第164話 反転した世界10
『すまない、オリヴィア。……しくじった』
「え? カナリ……ヤ」
着替えをしていたオリヴィアが目を見開き、その場に昏倒した。
オリヴィアが倒れるのを間近で見た侍女が悲鳴をあげた時には、すでに部屋の中には、十人の筆頭騎士が揃っていた。
「オリヴィア様!」
倒れたオリヴィアに、ヘンドリックスが駆け寄る。助け起こしたオリヴィアの身体は暖かく、精霊を介して確認したところ、外傷もない。
「お身体に変調があったのか?」
濃い茶色の髪に、灰色の目をした老年の聖騎士がヘンドリックスに確認をとる。
ヘンドリックスはオリヴィアによって正気に戻された。そしてほかの筆頭騎士たちも同じくオリヴィアと精霊王によって正気へと戻されていた。
もとよりヘンドリックス以外の筆頭騎士たちはフィーラとの関わりはほぼないと言っても良かったが、それでもどこまで記憶への干渉が及んでいるのかがわからなかったため、すぐさま正気に戻す作業に取り掛かられたのだ。
しかしその作業を行うのもオリヴィアの体力を消耗する。現在大聖堂で正気に戻っているのは、筆頭騎士以外ではクリードとカーティスくらいだ。
「わからん。俺の精霊は精査を得意とはしていない。……ひとまずクリードをここへ」
『娘』
――え? 何?
突然聞こえてきた声に、フィーラはきょろきょろとあたりを見回す。
『力を貸してくれ』
懇願するようなその声を聞いた途端、フィーラの意識はそこで途切れた。
夜、サーシャとフィーラはエルザと食堂で食事を取っていた。
食堂は基本朝から夜まで開かれている。各寮にも食堂はついているため、朝食と夕食は寮でとる者も多い。
しかし寮はクラスごとに分かれているため、寮の違うエルザと食事をするには、学舎の食堂を使わなければならなかった。申請すれば各寮の行き来は可能だったが一番手っ取り早いのは学園の食堂を使用することだったからだ。
食事を終えた三人はそれぞれの寮へと向かい歩いていた。エルザは騎士科の生徒だったが、女性は一人だったため今は普通科の深嵩寮に入っている。
深嵩寮はサーシャが入っている清河寮やフィーラが入っている光星寮よりも学舎から遠い。エルザだけ二人と別れて歩き出したところで、サーシャと一緒に歩いていたフィーラがなぜか突然足を止め、周囲をきょろきょろと見回しはじめた。
「フィーラ?」
誰か知り合いの声でも聞きつけたのだろうか。最初はそう思ったが、フィーラの顔を見て、それは違うとサーシャは気づく。フィーラの顔には、はっきりと困惑の色が浮かんでいたからだ。
サーシャがそんなフィーラの様子を訝しみ、肩に手をかけようとしたところで、フィーラの身体が傾いた。
「フィーラ!」
気を失ったのだ――。そう思い、すぐに両手を差し出したが、サーシャより背の高いフィーラをサーシャ一人で支えることは到底無理なこと。
サーシャはすぐにフィーラを抱えきれなくなり、一緒に身体を傾かせるが、せめてフィーラの頭だけは護ろうと、フィーラの頭を己の胸に抱え込んだ。
地面に打ち付けられることを覚悟したサーシャだったが、すぐにサーシャの悲鳴を聞いたエルザが駆け付けてフィーラの身体を一緒に抱き留めたため、フィーラもろともサーシャが倒れることはなかった。
「サーシャ! 大丈夫! フィーラはどうしたの!」
「わからないわ……急に倒れて……」
フィーラの様子を確認しようとしたサーシャは、こちらにかけてくる二人の人物に気が付いた。
一人はすぐにわかった。大国ティアベルトの王太子サミュエルだ。そして一緒にいるのはコア家の子息、攻略対象でもあるジルベルトの姿だった。
「サミュエル殿下……」
「何があった⁉」
サミュエルがサーシャにフィーラの無事を確認する。この王太子が声を荒げるのは珍しい。未だ正気には戻っていないはずだが、あきらかにフィーラを心配した様子だ。
その声に、あわててサーシャはフィーラの様子を確認した。
「わかりません。私が駆け付けたのは倒れた後です」
エルザが端的にサミュエルに答える。
「フィーラ! フィーラ!」
サーシャはフィーラの顔を覗き込み声をかけるが、フィーラはピクリとも反応しない。
「体調が悪かったのか?」
サミュエルがフィーラの顔を見つめたまま、サーシャとエルザに確認をとる。
「いいえ……。そのような様子は見られませんでした。ですが、いきなり足を止めたと思ったら、周囲を見渡して……。そしてそのまま倒れたんです」
サーシャにも訳がわからない。ただ、突然体調が悪化することはある。もしかしたら、サーシャが気づかなかっただけで、フィーラの身体のどこかに不調があったのかもしれない。
それにここ数日の精神的な負担は相当のものだったはずだ。そのことにも原因はあるかもしれなかったが、まさかそのことを話すわけにもいかなかった。
あるいは敵の攻撃ということもあり得る。今までは何もなかったがここへきて何らかの攻撃が仕掛けられたとしても不思議ではない。
しかし、正気に戻っていない二人にそれを言ったところで意味はないのだ。
「このまま医務室へ連れていく」
サミュエルがエルザからフィーラを奪い、抱えて持ち上げる。
「殿下、俺が……」
ジルベルトが名乗り出たが、サミュエルはそれを拒否した。
「構わん」
フィーラを抱きかかえたまま、医務室へと向かうサミュエルのあとを、サーシャとエルザが追いかけた。
「メリンダ先生! おられますか⁉」
医務室の扉を開き、ジルベルトがメリンダに声をかける。開いた扉の向こうにはメリンダ以外の人物がいた。その姿を認めたサーシャは驚きに眼を瞠った。
「ああ、悪いけど今は……サーシャお嬢ちゃん⁉」
サーシャの姿を認めたメリンダが驚きの声をあげ、
「メリンダさん……クリード……」
次いでサーシャの視線を追い、サミュエルに抱かれた意識のないフィーラを確認したメリンダは息をつめた。
「その子は……精霊姫候補だね。どうしたんだい?」
「分からない。急に倒れた」
「あんた……ティアベルトの王太子殿下かい。……悪いが、今その子を見ている余裕はないんだ。すぐに大聖堂に戻らないと。その子は他の医師が……」
「いえ、待ってくださいメリンダさん」
メリンダの言葉を制止したのは、一緒にいたクリードだ。
「クリード? あたしも心苦しいが、あちらが優先だ」
「待て。精霊姫に何かあったのか?」
サミュエルがクリードとメリンダの会話を聞きつけ、二人に疑問を投げかける。
「悪いね、王太子殿下。いくら王族といえども言えないことはある」
「何を今更。聖騎士が非公式にこの場にいる時点で、非常事態が起こったと言っているようなものだ。それに先ほどあなたは大聖堂に戻ると言っていた。精霊姫候補が意識を失いこの場にいるというのにだ。精霊姫候補より優先される存在など、精霊姫以外にはいない」
「さすが、ティアベルトの王太子殿下ですね。その通りです。大聖堂にて、精霊姫であるオリヴィア様がお倒れになられました」
クリードの言葉に、全員が息を飲むのがわかった。サーシャも伯母であるオリヴィアの身を案じ、口元を手で覆い隠す。そうでもしないとサミュエルたちがいることも忘れてクリードとメリンダを追求してしまいそうだった。
「ちょっと! クリード!」
「大丈夫ですよ、メリンダさん」
クリードがサミュエルの腕の中で眠っているフィーラに近寄り、手をかざす。
「おい。何をしている」
サミュエルがフィーラを抱えたまま後ろに下がり、同時にジルベルトがサミュエルとフィーラの前に身を乗り出す。
「このお方も大聖堂へと連れていきます」
クリードの言葉に、サミュエルの眉が顰められた。
「このお方……?」
「何だって⁉ 指示もなくそんなこと……!」
気色ばむメリンダに、振り返ったクリードが告げる。
「指示など必要ありません。このお方の無事は、オリヴィア様の次に最優先事項です」
驚きにクリードの顔をしばらく見つめていたメリンダは、すぐに何かに気が付いたように目を見開いた。
「……そんな。まさか、今の段階でもう決まったのかい? しかもその子は、噂の令嬢じゃないか」
クリードの言葉を受け、メリンダが大きく目を見開いたまま、愕然とした様子でつぶやく。メリンダもいまだに正気には戻っていないのだ。
「クリード……正気に戻ったのね?」
今まで黙っていたサーシャだったが、クリードの様子を見て、こらえきれずに声をかけた。
「サーシャ様。その節はご迷惑をおかけしました。あのあとすぐにオリヴィア様に助けていただきまして」
クリードがサーシャに向かって頭を下げる。
「様はやめてっていつも言っているじゃない、クリード」
「申し訳ありません。もう癖でして」
「サーシャ、君は聖騎士と知り合いなの?」
エルザがサーシャとクリードとの会話の様子を見て驚いている。サーシャは表向きただの精霊士候補だ。聖騎士と親し気に話すサーシャを見て、エルザが驚くのも無理はない。
「……ええちょっとね。でも今はフィーラのことが優先よ。精霊姫が倒れ、同時にフィーラが倒れたとなると、これはかなりの非常事態よ。クリードの言う通り、すぐにフィーラも大聖堂へと連れて行った方がいい。……今のこの状況じゃあ、大聖堂も安全かどうかはわからないけれど、ここよりはましよ」
「では、メリンダさん、サーシャ様。私の近くに」
サーシャとメリンダがクリードのそばに来る。
「クリード、エルザもお願い。彼女はフィーラの味方よ」
「私? いいの?」
「いいのよ。今は信頼できる人間に近くにいて欲しい」
サーシャに促され、エルザがクリードに近づく。
「おい。俺たちも連れていけ」
サミュエルがクリードを見据え、命令をする。だが、聖騎士であるクリードには、王太子であるサミュエルの命令を遂行する義務はない。聖騎士が膝を折るのは、精霊姫と精霊王だけだ。
薄い水の膜が、瞬時にサミュエルとジルベルト以外の人間を包み込み、
「サーシャ様、お二人はどうしますか?」
クリードの問いに、サーシャは首を横に振る。
「では、来たいのならお二人は後でどうぞ」
クリードがそう言った次の瞬間には、フィーラを含んだ五人の姿はその場から掻き消えていた。




