そんなはずは……。
そこまで考えたフィーラの脳裏に一瞬、虹色の虹彩の散った美しい青い瞳の幻影が浮かんだ。
――……待って。オリヴィア様と二人閉じ込められた時、あの時、あの場に他の誰かがいたかもしれないと、わたくしは思ったのではなかった?
「ディラン……。もしかしたら、わたくしも記憶に干渉されているのかもしれないわ」
蒼褪めるフィーラの言葉を受けたディランがフィーラの顔を両手でつかみ上向かせ、瞳を覗き込んできた。
「くそ……わからない」
「精霊王からの干渉では無理もない。フィーラ様、干渉されたのがいつのことかわかりますか?」
「……わたくしとオリヴィア様と二人、倒れたことがあったでしょう? あの時、わたくしとオリヴィア様は精神を繋いで、同じ空間にいたの。カナリヤ様が迎えに来てくれるまで、わたくしはずっとオリヴィア様と二人で過ごしていたと思っていたのだけれど、あの時あの空間から出る間際、わたくしは他に誰かがいたような気がしていたのよ。でも思い過ごしかと思って、そのままにしてしまったの」
「そのときか……」
ディランがフィーラの瞳を覗き込んだまま呟く。
「フィーラ様、カナリヤ様を呼べますか?」
「ええ……」
フィーラは瞼を閉じ心の中でカナリヤを呼ぶ。するとフィーラの身体の主導権はカナリヤに置き換わった。
「カナリヤ様」
『わかっている。ヘンドリックス。確かにフィーラは記憶に干渉を受けているな。おそらく……今の契約者との契約を切るために、フィーラに自らの名を付けさせたのだろう』
「名を?」
『名で精霊を縛ることはできないが、名を付け、それをその精霊が受け入れたなら、その精霊の本質に手を加えることができる。そうすればその精霊は契約時とは異なる個体だ』
「それでは……名をつけることで契約を解除することが出来るということですか?」
『結果的にはそうなるな。だが普通は名をつけることにそこまでの効力はない。あやつは元から己の分身に契約をさせていたのだろう。だが分身といえども己であることには変わりない。分身を元に戻したとき多少なりとも縛りができる。その縛りを失くすための名だろう』
「なぜフィーラに干渉が効いた。あんたの護りがあったはずだろう?」
『フィーラに施した護りは、フィーラに害なすものにしか反応しない』
「記憶への干渉は害にはならないと?」
ディランがフィーラに宿るカナリヤをねめつける。
『精神に及ぼす影響のことを言っているのなら、それはならない。仮にも精霊王の成す業だ。フィーラの精神にも身体にも大した負担にはならないだろう』
「名を付けた段階で自由の身となったなら、なぜ今回精霊王はここにあらわれたのでしょう?」
クリードがカナリヤに問う。
『名を付けた段階では、まだ分身を元に戻していなかったのだろう。先ほども言ったが、普通は名をつけただけではそこまでの効力を発揮しない。分身を元に戻したあと、名を付けた本人に己の名を呼ばせることで完全なる自由を手に入れようとしたのだろう。だがそれは名をつけた相手がフィーラだったから成せたことだ。フィーラはすでに私との契約を済ませている。そのフィーラに名を呼ばせることで名への影響を強めたのだろう』
「そもそも精霊王はなぜ契約をして、なぜ今になってそれを破棄しようと? まあ、契約自体は分身にさせていたということでしたが……」
『さあな。本人に聞かなければわからない。だが二つに分かれたとき、精霊王として存在したときの記憶を忘れたことと関係しているのかもしれないな』
「ほかの魔と同じく、精霊王としての記憶を失っていたと?」
『そうだ。あるいは興味をひいたと言うだけで、契約をしたのかもしれん。だが精霊は成長するものだ。その成長に伴い考えが変わることはあり得るだろう』
「では今はその記憶は? 思い出しているのですか?」
『何かのきっかけで記憶を取り戻すことはあるだろう。記憶は正確にいえば失ったのではなく封印されていたのだ』
「封印? 誰が……」
『誰でもない。自分自身でだ。とはいえ意識的に行うものではないからそこには個体差もでてくる。強く残る記憶を持っていれば、その記憶に関するものやことに出会ったときに、思い出すこともあるだろう』
「では……契約が切れたとして……あの精霊王はこれからどうするつもりなのでしょう?」
ヘンドリックスの問いに、精霊王が答える。だがその答えは思いもしないものだった。
『あの精霊王とひとつに戻る。元より世界に精霊王は一人だけ。それを違えたのが間違いだった』
「それは……」
「フィーラに影響はないのか?」
『ない』
「どうしてそう言える」
「おい、ディラン!」
カーティスがディランを宥めるが、精霊王には特に気にした様子は見られない。
『元より、私とあやつは同じ存在。もうひとりの私に過ぎないからだ』
「カナリヤ様……」
『ヘンドリックス。フィーラに害はないと約束しよう。あやつを私に戻す。精霊王とはすべての精霊を束ねる者。例外はない。あやつとて今度は抵抗しないだろう』
「……承知しました」
「フィーラの承諾は?」
『この会話は聞こえている。心配ない。この娘はお前たちよりよほど器がでかい。すべてを受け入れるだろうさ』
カナリヤが瞬きをする。するとフィーラの意識は表面に押し出された。
「フィーラ様?」
「……ヘンドリックス様」
「先ほどの話、お聞きになりましたか?」
「ええ……。カナリヤ様が決めたことなら、わたくしはそれで構わないわ」
カナリヤのおかげでフィーラはあの時のことをすでに思い出している。あの精霊王はフィーラとオリヴィアを閉じ込めたことも自らの意思ではないと言っていた。根っから悪い人とはどうにも思えないのだ。
「貴女様が受け入れるなら、俺たちもそれを受け入れましょう。さて。精霊王の脅威はすでに無くなった。あとは人の世の理で決着をつけるとしますか」




