第174話 決起
「ダートリー様!」
廊下を歩いていたクレメンスは、己を呼ぶ声に振り返る。振り向いた先にはここ最近友人になったばかりのサーシャがいた。
「……サーシャ嬢」
「ダートリー様……」
そういって己を呼ぶサーシャの声は、どこかしら気づかわし気に感じた。きっと何をどう話せばいいのか迷っているのだろう。
四日前、突然クレメンスの世界が変わった。否、変わったのではない。元に戻ったのだ。
記憶へ何らかの干渉を受けている。そのことに気づいたクレメンスは、授業中にも関わら
ず、急いでトーランドの元へと走った。
クレメンスの訪問を受けたトーランドは、自分も今しがた事態に気づいたばかりで、今精霊教会に確認をとっていると言い、研究室の中へとクレメンスをいざなった。
トーランドは精霊教会に対し、記憶へ何らかの干渉を受けた。そしてそれが自分ひとりではない旨を伝えた。
ずいぶんと待たされたのち精霊教会から伝えられた解答は、クレメンスの期待していたものではなかった。
トーランドを介し伝えられたその内容は、不特定多数の者が精霊により干渉を受けていたが、さきほどその干渉が解けた。まだ調査中の事柄であるため、他言無用。それだけだったらしい。
だがトーランドが言うには、これでも精霊教会にしてはかなり誠実に対応してくれたらしい。通常このような不測の事態が起これば、一介の精霊士になど仔細を教えてくれることなどありえないとのことだった。
それでも、と食い下がろうとしたクレメンスを、トーランドが引き留めた。すでに干渉は完全に解けている。あまりこの件に関しては深追いしない方がいいと言って。
納得はできなかった。クレメンスは干渉を受けていた間のことを覚えている。それゆえ、何を目的としてそれらが行われたのかということにも気が付いていた。
だが己の師でもあるトーランドにそう言われれば従うほかはない。クレメンスはトーランドの精霊士としての能力を信頼していたし、人としても信頼していた。そのトーランドが言うからには、ここは引いた方が良いのだろうと。
「……気にしなくていい。サーシャ嬢が話せないのも無理はない」
それからのクレメンスはフィーラとサーシャがいない以外は普通の日常を過ごした。
そして今日の朝、学園の生徒たちが聖堂へと集められた。全学年が聖堂へと集まることはあまりない。そこで知らされたのは、次代の精霊姫が決まったというものだった。
次代の精霊姫の名は、フィーラ・デル・メルディア。クレメンスの友人だ。そして、干渉を行うための目的になった人物でもある。
フィーラには、最後に学園の食堂でともに昼食を食べてから会えていなかった。
己と友人になって欲しいと、遠慮がちに申し出たフィーラ。フィーラが一体どのような想いであの言葉を口にしたのかを考えれば、クレメンスは己に対する怒りで目の前が暗くなるほどだ。
「……フィーラは元気にしているか?」
「ええ……。大丈夫。あの子は強いわ。本当、全然気にしてないのよ? ……あなたが気に病む方が、あの子にとっては堪えるわ」
それでも、この一件についてクレメンスが己を許すことはないだろう。何者による干渉かは知らないが、クレメンスにもっと精霊士としての能力があれば、防げたことかもしれないのだ。
「……俺にもっと、力があれば」
「いいえ。誰であろうと、今回のことは防げなかったわ。聖騎士だって、防げなかったのよ」
サーシャの言葉に、クレメンスは息を飲んだ。
聖騎士が契約する精霊は、精霊士が契約する上級精霊よりも格が上だ。なぜなら聖騎士が契約する精霊は、同じ上級精霊でも、直接精霊王から賜るものだからだ。
その聖騎士でさえも今回の干渉を防げなかったとなると、トーランドの深追いしない方が良いと言った言葉にも頷ける。
「……サーシャ嬢は、無事だったんだな」
干渉を受けていた間のサーシャの行動を思えば、その結論に至るほかはない。
「私は干渉が行われたときフィーラと一緒だったから無事だったのよ。次期精霊姫であるフィーラには、精霊王の護りがついているわ。……私は運が良かったの」
「……サーシャ嬢で良かった。フィーラはきっとサーシャ嬢を信頼している」
「……友人になってから、まだ日は浅いけどね」
クレメンスの言葉に照れ臭そうに視線を外すサーシャを見て、クレメンスはフィーラとサーシャ、食堂で笑い合っていた二人の姿を思い出す。
「……時間の問題じゃない。……フィーラを護ってくれてありがとう」
「そんなの……礼を言われるまでもないわ。私はこれからも、フィーラを護っていくわ。……絶対、大聖堂つきの精霊士になるんだから……」
最後の小さく囁かれた言葉を、クレメンスは聞き逃さなかった。もっと力が欲しいと望んでいるのは、自分だけではないのだ。
だからクレメンスはサーシャにある提案をした。
「……サーシャ嬢。俺と一緒に、トーランド先生に師事しないか。……きっと君の力になってくれる」
「ジークフリート」
己にからかけられた声に、下を向き呆けていたジークフリートははっとして顔をあげる。いつの間にかジークフリートの座る席の横にはロイドが立っていた。
「大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫だ」
フィーラが次の精霊姫だと学園の全生徒へ知らされたのが今日の朝。ジークフリートにとってはすでに承知のことだったはずのその事実は、しかし四日前まではジークフリートの頭の中からは消え去っていた。
その間に、披露目とまではいかなかったがジークフリートは立太子をすませ、すでに王太子となっていた。精霊姫交代の儀は五日後。その儀式に、ジークフリートは王太子として出席することになる。
「お前もようやく肩の荷が下りただろう」
ロイドがジークフリートの近くに腰を降ろし、背もたれに寄りかかる。
「……ああ」
「……交代の儀式にはお前も参加するんだろう?」
ロイドがジークフリートを見る視線が、気づかわし気なそれであることには気が付いていた。しかしあれ以来、ロイドはジークフリートに何も言ってこない。ジークフリートもロイドに何も言わない。どうしようもないことなのだと、お互いにわかっているからだ。
「ああ」
「あとで様子を教えてくれ」
精霊姫交代の儀には、たとえ家族であっても参加はできないのだ。理由は秘密の保持のためとされている。
「ああ」
「きっとフィーが精霊姫になった姿は美しいのだろうな。そう思うだろう?」
「ああ」
「……おい。本当に大丈夫か? さっきからああとしか言っていないぞ」
「……ロイド。父に婚約者を決めろと言われた」
ジークフリートの言葉に、ロイドがわずかに瞳を見開く。
ロイドもジークフリートもいまだ婚約者がいない。ジークフリートは第二王子であったし、ロイドも名のある公爵家の跡取りだ。三学年にもなって婚約者がいないのは珍しかった。
「……エドワード殿下には確か婚約者がいたな」
「彼女じゃない。彼女はそのまま兄上の婚約者でいることを望んだ」
「へえ……。それは……良かったな」
王妃と王子妃ではその将来性や身分に天と地ほどの差ができる。もし兄の婚約者から申し立てがあれば、そのままジークフリートとの婚約になっていたことだろう。
「そうだな。兄上と彼女は仲が良かった。身分ではなく兄個人を選んでくれたことには弟として感謝している」
「では、相手は?」
「数人が候補に挙がっている。そう遠くないうちに決めなければならないだろうな」
第二王子の身分のままであったなら、まだ色々と逃げる方法はあった。兄の子が出来るまで。子が出来たら第二子が出来るまで。そう言って先延ばしにする予定だったのだ。
「それで沈んでたのか? まあ、面倒くさいのはわかるが……」
「……」
黙り込むジークフリートに、ロイドが意外な提案をして来た。
「……精霊姫は結婚が出来ないわけじゃない。王妃と精霊姫をかけ持った事例もある。……僕はお前にならフィーを預けてもいいと思っているぞ」
ロイドの発言に、ジークフリートは驚く。ジークフリートでさえフィーラへの気持ちを自覚したのは最近のことだというのに、まさかロイドに知られているとは思わなかった。だが……。
「……私がこれまでずっと王太子として生きて来たのなら、それでもどうにかなったかもしれない。だが、私は兄に代わり王太子になったんだ。公私ともに傍で支えてくれる人は必要だ。……私はそこまで優秀でも強くもない」
「まあ……お前のことは優秀だとは思っているが、確かにお前一人ですべてをこなすのはさすがにきついだろう。……余計なことを言ったな」
ロイドが悪いわけではない。すべてはジークフリートの弱さが悪いのだ。何をおいても、何を犠牲にしてもフィーラを望む勇気が、ジークフリートにはないだけだ。
「……これからはフィーラ嬢とも気軽には会えなくなるな。だが、それで良かったのかもしれない」
ジークフリートの囁きに、ロイドは何も言葉を返さなかった。
大聖堂に仕える侍女たちに髪を結われている間、フィーラはあれやこれやと考えていた。
――なんだか……実感が湧かないままにここまできてしまったわ……。皆驚いたでしょうね。
今日は学園の生徒たちに次の精霊姫が決まったと知らされる日だ。
こんなに早く、しかも選ばれたのがフィーラだということで、きっと学園が大騒ぎになっているのではあるまいか。
フィーラは学園で倒れてからこれまで、一度も学園に戻っていない。ゆえに、学園の生徒たちの様子は何も知らなかった。
フィーラとの付き合いが浅い者ほど、干渉されていた時のことを覚えていない。ならば学園のほとんどの生徒はそれに当てはまるだろう。だが、一部の生徒たちはその限りではない。
フィーラの脳裏に友人たちの姿が浮かんだ。テッドやエリオット、ジルベルトやクレメンス。今頃彼らは今回の事態をどう思っているのだろうか。クレメンスにはサーシャが伝えてくれると言っていたし、テッドたちはこれから聖騎士になるのだから、全部ではないにしてもすぐに知らされることになるだろう。
支度が整ったフィーラに、別の侍女から声がかかる。
「フィーラ様、お仕度が終わりましたら、オリヴィア様がお待ちです」
侍女からの伝言にフィーラは頷く。
「ありがとうございます。すぐに伺いますわ」
フィーラは侍女に付き添われ、オリヴィアの待つ部屋へと向かう。扉の前に立つ騎士に声をかけ中へと入ると、そこにはオリヴィアと二人の精霊士がソファに座り待っていた。そしてオリヴィアの横にはいつも通りヘンドリックスが立っている。
どうやら常にオリヴィアの傍にいるのはヘンドリックスのみで、ほかの筆頭騎士たちは付かず離れず大聖堂内部にいるようだ。ヘンドリックスが傍を離れる必要が出来たときには、別の筆頭騎士がオリヴィアの警護をしている。フィーラもすでに数人の筆頭騎士とは顔見知りになっていた。
フィーラはソファに座る二人の精霊士を見て、その片方の人物に目が吸い寄せられた。灰色の真っすぐな長い髪には見覚えがあった。
――あ……。あの方、精霊姫選定の最高責任者……。
フィーラが祈りの場で迷惑をかけてしまった精霊士だ。
――うう。わたくしが次の精霊姫だなんて、さぞ納得がいかないでしょうね……。顔を合わせづらいわ……。
「フィーラちゃん、こっちこっち」
フィーラの姿を確認したオリヴィアが嬉しそうに手招きをするなか、フィーラはおずおずとオリヴィアの隣に腰を降ろした。
「フィーラちゃん。こちらはマテオ・ローグ副精教司。トーランドさんのお父様よ」
「え⁉ トーランド先生の⁉」
――そう言われてみれば……似ているわ。
マテオは黒髪に、黒に近い灰色の瞳をしている。その黒髪には白いものが混じり始めており、トーランドが年を取ったならこのようになる、そう思える容貌だ。
「マテオ様。ご子息……トーランド先生には大変お世話になりました」
「おや……愚息がお役に立てたのなら光栄です」
笑うマテオの顔は、ますますトーランドに似ている。
「そしてこちらは……」
「レイザン・ノトンと申します。フィーラ様」
オリヴィアからの視線を受けて、レイザンがフィーラに頭を下げた。
「ええ。存じておりますわ。ノトン様。その節はご迷惑をおかけしました」
そしてフィーラも同じようにレイザンに対し頭を下げる。
「……私も少々狭量でした。気の短さに気を付けろと、師にはよく窘められていたのですが」
そう言ってレイザンが隣に座るマテオを盗み見る。どうやらレイザンの師とはマテオのことらしい。
「まあ……。ですがわたくしが遅れたのは本当のことですもの。やっぱりわたくしが悪いのです」
「いえ……私が」
「まあまあ二人とも。フィーラちゃんが遅れて行ったのはもとはと言えば私のせいだもの。ごめんなさいね?」
オリヴィアから謝罪にフィーラもレイザンも口を噤む。オリヴィアに謝られてしまえばこれ以上自分の非を主張するわけにもいかない。
「ふふ。気が合うようで良かった。フィーラ様。レイザンはこれからあなた付きの精霊士になる予定です。仲良くしてやってください」
「ノトン様が⁉」
フィーラは驚き、レイザンの顔を眺める。
「……あの、ノトン様はよろしいのですか?」
「誠心誠意、努めさせていただきます」
レイザンの表情からは、無理をしている様子は伺えない。フィーラは嬉しくなりレイザンに向かって今度は先ほどよりも深く頭を下げた。
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「お互い挨拶も済んだことだし、本題に入りましょうか」
オリヴィアの言葉にフィーラは姿勢を正す。
「本題……ですか?」
「ええ。以前フィーラちゃんに精霊教会の立て直しをしようと思っていると、言ったでしょう?」
「はい……」
「本当は交代の儀式までに済ませたかったのだけど……これほど急では間に合わないわ。精霊教会の立て直しは、フィーラちゃんが精霊姫になってからになるわね」
「……はい!」
ここまでオリヴィアはフィーラのために手を尽くしてくれたのだ。それくらいやらなければ罰が当たると言うものだ。
「まあ、それでもあとは引導を渡すだけの状態にまでは来ているのよ」
「ええ……!」
――せっかく覚悟を決めたのに……。いえ……さすがオリヴィア様。わたくしとしてはとてもありがたいわ……。
「フィーラちゃん……。今の精教司の名はルディウス・フェスタ。マークス・フェスタの父親よ」
「マークス先生の……」
「ルディウスには精教司の座を降りてもらうわ。そして次の精教司が……」
オリヴィアの視線の先にはマテオがいる。フィーラは事態を把握して息を飲んだ。
――ルディウス・フェスタ……フェスタ家は精霊士の家系……そして……。
フィーラは穏やかに微笑むマテオを見つめる。
――マテオ・ローグ。ローグ家は……フェスタ家の分家だわ。
オリヴィアは本家を分家が追い落とす、そう言っているのだ。
何も言わないフィーラに、三人の視線が突き刺さる。
この世界において、身分は蔑ろにしてよいものではない。ソーン家の寄り子であるカダット家のミミアが、寄り親であるソーン家のニコラスの言うことに逆らえなかったように、ましてや分家が本家を追い落とすなど、通常では考えられないことだろう。だが……。
――……まあ、下剋上という言葉がある国で生きていたのだものね。
「……わたくしはオリヴィア様を信じております。それがこれからの精霊教会に必要なことならば、わたくしに否やはございません」
「……そう言ってくれると思っていたわ。……今日は二人を紹介したけれど……四人揃っての行動は今後は控えましょう。詳細はまた随時……」
オリヴィアの言葉にフィーラは静かに頷く。
これからそう遠くない未来に起こるであろうことは、前世も今世も平穏、平凡と生きて来たフィーラにとっては大事件ともいえるべきものだが、オリヴィアがいてくれると思うだけで、力が湧いてくるから不思議だ。
決意に身を震わすフィーラに、オリヴィアが微笑む。
「まずは、交代の儀式を成功させましょう」




