第167話 反転した世界13
「ん……」
フィーラの口からくぐもった声が漏れる。
今は何時なのだろうか。早朝にしてはずいぶんと日が高い。瞼を閉じていても、太陽から降り注ぐ陽光の暖かさを感じる。
フィーラは軽く硬直していたらしい四肢の筋肉を伸ばすために身動ぎをした。
「あら? 気が付いた?」
傍に誰かがいるとは思っていなかったフィーラはあわてて体を起こす。
「ああ、そんなに急に動かない方がいいわ」
目の前には、チョコレート色の髪に深い緑色の瞳をした学園の制服姿の少女がいた。はじめて会うはずなのにどこか親近感を覚える少女だ。
しかし、この少女のことは気になるが、現状を把握することが先だ。
「えっと……ここは?」
周囲を見渡すとどうやらここは学園のようだった。フィーラは学園にある聖堂で眠っていたようだ。だが、どこかフィーラの知っている聖堂とは違うような気がした。
「私たち、どうやら閉じ込められちゃったようね」
少女はフィーラと目が合うと、まるで戸惑うフィーラを安心させようとするかのように笑った。
「えっと……閉じ込められたとは、一体どこに? わたくし食堂からの帰りに力を貸してほしいという誰かの声を聞いて……それから……」
――そうよ。わたくし倒れたのだわ。
「フィーラちゃんの聞いた声はきっとカナリヤの声ね」
少女が発した言葉に、フィーラは目を見開く。
「……もしかして、オリヴィア様?」
「ふふ。そうよ」
「お姿が……」
「今の私はあなたと同じ年くらいの年齢の姿をとっているの。もう何十年も昔の姿よ。若作りしているようでちょっと恥ずかしいわね」
頬に手を当て、オリヴィアが照れたように微笑む。
「……オリヴィア様は姿を自在に変えられるのですか?」
「まさかぁ! 姿を変えられるのはここが現実の世界じゃないからよ」
「現実では……ない? え? ではここは……」
「まあ、心の中、というか精神世界、といったところかしら?」
「心の中……?」
「ええ。本来なら、私もフィーラちゃんも別々にそれぞれの精神の中に閉じ込められるはずだったのだけれど、きっとカナリヤが二人の精神を繋げてくれたのね。ここは私が通っていた当時の学園だわ」
――どうりで……四十年近く前なら今と多少の変化はあるわよね。
「あのお声……精霊王様のお声だったのですね」
男とも女ともつかない、威厳に満ちた澄んだ声だった。
「それにしても、相手も本気ね。いくら油断していたとしてもカナリヤの力を掻い潜るなんて……」
「どうやったら出られるのでしょうか?」
「うーん。何かきっかけがあれば……あっ」
オリヴィアは何かを思いついたように、目を見開き、そしてにやりと口の端をあげて笑った。
「王子様のキスとか?」
「キ……!」
「でも私には夫がいるけれど、フィーラちゃんはねぇ? 婚約破棄しちゃったんだっけ?」
小首をかしげて笑うオリヴィアは大層可愛らしい。だがいつもより若干意地悪だ。姿に応じて精神も若返っているのだろうか。
「破棄ではありませんわ! 白紙に戻したのです!」
「ふふふ。ごめんなさい、冗談よ」
「オリヴィア様……わたくしが傷ついていたらどうするおつもりだったのです?」
「傷ついてはいないでしょう? でもちょっと無神経だったわ、ごめんなさい」
オリヴィアが可愛らしく両手を顔の前で重ねる。フィーラにとってはとても懐かしい仕草だ。
「もうっ!」
「ふふ。まあ、とりあえず、また作戦会議かしら? ちょうど良かったわ。精霊姫の引継ぎの儀式についてフィーラちゃんに話しておきたかったし。お互いにこの五日間の報告もしましょう」
「はい」
大聖堂の長椅子に隣り合って座りながら、フィーラは五日間の出来事やこれまでに気づいたことなどをオリヴィアに報告した。もちろん、ハリスに求婚されたことは内緒だ。
「うーん。ステラちゃんの様子がおかしい、ね」
「あとはサーシャに聞いたのですが、どうやらウォルク様もあちら側だったらしいのです」
「……そう。なんとなく、そうじゃないかなとは思っていたのよね」
瞼を伏せるオリヴィアは、どことなく悲しそうだ。
――当然よね。オリヴィア様にとっては甥だもの。何でもないように見せていたけど、サーシャも辛そうだったわ……。
「ウォルク様が言うには、幼い頃からステラ様が精霊姫になるのを待っていたと言ったそうなのです。ステラ様にとても思い入れがおありなのね……」
――リディアス殿下もステラ様のことが好きだと言っていたわ。殿下もウォルク様もステラ様のために動いているのかしら……。
そのことを伝えようとしてオリヴィアの顔を見たフィーラは、眼を見開いた。オリヴィアの顔が蒼白になっていたのだ。ここは精神世界であるはずなのに、オリヴィアの顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだ。
「……そういうことだったの……。何てことなの、すべての原因は私にあったんじゃない」
オリヴィアが両手で顔を覆う。
「オリヴィア様! どうされたのですか⁉」
驚いたフィーラは俯くオリヴィアの両肩をつかむ。
「ああ、フィーラちゃん。私のせいなのよ」
顔を上げたオリヴィアが、涙目でフィーラを見つめる。
「オリヴィア様、一体何のことですか?」
「……まだサーシャが幼い頃、この世界のことを神々の世界の物語として話したと言ったわよね?」
「はい」
「そのことを知っているのはサーシャだけなのよ……。ほかには誰にも話していないの……」
「え……え、と……。ですが、それではウォルク様の……」
――幼い頃からステラ様が精霊姫になるのを待っていたと言う言葉は……。
「その話は密室でしていたわけじゃないの……。近づこうと思えば、誰でも近づける場所だったわ。……きっと聴かれていたのよ、その話をウォルクに……いいえ。もしかしたら、リディアス殿下にも……」
「殿下にも……?」
「サーシャとウォルク、リディアス殿下の三人は幼馴染と言ってもいいわ。幼い頃、三人はこの大聖堂で何度か出会っているの。サーシャとウォルクは私の親族として、リディアス殿下は私の生国の王子として、何度も大聖堂を訪れているわ」
精霊姫を出した国は、その精霊姫が在任中は大聖堂との結びつきがどうしても強くなる。表向きは公平を期すとは言っているが、多少の違いは現れてくるだろう。
「リディアス殿下にウォルク……。この二人が何故ステラちゃんの味方をしているかの理由がようやくわかったわ。私の話した物語を聞いていたから、ステラちゃんがこの世界の主人公だと知っていたからよ」
「それは……」
「そして、もしかしたら表ルートと裏ルートの話まで聞いていたのかもしれないわね」
「裏ルートでは、モブキャラたちにも光が当たると……」
「そう。表ルートで進んだ場合、リディアス殿下は王太子を降ろされるの」
「えっ? ど、どうしてですか?」
「……リディアス殿下は、実の父親から愛されていないわ。表ルートの場合、そんな父親の策略にあい殿下は王太子を降ろされる。でも裏ルートでは、父親の策略がバレ、殿下はそのまま王となる」
「……ウォルク様は?」
「ウォルクの場合は、表ルートでは好きな女性と添うことが出来ずに別の女性と結婚するわ。けれど、裏ルートではその好きな女性と添い遂げられるの」
「それでは……ウォルク様はもしかして、その好きな女性と添うために……」
「さあ、どうかしら? ゲームでのウォルクの好きな女性ってステラちゃんのことだもの」
「えっ?」
「表ルートではウォルクは攻略対象じゃないから、どうやってもステラちゃんには選ばれない。でも裏ルートなら攻略対象になるから可能性はあるってことね」
「……なるほど!」
「というよりもフィーラちゃん。……攻略対象が誰か知っちゃったのね」
困ったようにオリヴィアが笑う。
「あ……はい。サーシャに気を付けるべき十四人の名前を聞きまして」
「ああ……それは。驚いたでしょ?」
「はい……。ですが、納得するところも大いにありました。ステラ様は、うちの兄も、サミュエル殿下のことも最初から知っているようでしたし」
「実はステラちゃんのことなんだけど、ディランからも報告があったのよね。どうやらステラちゃん自身も記憶を変えられているんじゃないかって」
「ステラ様が……。でもそれならステラ様が急におかしくなったことにも納得が出来ますわ」
「ええ、まだはっきりと決まったわけじゃないけれど……あの子が言うのならきっとそうなのでしょうね」
「でも、リディアス殿下もウォルク様も、ステラ様のことを大切に思っているのではないのでしょうか? そんな人の記憶を操るなんて……」
「人はわからないわよ、フィーラちゃん、その人のことを大切に想っていても、利益のために感情を切り離せる人もいるわ。もし、操ることがステラちゃんのためと思っているのだとしたら、それを大義名分にしている可能性もあるわね」
「そう、ですわね……」
確かに人はわからない。人は自らの気持ちすら、読み間違うときがあるのだ、ましてや他人の気持ちなどわかるわけがない。
「……話し合いがちょっと難航していたのだけれど……ここから出たらすぐに聖五か国の王たちに招集をかけるわ。フィーラちゃん、あなたにはそのとき一緒にその場にいてもらうわ」
「わたくしも……」
フィーラはごくりと唾を飲み込む。聖五か国の王たちすべてが揃う席で、フィーラは次代の精霊姫として紹介されるのだ。
「ここまでの経緯を正直に話すわけにはいかないけれど、話の進行は私がするから、フィーラちゃんはいつも以上に気高く、美しく、その場にいて頂戴」
「え……と。そのご要望に応えられるかははなはだ疑問が……」
「大丈夫よ! メイクも衣装もこちらで用意するわ!」
「お……お願い致します」
どのみちフィーラにはただその場にいることしかできないだろう。ならオリヴィアにすべてを任せるほかはない。
――……あら?
フィーラはふと隣に座り意気込むオリヴィアを注視した。先ほどよりもオリヴィアの身体が遠くにあるような気がしたためだ。
「……オリヴィア様? なんか……ちょっと遠ざかっておりませんこと?」
「え? あら? 本当……」
フィーラの指摘に自らの身体とその周りをきょろきょろと見渡すオリヴィア。次の瞬間、長椅子の横幅が急激に増した。
「え? え? オリヴィア様?」
あっと思う間に、急速に遠ざかっていくオリヴィアの姿を、フィーラは茫然として見送る。まるでフィーラとオリヴィアの間の空間が引き延ばされたかのような妙な感覚だった。
「……嘘」
すでにフィーラの周囲にオリヴィアの気配はない。完全にどこかへと消えてしまった。少なくとも、フィーラの目に見える範囲に、オリヴィアの姿はない。それどころか、聖堂は消えさり、今はただ白い空間が広がっているだけだ。
「……オリヴィア様! オリヴィア様!」
フィーラは誰もいなくなった空間に叫ぶが、オリヴィアはおろか誰からの返事もない。
「そんな……どうして。まさか、これも相手側が?」
フィーラは当たりを見まわしたが、どこまでいっても白い空間が広がるだけだ。
「どうしましょう……。せっかく精霊王様がわたくしとオリヴィア様の精神を繋げてくれたのに……」
――オリヴィア様はわたくしから遠ざかったように見えたわ。……ひとまず、オリヴィア様が消えて行った方向へ歩いてみましょうか?
しかし一歩、足を踏み出そうとしたフィーラにどこからか制止の声がかかった。
『無暗に歩き回るな。二度と出られなくなるぞ』
聞こえて来たのは少し高めの男性の声。どこかで聞いたことのあるような声だ。
当たりを見まわすと、いつのまにか背中にかかるほどの黒髪に青い瞳の騎士服を着た青年がそばに立っていた。これまたどこかで見たことのあるような青年だ。
「……あの、どなたですか?」
『わたしだ』
「え? 精霊王様?」
声は違うがこの空間にいるということは精霊王以外には考えられなかった。
『……姿が違うからわからないのか?』
そういうと青年は瞬く間にサルディナの姿に変わった。
「……まさか、あなた」
『また会ったな』
フィーラはサルディナから一歩後ずさる。おそらくこの魔――もう一人の精霊王はこの空間に閉じ込めた張本人だ。ならば自在に出入りできても不思議ではない。その考えにまったく思い至らなかったことが悔やまれる。
悔し紛れにフィーラは魔に向かって声を荒げた。
「……また会ったな、じゃありませんわよ! あなたがここへ閉じ込めたのでしょう? オリヴィア様を引き離したのもあなたね!」
『あの女がいては話が出来ない』
「あなたとする話などないわ!」
『つれないことを言うな。この世界から出してやろうと思っていたのに』
そういうと魔はサルディナの姿から元の青年の姿に戻った。
「どうして? あなたが閉じ込めたのに……」
『わたしの意思ではない』
「え?」
『わたしと契約した者の意思だ』
魔の言葉を聞き、フィーラはステラの顔を思い浮かべる。ステラが、オリヴィアとフィーラをこの世界に閉じ込めることを望んだのだろうか。
「それは誰のことですか……?」
『言えないな』
「む……。ではあなたはなぜその方と契約をしたのです」
『望みが叶えられると思ったからだ』
「望み……? どのような望みを?」
『本来のわたしに戻ることか?』
「なぜ疑問形なのですか……」
『わたし自身、わたしの望みをよくわかってはいなかった。わたしも契約した当初はまだ記憶が完全には戻っていなかったからな。契約したのはただの暇つぶしだった』
「……ちょっと待って。記憶が戻っていないって、どういうこと?」
『もう知っているのだろう? わたしが元はお前たちの傍にいる精霊王と同じ存在だったと言うことを』
「……ええ」
『二つに分かれる時、わたしの精霊王だったときの記憶は封印された』
「それは……なぜですか?」
『あちらは精霊。こちらは魔を総べる王だ。同じ意識のままでは二つに分かれる意味はない』
「そ……う、なのですか?」
――わたくしにはよくわからないわね……。
『だがその封印された記憶も、お前に会うたびに徐々に取り戻すことが出来た』
「わたくしに……? それはなぜ……」
『取引をしよう』
フィーラの疑問をはぐらかすかのように、魔が取引を持ちかける。
「……取引?」
『わたしの言うことをひとつ聞けば、お前たちをここから出してやる』




